第47話 アヤカの日記⑥

 ——背に大家さんの声が掛かった。


「ねえ、あのさ」と大家さんは言った。「アヤカちゃん、家で猫飼える? それとももう飼ってる?」

「え?」


 私は振り向いた。首を傾げた大家さんが居た。


「飼えますけど……飼ってないです」


 私の猫は一匹だけなのだ。今後も飼う予定などない。


「そっか。ならさ」大家さんは頷いた。「こいつ、連れていってあげてよ」


 こいつ、といって差し出したのは一匹の猫だった。片手で持ち上げられている猫は、私をみてから、みゃあ、と鳴いた。随分と小さい猫だ。


「生まれたばかりなんだ。可愛いでしょ?」

「はい……でも」


 断ろうとした私を差し置いて大家さんは言った。


「これさ、アヤカちゃんのお兄ちゃんの……」指折り数え始める。「えーっと……お兄ちゃんの子供の子供の子供——あたりなのかな? とにかく薄くなってはいるけど、確実にお兄ちゃんの血を引いている子なんだ。だからこそ、今の君には必要なんじゃないかな」

「……お兄ちゃん?」


 わたしのおにいちゃん——私のお兄ちゃんはいつの間にか居なくなってしまった。引越しが決まった数日後に、消えるようにして居なくなったのだ。母は慰めてくれたけれど、私の胸の古傷は時として痛んだ。


「アヤカちゃんさ、お兄ちゃんを探しにきたんでしょう? 自分では気づいてないのかもしれないけど、あたしには解るんだ。猫のことは尚更ね」

 でもさ、と大家さんは続ける。

「分かってやってくれないかな。魔法はこのアパートを中心に起こるんだ。そして誰かの悲しみに作用する。君のお兄ちゃんはさ、君の心を満たすことが出来たから、とっても満足で幸せだったんだ。だから、アヤカちゃんの前から姿を消した。幸せはいまの少しうしろを歩くんだ。二人、ずっと一緒には居られなかった——そういう決まりだったんだ」


 大家さんの台詞は、リズムに乗って流れた。しかし、最後の音色が調和を乱していた。


「……決まりってなんですか?」


 大家さんは儚げな表情をみせてから、曖昧に笑った。


「うん。私の魔法に掛かるとね、身体に多少の負担が掛かる。反動でね。それは、五十キロで走らないといけない車を、百キロで走らせるようなものなんだ。だからエンジンの故障も早くなる——もちろん潜在能力による個体差はあるし、走る速度に依っても変化する。ミズミやモミジのような力の使い方もあれば、反対に、差し迫った事情のために力を使う奴も居る。猫ってのは霊力が高い生き物とかってよく言うでしょ?」

 でもね、と大家さんは付言した。「おしなべて言えることがある。それはね、猫が人の姿になるという所行は、人の気持ちを強くするようなそれとはわけが違う。まったく比にならないぐらいの、膨大な力が必要なんだ」


「それは、つまり」

 私は言葉の先を躊躇った。が、それも一瞬だった。

「死期が早まるぐらいの、膨大な生命力、という意味ですか……?」


 大家さんは、潔く頷いた。


「そうだよ——だけど、あたしはね。そういう過酷なことは、この世を去っていく奴らにだけ使いたい。生きている奴を死に急がせるような真似はしたくない。本当はさ、心残りを解消してやりたいだけなんだ。それがたとえ、我侭の類だとしてもね」

「でも、お兄ちゃんには……」

「……うん」

 大家さんは、まぶしいものを見た時のように目を細めた。

「なんていうかさ、居るんだよね。自分の未来よりも、他人の今が大事な奴って。あたし駄目なんだ、そういう奴。訴えられると、応えてあげたくなっちゃう」

「でも、死んでしまったら——」

「——死期が早まろうとも」

 大家さんは私の言葉を遮った。力強い視線が私へと注がれる。

「それでも、君のお兄ちゃんは君を救いたかった。見ているだけでは気が済まなかった——あたしだって面白がっているわけじゃない。真剣なんだ。君も、君のお兄ちゃんも、そして私だって真剣だったんだ」


 大家さんは言葉を終えると、私に近づいた。差し出された子猫を、私は両手で抱いた。言われてみれば面影がある。カレーを作ってくれたお兄ちゃんに、彼は似ていた。胸に抱くと、みゃあ、と鳴いた。私は彼の頭を撫でた。頬が熱かった。


「涙ってさ、多かれ少なかれ、しょっぱいよね」


 大家さんは可笑しなことを口にしながら、私の頬を指先でそっと撫でた。それを自分の口元へ運ぶと、猫のように舌先で舐め取った。すぐに、やっぱりしょっぱい、とベロを出す。


 私は自然と笑っていた。大家さんの顔には、わたしの表情が映っていた。


「幸せってさ、思い出すものなんだなって悟ったよ。少なくとも、あたしにとってのそれは遅れてくるものなんだ。過ぎた後に心から実感するの。だから、今のアヤカちゃんは幸せなんだろうな、ってあたしは思う。不幸が隣にあったとしても、すぐ後ろに目をやれば幸福があるんだからね。今の不幸が月ならば、過去の幸福は太陽だって思う。そして陽光は木々を育てて、命を育むんだよ」


 私の手の中で鼓動する生命。私にとっての幸せは生きている。その時だ。ふと、疑問を感じた。大家さんにとってのそれはまだ生きているのだろうか、という疑問だ。


「大家さんも幸せなんですか?」と私は尋ねてみた。愚問だとは思ったが、聞かずにはいられなかった。

 私の言葉を聞いた大家さんは、もちろん、と笑った。


「それにね、私の魔法は継続中だから」


 大家さんは窓を背にして立っている。

 庭には沢山の猫。

 皆がそこにいるべき存在のような気がした。大家さんを含めてだ。捨て猫だった彼らは、ここに居場所を築いている。それはどんな生物にとっても最初の一歩に違いない。幸せへの第一歩はここから始まっているのだ。


「君の居場所はもう此処にはないよ——」

 大家さんは優しい笑みを浮かべた。

「——だから笑顔で帰りなさい」

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