第40話 ハルキEND
ハルキは穏やかな顔をしていた。責めるでも説くでもなく、じっとおれの目だけを見ていた。
「全焼ではないそうです。延焼もありません。警察の人から教えてもらったって。でも、半焼状態ですからね。また以前のように住みなおすには、それなりの時間が掛かるそうです」
マキさんが言ってました、とハルキは続けた。
「あと、ナツキさんには捜索願が出ているそうです。警察は犯人だとか補導だとか、そういった理由で見つけようとはしていません。とはいえ、まったくお咎めなし、という訳にもいかないそうですね」
「……え?」
「お父さんと、お母さんは、ナツキさんを心配しています。探しています。ナツキさんが僕を探してくれたように、ナツキさんを探しているんです。あなたは何かから逃げているつもりかもしれませんが、他の人はただ心配しているだけだと思います。追手など何処にも居ません」
「いない……?」
「ナツキさんの心の中以外には、ですね」
「そんな……」
愕然とした。
放火、というくくりで物事を考えていたのだ。それ相応の罰を受けるのではないかと思っていた。それがなんで今更、と悔しくなる。なんで今更おれを探しているんだ。いままで、おれの居場所など気にも掛けなかったくせに!
「人は失ってから気づくそうです……といっても、これもマキさんに教えてもらったことの一つなんですけどね。だから人間は馬鹿なんだけれど、だからこそあたしは人間が好きなんだ、ってマキさんは言ってました」
それで、とハルキ。
「それをナツキさんに伝えとけって」
「なんだよ、それ……」
「わかりません。わからないことだらけです、僕は。ナツキさんが教えてくれた話だって全くわかってないです」
それでも、とハルキは言う。
「覚えてはいます。忘れなければいいんじゃないでしょうか。いずれ役に立ちますよ」
「……そうだな」
「そうですよ」
閑散としていた住宅街に、ちらほらと社会人の通勤姿が見えはじめた。さすがに公園に入ってくる人間は居ない。おれたちは流れの外に居るんだ、と思った。おれの時間もそういう風に止まっていたのかもしれない。もちろん両親を含めて。
「探していたのは猫じゃなかったのかもしれない。それは兄貴でもなかった」
おれは手のひらをきつく握りしめた。
「おれはただ、頼れる存在を求めていた。なんとなくだけどそう思う。だから猫の名前も兄貴に借りたのかもしれない。おれにとって、頼れる唯一の存在は兄貴だけだったから。でも別にそれは兄貴じゃなくても良かったんだと思う」
「そうですか」とハルキは抑揚の感じられない声を返した。
「……確信はないけどな」
「なんだか寂しいですね」
「なんでだよ」
「ぼくがその猫ですから。探されてなかったのかァ、と涙が出ちゃいます」
「言ってろ」
「ひどいんだなァ、もう。信じてくれないんだ」
ハルキは口を尖らせた。
さて、とおれは会話を断ち切った。
立ち上がる。
「おれ、今、帰ることに決めた。まだわからないけど、もしかしたら両親も心配してるかもしれないから。それにやっぱり、おれがやったことは間違いだ。方法はわからないけど償いたいと思う」
「心配していますし、きっと、他の人だって間違っていたはずです。ナツキさんだけの問題ではないでしょう——と、マキさんなら言うと思います」
「そうかな」
「はい」
「そっか……おれは弱いよな」
強くなろうとして、外見や言葉遣いだけ、乱暴にしていた。
けれど、それでも何も変わってはいなかった。
「そうですか?」
「金を稼ぐこともままならない。それ以外のことも一人前じゃない。誰かに頼らないと生きていくことができない状態だ。頼る誰かが必要だ。それほどにおれは弱いんだ」
「頼るべき誰か、というのは、もちろん家族のことですよね?」
おれは無言のまま何度か頷いた。
ハルキは黙っている。
頬を伝うしずくを、手の甲で拭った。止まる気配は無い。知ってるかナツキ——兄が耳元で囁いた。
「アツいな」とおれは言う。
「アツいですね――そうなると猫はもう探さないんですか?」
「心配だけど、もういい。そのうちひょっこりと現れるだろ、猫なんだから。出会いからして、そんなもんだった」
「僕の言葉を信じてないんですね、やっぱり」
「じゃあ、おれは行くよ」
ハルキの言葉を無視して、足を動かした。ぎこちない一歩だった。しかし最初の一歩は自然と二歩、三歩と続いた。このまま家へ帰ってしまえばいい。いまなら出来るはずだ。
「バイバイ」
「はい、さようなら」
ハルキの声が背に当たった。
ハルキはおれの出発を見届けてくれるのだろう。
セミの大音声に背を押されながら、おれは出口へ至った。そして、立ち止まる。土からアスファルトへ。公園から市道へ。地面の変化が、環境の変化を如実に表しているようだった。一歩を踏み出せば、繋がるのだろう。それは再会であり、再開である。流れに乗ること。ここから始まるのだ、とおれは感じていた。全てはここから始まるのだ。
おれは振り返った。視線の先に、きょとん、としたハルキが見える。
「なあハルキ! 涙が熱い理由を知ってるか!?」
「覚えてますよ!」
ハルキはぴょこん、と立ち上がった。嬉しそうな声が届く。
「心の冷却装置だから、でしょう!!」
信じるよハルキ、とおれは心中で語りかけた。
とめどもなく流れる涙は、もう拭わない。いや、拭ってはいけないんだ。それは、熱くなりすぎた心を冷ましてくれている——、
——だから涙は熱いんだ。
そうなんだろ、ハルキ兄ちゃん。
おれは無言で踵を返すと、すぐに駆けはじめた。頬が風を切った。熱い涙さえ冷えるような鋭い風は、あの夏の夜と同じくらい心地の良いものだった。
背後から、ハルキの余計なお世話が聞こえた。
「ぜったいに素直に! 無理に強がらないで! お兄さんにもらった白の可愛いワンピースを着るといいですよー!」
うるせえなあ、なんて笑いながら、おれは――いや、あたしは次の舞台へ行く。
白いワンピース、どこにしまったっけ? なんて考えながら。
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