第39話 ハルキ(11)

 もう、すべきことが見つからなかったのだと思う。

 自宅だ。自室ではなくリビングだった。十畳以上ある広いリビングも、両親が居なければ広々としたものだ。時刻は三時。両親が仕事から帰ってくるにはまだ早い。夕飯を買いに出かけようと思い、財布をポケットに入れてみたものの、足は動いてくれなかった。


 遠くからセミの輪唱が聞こえてくる。疎外感を演出するには十分すぎる小道具だった。

 小さく息を吐き、ソファに飛び込んだ。座卓に足が当たるも、痛みに構うほどの余裕はない。生まれたときからある座卓。そしてソファ。家具に染み付いていた記憶が浮き彫りになっていくのを感じた。


 おれは昔を思い浮かべた。回想は日常と同義だった。思考は過去へと引き寄せられた。


 夏休みに入る直前のことだ。ハルキ兄ちゃんが横に座っている。通知表を親父に見せているのだ。おれはまだ小学生で、ハルキ兄ちゃんは高校生だった。親父はハルキ兄ちゃんの通知表を満足そうに眺めてから、おれの成績を見た。とたんに渋くなる表情。忘れもしない。忘れるわけがない。おれに向けられる表情の大半がそれだ。


「……っく」


 心臓が締め付けられた。欝のつくりだす陰が心を覆いはじめた。

 おれは頭を振り、記憶を追い出した。それでも入り込もうとする情景を捨てたくなり、必死に楽しかった思い出を探った。それはすぐに成功した。

 夏のツーリングだ。ハルキ兄ちゃんが初めてバイクに乗せてくれた夜だった。あれは楽しかった。記憶を消そうとしても叶わないだろう。とはいえ、端から忘れようなどとは思えない。


 快楽的な回想は続いた。

 だが、日常がそうであるように、当然それにも終わりはある。流れていく時間の中で、おれの記憶は行き止まりにぶつかった。

 回想終了。認識は現実へと連れ戻される——間際、耳元でハルキ兄ちゃんの声がした。


『泣けよ、ナツキ』


 泣けないよ、兄ちゃん。おれは心の中で言う。涙は兄ちゃんが死んだときに全部流しちゃったよ。兄ちゃんが居ないから、おれはもう泣けないんだよ。

 何度考えても、その通りだった。

 二人で行った初めてのツーリングから間もない頃に、ハルキ兄ちゃんは他界した。バイク事故だ。スピード超過で曲がりきれなかった。きっと、風で心を冷やしたかったのだろう。しかしそれは、速度の限界を超えても得られなかったに違いない。


 兄の死んだ夜のことはよく覚えている。父と兄がなにか言い争いをしていた。大学進学の件だったと思う。

 いささか興奮気味に兄は飛び出していったようだ。ハルキ兄ちゃんが初めて明確に父親へ反抗したものだから、両親どころか、家の空気までもが驚いて、しん、としてしまっていた。


 それから数時間後に自宅の電話がけたたましい音を立てたのだ。母は一瞬で泣き崩れ、父はおろおろと車のキーを手に取った。

 父の車が発進するのを二階から眺めていた。おれは忘れられたように家に取り残され、そして一人で泣いたのだ。ハルキ兄ちゃんが交通事故を起こして重症——それは死と同義に感じられた。事実、医者の健闘もむなしく数十時間後にハルキ兄ちゃんは息絶えた。


 それからだ。それからというもの、家族の誰もが悲しみに負けていたのだ。

 兄の死から数年が経つと、当たり前のようにおれは中学生になった。成績は伸びない。がんばってはいるが限界が見えていた。人はおれを努力していると話すけれど、ハルキ兄ちゃんには手が届かない。だから父親も、そして母親さえもがおれに関心を払わない。


 兄に対する悲しみはあった。しかし、おれだって愛されたかった。想いは次第に、愛情へと傾倒した。

 言わずもがな、勉強には一層の力を入れた。兄へと漸近していく成績は、しかし両親の関心を呼ばなかった。が、おれは諦めなかった。日々を費やし、記憶の中の兄を目指した。


 服装を変え、部屋の模様を変えた。口調を変え、趣味を変えた。バイクには乗らなかったが、兄と同じ道場に通い、空手さえ習い始めていた。全てを兄に近づけ、記憶の中の兄を親にぶつけたのだ。

 結果を言えば、全てが無駄だった。多分、兄が死んだショックで頭がおかしくなってしまった、と思われただけだろう。努力は逆効果になり、家の中での居場所は減少していくばかりだった。


 そうして高校生になった現在。家庭内はズタボロだった。両親の仲は最悪だ。冷戦状態ならまだしも、彼らには戦う気すらなかった。なのに、内には常に不満を持っていた。その矛盾は事をなおさら悪化させていった。

 そこで、おれは悟ったのだ。家族に救いはないのだ、ということを悟ったのだ。

 とはいえ、それは既存の家族に言えること。おれにも安寧がなかったわけではない。兄が死んでからというもの、ときおり庭に現れる猫が唯一の助けだった。それは新たな家族だった。

 名を兄から借りて、ハルキ、と名づけた猫は、おれの仲間であり、そして兄の代替存在だった。現実を伝え、過去を話し、未来を語った。どこから来るのかわからない猫は、いつのまにかおれの家族になっていた。崩れそうな心を支えてくれた。


 少なくとも、均衡は保てていたはずだった。そのつもりだった。

 しかし、不満は静かに堆積していたのだ。ゆっくりと、そして確実に、おれの心は限界に近づいていた。

 発端は、猫のハルキが自宅に入ろうとしたことだった。おれに餌をねだろうとしたのだろう。

換気のために開けていた、床に近い小さな小窓。ハルキはその網戸を器用にずらすと、頭をさしこんで、リビングに向かって鳴いた。

 その日は休日だった。リビングでは父がテレビを見ていた。父は動物——というよりも、自分の言葉が通じない相手が大嫌いだった。当然、猫にも過剰反応をみせた。おれが餌をあげていたことを知っていたことも一つの原因だろうか。もしくはハルキと呼んでいたのを知っていたのか。

 ともかく、父は手に持ったリモコンを思い切り投げつけた。不満の解消を兼ねた投擲は、ハルキに命中した。ハルキは大声で鳴いた。おれはそれを自室で聞き、すぐに階下に降り、父を問い詰めて事の成行きを知ったのだ。


 父は、「お前に似て鈍い猫だ」と吐き捨てた。

 数年ぶりに見る表情。明確におれへと向けられた顰め面だった。


「そう」

 おれは呟いた。

「そうだね。似てるよね」


 何かが、きれた。

 一日を費やしたがハルキは見つからず、おれは次の日を迎えた——それが今日だ。

 おれはソファから身を起こした。回想は終わりをみせた。何を思い浮かべようとしても、そこには闇が広がった。夏の暑さだけが原因ではない。茹だった思考は、心のせいでもあった。

 外から聞こえてくるセミの声が、一層、遠くなる。耳元で兄が囁いた。


『泣けよ、ナツキ』


 泣けない。泣けないよ、ハルキ兄ちゃん。

 セミの鳴き声は遠い。ハルキ兄ちゃんは永遠に自宅に帰らず、ハルキすら消えた。全てが消えてしまえばいい、と思った。死んでもいいや。全部が面倒だ。どうにでもなってしまえ。

 玄関に設えられた棚を探り、冬に余った少しばかりの灯油を見つけた。マッチは災害用のバックの中。丁寧にも乾パンや水が入っている。馬鹿らしい。災害など、とうの昔に起きている。

 ハルキ兄ちゃんはもう居ない。ハルキは見つからない。夏休みはまだまだ続き、家庭内の冷戦は終わりが見えない。

 どうしろと——、

 おれにどうしろと言うんだ——、


『——泣けよ、ナツキ』


 泣けないよ! 泣けない時はどうすりゃいいんだ!!

 体内に膨大な熱量を感じた。心が発しているのだろう。一皮剥けば、そこから炎が溢れだしてきそうだった。頭がボーッとした。目に映る光景が、意識を上滑りしている。現実感がない。

 僅かな灯油をリビングに撒いた。ないよりはマシだろう。おれはマッチ箱に手をかけた。

 おれには両親が居る。けれども両親は居ない。兄は居たが既に居らず、近づこうと思っても背は遠のくばかり——。


『解るか?』


 兄の声。

 解るよ、ハルキ兄ちゃん。


『俺は今の家を壊すために一度家を出る。だからお前は安心して生きろ。お前はお前らしく生きろ。そしたらそのうち、俺が新しい家を建てるから』


 解るんだ、ハルキ兄ちゃん。

 おれにだって家を壊せるんだ。だから早く帰ってきてよ。ハルキ兄ちゃんが居ないと、先におれが壊れちゃうんだよ。もう限界なんだ。

 シュッ、とマッチ棒を擦る。手中に現れた火種。ゆらめくそれを灯油の中へ投下した。

 床を炎が走る。ソファに火が移る。黒い煙を吸い込み、咳き込んだ。喉にピリッとした痛み。

 ぼおっ、と火を見ていた。どうでもいい。どうにでもなれ——そんなとき、庭から猫の鳴き声が聞こえたような気がした。


「ハルキ……?」


 口から零れた言葉が、現実を認識させた。火に焦点が結ばれた。巻き込んでしまう、と焦った。ハルキを巻き込んでしまう。そんなことはしたくない。

 おれは庭へ飛び出した。ハルキは見当たらない。そんなことはない、と辺りを見回してみるが、見慣れた姿は映らない。


 ふと、自宅を振り返った。締め切った窓では抑えきれなくなったのか、黒い煙がじわじわと漏れ始めていた。手遅れだ、と悟った。全てが手遅れになってしまった。やってしまったのだ。おれはとうとうやってしまったのだ。

 息が詰まった。足が震えた。自分の行為を自覚した。鎮火するにも遅い。リビングにある固定電話までたどり着くのは可能だろうが、二本の足が引き返すことを拒否していた。近隣住民はまだ気づいていないが、助けを呼べばどうにかなるかもしれない——。


 おれは震える声で叫んだ。


「火事です! 助けてください!」


 切迫した声に飛び出てきた住民が、どたどたと戻っていくのが見えた。おそらく消防署に電話をしにいったはずだ。

 おれはその場から逃げたくなった。自分の行為にすら、傷ついていた。


 ハルキ——心の中で叫ぶ。


 おれにはハルキが必要だ。ハルキ兄ちゃんだって必要だ。どちらでもいい。どちらでもいいから見つけなければ——。

 ぐちゃぐちゃになった思考に引きずられるようにして、おれは走り始めた。行くあてなどない。ただただ、おれはハルキを見つけ出したかった。見つけなければならなかったのだ。

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