第38話 ハルキ⑩

 はっ、と目が覚める。瞳に映ったのは空と雲。肌にはじっとりとした汗がまとわりつき、首周りが気持ち悪い。頭がぼおっとしていたのもつかの間、背中にあたるゴリゴリとした硬い感触に記憶を呼び戻された。


 そうだ、と思い出す。昨夜、アパートを出た後、行くあてもなく公園のベンチで夜を明かしたのだった。だから目が覚めれば瞳には空が映り、背中には硬さだけが当たるのである。


 よって、暢気な声で、

「おはようございます」

 などと言っているハルキが視界に入るなんて、ありえない事だった。


「……なんで居るんだよ」


 昨夜の記憶が蘇りバツが悪くなる。顔を流れていく水分をぬぐいながらおれは起き上がった。


「そこ、座っていいですか」

「……勝手にしろよ」

「ありがとうございます」


 ハルキはニコリと笑うと、おれの横に座った。

 昨日の怒りは消えていた。一夜明けたから——ひいては夢のせいかもしれない。頭はすっきりとし、心も穏やかだった。


 ハルキは丁寧に頭を下げた。


「昨日はすみませんでした」

「おれこそ……悪かった」


 仲直りですね、とハルキは笑い、ああ、とおれは答える。


「ぼくのことは信用できませんか?」

 ハルキは昨夜と同じ言葉を繰り返した。

「僕はあなたの探しているハルキです」


「信用云々じゃない。お前はおれの探しているハルキとは違う。ただそれだけだ」

「何故そう言い切れるんですか?」

「それは——」

「——それは、あなたの探しているハルキが猫だから、ですか?」


 断定的な言い方をされた。正解だった。

 もはやおれは驚かない。チャカすように返した。


「どこで聞いたんだよ、それ。人が探しているものにまでお前のネットワークは通じてるのか?」

「僕がその猫だからわかるんです」

「お前、暑さでちょっとまいってるんだよ」

「あのアパートは」ハルキはおれの言葉を無視して続けた。「不思議な大家さんが居ます」

「大家? 会ったことないよな」

「マキさんですよ」

「……あれが大家なの? 親戚の姉ちゃんとかじゃなくて?」

「大家さんです」


 なんで大家が保証人になれるんだよ、と口からこぼれたが、あの人の性格ならなんでもありのような気がした。


「で、それがどうした」

「あのアパートの住人は救われるんです」

「いったい何からだよ」


 笑いそうになるが我慢。


「不幸、ですかね」

 確かめるようにハルキは言った。

「その人の感じている不幸、みたいなものなんだと思います。よくわかりませんが、でも、救いはちゃんとあるんです」

「ふーん?」

「だから僕はマキさんに頼みへ行きました。あなたを救って欲しいって——そしたらマキさんは、救うのは君なんだけどね、と半分笑って半分呆れながら、僕に力を貸してくれました」

「住人でもないのに救われるのか?」

「だから部屋を借りました。それに僕、もともと裏庭の住人なんです」

「ウラニワ?」

「アパートの裏です。ナツキさんは気づかなかったみたいですけど、あそこは猫のアパートでもあるんです。なんたってマキさんは猫の味方ですから」


 あ、もちろん人間の味方でもあります、とハルキは付言した。


「猫の味方」


 言ってから、思わず噴き出した。

 いくらなんでも猫の味方なんて言い方はないだろう。マキさんが、にゃーにゃー、と猫に向かって話しかける様を考えると、どうしたってにやけてしまう。


 そんなおれを見て、ハルキは言った。


「ナツキさん、僕にはもう時間がないんです」

「うん?」

「だから率直に言います。信じてくれとは言いません」

「なんだよ」

「ナツキさんは家に帰るべきです。たとえそれが、燃やしてしまおうと考えた家だとしても、それでも、ナツキさんは自分の家に帰るべきなんです」

「なんで……お前」


 ありとあらゆる音が耳に届かなくなった。頭がくらくらとする。血流は急激に速度を増して、管を走り抜けていた。


 燃やしてしまおうと考えた家——、


 ハルキの言葉に感化され、数日前の光景が脳裏にフラッシュバックした。


 ——燃やしてしまおうと考えた家——、


 ——ごく一般的な家屋。そしてハルキ兄ちゃんのバイクが置かれなくなったガレージ——、


 ——燃える部屋。壁を走るように広がった炎。そしてその発端であるマッチの火。火種を持っているおれの姿。


 ごくり、と喉を動かした。水分は一瞬でなくなり、やけつくような痛みが喉に広がった。


 この痛みは、あの時と同じだ。


 煙が迫っていた、あの時と——。

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