第37話 ハルキ⑨
夢——、
夢だ——、
おれは夢を見ているのだ——しかし、それは一部の答えだった。大半の思考は、夢を現と混同していた。
おれの身体は小さかった。幼いのだ。どうやら幼少時の記憶らしい。目の前には男が居て、それはおれの兄だった。兄の名前はハルキと言った。おれは、ハルキ兄ちゃん、と呼んでいた。
ハルキ兄ちゃんは、兄以外のなにものでもなかった。人間という枠の前に、兄という区分が存在した。それ以上でもそれ以下でもなかった。遠いようで近く、尊敬していながらも親睦していた。
夢の舞台は自宅だった。おれの自室に二人は居た。ハルキ兄ちゃんは勉強机の椅子に座り、おれは自分のベッドの上に座っていた。
「親父の言うことなんて気にするなよ」
ハルキ兄ちゃんは慰めの言葉を口にした。
——そうか。これはあのときの記憶だ。
夏休みに入った七月のことだ。小学生のおれは、高校生のハルキ兄ちゃんと一緒に成績表を見せたのだ。
開示した相手は父親だ。彼は一家の大黒柱であり、工務店の社長であり、そして我が家を統治しているつもりの独裁者でもあった。
定期的に行なわれる恒例行事。父の口癖はこうだ——ナツキはいつになったらハルキのようになるんだ?
そして、このときも、そんな台詞を言われた後だったのだ。
「こんなもん、ただの紙きれじゃねえか」
ハルキ兄ちゃんはおれの通知表をぺらぺらと振った。
「こんな紙切れを妄信する奴は馬鹿だ。つまり親父は馬鹿なんだ。食わせてもらってるから黙って聞いてるけどな。でも、今日ではっきりと解ったよ。俺たちの親父は大馬鹿野郎だった。ただの馬鹿じゃあない。大馬鹿だ」
「そんなことないよ……それにハルキ兄ちゃんは頭が良いから……」
おれはベッドの上で縮こまっていた。なんだか怖かった。ハルキ兄ちゃんが、父の悪口をここまで言うのは初めてだったからだ。
問題を大きくした理由は一つ。酒だ。仕事からの帰途、父は多量の飲酒をして帰ってきた。酒の力は怖い。いつだって人を誑かし、嘯かせる。
父は吠えた。ハルキは頭が良いのに、ナツキは馬鹿だ! 本当にハルキと同じ血が流れているのか? お前は本当に、俺の子供か?
思い出すたびに、胸はじくじくと痛んだ。
「そんなこと、あるんだよ」
ハルキ兄ちゃんは立ち上がった。通知表をなおざりに投げると、首を一度だけ回す。
「よし、わかった——ナツキ。外着に着替えろ」
「え?」
「星を見にいこう」
「ホシ?」
いきなりの提案だったが、驚くことはなかった。
「星? どこに行くの?」
「いいから早く着替えろ。なるべく音を立てないように」
「……うん、わかった」
言われた通りに着替えると、暗い廊下を二人で歩いた。足音を忍ばせ辿り着いたのは、玄関だった。ハルキ兄ちゃんは口元に人差し指をあてると、ドアをそっと押し開けた。
ヒュウ、っと音がする。室内と室外の空気が混ざった音。
外気の流れを肌で感じた。途端に、自分の行動を自覚した。怒られたらどうしよう、また馬鹿って言われちゃう——それでも、ハルキ兄ちゃんはドアを潜り抜け、おれはそれに倣うしかなかった。
夜は既に深い。月明かりを確かめるように空を見上げた。ドラ焼きみたいなお月様。しかし、星は見えなかった。
「なにしてんだ。早く来いよ」
ハルキ兄ちゃんは手招いた。
「気をつけながら、急げ」
向かった先はガレージだった。そこには自家用車と、数台の自転車と、そしてハルキ兄ちゃんのバイクが並べられている。黒いバイクだ。アルバイトの給料を貯めて、ハルキ兄ちゃんが自分で買ったものだ。
唯一、親父がハルキ兄ちゃんに対して面白く思っていないのは、ハルキ兄ちゃんがバイクに首っ丈なことぐらいだろう。大切な長男が事故に遭いはしないだろうか、と気が気でない。
ハルキ兄ちゃんは無言のままバイクに近づき、そしてまた招いた。
「ほら、近くに来いよ」
「うん」
近づくや否や、ひょい、と身体を持ち上げられた。着陸地点は、リアシート。頭上には野球帽のようなヘルメットが乗せられた。アゴ紐をきつく締められたかと思えば、既にフルフェイスヘルメットをつけたハルキ兄ちゃんが、ハンドルを握っていた。
エンジンをかける。キュルキュル、という間が抜けた音の後に、ヴァルンッ、と全身の骨が振り動くほどの爆音。お父さんが起きてしまうんじゃないか、という不安は、ハルキ兄ちゃんの背中を見ると霧散した。
「ちゃんと掴まってろよ」
厳かな調子で、ハルキ兄ちゃんは言う。
「死んだら全てが終わりだぞ」
わかった、とおれは頷き、でも、と先を繋いだ。
「いいの?」
「なにが」
「後ろに乗っていいの?」
「いいよ。そのかわりちゃんと掴まってろよ?」
「うん」
両親の目を盗んだことよりも、現状のほうに、より心が踊っていた。後部座席に乗せて欲しかったけれど、今の今まで言い出せなかったのだ。それがこんな形で叶うなんて、と勝手に顔がにやけた。
マフラーが短い咆哮を上げると、じきに車体は前進を始めた。ゆるやかなスタートは、しかし、すぐに様相を変えた。
未開の世界が身体を包んだ。服がはためいている。相当な速度が出ているのではないだろうか。不安に身体が強張る。兄の背をしっかりと抱いた。しかし時が経つと、風を切る爽快感が恐怖を払拭していった。景色はこんなにも早く過ぎ去っていくものなんだ、ということを初めて知った夜だった。
信号待ちになると、ハルキ兄ちゃんはシールドを上げた。目が笑っている。
「気持ちが良いだろ?」
「うん。気持ちいい」
「もう少しで目的地だからな。今のうちに堪能しとけよ」
「うん」
返事どおり、おれはバイクの魅力を身体いっぱいで堪能した。
直に目的地へたどり着いた。湖だった。市の端にある有名な観覧スポットだ。辺りに人気はないが、遠くから破裂音が響いてきた。花火をするやつが来ることもあるんだ、とハルキ兄ちゃんが教えてくれた。
おれたちは、整備されたコンクリート製の岸に座った。湖は黒く、深かった。月の明かりは心もとない。少し怖くなり、ハルキ兄ちゃんの服を握った。
「上、見てみろよ。そうすれば怖くないぜ」
ハルキ兄ちゃんは顔を上げた。
倣って、おれも空を仰いだ。天には幾多もの星が瞬いていた。目を凝らさずとも、光のほうから瞳に飛び込んでくるほどだった。
「わァ」
「すごいだろ」
「うん」
「これを見せようと思ったんだ」
「うん、すごいね」
「周りに余計な光が無いから、星の光が際立つんだ」
「うん」
「ちゃんと聞いてるのか?」
「うん」
「そうか。それなら喋るから、ちゃんと聞いておけ」
ハルキ兄ちゃんは語調を変えた。
「親父にはお前が見えてない」
「え?」
おれは地上に目を向けた。ハルキ兄ちゃんは、暗い湖を見ていた。その先になにかがあるのかと思い、目を凝らした。が、どんなに凝らしても何も映らなかった。
「さっきの話と一緒だ。星の話。親父の目は余計な光ばかりに目がいって、綺麗な星の光を捉えられていない」
「……どういうこと?」
「わかんねえなら、まあいいや。そういうもんなんだ、ってことを覚えてろよ。忘れないことが大事だ」
「……うん」
「あのな、ナツキ」
「なァに?」
「俺は」
ハルキ兄ちゃんの喉が鳴った。
「俺は家を出るよ」
「え?」
肩が跳ねた。
「どうして?」
「心配するな。家出じゃない。元々、大学に入ったら一人暮らしをするつもりだったんだ。あの家に世話になる気はなかった。国公立に入って、バイト代と奨学金でやっていくつもりだ」
「ハルキ兄ちゃんは……一人がいいの……?」
「そういうわけじゃないんだ。ただ、親父とは離れて過ごしていこうと思うんだ。そうしないと、俺たち家族はバラバラになっちまうよ。今すぐじゃないにしてもな」
「……そうなの?」
「ああ。紙切れにご執心な親父のせいでな」
「よくわからないけど……少しさびしい」
「お前とはさ、定期的に会えるようにするから安心しろ。関係はずっと変わらない。そもそも俺はだな、みんなのために出て行くんだ。だから何も問題はないんだよ。心配もいらない」
「うん……でも、まだ、お家に居るでしょ?」
「ああ。でも、もう少ししたら出ていく」
「お家、嫌い?」
「うーん、どうだろうな。家が嫌いというよりも、家に流れてる空気が嫌いなんだろうな」
「いえのくうき?」
玄関を思い浮かべた。頭の中でドアを開ける。外気と室内の空気とが混ざり合う音が、耳の奥で鳴った。
「違うお家を建てれば、空気って変わる?」
そうだな、とハルキ兄ちゃんは言った。
「遠まわしに言えばそんなトコだろうな。親父は色んなものに固執してるから……いまの家の空気を変える、という意味ではお前の言う通りだ。俺は家を建て替えたいんだよ。再建ってわけだ」
おれは想像してみた。それから言う。
「大変そうだね」
「だいぶ大変だし、難しいことだ」ハルキ兄ちゃんは笑った。「人間って面倒だよな。固まっちまったら、一度全てを壊さないかぎり、根本的な部分はずっと変わらない」
「じゃあ、お家を壊せるようになったら帰ってくるってこと?」
「先のことはわからないけど」
でも、とハルキ兄ちゃんは続けた。
「お前の言う通り、俺は今の家を壊すために一度家を出る。だからお前は安心して生きろ。お前はお前らしく生きろ。そしたらそのうち、俺が新しい家を建てるから。もちろん、お前の住みやすい家だ。みんなが笑っていられる家だぞ」
「……うん」
「わかったか?」
「うん。なんとなく」
「安心もしたか?」
「うん。した」
嘘だった。
心は締め付けられていた。とても悲しかった。そして怖かった。空に浮かぶ星を見ても、それは変わらなかった。
「おいおい、どうしたんだよ」
ハルキ兄ちゃんはおれの頭を撫でた。
「泣いちゃいそうか?」
「泣かない」
「なんでだよ」ハルキ兄ちゃんの声は優しい。
「泣くとお父さんが、怒るから」
「なんか言われたのか?」
「ううん」おれは下を向いた。「目が怖い」
「そっか」
「うん」
「あのさ」ハルキ兄ちゃんの手は、おれの頭を撫で続けていた。「いいこと教えてやるよ」
「うん」
「お前、怖い夢とか悲しい夢を見たことあるか」
「うん」
「起きたら泣いてたろ?」
「……ううん」
「馬鹿にするわけじゃねえよ」ハルキ兄ちゃんは短い笑い声を上げた。「正直に言ってみな。泣いてたろ?」
「……うん」
「そのときのことを思い返してみろよ。そのときの怖い思いとか、悲しい思い——そういうもんが夢から醒めたときには薄まっていて、少ししたら無くなってたろ」
「うーん」おれは数度の体験を思い返そうとした。が、無理だった。「覚えてない」
「そうか。じゃあ、そういうもんだ、と信じろ」
「わかった」
「そんでな、なんでそういう風になるかというとだな」
ハルキ兄ちゃんはそこで、大きく息を吸い込んだ。大事なことを言うんだ、ということをおれは幼心に感じていた。
「怖い夢を見ようが、悲しい夢を見ようが、必ず涙が助けてくれるんだ。醒めれば涙が冷ましてくれるんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。涙にはそういう力がある」
「そうなんだ」
「お前も、精一杯泣けよ。そうすればすぐに立ち上がれる。あれは心の冷却装置なんだ」
だから、とハルキ兄ちゃんは一息に続けた。
「涙はだから——熱いんだ」
ハルキ兄ちゃんは振り返って、バイクをアゴで指した。
「あれにも冷却装置がついてる。正確には冷却放熱器だな。そのおかげで、あんなに早く、長く、走ることが出来る。人間もそんなもんだ」
わかるか、と問われ、おれは、よくわかんない、と首を振った。
「まあいいや。今いったことを忘れるな。なんとなくでもいいから覚えとけ」
「うん、わかった」
「よし」
ハルキ兄ちゃんはおれの頭を押さえるように叩くと、勢い良く立ち上がった。「じゃあそろそろ帰るか」
もう少しここに居たい、とは言わなかった。一人で歩きはじめてしまった兄に置いていかれそうで怖かったからだ。事実、おれはハルキ兄ちゃんの背中に追いつけなかった。
タイムリミットがきてしまったことを、おれは感じた。夢の世界は瓦解し、現実が唐突に再生をはじめる。
歩いても走っても、兄は遠のくだけだった。精一杯足を動かしても、景色の過ぎる速度は変わらなかった。まるでカメの歩みのように遅い。
耐え切れなかった。置いていかないで、と叫んだ。
すると、ハルキ兄ちゃんは音もなく眼前に現れた。いつの間にか、おれの頭を撫でている。どうしたんだよ、と笑いながら頭を撫でている。
おれは訳もわからずに、ハルキ兄ちゃんの名前だけを呼び続けた。ただただ怖かった。
ハルキ兄ちゃんは手を動かしながら、どうしたんだよ、ともう一度言った。何故だろうか。その姿が妙にぼやけてみえる。
ああそうだこれは夢なんだよな、と心の一部が再認した。
それでも悲哀と恐怖は引かない。醒めろ、醒めろ、とおれの心が叫ばせようとする。けれど思ったように口は動かず、出てくる言葉は兄の名前だけだ。その兄の姿は既に輪郭を失っていて、夜の闇に溶けていくように見えた。
「ナツキ」
兄の声がした。
「俺の言葉を思い出せよ」
ハルキ兄ちゃん——。
自分の声さえ遠くなる。兄の姿は闇に消え、おれの意識は覚醒を迎えようとしていた。
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