第34話 ハルキ⑥
料理を教える前に、風呂を借りた。カラスの行水を終えて、ダンボールをあさる。一番下に入っていたシャツは、おれへと用意された着替えなのだろう。ありがたく受け取り、いざ料理教室とあいなった。
匂いに釣られたのかは判らないが、お昼辺りになるとハルキは起床してきた。小さなキッチンを覗き込んで、わァ、と声を上げる。
「これ、なんですか?」
「見てわからないのかよ」
予想通りの反応。がっくりときた。
「カレーだよ。家庭の味方の」
ハルキは、くんくん、と鍋に鼻を近づける。
「ああ、この匂いは知ってますね。美味しそうです。あ。ナツキさんから、いい香りがします。お風呂に入ったんですね——あれ?」
ハルキは、そこでやっと、おれの傍らでおたまを持っている男の子に気がついたようだ。誰ですか、と言った視線を向けてきた。
「上の階の子だって」
「あ、そうですか。どうもよろしくお願いします。ハルキといいます」
男の子は頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。ユウキです」
おれを挟んでの自己紹介が終わると、唐突にドアが開いた。
またしてもマキさんだった。
「いい匂いがするねェ」
本当に何処に住んでるんだろう、この人。
「出来ましたよ」
おれはユウキ君を見た。
「調理器具の使い方も一通り教えました。作ってはないですけど、オムライスとチャーハンの作り方も教えました。メモも渡しました」
「おォ、そっか。上出来、上出来。ご苦労さま」
満足そうに頷くと、マキさんは靴を脱いだ。おそらく一緒に食べる気なのだろう。お腹空いたァ、と口にしながら上がり框を踏んだ。
「あの」とおれは口を開く。「残念ですけど」
「え? まさか食べちゃ駄目とか言うわけ? うわ、本当に? 一宿一飯の恩義は?」
「いえ、そうじゃなくてご飯がないんです。パンでもいいんですけど、それもありません。どうしようかとユウキくんと話してたところなんです」
ね、とおれはユウキくんを見た。ユウキくんはこくこく、と頷いた。
「ああ、なんだ。びっくりした。それなら大丈夫だよ、持ってきたから」
左手にぶらさげた袋から、マキさんは四つのタッパを取り出した。
「準備万端、さあ食べよう」
あっけにとられている三人を置き去りにして、マキさんは部屋の中央にどかりと座った。なにしてんの、といった風な顔を向けてから、ほら早く用意してあたしのはお肉多めね、などと指示を飛ばす。
いいように使われている気がするも、マキさんのおかげで食事にありつけたのだからしょうがない。心から納得して、マキさんの手足となった。
机すらない部屋で食べたカレーからは、とても懐かしい味がした。
昼食が終わると、ユウキくんとマキさんは帰っていった。なんで小学生が料理を教わりにきたのだろうか、と考えたが、聞くことはしなかった。それぞれに事情ってものがあるに違いないからだ。おれだって聞かれたくないことの一つや二つはある。
マキさんは帰り際に、次は明日の夜に来るからそれまでにはお金を用意しておくこと、と念を押していった。
ハルキは笑顔で頷き、おれは軽く頭を下げるにとどまった。
食器を片付けた後、おれは部屋の中央に座り込んだ。昨日から続いていた急速な流れが、いまやっと落ち着いた感じである。
「どうしましょうか?」
ハルキも腰を下ろした。肩や腕を回している。凝っているのだろうか。表情にも疲労が浮かんでいるようにみえたが、よく寝ていた上に満腹なのでそちらは眠気のせいだろう。
「とりあえずこれからのことを話し合いましょうか?」
「ちょっと待て」
おれはハルキを見据えた。
「それよりも前に、これまでの話がしたい」
ハッキリとさせておかなければならないことがあった。はやくも休息時間は終わってしまったようだ、と考えながら、おれは訊ねた。
「聞きたいことは一つだ。要するに、お前はいったい何者なんだ、ということただ一つ」
「ぼく、ですか?」
「そう。いまさらかよ、って言われるかもしれないけどさ。どう考えてもおかしいだろ? いや。事実、おかしいんだよ。夜の町でおれを助けようとしたり、部屋を用意したり。加えて、保証人が出てきて、おれとお前に家賃を要求。そもそも、お前はなんでおれをここに連れてきたんだ」
「ええっと」
ハルキは何故か、照れたように頭をかいた。
「信じてくれないでしょうから、言いませんでしたし、言いたくもありません」
「そんなこと、言わなきゃ分からねえよ」
「言わなくたって、分かることはあります」
「なんだよ、それ」
おれはのけぞった。
「そんな理由で全てを納得しろってほうが無理だろ」
「まあ……そうですけど」
ハルキは視線を落とした。
「じゃあ言いますよ。信じないでしょうけど」
「それはまだ分からないだろ」
「そうですね……僕はハルキなんです」
「いや、そんなこと——」
知ってるよ、と言おうとしたが、それよりも早くハルキが言葉を連ねた。
「違います。僕はナツキさんの探しているハルキなんです」
「……は?」
言葉を上手く理解できない。
——なんだって? おれの探しているハルキが、目の前のハルキと同一? そもそも、探してるなんて言ったか? 同じ名の家族が居る、としか言ってないんじゃないのか?
ハルキは諦めたように首を振った。
「やっぱり信じられないでしょう?」
どれだけの時間が経ったのだろうか。おれは搾り取るように声を出した。
「……信じる以前の問題だ」
馬鹿にしてんのか、とは言えなかった。ハルキの目が真剣だったからだ。それでもやはり信じることはできない。容姿が違う人間なのだ。どうやったって信じられない。
「なら、僕から言えることはもうありません」
ハルキは言うと、立ち上がった。おれはハルキを見上げた。
「行きましょう、ナツキさん」
「……どこにだよ」
「外に、です。明日以降の家賃を集めるんです。それが今の僕たちにとっての、生きる、ということなんです。だから外へ出掛けましょう」
おれは操り人形のような動きで立ち上がる。言葉のままにドアへと向かった。
笑えない。この部屋のドアをくぐる時は、いつだって自分を見失っている。
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