第32話 ハルキ④
ハルキの足が止まった。
古びた木造アパートの前だった。時間が止まっているかのように、それは住宅街にひっそりと佇んでいた。アパートの周りを薄い膜が覆っているような感じがする。指示されなければ、認識さえ叶わずに通り過ぎてしまいそうだった。
「ここです」
ハルキはおれを振り返った。
「どうぞ」
「どうぞって……」
おれは鈍いわけではない、と思っている。少なくともおれはそう信じたい。
だから、おそらくここがハルキの自宅だということは解るし、おそらく薄汚い格好をしているおれに風呂でも貸してくれるのだろう、ということもわかる。もしかしたら飯を食わせてくれたり、寝床を用意してくれたりもするのだろう。
だがしかし、だ。
だがしかし、はいそうですか、とお招きされるのでは危険すぎる。保身を忘れてはならない。
既に不安は消えていた。焦燥感も今はない。
熱に浮かされていただけなんだ。だから追いかけてしまっただけなんだ——、
断りの文句を胸中で流した。
——ついてきてしまって、誤解させたかもしれないけれど、おれはアンタの厄介になる気はないんだ。
ハルキは一階のドアの前へ立つと、のろのろと眼前に手をやった。頬の傷が痛むのだろうか。咄嗟に言葉を飲み込んでしまった。
だが、ハルキの行動は予想を外れていた。なぜかノックをしはじめたのだった。
「すみませーん。いますかー?」
自宅じゃないのかよ、とつっこみそうになる。
闇夜に響くノック音。木造の古アパート全体が揺れているような錯覚を得る。しばらくすると、打てば響くのは当たり前とでもいうかのように、ドアの向こう側から声がした。
「はいはい。いま開けるよ」
声の主は女性のようだ。家族なのだろうか。思案していると、宣言通りドアは開いた。
ハルキはおれを振り返り、どうぞ、と言った。暢気に手招きまでしていた。ハルキの信じられない感性を前に、思考の流れが途切れた。説明もなしに連れ込もうとするなんて、一体どういう神経をしているのだろうか。
しかしだからこそ——だからこそ、おれは催眠術にかけられたかのように、ドアへと近づいてしまったのだった。
なんなんだコイツ。これは説明がつくような行動なのか? 不安と焦燥が去ったかと思えば、疑問と興味が入れ違いにやってきた。
危なかったら逃げるだけ。もう少し踏み込んだって良いだろう。胸の内に追い風が吹き始める。
ハルキが先にドアをくぐると、おれは頼りない足取りで追従した。唇は乾き、発する言葉は見つからない。
玄関に入ると、すうっと、空気が変わった気がした。
「……おじゃまします」と礼儀に倣う。
辺りを観察。いたって普通の玄関だった。狭いが、掃除は行き届いている。
三和土の左側は台所だ。スペースは三畳ほど。格子付きの小窓から差し込む光が、シンクを淡く照らしていた。前方には一間が見えている。さらにその奥にはガラス窓があり、外へと繋がっているようだった。となると、玄関から入って右手のドアはトイレ、もしくは風呂だろう。
観察終了。つまりは1kという造りのようだ。古臭さを感じたが、老朽化しているわけではなさそうだった。
「いらっしゃい」と再び女性の声。
ドア越しに聞こえてきた声である。随分と鋭い声音だ。見れば、一人の女性が一間の中心で仁王立ちだった。客人歓迎、というわけではなさそうだ。何かに怒っているようにも見えたが、真意は掴めない。
女性の年齢を、十代後半から二十代前半、と推測。スラリとした体躯だ。尻尾の長いポニーテール。綺麗な眉に、きつめの目。矢じりのように真っ直ぐな鼻筋と、弦のように引き締まった唇。声と同様、顔のつくりは鋭かった。
ラフな服装には好感がもてたが、女性の表情はやはり厳しい。なにか、どこか、近寄りがたいものがある。
しかし、それもそうか、と考えを改めた。家族の行動ってのは、いちいち目の端に引っ掛かるものだ。二人が家族なのかはわからないけれど、それ以外の関係ならば尚更だろう。
「どうも」とおれは機械的に頭を下げた。
「どうぞ」とハルキが室内から声を掛けてきた。
「おかえり」と女性はおざなりに言葉を吐いた。
上がり框を踏んだ。足の裏にひんやりとした木の質感が伝わった。室内の空気は澄んでいる。奥の間へ進む。畳敷きだ。八畳ほどの広さだ。正確にいえば、八畳の広さだけがあった。それ以外には説明のしようがない。なにせ、他には何もないからだ。
本当に何もなかった。言葉どおり、何もないのである。
クーラーも扇風機もない。机はおろか、座布団さえない。調度品と呼べるものは一切見当たらなかった。まさに、すかすかの部屋である。いくら物が少ない家庭でも、ここ以下ということは考えられないほどのすかすかぶりだった。
「えっと」
おれはハルキを見た。つつ、と近寄り小声で尋ねる。
「ここに、お姉さんと住んでんの……?」
まさか人が住んでいるとは思えない。布団さえあるのかどうか疑わしい。
「あ、いえ」
ハルキは確かめるようにして女性を見た。
「あの人は違います。お姉さんじゃないです」
矛先のずれた答えが返ってきた。正すのも億劫だったので、ああそうなんだ、と曖昧に頷いた。
女性は窓際に座って、外へ顔を向けていた。表情は見えない。何か興味を引くものでもあるのだろうか。星なんて見えないだろうに。
「えっと、じゃあ」
おれは依然として小声で続けた。
「そうすると、あの人は誰?」
「まあ、なんというか……そうですね」
ハルキはおれを、チラリ、と見てから、再び女性を見た。女性は相変わらず背を向けたままだった。
つられるようにして、おれも目を向けた。なんの反応も望めないだろうに、と思っていると、予想に反して、女性の声が耳に飛び込んできた。
「マキ」
「え?」
「私の名前だよ」
女性は振り向かない。
「それで、きみの名前は?」
「あ、はい、あの、ナツキといいます」
「ふうん」
女性はそこで振り向いた。おれへ興味を持ったのだろうか、と思えば、続けた言葉はしょうもないものだった。
「ハルキがナツキをつれてきたのか。なら、そのうちアキとフユキも連れてくるのかもしれないね。それとも弟か妹でそんな名前が居るとか……まさか未来の子供に付ける予定があるとか?」
くつくつ、と女性は一人で笑っていた。陰湿ではない。どちらかというと悪ガキの笑みに近い。
「あァ、えっと、どうでしょうね」
笑みが強張っていないことを祈った。
「子供につけてみる、っていうのは面白いのかな……?」
おれは困ってハルキを見る。ハルキは、それが冗談事だということに気づかなかったようだ。ぽかーん、と女性を見ているだけだった。
「座りなよ。ちょっと話そう」
断る理由はない。おれは畳の上に腰を下ろした。正座である。畳の網目が足の甲に食い込んで痛い。
「で」
女性は胡坐をかいた。
「ナっちゃん、て呼ばせてもらうけどさ」
ナっちゃん……。
「じゃあおれは、マキちゃん、でいいですか?」
静かなる反撃。
「別にマキ、でいいよ。喧嘩を売ってるわけじゃないし……部屋がない子を心配している気分なだけだから」
「……マキさんと呼ばせていただきます」
敗北だった。
「そう?」
呼び捨てで構わないけどね、とマキさんは続けた。
「ナっちゃんの思考を当ててみせましょう。ずばり——ここに泊まりたい」
単刀直入だった。体裁や保身を無視してしまえば、おれの本心に相違なかった。
「えっと……」
「泊まりたいんじゃないの?」
「まあ……」
「風呂、あるよ。洗濯機も外にある。水も電気もガスも通ってる」
天国だった。
「心の叫びとしては、泊まりたい! って感じなんでしょ?」
「……はい」
気圧されるようにして、おれは頷いてしまった。度重なる野宿がこたえていたのだろうか。もうどうにでもなってくれ、と目をきつく閉じた。
「良かったですね!」
ハルキの嬉々とした声。
「困っていましたよね、ナツキさん。寝る場所だとか、ご飯だとか、色々と不安でしたよね」
ゆっくりと目を開いてから、ハルキを探した。いつの間にか隣に座っていた。にっこりと笑う顔に、未来への不安は浮かんでいない。
こいつ——。
こいつは一体——。
こいつは一体何者なんだ?——ぶれ続けていた疑問が、急速に焦点を合わせはじめた。しかし、思考はマキさんの言葉によって途切れた。
「わたしはハルキがここに住む間の保証人みたいなものだ」
「そうなんですか……?」
では、ここの借主はハルキということになるのだろうか。
「一応、心配だからたびたび様子を見にくる予定。それがいつまで続くかは全くの未定」
話がよく飲み込めなかった。
マキさんは人差し指を立てた。
「そこで、問題が一つある。ハルキがここに住み、あたしが保証人になったわけだけど、肝心の家賃が未払いなんだよね。敷金とか礼金はないけど、家賃は払ってもらわないとさ、保証人としても困るんだよ」
「そうなんですか……」
なんなのだ。いったいどこへと話が向かっているのだ。
「で。もう一人住む人間が居るので、その人と協力して支払います——ハルキはそう言ったわけだ」
「そうなんですか」
「いやいや。さっきから他人事みたいに『そうなんですか』って連呼してるけどさ、ナっちゃんがその一人なんでしょ」
「そうなんで——え? すいません、今、なんて?」
マキさんは、ビシッ、と左手を差し出した。
「二人で住むなら、二人で家賃を払いなさい」
「住むなら……?」
天井に目をやり、考えた。咀嚼。嚥下。理解。次いで驚愕。
「住みはしませんけど……!?」
「泊まるのも住むのも同じでしょ」
「同じではないですけど……!?」
ハルキはニコニコとした顔でおれを見返した。それからガッツポーズ。
「がんばりましょう、ナツキさん! 生活の基本は衣食住です!」
「正論みたいにいうなよ……!?」
ツッコミが足りない。
「ま、そういうことだから。あとは二人で頑張ってね」
マキさんは言うと、俊敏な動作で立ち上がった。しなやかなその動きに、言葉を一瞬失った。おれは、ぽかん、と見上げるだけ。彼女はすたすたと玄関ドアへ向かうだけ。そうして、振り返らぬまま外出。バタン、と閉まるドア。残されたのは、静寂とおれとハルキだけだった。
はっ、と我に返る。すぐさまハルキに詰め寄った。
「どういうことだよ! どうして泊まるが住むになるんだよ! そもそも——」
「——でも、泊まるようなものですよ。一日分ずつでいいらしいですから。住むとはいえ、素泊まりみたいなものです」
ハルキは暢気に説明を始めた。
「一日千二百円を用意すれば、次の日も居ていいって言ってました。内訳は家賃が千円で他が二百円。ちなみに、他、というのはなんでしょうね」
「そういうことじゃなくて――」
「え?」
そこでやっと初めて、ハルキは驚きを表情に浮かべたのだった。
「家賃、高いですか?」
「そうじゃない……!! だいたい、なんでお前は——」
「——え? そうじゃないなら……それなら、えっと……なんですかね……えっと……」
おれの言葉を待たずに、ハルキはうつむき、そして考えだした。
声音に不安が宿っていた。それらは少年を数才ほど幼く見せた。まるで子供である。
ふと、弟が居たらこんな感じかな、と考えた。
年上ではなく、年下の守るべき存在がいたら――ふっと心が軽くなり、思考がその矛先を変えた。
弟が居れば人生も少しは変わったのだろうか。頼りになる存在に、なることが出来たのだろうか。他の誰にも頼らずに、自分ひとりで人生を歩むことが出来たのだろうか。その時だった。ドクン、と耳の奥で鈍い音が響いた。途端に胸がざわついた。
なんだ?
異変を感じた時には既に生まれていた。染みが広がるように、それはおれを支配していった。
なんなんだ?
生まれたのは罪悪感のようだった。呼吸が苦しくなり、頭が重くなる。
罪悪感?
なんでだよ、と笑いたくなる。それでもそれは拭えない。どんどんと広がっていくばかりだった。
おかしい。何かがおかしい。どう考えてもおかしい。しかし理由が解らない。頭が爆発してしまいそうだった。オーバーヒート。ラジエーターは見つからない。エンジン内の熱は溜まり、それは着々と限界点へと近づいていき——、
「——もう、いい。なんでも、ない」
それが精一杯だった。
いつの間にか腰が浮いていた。ゆっくりと落とす。思考は放棄だ。考え続けることは危険だった。ギアチェンジを試みる。なるべく明るい方向へと上げていく。
寝る場所なんて決まってないのだ——二速。
一日一人当たり六百円なら安い——三速。
場所代が掛かるのはどこだって一緒だ——四速。
外に居続けることだって危険である——五速。
そうして最後の六速——、
「——布団はちゃんと二組あるんだろうな?」
「一組もないです」
「ゼロかよ!」
失敗だった。ガクン、と速度が落ちた。
「おーい、ちょっといいかなァ」
どこからか女性の声がした。ギィ、とドアの開閉音が耳に届く。誰だろう、と目を向けるとマキさんだった。布団を抱えて玄関口に立っている。布団の上にはヤカンまで乗っていた。
「これ、貸すからさァ」
言いつつ、ドサッ、と布団を置く。ヤカンが豪快に転げ落ち、音を立てた。それはゴング音のようだった。さあ試合開始です。両者、どういった展開を見せるのでしょうか。
おれとハルキは近寄ると、二人で手分けしてそれらを運び入れた。ギアはなんとか上がりそうだった。
「んじゃ、また明日くるわ」
シュタ、と片手を挙げながらマキさんはドアを開けた。
「はい」とハルキは律儀に頷いた。
「……はい」とおれも頷いておく。
バタン、と再び閉まるドア。無言のままおれ達は部屋に戻り、二人で布団を敷いた。どちらが言い出すでもなく消灯になる。布団にもぐりこんで目を瞑ってから、どうやら寝ることになったようだ、と現状を理解した。
これで良いのだろうか、これからどうなるのだろうか——自問は自身にぶつかることもなく、闇の中へと消えた。
横からハルキの寝息が聞こえはじめた。寝つきの良さは子供並みだ。しかし、傍に人間が寝ている、という状況は悪くなかった。
頭の中で、カタンカタンと音がする。
落ちていくギア。エンジンブレーキの掛かりは最高で、風呂に入ることすら忘れていた。
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