第31話 ハルキ③

 場所は小さな公園。

 おれはベンチに座って休んでいた。

 横では、ベンチの端から足をぶらさげた少年が、いまだに気絶している。

 休息場所を全て明け渡せるほどの余力はない。少年を運んできた疲れが消えず、おれは背もたれに可能な限りの体重を預けていた。


 騒動からすでに数十分が経つ。少年の怪我は平気だろうか。

 まさか死んじゃいないだろうな、と呼吸音を確認した。心地よさげな寝息が聞こえてきた。いびきはしていないことだし大丈夫だろう、とあたりをつける。


 時計を見た。夜の十時。カップルの一組や二組が居るような公園ではないので、園内は静かなものだ。

 おれに出来る行動は、ただただ少年が目を覚ます時を待つことだけだった。当然、針の進みは遅いが、やはり待つしかない。


 時計の針にも飽きたので、空を見上げてみた。

 晴れているようだ。少なくとも雲は見えない。しかし星も見えなかった。遠くの空が仄かに明るんでいる。人工的な色。少し離れた場所に乱立する電飾の光が、空に伸びている。


 地上の光が強すぎて、人間の目には星の光が届かない。昔、ハルキ兄ちゃんが教えてくれたことの一つだ。

 兄はなにかを伝えたかったのだろうが、記憶を上手く掘り起こすことは出来なかった。


「——ん、んん」と横から声がした。


 まだまだ角のない、丸く幼い声だった。

 目が覚めたのだろうか、とためしに頬をパシパシと叩いてみた。もちろん怪我をしていない方だ。


「おい、気が付いたか」

「——え?」


 少年の目がすばやく開いた。次いで、呆気に取られたような表情。それから飛び起きた。


「はやく逃げよう!」


「もう逃げてるよ」

 おれは苦笑を隠せない。

「アンタは男に殴られて吹っ飛んだ。そいつらはさっさと逃げて、おれはアンタを抱えながらなんとか逃げた」


「え?……あ」


 少年は辺りを見回した。頬を触ってから後頭部に手をやると、状況を理解したようだった。ペコン、と頭を下げる。


「ごめんなさい。ありがとう。助かりました」


「助かりました、って……」

 どうしようもない奴だ、と呆れてしまった。

「いや、まあいいんだけどさ——それよりアンタ、何者?」


「へ?」

 ナニモノ、という単語にピンと来なかったのだろうか。少年は、ぽかんと口をあけると、首を傾げた。

「えっと、あの、ハルキといいますが……」


「え?」

 驚いたのはおれのほうだった。まさか他人の口から、ハルキ、という単語が出てくるとは思わなかった。


 少年は今一度、「ハルキです」と自分の言葉を噛み砕くようにして続けた。

「僕の名前はハルキといいます。ハルキ、と呼んでくださって構いません」


「……ああ、そうか」


 ハルキね、とおれは言う。ハルキ、ハルキ。それがアンタの名前か。

 珍しい名前ではない。


「どうかしましたか? 僕の名前、可笑しいですか?」


「いや」

 おれは首を振る。

「家族と同じ名前だったから」


「そうですか」

「一緒なのは名前だけだけどな」


「そうなんですか」

 少年はさして興味もなさそうに頷くと、立ち上がった。

「それじゃあ、そろそろ行きましょうか。案内は僕に任せてください」


「はい?」

 突然の提案に、おれは首をかしげた。

「行く? 行くってどこに。というか、だからアンタは何者なんだよ」


「僕はハルキです」

少年は繰り返すと、ゆっくりと手を上げた。どこかを指差しているようだった。

「あっちです。とにかく行きましょう」


「お前は何を言って——」

「——じゃあ、ついて来てくださいね」


 おれの言葉を遮ると、迷うことなくハルキは歩きはじめた。スタスタ、と軽快に足を動かしている。振り返る様子はない。


「お、おい」


 反射的に発した声は、動揺の為か少し掠れていた。自然とベンチから腰が上がっていた。背中を掴み止めるように、手さえ伸ばしていた。

 言葉が届かなかったのだろうか。少年は、おれの同行を確信しているようだった。よどみなく、公園の敷地外へと進んでいってしまう。おれは遠くなっていく背中をただただ見ているだけだった。伸ばした手は何を握るでもなく、遮断機のように下りていった。


「……なんなんだよ、いったい」


 少年の背は遠のくばかりだ。

 ついていけねーよ、と愚痴った。ベンチに座りなおそうと考えるが、腰を落とすことが出来ない。


 何故だろうか。


 小さくなっていく背中に、例えようのない不安を感じた。おいていくなよ、と声を掛けたくなる。微動しはじめた口を、ぐっ、と抑えた。

 それでも不安は消えない。焦燥感のようなものさえ湧き出てきた。なんなんだこれは。わが身に翻弄されている。わけがわからない。にもかかわらず、明確な指令が神経を駆け巡っていた。


 歩け、進め、追いかけるんだ。


「……ナツキ。お前は馬鹿か?」


 真っ当な自問が、正当な自答を欲している。が、足など既に動いていた。

 つまづくような一歩目が二歩目を生み出すと、それは三歩目を促し、四歩目へ繋がった。

 動き始めた足に、ためらいは無かった。

 空に星は見えない。だからだろうか。おれはハルキの背だけを見ていた。それが答えのようだった。

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