第30話 ハルキ②

 暑い夏の夜だった。

 雑居ビルの立ち並ぶ繁華街を、おれは一人で歩いていた。

 とにかく、むし暑い夜である。自身を癒す水分など、もう一滴も出なかった。だというのに脳みそは、水分を出せ身体を冷やせ、と要求した。残念だ。無いものは出せない。

 既に何日が経っただろうか。おれはハルキを探している。しかし未だに見つけられてはいない。時間だけが無常に過ぎていった。

 経過日を数えてみようとした。が、無理だった。蒸し暑さで茹だった脳に、正常な働きを期待してはいけない。


「……暑い」


 口をついた言葉は、他人の耳に入る間もなく蒸発した。

 シャツの匂いをかぐ。すこしだけ臭った。そろそろ洗わないと危険な気がするが、帰宅できないのだからしょうがないと諦めた。金は尽きたから、服は買えない。

 ハルキの捜索をはじめてからは、家族を含めた他者に一度も連絡をとっていない。

 現在、高校生活二度目の夏休み中。長期休暇に家出まがいの捜索——といえば聞こえも悪く、世間体も悪いが、あいにく、おれの親が心配するはずはない。だって、そういう家族だから。


 近くをパトカーが走った。ビクリ、と反応してしまう。一瞬のうちに意識が鋭利になるも、すぐにそれは鈍磨した。

 全ては熱のせいだ。身体の内側で焚き火でもされているみたいだった。これはまず疲れた身体だけでも癒すべきだ。精神の癒えは二の次。

 とはいえ、金は無い。座れる場所を探すが、ベンチもない。座りの良さそうな場所すら見当たらない。しょうがない。道の端に寄って、地べたに座り込むことにした。


 行きかう人々の視線が、突き刺さる。でも、気にしない。金曜日の夜ということもあってか、酔っ払いが多い。そちらのほうが気がかりだ。

 それから数分後——。

 興味本位の視線や観察するような視線に晒されていたことで、段々といたたまれなくなってきた。暑さの前には忍耐力さえ低下するらしい。

 出発時刻か、と諦める。

 重い腰をなんとか上げて、休息を放棄した——と同時に、視線の端に人影を捉えた。近づいてくるようだ。そちらを真正面から見やれば、見知らぬ男二人が映りこんだ。薄笑いを浮かべている。危険な笑みだった。

 概して、嫌な予感というやつは的中してしまうものだ。


「なあ、ちょっと良い?」


 案の定、男二人はおれに絡み始めた。社会的弱者万歳、ってところだろう。


「聞こえてるよなァ?」


 言葉を儀礼的に無視した。さっさとどこかへ移動しよう、とだけ考える。しかし現実はそう甘くはなかった。


「おい! 無視すんなよ!」


 おれの態度に、二人組みは怒りを覚えたようだった。剣呑な顔つきで身体を近づけてきた。ひょろひょろの腕を伸ばして、おれの二の腕を掴もうとする。俺を無視するんじゃねえよ。男の酒臭い息が鼻をツンとついた。


「——離せっ」


 熱帯夜の外気におれの言葉は包まれた。ついでに男二人にも囲まれていた。おれの二の腕はしっかりとつかまれ、相手のねばついた汗が肌に張り付いた。

 こっちこいよ、だとか、いいから、だとかの言葉には何の魅力も無い。鳥肌が立った。男に掴まれた手を振り払うも、うまくあしらうことが出来なかった。金をやるから向こうにいけ、と叫びそうになるが、残念ながら手持ちはない。

 助けを呼ぼうと辺りを見るも、視線を合わせる人間は居なかった。さっきまでジロジロと見ていたくせに、なんと勝手な世の中だろうか。


 さて、そうなると——。

 おれは脳をたたき起こした。この危機をどう切り抜けようか。茹だっている場合ではないぞ、と叱咤した。

 戦うことは出来る。


 ——しかし勝つことは?


 できないこともないが、状況的に不安はある。


 ——ならどうする?


 答えは一つだった。逃げるに越したことは無い。

 結論に至り、下っ腹に力を込めた。そんな時だった。


「や、やめりょ!」


 背に声がかかり、おれは振り向いた。男二人もつられるようにして視線を投げた。

 そこには男が立っていた。少年、という形容がしっくりとくるような年齢。なよなよとしていて頼りない男の象徴みたな奴だった。


「その手を離せ!」と少年は続けた。


 男二人はしばしの観察を経た後、問題なし、と判断したのだろう。おれの二の腕をぐいぐいと引っ張り始めた。

 ふたたび、背後から威勢のない声が響く。


「お、おい! やめりょ!」


 また噛んでいた。そうぜつにダサかった。そんな言葉で男たちが改めるわけもなかった。二人は舌打ちを混ぜながら、おれに絡み続ける。


「お、おい!」

 少年は食い下がったが、二人は視線すら向けようとしない。哀れみのようなものを感じたおれだけが、少年に視点を合わせていた。


 なんで?——と、少年は何か物足りなさそうな顔をこちらに向けた。目があう。おれは小さく首を振った。君じゃ相手にならないよ。少年は何を勘違いをしたのだろうか。意図不明の頷きを、おれに返した。瞳から揺らぎが消えている。

 なんなんだコイツは、とおれは訝った。手首に走る不快感をしばし忘れるほどに訝った。

 途端、少年はうなり声をあげはじめた。それだけでも十分に特異であるというのに、怒鳴り声らしきものさえ上げはじめた。まるで獣のようだった。

 ようやく、男二人も少年を障害と認めたらしい。しかし、その判断は遅かった。


「——な」


 思わず声を上げてしまった。

 少年が男二人めがけて突進をしたのだった。

 まさに晴天の霹靂だ。制止して駄目ならぶち当たれ、とでも思いついたらしい。ずいぶんと原始的である。

 おれはとっさに男二人へ視線をやった。案の定、ぽかん、としていた。絡んでいる自分たちに更に絡む人間が、まさかこの世界に居るとは想像できなかったのだろう。


 おれだってそうだ。なぜ救ってくれようとしているのかが解らない。助けてくれ、とは願ったが、叶うことを期待していたわけではない。

 棚からぼたもち? それならば、このまま救ってくれ、と願ったことは悪いことではないはずだ。しかし、天は弱肉強食の法則を崩す気はなかったらしい。はっ、と我に返ったのは腕を掴んでいた男だった。おれを突き飛ばすと、迎撃体制に入った。


 あっけないものだった。悲しくなるほどだった。男の振り上げた拳は、みごとに少年の頬へヒットした。少年の小さな身体は宙に浮いた。重力にだけは勝てた、というのがせめてもの救いだろうが、ひ弱そうな身体が嫌な音を立てて地面にぶつかると、少年はぴくりとも動かなくなってしまった。


 二人組みの男はひきつったような笑みを浮かべた。そりゃそうだろう。そんなに細い腕と、こんなに豪快なノシ方は、どう考えたって釣り合わない。

 争いに気が付いた通行人は、おれたちを明確に避けはじめていた。遠くからサイレンの音が聞こえる。まさかとは思うが、目的地がこことも限らない。男二人はようやく自分たちの愚かさに気が付いたようだった。おれをちらりと一瞥すると悔しそうに踵を返した。現場から離れていく背中は、すぐに雑踏に紛れた。


 サイレンの音は徐々に近づいているようだった。関係などないはずだが、どうしたって逃げたくなってしまう音である。

 さて、とおれは考えた。幸か不幸か、逃げることの意味に変化が生じた。それは一人で逃げるか、二人で逃げるか、の違いである。

 おれは足元でのびている少年を見た。おそらくは恩人と呼べる部類の少年だ。

 人間は見た目よりも重く感じるものであるが、少年の背丈はおれよりも低かった。ふんばれば抱えることも難しくないだろう。


 ふんばるか、ふんばらないか——疲れているのに、ふんばるのか?


 おれは数秒間、自問する。

 回答までにはさしたる時間を要さなかった。

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