第29話 ハルキ①

       ハルキ/1


「ハルキにーちゃん」


 幼少時のおれは、兄の名を呼んでいた。兄の身体は眼前にあった。しかし、その姿は蜃気楼のように透き通り、薄れていく。

 ぼんやりと、ああそうかこれは夢なんだ、と悟る。だから兄ちゃんは消えるんだ。それでも、おれは呼び続けた。


「ハルキ兄ちゃん!」


 兄の姿は薄れていくばかりだ。そんな兄を繋ぎとめようと、声のかぎりを尽くす。だが事態に変化はみられない。

 ハルキ兄ちゃんは笑っていた。どうしたんだよ、とおれの頭を撫でた。それがどうしようもなく悲しかった。なんで笑ってるんだよ、と叫びたくなるが、口から出るのは名前だけ。


「ハルキ兄ちゃん!!」


 悲しいことに、幼い自分に出来ることはそれぐらいだった。だから繰り返す。名前を呼ぶことだけを繰り返す。

 ハルキ兄ちゃん。

 ハルキ兄ちゃん。

 愚直に繰り返し続ける——、

 ——という、そんな夢を昔によく見た。今はまったく見ることがない。

 起きてしまえばなんてことのない夢だ。感情の高ぶりなど、覚醒すれば一瞬で冷めてしまう。それでもまなじりに浮かぶ涙は、無視できないほどに熱かった。

 目覚めれば休息に冷めていく感情。

 それは『涙に感情の熱を奪われているから』だと教えてもらった。昔、兄が言っていたのだ。正確にはこんな台詞だった。


『怖い夢を見ようが、悲しい夢を見ようが、必ず涙が助けてくれる。醒めれば涙が冷ましてくれるんだ。

 お前も、精一杯泣けよ。そうすればすぐに立ち上がれるさ。あれは心の冷却装置なんだ。

 涙はだから——熱いんだ』

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