第26話 モミジ⑨



「タローはいつだって変わらないよ? タローは、どんなふうになっても、いつだってモミジの知ってるタローのまま——」


 その時だった。太郎の顔が勢いよくあがった。


「——わかった風な口を聞くなよ! お前は……お前は、死んじまってるからいいかもしれないけどな! 俺はッ!! 俺はな……」


 威勢だけの言葉は、すぐに語る言葉をなくした。

 視線の先のモミジだけが残る。そこでやっと気がついた。モミジの様子がおかしい。


「モミジ……お前……」


 太郎の声に動揺の色が混じった。モミジの顔は歪んでいた。それは、必死に何かを絶えているようにみえた。


「モ、モミジ、知ってるもん!」

 モミジは目を瞑り、叫んだ。

「タローが……タローが、死んじゃうって知ってるもん!」


「な——」

 太郎は絶句した。まさか、と思った。

「——なんで、お前」


「言ったでしょ! モミジは帰ってくるんだよ。それはいつだってそうなんだよ。だからモミジは帰ってきたんだよ。いまはタローの目に見えるけど、タローの見えないときだってモミジ、ちゃんと帰ってきたんだよ!」

「それじゃ、お前……全部……?」

「知ってるよ。おばあちゃんが教えてくれなくたって知ってるよ。もちろんタローが苦しんでるのはおばあちゃんも知ってるよ? でもモミジもちゃんと知ってるんだよ。モミジとおばあちゃんはずっと太郎の側にいたんだから」


 モミジの言葉を聞きながら、太郎は先からの様子を思い出していた。モミジが訪れた時のこと。モミジが『タロー』と呼んだこと。そして自分が死んだと認識をしていること。


「そうか……そうなのか……」

 それだけを口にすることさえ一苦労だったが、言わなければならないことは沢山あった。

「……薄々とはな、気づいてたんだ。お前、すぐに俺のことわかったしな。匂いで分かったのかな、とも思ったんだけど、それは違うみたいだったしな」


「どういう意味?」


「お前が死んでから——」

 太郎は大きく息を吐いた。

「——もう、四十年も経ったんだぜ? 俺も六十過ぎだよ。昔とは別人だ。一目で、俺だとわかる奴はそうそう居ない。匂いでさえ変わるぐらいの年月だ」

 太郎は自分の腕に触れた。若い時分と比べると、大木と枯れ枝ほどの差があった。猫のモミジを抱いていた頃の肉付きは、すでにない。

「こんなガリガリに痩せちまった。でも、腹は出てんだぜ、笑えるだろ。働くどころか、運動さえままならねえ身体なんだよ。酒、飲みすぎたからな。やっぱり煙草も悪かったんだろうけど、体中ボロボロだ。昔の知り合いにあっても誰も気づかないんだ。お前が気づくことがおかしいぐらい、俺は変わっちまったんだ。身体が変わるとな、不思議なもんで、心まで変わっちまうんだ」


「……うん」


「生きるのは、疲れたんだよ。もう、いいんだ、俺は」

 太郎は悲しそうに笑った。

「よく解らなくなってきたんだ、俺。お前が現れたとき、とうとう俺は死んじまって、それでお前が迎えに来たのかと思ったぐらいだしな」


「ううん。モミジはね、迎えになんてこないよ。おばあちゃんも迎えにはこないの。モミジ達はね、帰ってくるだけなんだよ。タローに元気を出してもらう為に帰ってくるだけなんだよ」

「元気、か」


 そんなものどこから沸いてくるのだろうか、と太郎は思った。


「そうだよ。あと、太郎は変わってないよ、って言いたかったの。タローはタローのままだよ。タローはずっとタローだよ。モミジはタローを見てきたから知ってるよ」

 だから、とモミジは言葉を継いだ。

「自分で死ぬのはやめて」


 太郎は、うつむいた。

 言い返すことが出来なかった。

 ここ数ヶ月間、太郎は処方された睡眠薬を溜め込んでいた。

 氷をはった水風呂に浸かり、吐き気止めと共に、それらを一息に飲むつもりだった。体温は徐々に下がっていき、簡単に凍死できるはずだ。溺死だって構わない。


 手順は簡単だった。

 実行だって簡単なはずだった。だが行動に移すことが出来なかった。それは自分の弱さなのだ、と太郎は信じていた。

 勇気がないからだ、と自身を罵倒していた。


「やめてよ、タロー」

 モミジは身を乗り出した。

「死んでも、ちゃんとモミジたちは悲しいんだよ。生きてなくても、ちゃんと悲しいんだよ? 変わるものは沢山あるかもしれないけど、モミジとおばあちゃんとタローは変わらないよ。ずっと変わらないから。だから、やめて。悲しいよ」


 悲しいとはなんだろう。

 太郎は考える。

 ばあちゃんが死んだときは悲しかった。モミジが死んだときも悲しかった。けれど自分が死ぬのは悲しくはない。

 それは、自分の意志だからだろうか。つまり、そうなるとばあちゃんやモミジが死んだときに感じた悲しみは、納得がいかないから、という客観的な理由だけの悲しみだったのだろうか。それは自分勝手な感情だったのではないか——

 モミジは、押し黙っている太郎を見ていた。


「悲しいのはね」とモミジは言う。

「ナゾナゾじゃないんだよ」


「……ナゾナゾじゃない?」

「考えても解らないんだよ。ナゾナゾみたいに正解がないんだよ。うーんなんだろー、って考えても絶対に答えが出ないんだよ」

「正解が、ない……」


 理屈で考えてはいけない、とモミジは言っているのだろう。その言葉は、太郎に漠然とした安心感を与えた。


 もしかすると俺は、と太郎は考えた。

 自分の人生だとか、幸せだとかに理屈を与えすぎていたのかもしれない。人間の中には、変えられない部分が確かにあるはずだ。

 なのに、そこまでも変えようとしていたから。だから俺は解らなくなってしまったのかもしれない。


 過去の楽しかった日々は確かに実在した。

 理屈を与えてまで今を生きるというのは、それをなかったことにするのと同義なのではないのか——太郎の心の中で、小さな粒が一つ、はじけた。

 それは円状の波紋をつくり、身体全体へとひろがっていった。不気味なほど穏やかだった黒色の池に、太陽光が照った。


「……そうかもしれないな。なんとなくだけど、お前の言いたいことは解る。悩みは消えないが、なにかを掴めそうではある……けどな、一時間後には変わっちまうかもしれない。最近はそんなことの繰り返し——」

「——じゃあさ、一緒に、おヒルネしようよ!」


「は?」

 意味が解らず、太郎は目を丸くした。

「お前、なに言ってんだ? 朝だぞ、今」


「いいの!」

 モミジはベッドに寝転ぶと、太郎を見た。

「おばあちゃんが今、ナゾナゾを出したの。悩んだときにすると良いのはなーんだ、って」


「お前、それナゾナゾじゃなくて——」

「——答えは、おヒルネ、だよ。絶対に合ってるんだから!! だってモミジ、いつもそうしてた!」

「お前なァ……」


 太郎は急に可笑しくなった。こらえきれずに、笑う。

 モミジはきょとんとしていた。


 全てがどうでもよくなった。今を生きてやろうと、心から思った。

 一時間後に気持ちが変わる?——上等だ。それなら一時間前の自分を思い出してやる。その調子で、四十年前の自分を矢面に立たせたって構わない。


「じゃあ、昼寝でもするか」

 太郎は言って、カーテンを閉めた。

「朝だろうが関係ねえや。一日中寝てやる」


 それこそ死ぬまで寝てやろう、と太郎は意気込んだ。


「おヒルネ! おヒルネ!」

 モミジは賛同してから、にっこりと笑った。

「起きたら椛を拾いに行くの。それからたくさん遊んで、いっぱいご飯を食べるんだよ?椛のてんぷらだよ。あ、モミジじゃないよ? 椛だよ? おばあちゃん、作り方教えてくれるかなァ……あ、いま教えてくれた。アゲルってどういう意味? モミジにくれるの?ねェ、タロー。どういうことなの?」


「落ち着けって」

 苦笑しながら、太郎はベッドに入った。

「忘れたのか? 今は梅雨の季節だ。六月の椛は紅くない——それに、まずは寝るんだろ?」

「そうだった、そうだった。あ、そうだ、あのねェ」

 モミジに眠る気など全くないらしい。

「モミジ、ここに来るまでに色んなことをしたんだよ。例えばねェ——」


 まともな睡眠をとっていなかったせいか、眠気はすぐに訪れた。

 モミジの声が段々と遠くなった。うんうん、と無意識の内に発していた自分の声がメトロノームのような単調さを持った。


 不思議だ。まぶたを落とした暗闇の中。

 そばにいるはずのモミジと祖母の存在感が、闇に飲み込まれぬまま、白く浮かびあがってくるようだ。強い力を持っている。

 目をつむったぐらいでは、決して消えないのだ。六月の椛は紅くない——確かにそうだ。しかし、必ず色濃くなる。何色になろうが、それはとても綺麗な色をしているのだろう。


 太郎はじきに眠りについた。久しぶりの熟睡だったが、彼は長い長い夢も見た。

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