第24話 モミジ⑦
室内で生活する猫だったが、モミジはよく外へ出た。
猫らしく、勝手に遊びに出ては、気ままに帰ってきた。
外出経路は台所の小窓だった。すりガラスの窓である。そこを細く開けておいてやると、格子の隙間から外へ出ていった。
しかし、冬は寒い。常時開放は無理だ。
するとモミジは、鍵さえ開けておけば自分で窓を開けて出ていくという技術を身につけた。さすがにそれを見たときには太郎も驚いた。
これからはただの馬鹿という考えを改めよう、と思ったものだ。敬意を表して、窓には油を差した。モミジが外へ出る回数は一段と増えていった。
それは、出会ってから三年目のことだった。
大学生活も終盤に向かうと、太郎はさらに忙しくなった。
モミジに構ってやれる時間は減っていくばかりだった。論文や就職活動、そして日々の生活費を稼ぐためのバイトや、避けられない人付き合い——太郎には一秒の無駄も用意されてはいなかった。
そんな太郎を他所に、モミジは暇になると外へ出た。その日も朝から外出していた。
トントン、と控えめなノックが響いたのは、日も落ちかけていた頃だった。
取り掛かっていたレポート用紙から目を離すと、太郎は玄関口へ近づいた。どなたですか、と声を掛けると、女性の声が返ってきた。
「すみません」と来訪者は言った。
「あの……今、いいでしょうか。下の階の者です」
「あ、はい」
太郎は応じると、ドアを細く開けた。いちょう色の髪の女性が見えた。まさしく、彼女は階下の住人だった。何度か挨拶をしたことがある。
「こんばんは」と太郎は言った。
「こんばんは……」と女性も言った。
挨拶を口にした途端、二人の間に異様な空気が流れ始めた。いつまで経っても二の句が継がれないのである。
女性は無言のまま、うつむいているだけだ。細く開いたドアに、身体を隠すようにして立っている。口を開く様子はなく、その姿は石膏像を思わせた。
太郎は内心、首をひねった。
男と喧嘩でもしたのかな、とぼんやり考えた。下の住居には、寡黙そうな男性と、目の前の女性とが二人で住んでいた。しかし、そうだとしても自分を訪ねてくる理由にはならないだろう。
まさか愚痴を言うわけでもあるまい。
太郎は耐えかねて訊ねた。
「なにかご用ですか?」
「……はい」
女性はゆっくりと面を上げた。目が少し赤らんでいるようだった。
「スズキさん、お部屋で猫、飼ってらっしゃいますよね」
「え?」
太郎は少しばかりの驚きを感じた。猫を飼っていることは、誰にも言っていなかったからだ。
現在、アパート内には黒猫の数が少ない。というよりも、モミジだけのように思えた。その分、目にも付きやすい。格子の間をすり抜ける姿でも見たのだろう、と太郎は納得した。
「スズキさんのお宅に猫が入られていたので、多分そうじゃないかな、って思っていたんですけど——あの、わたしは猫が好きで、特に黒猫には目が奪われてしまって、だから、あの猫は一体どこに行くのかな、って思いながら見てたんです。何度か遊んだこともありますから」
「そうですか」
太郎は頷いた。言葉に違和感はないが、女性の態度には更なる不信感を抱いた。
「おっしゃるとおりです。部屋の中で猫を飼ってますよ」
「黒猫、ですよね。真黒で、すごい綺麗な毛並みの猫ですよね。身体は小さめの」
「そうですね。たぶん合ってます。それで——」
——それが何か?、と太郎は言おうとした。しかし、次の瞬間には言葉を飲み込んでいた。眼前に展開した映像が、太郎の全てを凍らせた。
「あの」
女性は気まずそうに何かを差し出した。
「これ……」
それは黒猫だった。見覚えのある猫であり、それも当たり前のはずだった。黒猫は、間違いようもなくモミジだった。
「お、驚いたと思うんですけど」と女性は続けた。
「驚かさないようにしよう、って思ったんですけど、でも、どうしようもなくて……」
女性の目が潤みだした。
しかし太郎は何も言えなかった。目の前のモミジだけに意識を注いでいた。
モミジはバスタオルにくるまれていた。
目を瞑っている様は寝ているようでもあったが、それを否定するものがあった。バスタオルについた赤茶色の斑点だ。血だ、と理解するのに長い時間は要らなかった。
「あの、ですね……わたし、あの、事務所で働いてるんです。探偵事務所です。それで今日は迷い犬を探していたんですが、その、そういうとき、わたし達はある程度、探す場所が決まっているんです。それは猫や犬が集いやすい場所なんですが、そこで、その、カラスが沢山居たので、何かあるのかなって思ったんです。わたし、気になったので、近づいてみました。そしたら、ですね。つまり、カラスが、その、弄っていて……見覚えのある猫だったから、ビックリして」
女性はそこで鼻をすすった。僅かにではあるが、落ち着いたようだ。しかし言葉は終わらなかった。
「途中まで、ほんの……本当にほんの少しですけど息はありました。すぐに病院に連れて行こうと思いました。でも、途中で偶然、大家さんに会って、事情を話して、大家さんが抱いたときには、もう……もう、駄目で……なんでこんなことになったのかも分かりませんが……」
女性はやっと言葉を止めた。
それからもう一度、「わたしが見つけた時には多分」と口を開いたが、先は続かなかった。そのまま俯き、タオルに包まれたモミジを差し出すに終わった。
しかし、太郎には言葉の先が読めた。『手遅れだったのかもしれません』か、『助かる見込みは無かったのかもしれません』の、どちらかに違いなかった。モミジは確かに死んでいる。それだけを受け入れれば、万事に説明はつくのだった。
太郎はモミジを受け取ると、どうもありがとうござました、と芋役者のように言ってから、ドアを閉めた——そこまでは覚えている。だが、その後の記憶はあやふやだった。
泣いた覚えはない。
だからといって、悲しまなかったわけがない。放心状態のまま一日を終えたように思う。意味を持った行動など、出来るわけがなかった。
それから数日後、太郎はモミジを埋めた。祖母のお墓の近くだった。共同墓地の敷地内である。太郎にとって一番大事なその場所を、モミジに分けてやったのだ。
「ありがたく思えよ」
太郎は語りかけた。モミジが喜んでいるとは思えなかった。少なくとも太郎は違った。涙が出るほど、悲しかった。
落ちていく滴は全て、モミジの眠る土中へと消えた。別れの言葉は要らなかった。太郎とモミジの生活は、こうして終わりを告げた。
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