第21話 モミジ④


「ねェねェ」


 ベッドの上の少女は言った。

 名はモミジだ。太郎の記憶の中の猫と同じ名だった。


「モミジ、すっごい大変だったんだよ。ねえ、それってすっごく疲れたっていう意味なんだよ。わかる? ナゾナゾじゃないよ?」

「……ああ」


 太郎は頷いてから、煙草に火をつけようとした。煙草の先とライターの火が震えていた。睡眠不足か、ニコチン切れか、もしくは未曾有の感情が原因なのだろう。


「ねえ、それ、やめたほうがいいよ」


 煙草に火をつけた直後にモミジは言った。左手の細い指が太郎の口元を指している。右手はボロボロの服の裾をおもむろに弄っていた。


「それ、お鼻の奥、痛くなるし、あと、いけないコトなんだよ。おばあちゃんも、健康には悪い、って教えてくれたよ。他にもたくさんの人が吸ってたよ」

「ん……ああ、悪い」


 申し訳ないという表情を作りながら、太郎は火を消した。それから、しばらく動いていなかった空気清浄機のスイッチを押した。

 そこで、違和感に気がついた。モミジの顔を見て、太郎はたずねた。


「ばあちゃんって……それ、どこのばあちゃんだ?」


「うん?」

 名を聞かれた時と同じ表情だった。

「おばあちゃんだよ。タローのおばあちゃん。それってまたナゾナゾなの?」


 なぜ俺の名を知っている、とは聞かなかった。

 太郎の中では二つの意志が拮抗しているだけだった。それは、コイツは頭のイカれた女か、猫のモミジそのものか、という二者択一だった。


「ばあちゃんって……本当に、俺のばあちゃんなのか?」


「そうだよ」

 モミジは頷いて、自分の胸を、トントン、と叩いた。

「タローのおばあちゃん、ここに居るんだよ。タローのおばあちゃんと一緒だったからここまでこれたん——」


「——は、話せるのか?」


 太郎は唐突に大声をあげて、モミジに詰め寄った。


「え? え?」

「だから、ばあちゃんと話せるのかって聞いてるんだよ! お前は——」


「——あ、あの」

 驚きに目を見開いたモミジの顔は、太郎を落ち着かせるように幾度も小刻みに振られた。

「お、お話はできないよ。でも教えてくれるよ、いろんなこと。モミジの中に居てくれるタローのおばあちゃんは、少しだけどモミジに教えてくれるんだよ。モミジの力なの。そういう力をひめ……ひめて? いるんだって、モミジは。えっと……ぽ、ぽしゃしゃるんて、かな? よく、わからないけど……」


 うろたえているモミジを前にして、やっと、「う……」と太郎は冷静さを取り戻した。


「……そう、か」

 浮いていた腰を下ろしながら、太郎は言う。

「……悪い、驚かせた、すまない。いや、まあ、俺も充分驚いたんだけどさ……あと、多分それは『ポテンシャル』な」


「ううん」

 モミジは力強く首を振った。

「モミジは驚かないよ、全然。すごいポシャルンテをひめてるから、モミジはツヨいんだよ」


 この大嘘吐きめ、と太郎は思った。モミジは肩から下げたバックの紐をつよく握り締めていた。親指の先が白くなっている。

 笑ってやりたい気分だった。そういえばコイツはいつもこうだったな、と思い出した。強がりばっかで行動が気弱なんだ——その瞬間、太郎は息を呑んだ。


「……馬鹿、言うなよ」


 太郎は内から湧き出てきた感情に悪態をついた。

 自分は既に結論を出していた。目の前の少女は聡明ではないが、決しておかしいわけでもない。なんたって、猫のモミジなのだから頷ける——心の奥で決め付けていた。

 そうだ。既に結論など出ていた。目の前の少女は猫のモミジに違いないという、信じられない答えではあるが。


 いや、ちょっと待て。いくらなんでも——太郎の胸にふたたび疑心が舞い降りてきた。しかし、受け入れるしかないのかもしれない。答えなど、どうしたって自分で与えるしかないようだった。


 脳がニコチンを欲しはじめた。思考に変化を与えたいのだろう。煙草に火をつけようとして、しかし咎められたことを彼は思い出した。

 手は既にパッケージのほうへ伸びている。太郎の行動を不思議そうな目でモミジが見ていた。煙草を吸おうとしていた、という考えは微塵も持っていないらしい。


 太郎は出してしまった手を誤魔化すように空中で遊ばせた。それから落ち着く場所を求めた末に、頭上にたどり着いた。二三度、頭を掻いてから太郎は口を開いた。


「お前、さ」

 声は腹から出ていた。

「あれ、だよな。つまりはさ、猫のモミジってことだろ?裏山で出会ったモミジのことを言ってるんだけどさ」


「うん?」

 モミジは首を傾げた。何を今さら、という顔をしていた。

「そうだよ? だってモミジはモミジだもん。タローがモミジってつけたんでしょ? あ、じゃあナゾナゾは正解だね。やたあ」


 わーい、と手を上げるモミジを横目に、嘘だろ、と太郎は嘆息した。しかし、嘘ではないようだ。なにより、思考の中には疑いの欠片さえない。

 それでも太郎はなにかに抗うように、もう一度だけ、「嘘だよな」と呟いた。


「なァに?」とモミジが反応し、太郎は「いや、なんでもない」と答える。「なんでもないんだ」


 そうだ。なんてことはない。朝っぱらから随分と珍しい客が来ただけだ。それも死んだばあちゃんまで引き連れて——。


 太郎の日曜日は、久しぶりに一人ではなかった。

 孤独はマイナスからは生まれない。それはプラスに端を発していることを彼は知っていた。

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