第20話 モミジ③
モミジを拾ったのは秋のことだった。
太郎は大学生だった。モミジと出会った年に、現役生として市内の大学に籍を置いた。
祖母が倒れたのは中学二年生の時で、他界したのが三年生の時。
つまり一人暮らしは四年目ということになる。おせっかい焼きの大家が面倒をみてくれなければ施設行きだった。
太郎は二階建てのアパートに住んでいた。その裏手——徒歩で十五分ほどの場所には小さな山があった。地元の人間からはぞんざいに、裏山、と呼ばれていた。正式名称を知っている人間は少ない。
秋になると、太郎は裏山をよく一人で歩いた。散歩ではない。
目的はといえば、綺麗な葉を拾うことだった。葉の種類は椛だ。汚れの少ないものを探しては、ビニール袋にそれを入れた。
後に聞いたところによると、それは土地の持ち主の道楽で食用に育てられたもので、祖母がその恩恵に預かって拾っていたものを、太郎が継いだということになる。
ことの発端は育ての親である祖母と登った山で、紅葉や野草のてんぷらを食べたことが今の行動に繋がっている。
山の空気のせいか登頂後の疲れのせいかは定かでないが、その時のてんぷらは人生で一番の味だった。とくに椛が綺麗で、美味かった。『自然はねェ、食料の宝庫なんだよ』と教えてくれた祖母の言葉は、今でも耳に残っている。
そしてそれが裏山にもあることを祖母に教えてもらうと、太郎は年ごとにそれを拾い、塩漬けにして、保管をしておくようになった。
手放しに美味いと言える味ではない。
しかし太郎は記憶の味を求めていた。
時節にあった野草や山菜は、見かけたときにだけ採っていた。椛は塩につけるなど、手間隙はかかるが、苦ではない。
色鮮やかな葉を拾うたびに、祖母の優しそうな笑顔を思い出す。
太郎は祖母に育てられた。
両親は幼少時に居なくなった。写真を見なければ、はっきりとした顔を思い出せない。それでも、寂しさは生まれなかった。祖母が太郎を可愛がってくれたからだ。しかし、今では祖母さえ冷たい土の中。
祖母の残したモノは簡潔だった。三百万程度の名無しの現金だけ。
アパートの賃貸契約書からさえ、祖母の存在は消えてしまっていた。だから、太郎は一人で椛のてんぷらを食べ続けている。
その日も、太郎は椛を求めて裏山に登っていた。寒い一日だった。空はどんよりと曇り、水分をはらんだ外気が顔に張り付くようだった。
いつものように椛を拾っていると、耳に小さな鳴き声が紛れ込んだ。猫の声のようだった。随分と寂しげな鳴き声だ、と太郎は感じた。
何故か気になった。だから発信源を探すことにした。確固とした想いのない、考えなしの行動だった。舗道から足を外し、湿った土の上に靴の裏をあてた。
大雑把ではあるが、進むべき方向は解っていた。猫を探すことは難しいことではない。日々の中で、それと同様の行為を繰り返しているからだ。
というのも、太郎の住むボロアパートには何十匹もの猫が住み着いているのだった。どうやら大家や住人が猫好きで、捨て猫を拾ってきては餌を与えているらしい。
その為に、今裏庭に猫が来ただとか、隣の住人はまた猫を拾ってきて部屋に連れ込んでいるだとか、階下の飼い猫が餌を欲しがっているだとかの、聞き分けが出来るようになっていた。
彼自身も猫は嫌いでなかったし、なにより、気を紛らわせることが出来た。だから、アパートの住人に文句を言う事はしなかった。一人の生活は存外に寂しいものだ。祖母が死んでからというもの、太郎は強くそれを感じていた。
木々の間から、みゃあ、と猫の鳴き声がする。
この辺りだ、と太郎は考えた。
視界に映るのは乱立している落葉樹だけ。空は葉におおわれ、地面も同様だった。まるで、赤や黄で編まれた風呂敷にでも包まれているようだ。
耳を澄ます。右から、にゃあ、と鳴き声。そちらへ視線を向ける。視界の中に小さな影を捉えた——猫だ。猫が居た。太郎はゆっくりと近づいた。
からだの小さい猫だった。黒い毛並みが露に濡れてきらきらと輝いていた。仰向けになったり、手を伸ばしたり、尻尾を動かしたりと、一匹だけのくせに随分と忙しそうである。
怪我をしているというわけではないようだ。小さくはあるが、生まれたて、というわけでもなさそうだった。猫は太郎が近づくとすぐに鳴き声を止めた。まるで太郎が来たことに満足しているようだった。
「おい、こら、おまえ」と太郎は呼びかけた。
「まさか、俺を呼ぶために鳴いていたわけじゃないよな」
にゃあ、と猫は鳴いた。椛の絨毯の上を気持ち良さそうに転がっていたが、猫の身体には湿った土がこびりついていた。
黒猫はそれを疎ましく思うのか、ドロの部分を椛にこびりつかせようと身体を動かしていた。しかし、動きが激しいせいか椛は猫を中心に広がっていき、次第に下の土が現れ始める。当然、またドロがつく。すると猫は、広がってしまった椛を再度追いかけてから嬉しそうに寝転び、また同じことを繰りかえしていた。どうみても堂々巡りである。
「おまえ、さてはバカだな?」
太郎が呆れると、猫は寝転びながら、にゃあ、と鳴いた。
仰向けになってこちらを伺っている。小さな口が半開きだ。
「バカそうな顔だぞ。第一印象は外見が大事だ」
太郎が忠告すると、猫は「にゃあ」と応じて、前足で顔をなでた。ねらったように、鼻にドロがつく。太郎は思わず噴出した。
「おまえ、椛が好きなのか?」
太郎の中に、妙な親近感が湧いてきた。太郎は屈み、猫に視線を近づけた。
にゃあ、と猫は応える。
俺と一緒だな、と呟きながら、身体のドロを払ってやった。猫は逃げずに太郎を見上げていた。時折気持ち良さそうに目を細めては、にゃあ、と鳴いてみせる。ずいぶんと警戒心の薄い猫である。どう考えても、先天的な気質だろう。
「よし、終わり」
動かしていた手を止めた。雑ながらもドロは取れた。
が、太郎は甘かった。猫にとっての終わりなど、この世の何処にもありはしなかった。太郎の苦労などお構いなしに、猫はまた同じことに熱中しはじめた。
「お前なァ……」
呆れの混じった声をぶつけるも、猫は止まらない。
大きな蚤がいるのではないか、と思わせるほどの行動であるが、太郎はすぐに首を振った。こいつはただの馬鹿で、ただ単に楽しいだけに違いない。
「……もういいや」
言い捨てると、太郎は立ち上がった。
どこかの飼い猫が遊びに来ているだけだろう。飼い主や拾い主が居るに違いない。自分の出る幕ではないはずだ。
だが、まてよ、とも太郎は考えた。首輪は付いていないし、黒い体もなんだか薄汚い。野良猫、と考えたほうがしっくりとくる。裏山を闊歩する野良猫は珍しくない。
「まあ……関係ないか」
腰を上げると、椛の入ったビニール袋が、がさり、と音を立てた。
「じゃあな、バカ猫。がんばれよ」
地面を転がっていた猫は、ピクン、と耳を動かした。
ジッと太郎を見上げる。にゃあ、と鳴いて、椛の上に四肢をついた。そして繰り返し、にゃあ、と鳴いた。
「なんだよ」
呼び止められているような気がして、太郎はもう一度しゃがみこんだ。両手で猫を持ち上げて、目線を合わせる。
「お前、なにがしたいの」
にゃあ、と猫は鳴く。それから太郎の顔にパンチを食らわせた。
「あぶ——」
猫の手についていたドロが口の中に入り、思わず尻餅をついた。椛の絨毯が湿っていたせいで、尻が濡れた。
にゃあ、と嬉しそうに猫が鳴き、はァ、と諦観の混じった息を太郎は吐いた。ついでに唾も吐いておく。口の中が苦い。
「……そんなに遊びたいのか、お前は」
にゃあ——頷きもせずに鳴いた猫の一声を受けて、太郎は決めた。連れて帰ろうと決心した。そんなに遊びたいのなら付き合ってやるよ。黒猫へ向けて意思表明をする。
アパートには沢山の猫が居る。それは猫好きの住人が拾ってきたものだが、太郎から孤独を奪い去ってくれた。
しかし、それでもそれは誰かの猫だった。誰かの家族だった。太郎の猫ではなく、太郎はいつでも一人だ。
椛の絨毯の上で出会ったから、名前は『モミジ』とした。
黒かろうが、毛並みは紅葉のように、美しい。
「お前の名前はモミジだ」と太郎が言うと、当の本人ならぬ本猫はどうでもよさそうに、にゃあ、と一鳴きした。
それは欠伸にも似ていて、太郎は、やっぱりこいつはバカやろうだ、と確信した。
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