第19話 モミジ②

 鈴木太郎の意識は覚醒した。誰かが自宅のドアをノックをしているようだった。

 太郎は不明瞭な声を上げながら時計を見た。

 六月、日曜日の朝六時だった。ちょうど眠りにつけたころに起こされたことになる。ちくしょう、と心で悪態をつくと、来訪者の顔を見るのが嫌になった。


 ドアのノック音に目を覚ましたのは、近頃続く不眠のせいだった。

 三年前から眠れない日々が続き、四年目の春には薬に頼るほど酷くなっていた。しばらく薬を飲むのをやめていたのが運の尽きだったのかもしれない。


 ノックはいまだに続いていた。太郎は居留守を使うことにして、生暖かい掛け布団にくるまった。


「おーい、開けてよお」と声がしたのは無視を始めた数分後だった。


 妙に舌足らずな声である。

 なんだ?、と太郎はいぶかしんだ。どうやら女の声のようだ。


「いるんでしょ? ねえねえ」


 自分を訪ねてくる人間には無い、幼い声域だった。子供など、視界に入れたことさえ随分と無い。一体誰だろうか。気になる。悶々とした思いが、室内に充満した。


「……ちくしょう」


 太郎は掛け布団を弱々しく蹴った。力を受け流し、グニャリと変形した布団は、太郎の怒りを吸収してはくれなかった。

 頭をかいてからジャージを着込むと、太郎はドアの前に立った。ボロアパートのドアには覗き穴がない。

 外を確認したいのなら、ドアの右側——台所にある窓を開けるしかなかった。

 すりガラスの窓だ。アルミサッシ。格子付きだが問題はない。そこをあければ来訪者の姿が見えるだろう。


 だが、あけてしまえばそれまでだ。

 自分の姿も見られてしまう。太郎はとりあえず、ぼんやりと浮かんでいるであろう、シルエットを確認するにとどめた。


 息を潜める。

 ガラスに、来訪者の影がうつった。


 随分と小せえな、と太郎は思った。ぼんやりと映っているのは頭だけだった。数字に直せば一四〇センチがいいところだろう。

 もしかすると百三十ぐらいかもしれない。どちらにせよ大人の女ではなさそうだ。


 どうするか。

 どうみても知り合いの類ではなさそうだ。

 新手の勧誘方法かもしれないし、ここはやはり居留守を使うべきだろう。なにより朝も早いし、非常識である。ガキの相手も面倒くさい。


 太郎は思考に結論をつけると、窓から離れることを実行に移そうとした。息を潜めたまま、踵を返そうと足を上げる——その時だ。シルエットが急に動き始めたのだった。ノック音は止み、幼い声も消えている。


 なんだ?、と思ったときには遅かった。

 んんしょよいしょ、などという掛け声が聞こえてきた。


 ハッ、とした。

 外には、青いポリバケツが置いてある。

 窓に備え付けられた格子の真下だ。来訪者は、その上に乗ろうとしているらしい。

 黒っぽいシルエットが色濃く変化し、すりガラスの向こうであぶなげに揺れては、なにか行動を起こしている。


 こいつ、窓をあけるつもりか——。


 太郎は急いでクレッセント錠を確認した。いつまでも抜けない癖のおかげで、錠は下がったままだった。


 手を伸ばす前に太郎の腕は硬直した。スルリ、と窓が開き始めてしまった。念入りに油を差していたおかげか、音さえたてなかった。


 果して窓の向こうには少女が居た。やはりポリバケツの上だ。太郎の視線が少女のそれとかち合った。


「あ」と来訪者は言った。「やっぱり居たんだァ」


 中途半端に開いた窓の向こうに、小さな顔があった。見ない顔だ。

 黒髪が肩の上を揺れている。どんぐりのように大きな目は、一心に太郎を見ていた。唇はアヒルのように尖がっているが、それは少女の感情を代弁しているだけのようだった。


 年齢を外見から判断しようとしたが、無駄だった。高校生にもみえたし小学生にもみえた。不思議な雰囲気を纏った少女である。


「ねェねェ、中に入れてよォ」

 

 少女は先ほどから格子の間に手を入れては、肩口で引っかかっている。

 どうやら格子の間から入ろうとしているらしいが、それは物理的に無理だった。


「お、お前、誰だよ」


 久しぶりに発声するせいか、ヘンに声がかすれていた。

 のどに何かが、からまっている。

 格子の間から伸びている小さな手が目前で動いているのも一因かもしれない。知らずのうちに身を反らしてさえいた。


「え? どういうこと?」


 少女は、なにを言っているのだ、という風に首を傾げた。

 だが、それも長くは続かなかった。心の中の猜疑心を一瞬で忘れてしまったかのように、表情を笑顔へと切り替えた。


「名前を言えばいいの?」

 少女は、まだ格子の間から入ろうともがいていた。

「つけてくれた名前、忘れちゃったの?」


「……は?」


 何を言ってるんだこいつ、と思いながらも、太郎は過度の抵抗を覚えなかった。

 少女にあどけなさを感じているからだろうか。来訪者は太郎に危険というものを感じさせなかった。


 俺には子供も居ないし結婚すらしていない、と太郎は平和な思考を維持した。誰かの子供の名付け親にもなってはいない。

 太郎はいつまで経っても、二の句を継げなかった。

 少女は異変に気づいたようだった。


「なまえ、忘れちゃったの……?」


 格子の間から伸びていた腕が、ピクン、と反応した。


「いや……」


 太郎は錯覚を覚えた。自分に非があるのではないか、と焦燥感にかられてしまう。


「なんつうか、アレだよ、アレ」

 太郎は口ごもってから、苦し紛れに言ってみせた。

「問題、つうか、なんだろうな——ああ、つまり、お前の名前はなんだろう、っていうクイズじゃねえのかな、多分。だから俺は考えているんだな、うん」


 言葉を口にしてから、何を言ってるんだ俺は、と後悔した。こんなんで納得するバカがどこに居る。


「クイズ? 問題?」

 うーん、と眉をしかめた少女は、ああ、と頷いた。

「よーするに、ナゾナゾかあ。ナゾナゾは楽しいよね!」


 ここに居た。馬鹿で助かった。

 あざけている訳ではない。ただ単純にそう思ってしまった。


「じゃあ、答える!」

 少女は、ふふん、と自慢げに腕を組んだ。

「モミジの名前はね、モミジだよ!」


「……え?」


 ——モミジ?

 聞きなれた響きだった。それゆえに、少女の口から出てきたことに、違和感を感じた。音の並びに、ざわめきを覚える。


「どおー?」

 少女は嬉しそうに胸を張った。

「正解? モミジ、ナゾナゾ得意なんだァ。でも、なんかおかしいね、このナゾナゾ。なにが可笑しいんだろうね? わからないや——あれ、それもナゾナゾかなァ? うーん、このナゾナゾはすっごい難しいねェ」


 少女は一人で喋り続けている。

 モミジ——と太郎は呟いた。


「ねェねェ」

 少女が言った。悩むのはやめたようだった。

「でも、最初の答えは合ってるでしょ? モミジの名前、モミジでしょ?」


 右から入った言葉は、途端に左へと抜けていった。

 太郎の頭には別の何かが蠢き始めている。妙な感覚を持ちながら、黙って少女を眺めてみた。

 まちがいなく、格子の向こう側には人が居る。少女だ。疲れ、寝不足、薬の飲みすぎによる幻覚ではない。なんたって、二つの小さな手が、黒い格子をガタガタとたしかに揺らしている。


 これまでの経緯を思い出した。少女は軽さを武器にポリバケツの上に載りはじめた。そして窓を開けた。格子の間から入ろうとしながら口にした名は『モミジ』だ。


 髪は黒く、目は大きい。まるで猫のようだが、猫そのものではない。姿形は人間だ。四肢は細いが、格子を抜けられるほどではない。


 それから——もう一つ。


 嫌でも目についてしまうのは少女の服装だった。古びた肩掛けバックが見えているが、それに負けじと服のほうも古臭い。

 色あせた青色のワンピースは、所々がほつれてさえいた。まるでどこかに捨ててあった服を着ているようだ。太郎の目には、無理やりに体裁だけを整えているように見えた。


 体裁だって?、とふいに太郎は思った。

 自分の思考に疑問を感じた。それは一体どういった体裁だ——。


「どうしたの?」


 少女はまた首を傾げた。黙りっぱなしの太郎を疑問視しているというよりも、クイズの不正解を問うているだけのようだ。


「……モミジ」と太郎は言った。

 かすれているはずの声が、妙にはっきりと耳に残った。


「なァに?」

 嬉しそうに応じた少女は、ポリバケツの上で器用に座り込んでいた。格子の間に腕をつっこむことなど最早頭に残っていないらしい。


「いや……入れよ」

 太郎は促した。

「今、ドアの鍵を開けるから……」


「そうだそうだ」

 少女は、今思い出した、という風に頷いた。

「早く入れてよー」


 ああ、とも、うん、ともつかない声を上げながら太郎はドアの前に立った。

 目の前に鍵がある。これを開ければ、モミジとやらが部屋に入ってくるだろう。

 小さな身体をドアの隙間に滑り込ませ、一声上げて部屋の奥へと進んでいく——太郎には、モミジの行動パターンが手に取るように解ってしまった。一連のイメージ映像が記憶をくすぐっている。


「……モミジ」


 呟きながら太郎は鍵を外した。かちゃん、と音がした。

 開錠音を耳に残しながら、ドアを開けた。案の定、隙間に身体を滑り込ませるように、モミジは玄関に入り込んできた。色あせた服やバックも、そして小さな身体だって幻覚ではなかった。


「わあ」


 モミジは一声上げてから、上がり框を踏んだ。

 靴を脱いだ様子はなかったが、太郎はなんの注意もしなかった。必要がなかったからだ。脱がなければならない靴など、端から身に着けていなかった。


 モミジ、と太郎は意味もなく言ってみた。


「ん?」


 モミジは振り向いた。部屋の奥に設置してあるベッドに座ろうとしているところだった。

 なにー?、と疑問を呈しながら、モミジはベッドに腰を下ろした。

 まるで、そこが自分の定位置だと主張しているかのようだった。

 太郎の胸は高鳴っていた。意味がないわけではない。きちんとした理由があった。記憶を掘り起こされていた。


 それは猫と過ごした時間だ。太郎の飼い猫であった、モミジ、という猫との思い出だ。

 モミジはよくベッドの上に寝ていた。馬鹿みたいに幸せそうな面をして、いつも太郎の寝床を奪っていた。


 そうだ、と太郎は懐古した。

 モミジはいつだって、ここが私の居場所だ、とでも言うようにして、ベットの上でぐっすりと寝ていたのだった。

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