第15話 リン⑧
やってしまった、と私は反省した。
ここまで馬鹿みたいな芝居を続けていたのに、どうでもいいことに動揺して、種を明かしてしまった。
彼の部屋を飛び出した後に、私は幾度となく振り返った。
一度はアパートの前まで戻りかけもした。が、彼はどこにもいなかった。おそらくは部屋の中で、猫の帰りを待っているだけなのだろう。
私は今、公園のベンチに座っていた。アパートに戻ろうと思えば、すぐに戻れる距離であるところが、私の情けなさを証明している。
「リン。あなた、女の敵ね」と私は呟いた。
無人の公園は閑散としていて虚しいだけだった。
この公園にも二人と一匹で——彼と私とリンで、よく散歩に来たものだ。
彼はリンのケースを持ち、私は彼の手を握っていた。
反対側のリンが、いったいどう思っていたのかなど知るよしもないが、私と彼の関係というのは『男と女の関係』というやつだった。
そんな仲だったのに――いま現在、彼は私の事を覚えていない。
男と女の関係だったことを……どころか、顔すら忘れられている。
赤の他人状態。
それは事故の後遺症によるものだった。
リンを動物病院へ連れて行く途中に、彼は交通事故にあった。
バイクと人との接触事故。
彼に非はなく、ただただ事故に巻き込まれたけ。
横からぶつかってきたバイクは彼の体を押し除けて、一人で安全に転倒した。
彼は当然、道路上にはじきとばされた。
同時にリンのケースを離してしまったのだ。
ケースは路上をすべり、さらに対向車線を走るこれもバイクにぶつかって、遠くに飛ばされたそうだ。
コンクリートの上に倒れながらも、彼は焦ったと思う。リンは囲われたまま身動きが出来ないからだ。
痛む身体を無視して、彼はリンを入れたケースを探した。
車の往来する車道の上に、それはあった。
カーリングのように、コンクリートの上を滑ったために、怪我をした彼にとってはすぐに駆けつけられる距離ではなく、道路上のために助けに行く人もいなかった。
明らかな危機に直面していることを彼は悟った。
結果からいえば彼の行動は間に合わなかった。
リンのケースは後続のトラックに轢かれた。当然、命の灯火は尽きた。
さらに、彼は彼で別の災難に見舞われた。
コンクリートに倒れたときの衝撃が、時間差で目眩を起こし、道路脇を走る自転車に接触。彼は足元から、崩れ落ちるようにして倒れた。
そのときに再び頭を打ってしまったようだ。それも強打である。
そうして——彼の記憶は消えたのだった。
医者は、二度の衝撃が原因でしょう、と言っていたが、私にはそうは思えなかった。
彼はきっとリンを失ったショックによってそうなったのだと思った。
そう考えるほうが納得できた。
なにせ、目覚めた彼は私のことを覚えていなかったのに。
リンを拾ったころの記憶は、胸に抱いていたのだから——。
彼は今、自分を大学生だと思い込んでいる。
でも現実には大学生ではない。現在の彼は社会人なのである。
それなのに彼は自分を大学生だと信じきっているし、会社で出会った私を覚えてはいなかった。
まだリンが生きていると信じているのだ。信じたいのだ。社会に出た後の記憶が残っていては都合が悪い。
彼の人生はいつも、四月一日から始まる。
医者から言わせると『一時的なものである可能性が高い』らしいが、私にはその一時でさえも長く感じられた。
私は彼の家族とふかい交流があった。
彼の両親に『時間をください』と頼み込み、了承を得たのは二週間も前のことだ。しかし、準備と度胸が揃ったのは、笑えることに三日前だった。
その決断はささいなことから生まれた。
時間を貰ってからのことだ。私は何日ものあいだ、アパート周辺をうろうろとしていた。
いざ決行、となると足の運びが鈍ってしまう毎日。そんな折、彼の住むアパートの大家にばったりと出会ってしまった。バツが悪い。
しかし、大家は顔に笑みをたたえて、こう言った。
「やあ、久しぶり——む。悩んでいる顔だ。けど、大丈夫そうだね。君は強いよ。アタシが保証しよう」
詳しい事情を知らずとも、私の肩を叩いて、励ましてくれた。
言葉と手の重みは、肩から全身へと染み渡っていくようだった。
それからだ。それから急に勇気が湧いてきて、私は行動を起こすことが出来た。それが三日前の彼との出会いに繋がった——。
彼の母にはずっと「会わないほうがいい」と忠告されてきた。それも頷けた。何度訪れても『はじめまして』だったのだ。
彼は記憶の中の記憶にしか頼っていないらしい。新たな因子である私が訪れても覚えることをしなかった。
自分を大学生だと思っている以外には、なんの障害もなく、彼の親族も彼の対応に悩んでいた。
だから私は、他の人間にはできないだろうことをやってみた。
自分をリンに結びつけたのだ。
結果は成功だった。馬鹿馬鹿しいほど真剣な、楽しい日々が始まった。夢の話を聞くまでは、上手くいくのではないか、とさえ考えていた。
しかし、私には耐え切れなかった。
私ではなく猫を見ている彼を、見ていられなかった。
愛してるよ、と言ってくれたのに、なぜだろう。愛情の度合いは、出会いの遅い早いに比例するのだろうか——彼が嵌めてくれた指輪を見るたびに、そんな思いは募った。
そして今日。その指輪まで返してくれといわれる始末だ。散々を通り越して、悲惨である。
「あーあ、新しい恋でもするか」
私は口に出して言ってみたが、すぐに涙がこぼれた。出来ないことを口にするもんじゃないな、と思った。全てに対しての意見だ。
結局、私は猫にも勝てない女だということだ。リンは女の敵で、私は敵に負けたのだ。もはや撤退するしか道はないのだろう。
しかしそれでも——それでも言葉は漏れ出てしまった。
「……リンじゃなくて、私を追いかけてきてよ」
独白は公園の中で消えた。外の世界は遠かった。
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