第14話 リン⑦
「——ねえ、起きて」
リンの声に、僕の意識は覚醒した。四日目ともなれば、彼女のエプロン姿に違和感を覚えることはない。
僕らは朝食の用意を始めた。今日はトーストにハムエッグだった。キャットフードが出てきたことは一度もなかった。
「昨日、うなされてなかったね」とリンは唐突に言った。
「え?」
僕は驚いた。
人間の姿になったリンと出会ってから、うなされるような夢を見た覚えなどない。それどころか、昨日まで一切の夢を見ていなかったように思われた。
「うなされていた事実を僕は知らなかった。第一、昨日は久しぶりに夢を見た気さえするんだけど」
夢を見ているとうなされず、夢を見ていないとうなされるのだろうか。僕はどれほどまでに現実が嫌いなのだろう。
リンは薄く笑った。
「昨日は、いい夢でも見たの? よかったら教えてよ」
「えっと……なんてことのない夢だよ。リンと歩いてる夢だったな。猫のケースを持って、今のリンと歩いてた」
「今のリン?」リンは少なからず驚いたようだった。「それって、人間の私ってこと?」
「うん」
「……へえ」
おかしな夢だね、とリンは笑った。
「二人と一匹じゃ、計算が合わないよ」
いや、と僕は思った。おかしくない、と感じていた。きっとそれは猫のリンと人のリンとを区別しはじめた証拠なのだ。
リンには大切な人が居る。僕ではない誰かだ。そんな思いが胸の奥底に渦巻いているのかもしれない。
リンは唐突に両手を合わせた。
「あ、そうそう。さっき電話があってね、お母様から」
「お母様? 僕の?」
「そうよ」
「電話?」
「そうよ」
「かかってきたの?」
「そうよ」
「でたの?」
「そうよ?」
「まずいなァ……」
何が不味いって、何が不味いのか解らないところがとても不味かった。
「母さん、なんて言ってた?」
「病院へ行くように伝えて、って言ってたわ」
「そう」
僕は嘆息した。どうも院内の雰囲気が好きになれない。
「どこか悪いの?」
リンのすまし顔は、気にしていない風を装っているようにみえた。
心配されているという事実に、ほんのわずかな喜びを覚えながら、僕は口を開く。
「いや、僕もよく分かってないんだ」
「分からない?」
「うん。色々な質問をされたり、たまに精密検査をしたりするんだけど、身体なんてどこも悪くないんだ」
僕はリンを安心させたかった。だから言った。
「身体はいたって正常だから、心配いらないよ」
「……そう」
リンは、うつむいた。何故だろう。何かに迷っているようにみえた。
僕は二の句を継ぐことを躊躇った。リンの姿には、どこか気圧されるものがあった。
二人して、黙々と朝食を食べきった。食後のコーヒーを僕が入れると、リンは小さな声で、ありがと、と言った。
会話が始まったのは、それからすぐのことだった。
「ねえ」
リンは突然、口を開いた。視線は下がったままだった。
「もう、やめようか」
「え? やめるって、何を?」
「四月バカの嘘」
「エイプリルフール?」
僕は記憶を確かめるように繰り返す。
「エイプリルフールは終わったよ?」
「でも、私の中のエイプリルフールは終わってないの」
「……どういうこと?」
「あのさ」
彼女は顔を上げた。出会った時に浮かべていた、真摯さに満ちた表情がそこにはあった。
「聞いて欲しいことがある」
僕は機械的に、なに?、と先を促した。
どうしたのだろうか。急に呼吸が苦しくなった。
笑えなくたっていいから、冗談を飛ばしてほしい。けれど、彼女は笑わない。僕にだってそれぐらい、わかる。
「私ね」
彼女は一語一語を丁寧に発音した。
「猫なんかじゃないよ。ただの人間だよ」
「……え?」
時間が止まったような気がした。
「それは……笑えない冗談だね」
「冗談なんて言ってないわ。笑わそうとも思ってない」
「じゃあ……つまり……」
僕は必死に口を動かしながら、頭の中を整理した。台風のあとの陸地のように、僕の心はぐちゃぐちゃだった。
「本当に……君はリンじゃないの?」
彼女は視線を逸らした。言葉は生まれない。
喉が渇いてくるほどの時間が経った頃——ようやく彼女はポツリと言葉を漏らした。
「ええ、違うわ」
ごくり、と喉が鳴った。純粋な驚きだけが、僕の思考を支配した。
「そう、なんだ……」
しかし、それも刹那のことだった。
別の感情はすぐに顔を出した。まずは恥ずかしさや情けなさ。
次いで、怒りだ。まったく笑えない。僕はリンが人の姿になった現実を、意外と真摯に受け止めていたらしい。
頭がクラクラとする。僕は大きく息を吸いこむと、辺りに散らばっていた感情を手に取った。そして、決めた。僕は怒りに全てを任せることにした。息を吐き出すと同時に発声する。
「そうなると、リンはどこに居るのかな。人間のアナタじゃなくて、猫のリンだ」
角の尖った僕の声に、彼女は下を向いた。
せいいっぱい、他人行儀をよそおった。彼女の表情は見えないが、身体が一回り、小さくなった気がした。
「答えてほしい。帰らないことを知っていたアナタなら、リンの居場所も知っているでしょう?」
彼女は喋らない。
「黙っているってことは、知っているってことだと判断していいんだね?」
彼女は顔を上げない。
「それに」
僕は彼女のポケットに視線を移した。
「指輪を持ってるってことは、それはリンから奪ったんだね。申し訳ないけど、返してくれな——」
「——これは私のモノよ!」
突然にリン——いや、正体不明の女性は叫んだ。
目が赤くなったと思ったら、すぐに大粒の涙がまなじりに浮かんだ。
僕は声を失った。女性は僕を睨みながら、何かに耐えるように、静かな涙を流しはじめた。
「わ、わたしはね」
嗚咽交じりの声が、僕の胸を締めあげた。
「名前は、サツキよ。あんたのリンじゃない! でもね、この指輪は私のものよ!」
「でもそれは……確かに僕がデザインしたものだ。一点ものなんだよ、それ。作ってもらったものなんだ」
「知ってるわよ、そんなこと……私が一番良く知ってるわよ!」
女性は鼻で笑おうとしたようだった。しかし、涙がそれを邪魔した。
「なぜならね、これは君が私にくれたからよ! 君が、私への愛情を形にしてくれたものだから! 君が、私に、愛してるって言って、嵌めてくれたのよ! 君の大好きな、猫のリンと、まったく同じモノを——それ以上のモノを、私の指に、君がはめてくれたんだから!!」
バンッ、と大きな音。
彼女は両手を机に叩きつけると、その勢いのまま立ち上がった。
萎れた花のように首をもたげていた。今日は帰るゴメンさようなら、と早口にまくし立てた彼女は、足早に玄関へ向かった。
それら全ての挙動を僕は見ているだけだった。訳もわからずに、サツキと名乗った女性の背中を眺めているだけだった。
リンはどこに居るのだろうか。彼女の言っていることは本当だろうか。僕は今どこへ向かっているのだろうか——右から左へと、まとまりのない思考が頭をすり抜けていった。
僕の瞳には、女性の背中が映り続けている。履物に手間取っているのだろうか。随分と長い間、上がり框に座っている。
ようやく立ち上がった時、彼女は無言のまま振り返った。涙は流れ続けていた。
僕は彼女の涙を見た。彼女は僕の何かを見た。
僕と彼女の視線が一瞬だけ交わった。
しかし彼女は、「ばいばい、またね」と言うと、ドアの向こうに消えてしまった。
僕は何も言えなかった。頭が混乱していた。それでも、分かったことが一つだけあった。
またね——そう言った彼女は、二度と僕の前には現れないだろう、ということだ。
でも、それ以外は分からない。
でも、それ以外も分かりたい。
でも、でも、でも、でも——僕の思考は停止した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます