第12話 リン⑤



 リンは三毛の猫だ。

 性別はメス。名の由来は、リング好きの『リン』である。

 実家に帰ったとき、妹にそう説明すると、「うわ。安易なネーミング」と馬鹿にされた。

 それは自分の遺伝子を馬鹿にしているんだぞ、と言おうとしたがやめた。僕も同じ舞台に上がってしまう。


「しかし、メスか」

 妹は言って、下品な笑みを浮かべた。

「それ、まさか彼女の代理生命体?」


「おいおい」

 僕は鼻で笑ってみせた。

「さすがにそこまで切羽つまってないさ」


「ふーん」

 妹は、意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「そりゃそうだよねェ」


「どういう意味だよ」

「べっつにー?」


 確実に母の遺伝子を引き継いでいる妹だった。

 ちなみに妹の名前はリンではない。父の中での妹は、女の子ではないのかもしれなかった。


「私、お兄ちゃんが女の人と歩いてるとこを、これまでの人生で何度か見たよ。お兄ちゃんも女に興味はあったんだね」

「当たり前だ。そりゃ生活上、歩くときだってあるさ」


「あ。その反応は振られたな?」

 妹は嬉しそうに手を叩いた。

「うるさい」

「あ。その反応は、振られてすらいないな? 彼氏とのデートをみてしまったか」

「……ふん」

「だから猫と一緒にいるのか」

「失恋なんて、昔の話。猫と一緒に居ることに、理由はない。拾っただけ」

 少しだけ、嘘をついていた。リンはいわば、失恋のはての産物といってもよい存在のはずだ。心の痛みを、リンを拾うことによって忘れようとしたのだ。

 僕にとってリンは、鋭い痛みを忘れるための鎮痛剤であり、辛い現実から逃れるための究極の癒し系現実逃避システムの一部である。

 簡単に言えば癒されているだけだが。いや、それ以上に猫にいいように使われている人間が現実を考えられる時間さえ与えられていないだけかもしれないが。


「ふうん? ……でも、猫と一緒にいる時間は圧倒的に多いんでしょ? 人間より」

「言い方がおかしいけど、そりゃ一緒に住んでるからね。それは仕方がない」

「愛だね」

「家族愛ではあるかもしれないけどね」

「ふーん、そっかそっか。ま、そういうことでいいや」


 妹は思わせぶりに笑った後、テレビに集中し始めた。もう僕のことなど頭にも入ってないに違いなかった。全く、と僕は思った。

 猫と恋愛なんぞ、出来るものか。


   ◇◇◇


 朝食を食べ終えると、リンは言った。

「ねえ、今日は何をする予定なの?」

「大学のほうは……まだまだ休みだね」

「……そう。じゃあ、遊べるのね?」

「遊ぶ意志があればだけどね」

「ふーん」


 リンは食後のコーヒーを口に運んでいた。猫舌であるはずなのに湯気の上がるそれをごくごくと飲んでいた。


「リンはさ。何がしたいんだろう」

 リンの目が妖しく光った。

「ナニがしたい……?」

 さかっていた。

「いや、言い方を変えよう。つまり、どのような目的があって人間の姿になっているのだろうか? っていうことなんだけどね」

「ああ……うん」


 確信を突く質問だったのかもしれない。リンはマグカップに視線を落とした後、ポケットから指輪を取り出した。手先で弄り始める。


「私は、さ」

 リンは呟くように言葉を紡ぎだした。

「前にも話したけど、好きな人が居たのよ。いや、まだ居るんだけどさ、その人」


「指輪をくれた人だよね。それって、前の飼い主?」

「飼い主っていうか、友達みたいな感じなのかな。色々とあったけど、お互いに信頼感みたいなものは生まれてた」


「でも」

 自分はいまからヒドイことを口にする、という自覚を僕は持っていた。

「捨てられちゃったんでしょ、リンは」


「……まあ、厳密に言えば捨てられたわけじゃないんだけどさ」

 指輪を弄っていたリンの手が、ピタリと止まった。

「アイツにも事情があったんだ」


 僕はやり場のない怒りを感じていた。

 なぜリンを捨てたのだ、と見知らぬ誰かを責めた。

 リンの言う事が本当だとして、たとえその人に事情があったのだとしても、割り切って考えることなど出来なかった。

 そして、そんな人でなしを今でさえ慕っているというリンにさえ、その感情は矛先を向けた。

 が、リンの浮かべている表情を——心がすりつぶされているかのような、つらそうな表情を見たとたん、僕の心はキュッと締め付けられるだけに終わった。


「じゃあリンは、その人に何かを伝えたくて、わざわざ人間になったの?」

「うん……まあ、多分そういうことだと思う」


「そっか」

 僕はコーヒーを一息に飲んだ。底に溜まっていた砂糖は甘くなかった。

「じゃあ、早くその人に会いに行かないとね」


「……うん」


 しおらしく頷いた人間のリンの姿に、何事にもクールであった猫の姿を重ねようとしたが、うまくいかなかった。

 人だとか、猫だとか、そういう話ではない。僕の知っているリンが、どこかへと消えてしまったみたいだった。


「あ、なら、名前もリンじゃないの? そっちの名前で呼ばれたほうがリンの為にもいいのかな」

 だから名前を呼んでも反応がなかったのか、と僕は一人で納得した。

「うん、あるよ。本当の名前。でも、まだいいや。その名前で呼ばれるときは、今じゃないから」

「……そうだね」


『今じゃない』ではなくて『貴方じゃない』の間違いだろうと口にしようとしたが、止めた。


 胸底をチクリと刺すものがあった。僕は猫相手に嫉妬しているのか?——なんて馬鹿げた話だろう。

 リンへの愛情とはまた少し違った感情が心に芽生えていた。

 それは嫉妬心? 独占欲? それとも自分だけが特別であったという自負心か――なんでもいい。それは今、壊れようとしていた。


 でも。

 僕は気が付かないフリをした。

 僕が一番得意な現実逃避はこう言う時に役立つのだろう。


「今日はさ。私、行きたいところがあるの。遠い場所ではあるけど、まだ朝も早いし、十分に遊べるわ」


 僕でいいなら付き合うよ――僕が言うと、リンは「ありがとう」と言って笑った。


 とても綺麗な笑みだった。

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