第11話 リン④

 十二時を過ぎれば、段々と魔法が解けていくわけではなかった。リンは翌朝も人間のままだった。


 昨夜を思い出す。とても大変だった。


 リンは、「一緒にお風呂にはいりましょうよ」だとか「寝るときはシャツ一枚で寝る主義なのよね」だとか「布団は一枚なんだから一緒に寝るのが常道よね」だとか言って僕を困らせた。


 一部を阻止し一部を黙認した僕は、夢を見ぬまま朝を迎えた。

 先に言ったとおり魔法は解けてはいなかったし、隣で寝息をたてているリンはおかしなことに服を着ていなかった。僕は見ない振りを三秒だけしてから、彼女を揺り起こした。


「朝ごはん、つくるわよ」


 起床後、リンはそう言ってエプロンを首にかけた。

 なぜ猫が朝食を? と思った僕だったが、黙っていた。

 キャットフードを用意していたら、ものすごい勢いで睨まれたので反論する余地がなかったのだ。人間になったからには人間として生きるつもりなのかもしれない。

 十分後に出来上がった上等な朝食は、三分で僕の胃の中に納まった。


「やっぱり男の子よね」とまぶしそうに僕を見つめていたリンだったが、おそらくは僕のほうが長生きである。


 少しおかしいような気がしたので、お姉さん系年下キャラなの?、と確認してみると、リンは、「は?」と言って僕を睨んだ。おそらくツンデレなのだと思う。


 昼になるとリンは、買い物に行きたい、とごね始めた。

 大人しく指輪で遊んでなさい、と言ったらまた睨まれた。デレる兆しは無かった。


「私はね」

 リンは凄んだ。

「この指輪は好きだけど、君と遊びたいときもあるわけ。わかる?」


 わからないと暴れるわ、と言外に語っていた。僕は大人しく靴を履いた。

 ウィンドウショッピングなどという人間技を覚えたリンは、買いもしない商品を眺めては、意見を求めた。まるで母親にとってのバーゲン期間中みたいで少し笑えたが、下着売り場に行きましょう、という言葉に笑えなくなった。


 結局、彼女は何も買わずに、「さすがに疲れてきたね」と帰宅を促した。

 どうやら満足だったらしい。いろいろあったが、結果よければなんとやらだ。


 昨日と変わらぬ月が空に浮かんでいる。人間になったリンと過ごす、二日目の夜がきた。

 僕らは裏庭へと続く窓を開け、そこに腰掛けていた。


「今日は楽しかった」

 リンは言った。

 何か、どこか、遠い場所を見ているような目をしていた。

「どう? 君も楽しかった?」

「そうだね。楽しいかつまらないかでいえば、とっても楽しかったよ」

 彼女は、ニヤリ、と笑った。

「君って、ひねくれた正直者なのね」


 僕は無言のまま、肩をすくめた。

 それから振り返り、壁かけ時計を見た。黒枠のチープなプラスチック製の時計が、律儀に時間を刻んでいた。


 針は、二三時五八分を指している。今日が終わろうとしていた。ちなみに明日は何月何日の何曜日だっけ、と考えた。すぐに思い出せないのは、休みボケのせいだろう。しばらく考えて、そうだ、と思い出した。リンが横にいて、つまり昨日がエイプリルフールなのだから、今日は翌日の、二日ということになるので、ようするに明日は三日だ。


 うんうん、と一人で納得していると、「……どうしたの?」とリンが僕の顔を覗き込んできた。

 視界いっぱいに映る、目やら鼻やら口やらが、僕の思考回路を初期化した。

 何かを話さねば、と考えたとき、ふっと頭に浮かんだ質問があった。


「そういえば、リンはさ」

 僕は切り出した。つねづね気になっていた一つの疑問を、いまのうちに解決しておこうと思った。

「なんで指輪が好きなの?」


「それは……」

 リンは初めて見せる表情を浮かべた。ポケットから指輪を取り出すと、思わせぶりに言った。

「聞きたいの?」


「言いたくないなら聞きたくない」


「君らしいね」

 リンは薄く笑った。とても悲しそうな笑みだった。

「あのね、私、好きな人が居たの」


「好きな人って、えっと、捨てられる前ってこと? 僕に拾われる前?」


「そうね。そう言えるわね」

 リンは何度か頷いてみせた。指先で指輪をいじっている。

「それで、その人は私に指輪をくれたの。いっぱいくれたものがあったけど、その中でも指輪が一番嬉しかったのよ。だから私はこの指輪が好きなの。とても大切な人だったからね」


「そうなんだ」

 僕は素直に感心した。それ以上を聞いてしまうと、リンがリンでなくなってしまうような気がして僕は怖くなった。

「教えてくれてありがとう」


「いいえ」

 リンは首を振った。ポケットに指輪をしまう。

「君には教えておきたかったから、ちょうど良かった」

「なら良かった」

「うん良かった」

 リンは、ニヤリ、と笑った。

「もっと良い事もあるんだけど、それも教えようか?」

「よし寝よう」

「え? いきなりそこまで? ちょっと心の準備が——」

「——よし眠るぞ。一人で眠るぞ」


 僕は布団を用意して、リンに電気を消すように命じた。消したら見えなくなるわよ?、というリンを無視するのは大変だった。

 こうして二日目の夜は終わった。僕の心はなんだかざわついていて、しばらく落ち着きそうになかったが――何かの夢を見て、それは消えた。


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