第10話 リン③
リン、という名前がついた翌々日に、僕は指輪を買った。
安物のリングで、ダイヤもついていなかった。
だがリンははしゃいだ。これ以上ないくらいに指輪を求めた。一日中手で殴ったり、口で咥えたりを繰り返していた。前世でなにかあったんじゃないのか、と思わせるくらい指輪に固執していた。
それからというもの、僕はリンに指輪を与え続けた。
安い銀色のリングが多かったが、時として一点モノを買ったりもした。
出費はでかかったが、それが僕なりの愛情表現だった。リンもそれが分かっているのか、お気に入りの指輪は、一点ものを中心としていた。
裏庭にたびたび訪れる大家さんは、僕らを見るとこう言った。
「君らはいっつも一緒に居るねェ。見ているだけで考えさせられるよ。ちなみに女性に興味はないの?」
「あります」
「そか。まあ守備範囲が広いのは悪くないよね」
「多分それは悪いです」
変な茶化し方だったが、悪い気はしなかった。
だがリンは違った。
険しい目をしながら、大家さんに向かって喉で鳴いていた。僕との関係に意義を申し立てているのだろう。
大家さんは肩を竦めた。リンを見てから僕を見る。
「どうやらお呼びじゃないようだ」
苦笑する僕。
主である大家さんですら、猫の女王には負けるらしい。
◇◇◇
女性は夜になるまで僕の部屋に居た。何故かコーヒー豆の場所やカップの位置を知っていた。不思議に思って聞くと、彼女は「あたりまえじゃない」と憤慨した。
「だって私はここに住んでるのよ」
確かに、と僕は思った。道理は通っていた。
夕陽が地平線に沈み、月が昇った。夜になったと判断しただろう彼女は口を開いた。
「ねえ、これで信じたでしょう?」
「うーん」
僕は腕を組んだ。頭が痛くなってきた。
ずきずきと続く痛みは、しばらく治まらなかった。
「ねえ、顔色、悪いわよ。大丈夫?」
女性は眉をひそめている。単純に、困った顔も綺麗だな、と思ってしまった。
そこで、改めて僕はリンと名乗る女性を観察してみた。
背は僕と同じくらいだから百六十半ばといったところだろう。玄関には彼女の履いていた女性物の靴が置いてある。
髪は長く、胸元まで伸びていた。色は黒だ。
眉は綺麗で、少しだけつりあがった切れ長の目を飾っている。付随している睫も長い。
下は黒のスカート。
中が見えそうだったので視線を逃がそうとしたが、そこには豊満な胸元が待ち構えていた。
タイトなTシャツの中にはうっすらと黒い線まで見えていて、何故こんなに魅力的になってしまったのだろうと思わせるぐらい、彼女は完璧な女性だった。
「あれ?」
しかし僕はその時に気がついた。
「例えば貴女がリンだとしますけど」
「例えるまでもなくリンだけどね」
「いや、まあそれでもですが……いったいぜんたい、その服はどうしたんですか?」
「服?」
女性は襟を引張った。中の黒がチラリと見えた。
「服は貰ったの」
「え? だれに?」
視線を逸らしながら答える僕を見て、彼女はイヤらしい笑みを浮かべた。
「それが誰かは重要じゃないと思うんだけど……ふーん、そっかァ」
「な、なんですか」
「いや、べつにィ」
女性は言って、座布団の上で足を組みなおした。
下も黒だった。セットである。素晴らしかった。いやいや何を考えてるんだ僕は、と自身を叱咤。
「わざとならやめてください……」
「んん? なにをかなァ?」
わざとらしく女性は言って、熱いなァ、とTシャツの胸元を引張った。僕は話題を戻した。
「……で、リンが帰って来ないんですが、貴女、本当にリンなんですか」
「だから、さっきからそう言ってるじゃない」
「まあ、確かにその性格はリンっぽいですが」
「なにそれ」
女性の目が鋭くなった。
「どういう意味か教えて欲しいわ」
僕は、父の気持ちが少しだけわかった。
女は怖い、と言っていた。女が怖い、だったかもしれない。記憶はあやふやだった。実の父親が不幸すぎて、まともに聴いていられなかったのだと思う。
「あ、そうだ。証拠ならもう一つあるわ」
「証拠?」
「そうよ。ほら」
女性はスカートのポケットから指輪を取り出した。銀色に光る、見覚えのある指輪だった。
「あ、それ。僕がデザインした指輪だ」
「そうそう。もちろん見覚えあるでしょう?」
確かに見覚えのある指輪だった。たまにはいいものをプレゼントしよう——そう考えた末に、デザインまで僕が考えた一点モノの指輪である。
「なんてことだ、びっくりした」
僕は思った。思考が言葉になるくらい驚いていた。
「まさか、猫が人間になる日がくるなんて……」
「ふふん」
女性は——いや、リンは不敵な笑みを浮かべた。
「だから言ったじゃない。人間、諦めが肝心なのよ。わかる?」
猫に諭される僕だった。
「わかるけどさ、いや、しかし信じられないな」
「でもほら、それにさ」
リンは言って、時計を指差した。
「もうエイプリルフールは終わったんじゃない?」
その通りだった。時の針は〇時八分をさしていた。嘘は終わらなければならなかった。
僕は信じることにした。リンが帰って来ないのも頷ける。
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