第9話 リン②

 僕は大学生だ。猫を飼っている。

 種類は三毛で、名前はリンだ。

 何に対してもクールな彼女は、僕の生活に深く食い込んでいた。


 部屋に帰れば猫の餌を用意。

 トイレの砂は定期的に変えなければならないし、病気にかかれば医者につれていかなくてはならない。

 大学のレポート用紙の上で暴れられれば徹夜が確定したし、帰ってこないリンを講義を休んでまで探しにでたりもした。


 僕の住むアパートはおんぼろだ。汚いというわけではなく年代モノという意味である。

 アパートにはなかなかに広い裏庭が併設されていた。そこは猫の楽園だった。


 何故かと言えば、アパートの住人が、猫を拾ってきては裏庭に放していたからだった。

 野放しというわけではなく、何故か猫の数分の餌入れがあったし、トイレや遊び道具まであった。

 病院につれていき、予防接種などを受けさせているとの話もきいた。至れり尽くせりだった。どうやら大家も猫好きらしいのだが、居住規約には記されていなかった。だから僕は僕の意志でリンを拾ったことになる。


   ◇◇◇


 四月の最初の日だった。

 外は暖かく、天気も良かった。そんな日に、僕はちょっとした事件にみまわれた。


 僕はリンを探していた。

 餌の時間になっても部屋に戻ってこないからだった。

 きっと裏庭で猫どもをひきつれているのだろうと僕は思った。彼女はクールであり、度胸もあったので、庭の主に近い存在になっていたのだった。


 僕は裏庭に続く窓を開けた。

 敷居と鴨居の高さは充分にあるので、履物を用意しておけばいつでも裏庭に出ることができる。僕はサンダルをつっかけて外へ出た。


 とりあえず沢山の猫は居た。

 誰があげたのかは知らないが餌を食べていた。僕はざっとそれらを見回した。だが、見慣れた柄の三毛猫は居なかった。どうやら見当はずれだったらしい。


 しかし——リンはいなかったが見慣れぬものは居た。

 予想外な視界を得た僕の動きは、わずかにだが止まった。衝動に近いなにかを感じた。


 見慣れぬ存在とは、一人の女性だった。

 黒く真っ直ぐな髪が、太陽に照らされて、キラキラと輝いていた。

 彼女は僕を見てから、にっ、と笑った。とても綺麗な笑みだった。周りに猫をはべらせている様は、猫の女王様みたいだった。


 住人かな、と考えたが、見たことのない顔だった。

 新規入居者はいなかったように思う。大家さんでもなかった。となれば、残る可能性は来客者ぐらいしか残っていない。


 まあいいか、と僕は考えた。

 誰の客だろうが僕には関係がなかった。

 今はとにかくリンを探さなければならない。彼女は自分の意志で返ってこないくせに、帰宅時に腹が減っているとキレるのだ。

 ふーふー唸りながら僕を責める。完全な逆ギレだ。キレる若者ではないだろうか。


 ともかく僕は会釈だけをして、立ち去ろうと思った。

 頭を下げてから踵を返す。しかし彼女が僕を留めた。


「に……どうも」

 彼女は言って手を上げた。何かを言いかけていたがやめたようだった。通りのいい綺麗な声だからそれが良くわかった。

「私の事、わかるかな?」


 女性は、小首を傾げて尋ねている。

 周りを見ても、人間は僕だけのようだ。


「……僕にきいてますか?」


「他に誰が居るのよ」

 彼女は眉をしかめた。周りには猫しかいなかった。

「君にきいてるに決まってるでしょ。猫に言葉は通じないんだから」


「まあ……そうですね」


 まさか、彼女が僕の知り合いだったとは驚きだった。

 来客予定は皆無である。だが一応、問われたからには彼女の顔をよく見てみることにした。


「ほら、見覚えない?」


 彼女は僕を急きたてた。

 うーん、と僕は心中で首を捻った。なんとなくだが——僕の心の中に引っかかるものがあった。どこかで見たことがある気はした。当然、見たことがないような気もした。


「よく分かりません」

 僕は白状した。

「申し訳ありませんが、どこかでお会いしましたっけ」


「そっかァ」

 妙に悲しそうな色を女性は顔に浮かべた。

「私、君とずっと一緒に居たのに……君は覚えてないんだね」


 ずっと?——どういう意味だろうか。


「あの。失礼ですけど、お名前は?」


 言いながら、僕は歩を進めた。

 もっと近くで見てみれば思い出すかもしれない、と思った。


「……名前、ね」

 沈んでいた表情を女性は一転させた後、にィ、と唇を吊り上げて笑った。

「リンっていうの」


「へえ」

 僕は感嘆した。思わぬ共通項に、歩みが止まる。

「僕の飼っている猫もリンって言うんですよ」


「なに言ってるのよ」

 女性は憤慨したようだった。

「あなたの飼っている猫のリンが、この私なのよ」


 リン?、と僕は思った。

 それからすぐに、数字の羅列が頭に浮かんだ。

 ――0401。

 なるほど。


「そういえば今日はエイプリルフールでしたね」

「うーん……嘘をついているつもりはないんだけど」


「まさか」

 僕は首を振った。信じられるわけがなかった。

 これは僕の問題ではなくて、地球上の誰に聞いても、同じことを言うだろうと思う。

「大体、なぜリンが人間になるんですか」


「そりゃ、大事なことが伝わらないもの」

 女性は言って、口をアヒルのように尖らせた。

「猫は喋れない。でも人は喋れるでしょ?」


「確かに」

 納得してしまった。


「じゃあ信じてくれるの?」

 女性は嬉しそうに笑った。何度見ても、綺麗な笑みだった。

「私、リンよ。だってそんな感じしない? リンが人間になったら、こんな感じになると思わない?」


 確かに、と再び僕は思った。

 身体を纏うクールさという点は似ていた。

 表情はよく動く女性だったが、仕草の一つ一つが流麗だった。とても自然なドライさを彼女は持っていた。


 三毛だったから黒髪なのもまあまあ頷けた。女王然とした雰囲気も一致する。 そしてどこかで見たことのある顔——それはつまり、リンに似ているということなのだろうか。


 黙る僕をどう思ったのか、女性は「じゃあさ」と提案した。


「夜まで待ってみましょうよ。それでリンが帰ってこなかったら、信じられるでしょう」


 確かに、と僕は再三考えさせられた。

 納得の大安売りだった。


「わかりました」

 僕はしぶしぶとうなずいた。

 が、どうせ嘘だろうとも思っていた。


 女性は一瞬、不安げな顔をチラつかせた。

 猜疑心が僕の顔に滲み出ていたのかもしれない。でも仕方がないだろう。猫が人間になど、なるわけがないのだ。


 彼女はちらちらと僕の顔を窺い続けている。

 黙って観察していると、彼女は僕の胸辺りを見てから何かを決心したようだった。次いで、僕の視線を真正面から受け止めた。


「に……」

 彼女の口がたどたどしく開いた。

「にゃあ……」


 猫であることを信じさせるための。後押しの台詞のつもりなのかもしれない。

 彼女は、猫だから鳴くのは当たり前だ、とでも言いたげな顔で僕を見つめた。

 急速に顔を赤に染め上げてはいたが、目だけは逸らさなかった。

 胡散臭さと真摯さが渾然一体となっていて、僕の胸はかきみだされた。


 しかし、結果から言えば僕は信じざるを得なくなったのだ。

 月が昇ってもリンは帰ってこなかったからだ。

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