第8話 リン①

 大学生の僕は、猫を拾った。

 ひそかに恋心を抱いていた先輩に、男が居たと知れた、その日である。

 この世に生をうけてから、十数年。 周回遅れでやってきた、いまさらながらの、初恋相手のはずだった。

 僕にとっての大和撫子――そんな彼女のきな臭い噂が流れてきたとき、僕は耳をうたがった。


『金持ちの彼氏がいるらしい。それもなんだか犯罪まがいの行為に手を染めてる危ない感じのやつ』


 なんということだろうか——先輩は、僕の想像していたような純粋無垢で清廉潔白な女性ではなかったようだ。


 芽吹くことすら知らぬ初恋が、散った瞬間だった。

 人間とは勝手な生き物だ。勝手に信じておいて、勝手に裏切られたと考え、勝手に落ち込んでいる。勝手勝手のオンパレード。


 それでも僕は生きなければならない。

 一人で自棄になって帰宅していると、雑居ビルの間から、子猫がこちらをジッと観察していることに気がついた。


 僕は近づき、抱き上げた。逃げなかったのだから、猫も本望なのだと思う。なんだか汚らしいし、首輪もしていないので、野良猫と認定させていただいた。


 僕は、考えた。

 あげく、連れてかえることにした。

 人間を信じられぬなら、この際、動物を心のよりどころにしようと決めた。

 僕は猫を見るたび、淡い色で描かれた、初恋相手の端整な顔を思い出すことだろう。

 それは失恋の痛みと共にではなく、猫との新生活の発端として——我ながら、随分とひねくれていると思ったが、それも人生である。

 しょうがない。あとはもう、失恋したからお前と出会えたんだぞ、といえるぐらい、猫と仲良くなるしかない。


 拾った猫は、三毛だった。

 オスだったら素晴らしいなあ、と考えたが、案の定メスだった。

 名前は『キャロライン』か『アンジェリカ』にしようと思った。

 しかし名前を呼んでも三毛猫は反応しなかった。『アリス』がいいのかな、と思ったけれどそれも駄目だった。

 じゃあもう無いや、と僕は考えて、名づけを延期することにした。三毛猫はどうでもよさそうだった。


 猫は数日間、名前を持たなかった。基本的に冷めた猫らしい。色んな名前を呼ぼうが餌をやろうが、目立った反応はしなかった。

 僕は一人暮らしをしていたが、月に一度は実家に帰った。


 その日も僕は実家に帰った。

 猫も一緒に連れて行った。動物を飼う習慣がなかった我が家は大いに荒れた。

 母ははしゃぎ、父は慄いた。ばあちゃんは何故か拝んだし、じいちゃんは十年前に死んでいたので反応はなかった。


 そんな夜のことだった。

 母が、この前のセールのときに買ったのよ、と言って指輪を僕に見せてきた。

 小さなダイヤが散りばめられている指輪だった。僕の前にそれを置いて、どお? と聞いた。僕が、うんいいね、と言うと反応が気に入らなかったのか、三毛猫の前にそれを置いた。

 父が寂しそうに母を見ていたが、母は父を相手にしていなかった。味気ない答えが返ってくることなどとうの昔にわかっているからだ。


 母は言葉の解らない猫に、どお? いいでしょ?、と聞いた。父へのあてつけだ。

 その時だった。

 三毛猫が初めて明確な反応を示した。

 しかし、それは反応というよりも逃亡に近かった。猫は母の指輪を加えて家中を逃げまくったのだ。どうやら指輪が好きらしい。

 一瞬で我が家は戦場となった。

 バーゲン品の争奪戦が始まったのだ。


 数分後。


「女の敵ね」

 息も絶え絶えに母は言った。手にはしっとりとしてしまった指輪があった。「それ、全然大人しくないじゃない。弱々しい野良猫? とんでもない。野生のパワーを感じるわ」


「ただ単に指輪が好きなだけじゃないのか?」

 父は言った。発言できることが嬉しそうだったので、僕は横槍を入れずに黙っていた。

「試しに他の物を見せてみようじゃないか」


 父は根拠のない確信を抱きながら、母のブレスレットを持ってきた。ダイヤがついているように見えたが、それはイミテーションだった。


「この野郎、私の財産を」


 母は噛み付いたが、先の展開も気になったらしい。

 黙って、それが猫の目の前に置かれるのを見ていた。

 三毛猫は微動だにしなかった。安物かつ偽物だ、とわかっている風でもなかった。単純に、興味がないようである。


「やっぱり、指輪だろう」

 父は隠し持っていた、別の指輪を置いた。

 母のものだ。あきらかな安物であり、石さえついていなかった。確信した口調で、父は言う。

「指輪なら安物でも、反応するに違いない」


 バッカやろう、と母が叫ぶのと同時に、三毛猫は指輪を咥えて走りはじめた。


「安物だろプレゼントすりゃイイじゃないか」と父が粋な発言をすると、母は「それはお前が学生時代に初めてプレゼントしてくれた思い出の品だよ!」と返し、父の顔は一瞬で真っ青になった。

 父の中の青春は社会の黒色に塗りつぶされてしまったのかもしれない。


 荒れに荒れた、十数分間だった。


 母の髪は乱れ、父は慄いた。ばあちゃんはまた拝みだして、じいちゃんはそれでも生き返らなかった。


 一通りの騒動が治まると、ボサボサになってしまった髪を撫で付けながら、母はこう提案した。


「そいつの名前、リングでいいじゃない。指輪に対する執念が恐ろしいわ」


「リングってださいなァ」

 反論したのは父だ。

「リングじゃなくてリンがいいよ。俺、女の子が生まれたらそうつけるつもりだったんだ」


 父のどうでもいいカミングアウトに、母がキレた。

 私は男の子が生まれてくれて嬉しいわよ、と言っていたが僕にはどうでもよかった。

 部活から帰ってきていないだけで、我が家には妹であるところの女児がきちんといるからだった。ちなみに名前はリンではない。


 僕は三毛猫の名前を脳内で反芻しはじめた。

 リン、リン、リン、リン——指輪好きのリン。

 なかなかいいじゃないか、と僕は思った。

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