第6話 ミズミEND
空のマグカップに別れを告げてから、どれほどの季節を過ごしただろうか。
人生は短く、長かった。わたしの身体は癌に冒されきっていた。
数年前、悪性の腫瘍が見つかった。時は既に遅かった。それは切除できない部分にまで癒着していたのだった。
度重なる治療は、とうとうわたしの身体に時間を取り戻すことができなかった。
死に際は一人ぼっちらしい。
最愛の人を亡くしてから幾度か恋をしてみたものの、結局最後には、彼らと重ね合わせてしまっていた。そんなことで上手くいくはずはない。
生活のための仕事はつまらなかった。彼との日々に比べれば、ごみ箱に捨てるべき時間だ。探偵業時代の帳簿はいつだって火の車だったが、火が身近にあるぶん、心はずいぶんと暖かいものだった。
酒の席で過去をチラリと話してしまったとき、『男なんて皆同じだよ違うのは名前だけ』と鼻で笑った知人が居た。
反射的に反論し、なおも食い下がる知人にイラつき、最終的には水をかけてしまったことがある。
あれは完全にわたしが悪かった。幾たび、思い返しても、本当に申し訳ない気持ちになる。それでも、不思議と後悔は生まれない。男はみな同じではないし、猫でさえそれは同じだからだ。
そういえば、とわたしは思った。
猫のミズミは彼の名前を知っていただろうか。
文字はさすがに読めないだろうから、語感で判断するしかない。となると、わたしが彼の名を呼んでいたかどうかが問題だった。
思い出そうとしたが、無理だった。
記憶の中でのわたしは、妙にそわそわとしていた。名前を呼ぶのも、呼ばれるのもなんだか気恥ずかしかった。あれが恋というものに違いないと思った。わたしは万年、恋をし続けていたのだ。
互いの食い違いを均す厳しさから逃げ、だからといって、心が休まらないわけではなかった。猫のように、つかずはなれずの距離から見ていた。
クロ、と呟きながらミズミを撫でている彼を、ただただ見ているだけで満足だった。
しかしそうなると——結局、あの夜に呼んだ名前が彼への最後の言葉だったということになり、そしてわたしの恋はそこで終わったことになる。
よって、わたしはミズミの前で彼の名を呼んだことはないのだろう。いつも『ねえ』だとか『あなた』だとか『君』だとかを使っていたのだ。今考えると、恥ずかしいほどに。
そうかー、とわたしは感慨に耽った。
心に鈍痛が走るも、涙は頬を流れない。
ミズミは、彼の名前を知らずに死んでいったのだ。
彼も、ミズミを最後までクロと呼び続けた。滑稽な関係である。
間に挟まれたミズミは迷惑だっただろうか。イヤではなかったはずだと信じている。
不思議なことに、時折、どこからか猫の鳴き声が聞こえることがある。
辺りを見回してみても、猫は見えないのに声だけがした。
人に話しても、どこか哀れなものを見る目を向けられる。どうやら薬による幻聴だと思われているらしい。
だが、私はそうは思わない。
きっとミズミが側に居るんだ、と考えた。
今の今まで一人でも生きてこられたのは、ひとえに彼女のおかげなのだろう。
ひだまりに身を寄せるように、わたしの人生はじんわりと暖かった気がするのだ。
「ねえ、ミズミ。いるの?」
わたしは虚空に向けて語りかけた――ねえ、ミズミ。わたしの代わりに彼の名前を呼んであげてね。探すときはね、名前を呼ぶものなんだよ。
「それで、彼の名前はね——」
唇が彼の名をなぞった。
わたしは彼の顔を思い浮かべた。ミズミを抱いた彼が笑っていた。とても優しい笑みだった。
わたし達はとても良く似ていた。わたしとミズミは言うまでもないし、彼と私も同様だが、実は彼とミズミも当てはまる。
なぜならば、とわたしは胸中で言葉をころがして、一人と一匹で笑った。
なぜならば彼の顔は猫にそっくりなのだった。
彼自身、気づいていなかっただろうが、わたしは最初から気づいていた。加えて、わたしは猫を拾わずにはいられない性分なのである。
「そっくりだよね?」とわたしは確認するように呟いた。
「あなたもそう思うでしょ、ミズミ」
遠くから猫の鳴き声が聞こえた。
きっとミズミに違いない。
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