第5話 ミズミ④
わたしの目の前で、彼は轢かれた。
冬の夜だった。大粒の雪が降っていた。
わたしはミズミを探していた。そして彼は、わたしを探していた。
互いに探し相手を見つけることは出来たが、しかし彼は死んでしまった。ミズミもそれは同様だった。
あの夜、彼はわたしの名を必死に呼んでいた。今にも泣き出しそうなほど、動揺しているように見えた。
彼が残した表情はよく覚えている。
安堵を顔いっぱいに浮かべて、横断歩道を渡ろうとしていた。
人生がそこで終わることなど、予期していなかったはずだ。
数秒後に、彼は走行中の車に、はねられた。救急車は命を乗せて雪の中をゆっくりと走り、そして病院にたどり着く頃には、彼の心臓は停止していた。
打ち所が悪かったのです、と医者はそっけなく言った。
わたしの声が届いていれば——そうすれば、彼は死ななかったのだろうか。
そうすれば、彼は信号に従っていたのだろうか。
信号の色を示す言葉が、彼に届いていたのなら――こんなことにはならなかったのだろうか。
そう——信号だ。
赤と青の歩行者用信号だ。
彼が渡ろうとした時、信号の色は赤だった。青色ではなかった。止まらねばならぬ時間に、彼は動いていたのだ。
なぜ動いたのか。その原因は幾つかに絞られる。
一、信号自体に気が付かなかったから。
二、信号の色など無視したから。
三、信号の色が分からなかったから
強い動揺のせいもあったのだろう。
雪で視界が悪かったことも理由に数えられる。わたしを見つけられた嬉しさもあったに違いない。しかし、それらは大本の原因ではない。
この世界には『色覚異常』という、目の特性の一つを表す言葉がある。
色の認識に関する特性だ。彼はそれに該当していた。だからきっと、あせる気持ちと、大雪のせいで、信号を考慮しなかった。
調べてみて分かったことがある。
その特性には幾つかの状態があるらしい。
赤と青、緑の判別が難しい場合や、緑と赤、紫の判別が難しい場合。また、明るいか暗いか、という区別のみ可能な状態の、計三つ。
彼は最後の項目に分類されるのだと思う。世界は白黒テレビのようだったのではないか——しかし、今となっては分からない。彼はもう話せないし、同じ状態にならない限り、理解もできない。
彼の特性に気が付いたのは、とある夜のことだった。
常夜灯が点在しているだけの薄暗い道を、わたし達は歩いていた。
その折に彼が、珍しく私を褒めた。
「君の髪は綺麗だね」
「え? そう?」
「ああ。不思議な黒髪だ」
「え?」
わたしは驚いた。
――黒髪?
――この髪の色が、黒?
当然、一般的な反応ではない。
反応を見た彼はすぐに、しまった、という顔をした。きっと経験則から、失敗を悟ったのだ。
わたしも瞬間的に、いけない、と悟った。彼が必死に隠していた何かを見つけてしまった。
だが、飛び出た言葉を拾うには、互いに遅すぎるタイミングだった。
彼は気まずそうに、「いや……すまない。軽い冗談だ——」と言った。
誤魔化すには厳しい雰囲気だった。
彼の瞳の奥に、迷いの色が浮かんでいた。自分の発言を過ちとして認めることに、何か、強い抵抗を覚えているようだった。
「そう? まあ、仕方ないよね。わたしの黒髪って、特別だから」
わたしはすぐに微笑んだ。喋る暇を与えなかった。
彼は目を丸くした。わたしは無言のまま微笑み続けた。二人の視線は絡み合い、拮抗し、やがて決着のつかぬまま引き分けた。
事実、わたしの髪は黒ではなかった。
色素がとても薄かった。生まれつきのクルミ色なのだ。
それでもわたしは言葉を続けた。髪を褒められたのは久しぶりだから嬉しい、と。
しばらくすると、彼はとても嬉しそうに、「喜んでもらえて良かった」と言った。お互い、心から笑っていたように思う。
それからの毎日は楽しかった。
わたしの色素の薄い髪は幸せを運んできた例がなかった。小学校時代には、髪を染めていると勘違いされ、校風の厳しい私立高校では、十二分の洗礼を受けたりもした。わたしの髪は異物感を他人に植えつけるようだった。
悔しかった。他人の価値観に嫌悪感を覚えた。負けたくなかった。わたしは自分を信じたかった。
彼とわたしは似たもの同士だったのだと思う。
『自分の世界』という点において、妥協をしたくなかった。彼は、だからわたしの本当の髪色を訊ねることが出来なかった。彼にとっての髪は黒色で有り続けた。
猫のミズミにいたっても、それは変わらない。
彼はわたしの居ない場所で、ミズミを「クロ」と呼んでいた。
恥ずかしそうに猫の名を口にしていた。わたしには、間違いじゃないよな、という確認に聞こえていた。が、ミズミは薄茶色の猫だった。わたしと同じ、イチョウ色の毛なのだった。
彼の世界で、ミズミは黒猫だったのだ。
もちろん訂正などできるわけがなかった。
あの夜の否定は、今の関係を壊す。
色に関する彼の世界は孤独であり、それはわたしの髪も同じである。
そして全ての人間の心の角には、大小の差はあるものの、唯一無二の孤独が巣くっているとわたしは信じていたからだ。
わたしたちが特性について話し合ったことはない。それは絶対に共有してはならない情報だった。
何故って? ――それが、わたしたちの繋がりそのものだったと、わたしは信じていたから。
きっと彼もそう思っていたに違いない。
わたしたちは、違いの「特別」を認め合った仲である。
わたしの世界では茶であるものを、
彼の世界では黒と認める。
それがわたしたちの関係だ。
猫のミズミは彼の死後、雪解けの中、ビルに設置された室外機の影から見つかった。
眠るように死んでいた。
わたしは涙が止まらなかった。
ミズミは既に死期が近かったのだ。
彼はそれを知っていた。何事も茶化して安寧を手に入れようとするのは、彼の悪い癖である。
本当かどうかなど、猫が教えてくれないから知らないが――死期を悟った猫は、痛みから逃れるように、人目を避けるのだという話があるらしい。
それが、死に場所を探すという行為なのだと、どこかで聞いたことがあった。
わたしはそれを暴こうとしたから、罰が下ったのだろう。
止めてはならなかったのだ。まさか生命の停止を止めるつもりだったのだろうか。今となっては分からない。
人の中には、暴いてはいけない黒色があるものだ。それは、わたしの髪であり、ミズミの死であり、彼にとっての特性だ。すべては世界の道理である。
他人から見れば赤や緑に見えるものでも、本人からすれば、黒色にしか見えないものは必ずある。わたし達はそれをよく知っていたはずだった。なのに、わたしだけが焦り、そしてこんな事態を招いてしまった。大切に守ってきたものを、一息に壊してしまったのだ。
◇◇◇
わたしは今日、久しぶりに事務所へと足を運んでいた。二人の根城だった場所である。
これからここは、どうなってしまうのだろうか。権利はあの人にあるが、入れ替わりの激しい雑居ビルだ。景気も良いことだし、すぐに誰かの手に渡ってしまうのかもしれない。
事務所のドアを開けると、耳障りな開閉音が室内に響いた。
うるさいよなそのドア、と文句を言う彼は居ないし、ニャア、と同意するミズミも居ない。わたしは一人ぼっちなのだ。
涙が出そうになった。でも我慢した。彼とミズミはもう、側には居ない——その現実を受け止めなければ、わたしは前には進めない。
彼の座っていた椅子に腰を下ろし、空のマグカップを机の上に置いた。
温かな光が窓から差し込んでいる。そういえば、ミズミと出会ったのも日差しの柔らかな今頃だった。
わたしは急に心細くなった。彼のカップを手に取り、光にかざした。白い陶磁器。反対側は見えない。まるで人間の心のようだ。
彼はいつもコーヒーを飲んでいた。黒色の液体は、彼にとっての真実だった。
「大好きだよ」と口にして、それさえもが届かないことを知ったとき、わたしの涙はこぼれ落ちた。
ミズミとわたしと彼の世界は、どこへいってしまったのだろうか。
手を伸ばしても、届くはずがない。
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