第4話 ミズミ③

 結晶を着飾る町を一人で走った。


 雪は順当に積もっていた。白くなる呼吸を追い越し、私はミズミの名を呼んだ。滑りそうになる足で踏ん張り、必死に前へと進んでいく。


 私が探しているのは猫ではない。人間だ。それでも彼女は私の猫だった。そして私ですら彼女の猫なのだろう。


 彼女が居ない人生など考えられなかった。

 出会ってからこれまで、仕事と彼女以外に時間を割いたことは稀だった。

 それはミズミも同様だ。私達は、互いに支えあっていたからこそ、やってこれたのだと思う。少なくとも私はそう信じていた。


 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。嫌な予感は拭いきれない。


 我々の住む土地は、駅を中心に発展していた。

 事務所は市の片隅にあり、辺りもさびれている。だが中央部には、デパートや雑居ビル、繁華街が建ち並んでいて、猫にとっての隠れ家や食料が多数存在していた。

 私達は迷いペットを探すとき、まずそこから当たる。きっと彼女もそうしたに違いない。

 不安定な答えにしがみつき、私は必死に走り続けた。しかし、彼女は見当たらない。


 大きな交差点の前で、立ち止まった。

 なにも無ければ良いが、と思案していると、再びサイレンの音が聞こえてきた。私は頭を強く振った。


 馬鹿なことを考えるんじゃない——自身を否定し、それから、ああこれが先程のミズミの心情なのか、と痛感した。

 泣くのも仕方がないと思った。男の私だって泣きそうだった。

 確定しない安全の、なんと不安定なことか。


 サイレンが遠のくと、辺りはしんと静まった。

 夜も遅い。雪も本降りとなった今では、外出する人間は少ないのだろう。しかし帰宅時間を見誤ったのか、車やバイクはまだまだ、交差点を通過していた。

 中には雪の危険を一年ごとに忘れてしまうのだろう人間も居て、すごいスピードで車を走らせている。


 見渡す限りの景色を、ぼたん雪が埋めていた。白と黒だけの世界だった。まるで濃霧に囲まれたように視界が閉ざされる。

 自分だけが世界に取り残されているような錯覚。セッションをするかのように、信号機の点滅に合わせて、雪の着地が重なった。


 とにかくもう一度、探してみよう――そう思い至り、視線を定めた。その時だった。


 雪に煙った視界の中。

 交叉点の向こう側に、ちらつく人の姿を見つけた。


 目を細め、雪を避けるように、対岸をにらむ。

 見慣れたコートを着た人間が映っている。髪が長い。女性だ。こちらに背を向けているので顔の造りは視認できない。が、私には分かった。

 ミズミだ。見間違えるはずがない。ミズミに違いない。彼女は私と同じように、泣きそうな顔をしているに違いない。


「ミズミ——」


 凍てついていた身体に火が灯った。

 凍っていた足が自然と動いた。


「ミズミ……!」


 モノクロームの世界の中で、彼女の姿はただ一つ、特別なものとして浮かび上がっていた。


 声を上げながら私は走った。信号は正常に作動していた。目の前に車は一台もない。私はもう一度、彼女の名を呼んだ。


 誰かを探すように首が左右に振られると、じきに女性は振り向いた。動く視界の中で、私は確信した。やはり女性はミズミのようだった。


 しかし何故だろうか。ミズミは、私を見ると、すぐさま見当違いの方角を見た。そしてふたたび私へと視線を向けると、その動きが止まった。


 彼女は口を大きく開けた。何かを叫んでいるらしい——が、私の呼吸音が勝っており、音声は不明瞭だった。途切れ途切れの言葉の中で、しかし、私の名に当たる数文字だけは際立って聞こえた。


 たった数秒の世界の中で、私は全てを感じた。


 久しぶりだな、と私は思った。

 私はミズミと呼ぶのに、彼女は私の名前を呼ばなかった。ねえ、とか、あなた、とかそういった類で事を済ませていた。彼女にも彼女なりの考えがあったのだろう。


「——ミズミ!」


 さらに名を重ねたとき、ようやく彼女の表情を確認することができた。ミズミの目は見開かれていた。


 なにをそんなに驚いているのだろう、と私は考えたが、それも一瞬のことだった。彼女の元へたどり着くのだ、という意思がなによりも強かった。


 ミズミは手を伸ばして、もう一度何かを叫んだ。

 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。空からは雪が降り続き、地面に落ちては積もっ

ていった。


 ミズミはきっとまだ猫を探しているが、私は私の猫を見つけていた。しかし、私達は運命共同体だ。二人揃えば皆が揃う。クロだってすぐに見つかるだろう。


 そうだよな、と私はそこで気がついた。これが私の幸せなのだ。私たちの幸せなのだ。皆が揃うというだけで幸せだったのだ——記憶はそこで途切れていた。


   ◇◇◇


 頭の痛みに、顔をしかめる。モノクロームの回想は断ち切られた。


「クロ、覚えているか」と私は言った。

「お前、帰ってこないことがあったな、一度。雪の日だ。寒い夜だった」


「うん」

 クロは頷いた。

「アタシ、怖かったの。だから一人でジッとしてたの」


「……そうか」


 私は頷いた。結局、ミズミはクロを見つけることが出来たのだろうか。


「ミズミはアタシを見つけてくれたの」

 クロに一瞬、感情が垣間見えたような気がした。

「泣いてたの、ミズミ」


「泣いてた、か」


 そうだったのか、と私は呟いた。頭の痛みは消えなかった。

 痛みとは身体の発する警告でもある。私は、己に何を気づかせたいのだろう。


「ミズミは泣いてたの。いつも泣いてたの」

「だから『いつも』というのは、間違いじゃないのか」


「ううん」

 クロはしっかりと首を振った。完全な否定だった。

「いつも一人で泣いてたの」

 それからクロは私を指差した。そして言った。

「あなたが居なくなってから、ずっと泣いてたの」


「……私が?」

 下げていた視線を、私は上げた。

「居なくなった?」


「あなたはもうミズミには会えないの。私ももう会えないの。なんでなの、わかる」


 私には答えられなかった。クロは私の反応を待たずに言った。


「ミズミは居なくなっちゃったの。でも、それはフツウの居なくなるなの。あなたも居なくなっちゃったけど、あなたはアタシと似てるの。居なくならないの」


 抽象的な発言からは、何も得られなかった。

 しかし、頭痛は増すばかりだ。

 クロは言葉を止めなかった。


「アタシ、知ってるの。クルマにぶつかると痛いの。アタシはぶつかるのはないの。でも、あなたはあるの。だから、痛いの。とっても、痛いの」


「なんだって……?」

 私は耳を疑った。

「車に? 私がぶつかっただって?」

 

 掛けられた言葉に、クロは一度だけ頷いた。


「ぶつかる……? 私が……?」


 雪の夜が脳裏に再生された。途切れていた記憶が私に何事かを囁き始めた。


「さいごに言ってたの」


 クロは静かに私に近づいてきた。

 そういえば、と私は懐古した。クロはミズミが居ないと、いつも私の膝の上に乗って目を瞑っていた。

 降りるのはミズミが帰ってくる数秒前で、ミズミはつまりそのことを知らなかったのだろう。


「ミズミ、言ってたの」

 案の定、クロは私の側に寄ると膝の上に頭を乗せた。

「あなたの名前を、言ってたの」


「名前?」と私は言った。

 それから何気なく自分の名を口にしようと思った。

「それは、つまり——」


 そして私は驚いた。

 自分の名前を思い出すことが出来なかったからだ。

 まさか、と動く口からは声が出なかった。呼吸音さえ聞こえなかった。自分の名前がわからないだって?——馬鹿を言え、と自分を叱咤した。しかし、思い出せないものは思い出せなかった。


「長かったの」

 クロは、私の膝に顔を埋めながら言った。

「暗い中でずっと待っているよりも、長かったの。暗い中でイタいのをがまんするよりも、長かったの」


「そう……か」


 私はいま、声を出せたのだろうか。頭は混乱していた。

 クロは何かを吐き出すように喋り続けた。


「アタシも居なくなって、あなたも居なくなって、ミズミは泣いてたの。でもミズミも居なくなって、それでもアタシとあなたは残ってるの。ずっと長いあいだ、アタシはあなたに話してたの」

「ずっと……?」

「そうなの。アタシはずっとあなたの名前を呼んでたの。探してたの。探して、呼んで、気づいてくれるまで待ってたの。ここでずっと待ってたの」

「この、部屋の中で……?」


 私は辺りを見渡した。瞬間、息を呑んだ。

 部屋は荒れ果てていた。クロの座っていたソファは埃に塗れていた。私の仕事机には空のマグカップだけが置かれていた。私の座っていた椅子はボロボロで、クロはいつからか裸のままだった。

 そして、軋むはずのドアはもう鳴らなかった。はなからドアなど外れていた。

 長いこと連れ添ってきた部屋や調度品の数々が、『理解しろ』とざわついた。


「とっても」とクロは言った。

「とっても、さむいの」


 とっても、さむいの——?

 そうか、と私は気がついた。最初から、クロは私に問いかけていたのだ。寒いのか、と私に尋ねていたのだ。

 私の身体は震え続けていた。夜の町を走り続けていたのだ。体温はあがり、そして立ち止まれば急激に下がっていく。

 手を何度か握った。震えは止まらなかった。私の身体は完全に冷え切っているようだった。


「そうか」

 時間は凍てついていた。

 あの雪の夜からずっと、朝を迎えることなく停止していた。

「そうなのか」

 全貌は未だに見えていない。理解が出来る気もしない。しかし、そばにはクロがいる。そして私は探偵だ。

 自身に言い聞かす。この手の思考はお手のものじゃないか——一部の真実をもとに、全体像を推測。それには多大なる想像力と、己を信じる心が必要だ。熟考の末、信じがたい予想完成図が頭に浮かんだとしても、ピースの集まったパズルに未完は無い。

 

 私はどうやら答えを知っているようだ——私は己に言い聞かせる。

 それはクロが教えてくれたようだ——それは心の隙間にするりと滑り込んできた。


 私の台詞はすでに用意されていた。


「……ごめんな、クロ。どうやら、ずいぶんと待たせたみたいだな」


 私はクロの頭を撫でた。いつもこうして、クロの背中を撫でていたものだ。


「ううん」

 クロは、私の膝に顔をうずめたまま首を振った。

「ミズミ、いつも言ってたの。大好き、って言ってたの」

「そうか」

「うん」


 クロは顔を上げた。瞳が濡れていた。まるで、半身を捜しに出ていったミズミの生き写しだった。


「クロ」と私は言った。それから首を振った。

「いや——ミズミ」

「うん」

「二人でミズミを探しにいこうか」


「うん」

 ミズミは頷いた。

「泣かないでって言ってあげるの。名前を呼んで探してあげるの」


 それから少女は口元だけで笑い、私の名前を呼んだ。

 私はその響きを確かめながら、目を瞑った。

 瞼が落ちる寸前、私の視界に変化があった。クロの姿がぼんやりと変化したのだった。


 しかし、視界の変化に具体的な感想を抱くまでには至らなかった。クロがクロではなくなっていく——それだけが私の印象に残った。だがそれは、本当の自分を獲得したという証拠なのかもしれない。


 真っ白な世界が目の前に広がった。その中では、ミズミを抱いたミズミが笑っていた。

 私は一歩を踏み出して、彼女の笑顔に近づいた。

 私の腕の中にも猫が居る。

 猫には名前が二つもあった。

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