第3話 ミズミ②
私とミズミとクロの生活は長かった。
安穏とはいえない探偵業だが、食ってはいける程度の収入。そして猫のように愛くるしいミズミと、猫そのもののクロ。二人と一匹で過ごした季節は何度も廻った。
その日は寒かった。
冬もとうとう本格的なものになっていた。空はどんよりと曇り、粉雪が舞っていた。今に大粒の雪が降ってきたとしても、なんの不思議もなかった。
日も落ちようかという時刻になると、ミズミは事務所内を忙しなく歩き始めた。口は常に、ミズミ、と動いていた。クロを探しているらしい。
どうしたんだ、と私は尋ねた。クロはたまに外出することがある。
「ミズミ、外に出たまま戻ってこないのよ」
ミズミは乱暴に、髪へ指を通した。
「いつもならすぐに帰ってくるのに、もう夜じゃない」
「アパートへは戻ってみたのかい?」
「ええ、居なかった。大家さんにだって訊いたわ。一度、裏庭で会ったらしいんだけど……それ以降は見てないって。それにお昼時の話らしいから」
ミズミは時計を見た。
「数時間も経っていれば、どこにだって行けるわよ」
そうか、と前置きをしてから私は口を開いた。
「まあ、アイツも立派な猫なんだ。待っていればすぐに戻ってくるさ」口にしながら、嫌な予感が頭を過ぎった。それでも柔和な雰囲気を作りたかった。言葉はスルスルと流れ出た。「だからそんなに心配することはないだろう。死に場所を探しに行ったわけでもあるまいし——」
「——馬鹿なこと言わないでよ!」
感情的な叫びに、私は言葉を飲み込んだ。思わず彼女の顔をまじまじと見てしまった。ミズミは瞳を濡らしていた。
「冗談でも、そんな言い方、しないでよ……」
己の浅はかさに嫌気がさした。
ミズミはただでさえ極度の猫好きなのだ。さらには自分をクロに重ねていた。他人は笑うかもしれない。だが彼女にとってクロが居なくなるという事は、半身の消失に等しい。
「すまない」
私はアゴを引いた。口は勝手に動いていた。
「言い方が悪かった」
ミズミは小さく頷いた。それだけをすると、ゼンマイがきれた玩具のように、椅子へ座り込んだ。
外に目を向けると、日は完全に落ちていた。朝からまばらに降っていた雪は、大降りへと変わっていた。
なんとなしにつけていたラジオは、夜にかけて数十センチ降り積もる見込みです、と壊れたように繰り返していた。
私は大きく息を吸って、吐いた。
「私は探偵だし、君は助手だ――犬や猫を探すのはお手の物じゃないか」
ミズミは無言で頷いた。立ち上がる。
私は言葉を繋いだ。
「猫は意外と臆病だ。日が落ちる前や落ちた後の微妙な差にも敏感だ。だからそういう時は名前を呼んで、こちらから探してやらないといけない」
「うん」
ミズミは力強い頷きをみせた。
「あたし、行ってくる」
「いや、私が行こう」
「ううん、あたしが行く——」
コートを手に取った私に、ミズミは言った。
「——あたし達、そっくりだもん。きっと外へ行って名前を呼べば、ミズミもすぐに出てきてくれるわ。あなたはココで待ってて。ミズミが帰宅したら、よろしくね」
「しかし」
私は外を見た。
「雪は本降りだし、日も落ちている。あまり長いこと外に居ると、こういう日は危ない。何かを探しているときは、ほかの何かに対する警戒が弱まる」
経験上わかるだろう、と私は説得を試みた。
「わかるけど、あたしに行かせて」
ミズミは引き下がらなかった。
それでも私は渋った。
「それにね」
ミズミは何かを諦めたように、小さく嘆息した。
「それにね、あなたにはね、あたし達が帰ってきたときに……おかえり、って言って欲しいんだ」
茶化してしまいたい程の恥ずかしい台詞を言われたようで、私の顔は熱くなった。
煙に巻くような言葉を吐こうとも思ったが、ミズミの真剣な顔を見て止めた。
私は、わかったよ、とだけ口にした。が、一から三を数えたころには、唇は勝手に動いていた。
「先に猫が帰ってきても、おかえりミズミ、って言うよ」
「馬鹿」
ミズミは眉をひそめた。少しばかり怒っているようだった。彼女は一度何かを言いかけて喉をゴクリと鳴らした後、私を鋭く見据えながら続けた。
「あの子とあたしは一緒だけど、あなたと一緒なのはあたしなの。あなたはあたしを護るし、あたしはミズミを護るのよ。ミズミは一人だけなの」
言ってから、ミズミの顔は急速に色濃くなった。
大の大人が二人で顔を赤くしている。なんという状況だろうか。まるで初めて手を繋いだ中学生みたいだった。
交わっていた視線は気まずそうなミズミによってほどかれた。
じゃああたし行くから、と台詞を投げ捨てた彼女は、言葉の勢いそのままに素早く踵を返した。ふわりと宙に浮いた一房の髪が、私の眼前を掠めた。
またも熱くなってしまった顔をごまかすように、私は黙って彼女の背中を見送った。
事務所内にはラジオの音が流れ続けている。
外を見れば誰でもわかるというのに、飽きずに大雪警報だけを発していた。
振り返らぬままドアの向こうに消えたミズミ。
彼女の背中が目に焼きついているのを、私は感じていた。
映像に引きずられたのだろうか。
ふと、昔のことを思い出した。ミズミと声に出して呼びかけたら、一人と一匹が振り返ってしまったという記憶だ。
遅まきながら、彼女の怒っていた理由が解った気がした。
物事は複雑なものであるが、女性はさらに複雑なものなのだろう。女性の中にはいつだって魔法が飛び交っているのだ。これでまた一つ覚えた。彼女に教えられたことは沢山あるのだ。
とはいえ、私には理解不能だったことは多い。
だからこそ、と重ねて思う。
だからこそ、ミズミは帰ってこなかったのではないだろうか。
私には理解できない事態が起きていたからこそ、彼女は雪の降る町に消えたのだ。
ミズミが出て行ってから二時間近くが経っていた。私はドアの軋む音を捉えようと必死だった。しかし一向にドアは開かなかったし、不快な音も響かなかった。
ラジオが時報を告げたのを契機に、とうとう私は外へ飛び出してしまった。
コートさえ忘れ、自分の猫を探しに行った私の猫を探しに出たのだった。
空から大粒の雪が降っている。
遠くからはサイレンの音が聞こえていた。
私の胸は高鳴った。
◇◇◇
「君は何者だ」
私は少女へと言った。
「名前を……名前を聞かせてくれ」
ミズミにはもう会えない。
にもかかわらず、少女はミズミの言葉を伝えにきたという。
どう考えても、おかしいことだった。
少女はあいかわらず、大きな瞳をこちらへ向けている。
そらすことはしない。視線に感情を乗せているのかもしれないが、真意をくむことが私にはできなかった。
部屋に静寂が去来した。時がしばらく止まる代わりに、私達の間に時間が生まれた。不快ではなかったが、心は先を急いていた。
「なまえ」と少女は突然に口を開きはじめた。
「ミズミ」
ミズミ——ミズミ?
「あなた」
少女は付言した。
「おぼえてるって言ったの」
「いや、それは……」
彼女に話したのはミズミとクロのことだけだった。
まさか彼女がミズミであるわけがない。そうなると残る可能性は一つしかなかった。
可能性?
なんだそれは。
そんなバカな話があるわけがない。
けれども、私にはそれ以外の答えが思いつかなかった。
どうしたことだろう。
まるで1+1を3だと信じられるだけの『なにか』が、胸の中に根付いているようだった。
私は数秒後の未来を自分の中に視た――馬鹿らしい言葉を私は言うだろう。それも非現実的で、ロジカルではない愚問だ。
しかし、それは正解に違いないのだ。
「君は」
私の声は震えていた。
「君は、まさか……クロ、なのか? 猫の、クロなのか……?」
「うん」
少女は笑った。口元だけの笑みだった。
「おぼえてた」
「……まさか」
首を振る。
「そんなこと……」
「なァに」
「信じられない」
「しんじられない」
少女は表情さえ変えずに、淡々と続けた。
「しんじられないの」
「そうさ……どうしたって信じられない……」
「なんでなの」
「それは、つまり……」
言葉はそこで途切れた。理由が見つからなかった。
本当に信じられないのか? 私は自身に問いかける――すでにそんな論理など必要なかった。無意味だった。必要なものはすでに揃っていることは、知っていたはずだった。
「……信じるよ」
口から、乾いた声が飛び出た。同時に、胸の奥底に溜まっていた黒い塊が、サッと消える。
「なァに」
少女は首を傾げた。
私は繰り返した。
「信じる……君を、信じるよ」
「しんじる」
「ああ、信じる」
信じる、信じる、と私は口の中で同じ言葉を繰り返した。
じきに、体内のスイッチが切り替わる。何もかも信じてやろう、という気になる。言葉の魔法だ。
「それにしても、お前な」
私の口は自然と動いていた。
「ミズミに似ているからといって、まさか人の姿まで似ることもないだろう」
「うん」
少女は頷いた。
「でもそうしないと、はなせないの」
「……なるほどな」
あまりにも直截的な事情に、笑みを隠せなかった。
少女は不思議そうな色を目に浮かべていた。
ふと、化け猫や猫又という単語が頭に浮かんだ。しかしクロに恨まれるような事をした記憶はなかった。
「ミズミ」と少女が口を開き始めた。
「ミズミにはもう会えないね」
「そうだな」
私の胸に、またもや冬が廻ってきた。
「会えないよ、私も、クロも」
「そうなの」
クロは言った。
「でも、だからアタシがきたの」
「そうか」
「うん」
クロは立ち上がった。猫らしいしなやかな動線だった。
「ミズミ、泣いてた」
「泣く?」
「うん。かなしいって、いつも泣いてた」
「いつも……?」
私は内心で、首を捻った。
「私が居ないところで泣いていたのか?」
「うん、あなたの居ないところで泣いてたの」
しかし、事務所では常に一緒だった。
自宅でも同様だ。となると、彼女はいったいどこで泣いていたというのだろうか。
「ちょっと待ってくれ」
私は手のひらを突き出した。
「それは自宅か? 事務所か? いったい彼女がどこで泣いていたっていうんだ。それも、何を理由に」
悲しい思いをさせた記憶はない。
喧嘩もしなかった——という訳にはいかなかったが、それも全ては、笑顔で終わっていたように思う。
クロは僅かに首を捻った。
「ミズミのヘヤなの」
「ミズミの部屋?」
言葉のニュアンスが気になった。彼女と私の部屋はどこだって共通だった。分け合うほどの面積がなかったとも言い換えられる。
「クロ、お前なにか勘違いをしていないか」
「かんちがい」
「間違えているんじゃないのか」
「まちがってないの」
クロは断言した。
「あなたはもうミズミには会えないの。ミズミはいなくなったの」
「いなくなった——」
——そうだ。
彼女は消えたのだ。
あの冬の夜から、ずっと。
雪が溶けてゆくように、そっと。
私の前から消えたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます