第2話 ミズミ①
【はじめに】
本作は短編連作になります。
幕間タイトル=アヤカ関連
各章タイトル=それぞれの名前(今回でいえばミズミ)
となり、最後へとつながっていきます。
また、ファンタジーとなるため、実在しない状態が発生しています。
あらかじめご了承ください
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――魔法使いに出会うから。
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マグカップを仕事机の上に置いた。
冬という季節柄、十二畳の部屋は相当に寒かった。
習慣となってしまった朝食代わりのコーヒーからは湯気がたっている。
白くたなびきながら消えていく様を見ていると、一日が始まったという気分が湧いてくるものだ。
正午前には事務所へ向かい、コーヒーカップの温もりに朝を知る。
私の一日は長いこと、そうやって始まっていくものだった。
しかし、今日は少しばかり事情が違った。
私の視線は湯気の先に向いていた。
「おはよう」とそれは言った。
静かな声だった。
目の前の湯気を揺らすことさえ出来そうになかった。
「おはよう」と私も言った。
笑いかけてみようとしたが、やめた。意味のない笑みに、価値はない。
私の視界には少女が映りこんでいた。
出入り口のドアの前だ。年齢は十代半だろう。少女は綺麗な形をした唇だけで、薄い笑みを作っていた。
それは他人の微笑みを真似ているだけにもみえた。持ち主不明の作り笑い。
つりあがり気味の大きな目は、眠いのかトロンとしていて、覇気はない。それはジッと私を見つめている。
背は低い。四肢は細く、色白。
髪は肩よりも長く、量は少ないようだったが、その色は漆で染めたように黒かった。それは私に必要以上の存在感を与えた。
総じてみれば、賢そうな顔作りと言えた。
冷たいとも表現できるかもしれない。
彼女の努力次第でどちらにも転がりそうである。
さて、と私は思考に一区切りをつけた。
一つの問題を解決しなければならない。
古い造りのこの建物は、ドアをあければ軋み、音が響く。
ドアだって傾いていて、高い音がする。
はたして――そのような音が私の耳に届いただろうか?
私は考えた。答えはノーだ。意識上、聞こえはしなかったように思う。
探偵という職業柄、目は常に光らしているつもりだったが、私もまだまだ甘かったらしい。
これからは耳もそばだてよう、と今更ながらに心へ刻んだ。
三十もとうに過ぎたはずの成人男性が、まるで十歳の子どものような集中力だ。我ながら情けない。
「おはよう」と少女は繰り返した。
わずかにだが、疑問符が聞いて取れた。
何か、進展を望んでいるのだろう。
もしくは黙っていた私を訝しんだか。
「ああ、おはよう――それで、君のご用件は?」
私は言って、マグカップを手に取った。
「ここは探偵事務所、というやつなんだけどね。君はそれを知っているのかな」
彼女は小首を傾げた。
黒髪が、さらさらと肩から零れ落ちていった。
まるで砂時計のようだったが、私はその美しさに時を忘れていた。
過剰表現ではない。少なくとも、湯気から朝を知るよりかは魅力的だ。
「ごヨウケン」
彼女は頭の角度をそのままに続けた。
「はなすの」
表情は動かない。
妙なあどけなさが、少女のからだ全体を包み込んでいた。
まるで喋りたての子供のようだった。結局、怜悧でも冷淡でもなかったことになる。
「依頼なら、犯罪以外は何でも引き受ける。なにかを探してほしい、だとか。写真の場所を見つけてほしい、だとか。言いたいことがあれば、なんでも言ってくれ」
「なにか」
彼女は呟くように続けた。
「あるの」
「そうか。それは一体なんだい」
「さむいの」
彼女は私をジッと見つめた。
「とっても、さむいの」
何も感じてはいない風な声音だった。
暖かくも寒くもない、というような投げやりな声だった。
しかし私は思った。それは本当なのだろう、と。
なにせ彼女は裸なのだった。
一糸纏わぬ姿というやつだ。唯一、身に纏っているものといえば、人間の薄皮一枚だけである。それではさすがに寒いだろう。
少女の白い肌に、黒い髪がよく映えている。
欲は生まれず、純粋な美しさだけを知った。
私の視界をゆらゆらと湯気がよぎっては消えていく。手に持ったマグカップからは曖昧な温もりが伝わってきていた。
今日も新しい一日は始まる。それは少女とマグカップが教えてくれた。
◇◇◇
猫を拾うことを使命としている——そんな人間がこの世の中には居る。
それは私の助手であり、私と恋仲でもある人物だ。
名は水美と書いて、ミズミと読む。
猫のような容姿をしている彼女は、同類を助けているつもりなのか、よく猫を拾ってきた。
「可哀相だったのね」
彼女はたびたび言い訳を口にした。
「あたしのことを見てるのよ。ずっとね。つれていってよお、って見てるのね。だから拾ってきたの。わかるよね?」
「で」と私は言い返したものだ。
「迷い犬を探しに行った君は、捨て猫を見つけたわけだ」
彼女はいつも頬を膨らませた。次に出る言葉はこうだ。
「じゃあいいよ。捨ててくればいいんでしょ。命を捨ててくればね、いいんでしょ。はい。わかりました。よくわかりました。いっつもそうなのね、あなたって」
そうして、彼女は軋むドアを勢いよく開け、外に飛び出していく。
目的地はわかっているので追いかけはしない。
黒色のコーヒーを飲みながら、帰宅を待つだけだった。
彼女は常に、私たちの住むアパートの庭に猫を置いてくる。
毎度毎度ご丁寧に、餌まで与えて帰ってくるのだから、たまったものではない。
しかし、我らの古アパートは大家も住民も猫が大好きだった。
だから庭はいつも、彼女や他の住人が拾ってきた猫で溢れかえっていた。
結局、彼女は拾ったものを手放す気などないし、それを分かっていても私の反応を見たがるのだった。
猫の世話は、当然のように大家へと引き継がれる。世の中の小さな仕組みであった。
とはいえ、私も猫のような彼女を手放す気はないのだから文句は言えない。
もちろん、そんなことを口にすることはできないが、それこそが私たちの関係でもあった。
単純そうな物事も、事実、複雑なものが多いのだ。
人間や猫や恋愛——それらを含む森羅万象には、魔法のような仕掛けが潜んでいる。
◇◇◇
少女には服を与えた。
助手のミズミのものである。服の用意は全て少女にさせた。私は椅子から立ち上がる気はなかった。
隣の部屋に仮眠室があり、そこにミズミの衣装ケースは置いてあった。
少女はミズミがよく着ていた服を選んだようだった。
私の記憶に一番こびりついている服装だ。サイズに多少の差はあるものの、彼女は嫌な顔をしていなかった。
少女は客用のソファに座っている。私の座るデスクへと向けて、それは設えられていた。
「それで」
私は話を切り出した。
「君はどうして私のところに来たのかな」
「きみ」
少女の瞳が僅かに動いた。
「アタシ」
「そうだよ」
「ふうん」
彼女は喉の奥から声を出した。
「アタシ、あなたに会いにきたの」
「そう」
ゆっくりと頷いてみせた。
「なぜ会いにきたんだい?」
「なぜ、会いにきたの」
少女は首を傾げた。疑問の混じった声音だった。
「わからないの」
「わからないのかい?」
私は聞きながら、少女の真似をした。首を傾げたのだ。
しかし少女は首を振った。私を指差し、言葉をつなげた。
「あなた、わからないの」
「私かい?」
私は自分を指差した。どういう意味なのだろうか。
「うん」
少女は頷いた。
「アタシ、あなたに教えるの」
「教える? 何をだろうね」
「クロ、ネコ」
少女は言って、彼女特有の笑みを浮かべた。
口元だけの感情表現だ。
「クロ、ネコ。あなた、おぼえてる」
「……黒、猫?」
黒、猫——と私の唇がもう一度言葉をなぞった。今度は声が出なかった。
瞬間、頭に鋭い痛みが走った。脳が思い出すことを拒否しているように思えた。
「それは……」と私は言った。
無理やりに声を出す事には成功していた。しかし先に続く言葉は無く、少女は私を見ているだけだった。
思い出したくない記憶は、無意識の内に、意識外へと排除されてしまう——職業柄、理解はしていたつもりだったが、どうやら私も例外ではなかったらしい。
痛みは確かな古傷を知覚させた。
何故、私はこんな傷を負っているのだろうか。
原因は何なのだろうと、記憶を探ってみた。
しかし刹那的なフラッシュバックは、既に手の届かない場所にまで飛んでいってしまったようだ。
内面を探っているうちに、私は目前に壁が立ちはだかっているような圧迫感を、じわじわと感じはじめていた。乗り越える術はなく、ただ茫然と見上げるしかなかった。
駄目だ——傷跡はあるのに、怪我の原因が分からない。
こういうときは、一度、別対象に目を向けるべきである。
つまりは目前の壁ではなく、眼前の少女を眺めてみればよい。
少女は私をジッと見つめていたが、私の変化には気づいていないようだった。依然として、マネキン然とした感情が唇に宿っているだけである。
そういえば、と私はふいに思った。黒髪の少女はどこか猫に似ている。
元は黒猫なのかもしれないな、と馬鹿みたいなことを考えた。
その時、痛みが休息に和らいでいくのを私は感じた。黒猫?——と自然に考えはじめることが出来た。私は記憶の中の猫を列挙していった。枚挙に暇が無かった。その中にはもちろん黒猫も居た。
アパートには一匹だけ、黒猫が住んでいた。
思い出せば思い出すほどに、ミズミの喜怒哀楽の表情が頭へと浮かび上がり、そして消えた。猫によく似たミズミは、頻繁に猫を拾ってきたものだ。
私も猫を一匹だけ捕まえていた。しかしそれらはもう居ない。彼女の猫も、私の猫も、どこかへ旅立ってしまった。
が、そんなものは猫に限った話ではない。全ての生命は,いずれ尽きる。知らないふりをしているだけで、誰もが知っていることだ。
それにしても猫か、と私は考えを加速させた。猫に似ているという彼女は、つまりミズミに似ているということではないだろうか。
彼女の顔をあらためてよく観察してみた。確かに、と私は思った。確かに、少女の中にミズミの面影がみてとれた。
傷跡がメッセージを投げかけている。そう直感し、古傷の痕を指先でなぞる。
鈍い痛みが身体を走った。
◇◇◇
ミズミには、特別な存在である一匹の猫がいた。
例に漏れず、拾ってきた猫だった。実際には二人で飼っていたことになるのだろう。私とミズミはどこへ行くにも一緒だったからだ。
猫には共通の名前がついていなかった。彼女はそのネコを『ミズミ』と呼んでいたし、私は頭が混乱するのを避けるために、クロ、と名づけていた。
黒色に見えるから、クロ。我ながら単純である。
クロは毛並みの美しい猫で、顔がよくミズミに似ていた。
毛並みが美しいという点でも同様だった。ミズミもそれらには気づいていて、だからこそクロは彼女にとって唯一無二の存在だった。
彼女がクロを拾ってきた時、私は一概に『捨てて来い』とは言えなかった。口にしてしまったら、取り返しのつかない事態に陥ってしまう——そんな予感が言葉を止めた。
「ねえ」
ミズミはクロを眺めながら言った。
「この子、あたしの妹みたい。毛並みまでそっくり。全てがそっくり」
「ふうん」
私は新聞から顔をあげて、にらみ合っている両者を比べあった。
「双子の妹って感じだな」
「確かに」
ミズミは笑いながら言った。
「ねえ。まさか、この子を捨てて来いなんて言わないわよね」
確信に満ちた笑みだった。
私は彼女を見てから、クロを見た。猫はどうでもいいように欠伸をしていた。
「……しょうがないな」
私は不承不承といった風を演じることに全力を注いだ。
「ここで飼いたいってことか、それは。アパートではなく、ここで」
「うん」
ミズミは頷いた。
「というよりも、いつも一緒に居たいじゃない? だから家と事務所で飼おうよ」
「客がきたときは仮眠室に入れる。トイレも同様。毛はそうじする。消臭剤を絶やさない」
「それが条件?」
「そう。守れるだろ、それぐらい」
「うん」
ミズミは何度も頷いてから、にらめっこをしていたクロへと向き直った。
「よかったね、ミズミ」
「ミズミ?」
私は声をあげた。
「そいつ、ミズミっていう名前にするのか」
「そうよ? だって似ているもの、あたしたち」
ミズミはクロを顔のよこにまで抱き上げた。
「どう? 見分けがつくとでも言うの。特徴だって全部同じ」
私は、やれやれ、と首を振ってから紙面に目を落とす。
そして私は内心で、猫にはクロと命名したのだった。
ミズミはそれを知らなかったように思う。クロという呼び名は、ミズミの居ない時にだけ口にしていた呼称だからだ。
皆で居るときに『ミズミ』と私が呼ぶと、彼女と猫の両方が振り向いたのは愉快だった。
面白くなって、何度か繰り返しているうちに、ミズミが怒り出したこともある。なぜ怒ったのかは分からなかったが、私は笑いながら謝った。ミズミが頬を膨らますと、クロは欠伸をした。
温かな季節に二人と一匹の生活は始まった。
いつか訪れるだろう終わりなど、まだ先のことだと思っていた。
◇◇◇
「ネコか……」と私は呟いた。「うちにも二匹、居たよ。正確には、猫みたいな人間が一人と、猫そのものが一匹」
「うん」
少女は呟いた。
「わかってる」
わかってるの、と彼女は繰り返した。
何もかもを知っているのよ、という風にそれは取れた。あなたの全てを知っている。だから何も言わなくてもいいのよ——知らずのうちに私の鼓動は早まっていた。
「それで……それがどうしたんだい」
私の声は震えていた。少女はぼおっと私を見ているだけだった。
「うん」
首が突然折れたような頷き方を少女はした。
「あなた、わかってる」
彼女の言葉にはクエスチョンマークがついている。少女は私に、わかっているのか、と問うていた。
「何をだい? 質問がよくわからないな」
「しつもん」
「何を訊かれているのかが解らない」
「うん」
「つまり君は、私に何をしたいんだい?」
「あなたに言いにきたの」
「だから……それは一体なにかな」
「ミズミのことば」
少女の短い台詞は、私の胸を鷲づかみにした。喉から呼吸が洩れ出ているように、息苦しくなる。先から私の声は震えていたが、今では身体までもが同様だった。
「私は……」
声を絞り出す。
「ミズミにはもう会えないんだ」
「うん」
少女は頷いた。
「わかってる」
すべて知っているのよ、と少女は言外に語っていた。
「だから私が伝えにきたの」
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