——魔法使いに出会うから。

天道 源(斎藤ニコ)

第1話 アヤカの日記①

 ——20××年 7月 ××日


 私の日々には魔法が有った。今はもう無い。しかし確かに有ったのだ。

 手元に証拠はなく、遠い記憶だけが拠りどころであるが、思い出される映像はじつに鮮明だった。だから、実在したのだ、と私は信じてきた。


 不思議な体験をした、夢じゃない——そんな前置きをしてから、人に話したことはある。

 だが、信じた人間は居ない。

 皆が口をそろえて言うのだ。きっと夢でも見たんだよ、と。

 高校に進学し、新しく出来た親友にも話したが、やはり同様の反応だった。


 たしかに人の記憶は頼りない。

 教科書に落書きされるコマ数の少ないパラパラ漫画のように断片的だ。

 記憶を否定され続ければ、いつのまにやら自分自身が疑いのページを差し挟む。

 過ぎていく年月が精彩を奪い去ると、いよいよ私の記憶は寡黙になった。

 しかし、心の芯は折れる様子がなかった。どころか、弱っている私を焚き付けさえした。


『確信はあるのに確証がない?——なら、証拠を見つければ良いだけの話じゃないか!』


 私が確証を求めたのは、だから必然だった。

 いぶかる母から、かつての住所を聞きだし、私は探索の道を選んだ。

 目的地は、オンボロのアパート。

 休日になると、私は電車に揺られた。母の字で書かれた住所をにらむ。


「うーん……」


 文字羅列。懐かしさの欠けらも無い。

 見知った景色が、見知らぬ色に染まり始めると、私は不安を覚え始めた。本当にこの土地に住んでいたのだろうか。


 目的地の最寄駅へ到着。

 休みだからだろう。人が多い。

 交番で、地図と住所を照らし合わせてもらう。

 おまわりさん曰く徒歩でも十分にたどり着ける距離だと言うので、歩くことにした。雰囲気の違う人間を横目に見ながら、雑踏を後にする。


 歩き始めて、三十分ほどが経った。

 そろそろ疲れてきたぞ、と弱気が顔を覗かせたころ、それは自然と目についた。

 洋風の木造建築だった。

 色は、こげ茶。

 二階建てなのに、外階段が見あたらないのは、それが中にあるからだ。


 家屋の出入り口を縁取るように、コンクリートの塀が途切れている。

 門をかまえていても、おかしくない造りではあるが、見当たらない。

 塀に一枚の板が掛けてある。墨で文字が書かれていたようだが、どうにも判別が出来ないほどに、かすれていた。

 おそらく最後の文字は『館』なのだが、それ以外は読み取れない。


 いつごろ建てられたのかは知らないが、年号をさかのぼらなければならないことぐらいは、外観から容易に想像がつく。

 一見すると、今にも倒壊しそうな年月を感じさせるが、じっと見ていると、妙にしっかりとした印象を受けた。

 ただただ古いわけではない。

 むしろ威風堂々といった感じだった。


「ああ……」

 身体の中心を、ビビビ、と電気が走った。

「ここだ。間違いない……」


 記憶の箱が逆さにされると、辺り一面に映像が散らばった。

 あそこで遊んだ、あそこで転んだ、あそこで私は泣いていた——足は勝手に動き始めていた。

 駅前では感じなかった懐かしさが急にあふれてきた。

 

 二階建てのアパートには裏庭があったはず。

 建物の外壁と建物を囲うコンクリートの塀とが、細い通り道を作っていた。そこをすり抜けていけば、裏庭に出るはずだった。

 

 少しの罪悪感。

 住人に見つからないように、そろりと足を運んだ。休日の午前中ということもあってか、人の姿はない。


 壁と塀の間を通っていくと、プロパンガスが並べられた向こうに、開けた空間が見えた。

 視覚は記憶と合致した。そうそう、昔はここを通り抜ける事すら遊びの一つだった——思い出を動作でなぞりながら、裏庭へ足を踏み入れる。


 途端、視界が広がった。


「わァ」

 歓喜は言葉に宿った。

「やっぱり居た!」


 言葉を口にした瞬間だった。私は視線を一身に浴びていた。

 一斉にこちらへ顔を向けたモノ達——それは猫だった。

 アパートの裏庭には十数匹もの猫が居たのだ。

 にゃあ、とどこかで一鳴き。つられたのだろう他の猫も、みゃあ、と鳴いた。


「懐かしいなあ……」


 引き寄せられるようにして、私は更なる一歩を踏み出した。

 記憶に間違いはなかった。やはり裏庭には猫が居た。第一条件はクリアしたのだ。嬉しくなり、私の顔も綻んだ——その時だった。


「——ん? お客さん?」


 背後から、声がした。

 ドクンと飛び跳ねた心臓に釣られ、私は勢いよく振り返った。

 裏庭に面した一室の、ガラス窓が開いていた。

 そこに、一人の女性が立っていた。室内から庭を覗いている。


 ずいぶんと綺麗な人だった。

 私よりも年上かと思われるが、高校生ではなさそうである。

 ロングヘアは黒色。二重の大きな目は、うらやましいを通り越して美しい。

 小さな顔と細い四肢は、着せ替え人形のような比率なのに、着ている服といえば、七分たけのパンツと半そでのシャツだけ。

 なのに、それが垢抜けて見えるのだから美人は得だ。


 あれ、とそこで私は気がつく。この人、どこかで見たことがあるような——しかし、状況に圧迫された思考が走査をはじめることはない。


「あ、あの、すみません。怪しいものではないのです」

 心が、ざわざわと騒ぎはじめた。

「昔ここに住んでいて、懐かしくなって、それで久しぶりに来てみたんです」


 言葉がすんなりと浮かんでこない。

 理解されているだろうか、と不安になった。

 女性は、ニコリ、と笑った。染みのない笑顔。まるで透き通っているみたい。


「ああ……なるほど。君は、あの子か」

 女性は顔の横で人差し指を振った。

「小さい頃の面影がある。昔、お母さんと二人で、ここに住んでいたよね」


「え?」

 意味を理解するのに数秒を要した。

 止まっていた思考が、ゆっくりと動き始めた。計算、そして回答。

 私は、あっ、と声をあげた。

「もしかして、大家さん……ですか?」


 遠い記憶の中で、ぼんやりとした像が、焦点を結んでいく。

 アパートの絵を背景に置いてみると、じきに大家さんの姿が、定まった。それは目の前の女性と寸分違わぬ姿をしていた。


「そうそう」

 女性は——大家さんは歯をみせて笑った。

「覚えていてくれたんだ。嬉しいな」


「あの、はい……でも、あれ?」


 掘り起こされた記憶が、私に疑問を投げかけた。

 彼女は確かに大家だ。記憶どおりだと思われる。

 しかし、それで良いのだろうか。あれから、何年の時が経ったのだろう。

 目の前の彼女は、浮いたパズルピースのようにどこか、おかしい。


「あの」と私が問いを投げかけようとしたときだった。

「いま時間ある?」と大家さんが言葉をかぶせた。

「え? えっと……はい、あります」

「なら、少しだけでも上がっていってよ」


 大家さんは窓の向こうから、おいでおいで、と手を動かした。


「一人、引っ越してさ。いま、部屋の掃除をしていたところなんだけどね——せっかく来てくれたんだから、お茶ぐらいはご馳走したいんだ。急須と茶碗ならある。やかんもある。面倒ではないから遠慮はしないでね」

「あ、えっと、その……私はいいのですが、ご迷惑でなければ、その……」


 私は壊れたロボットと化した。

 見るに見かねたのだろうか。

 大家さんは、「ダメかな?」と可愛らしく首を傾けた。

 それは弾丸のような一言だった。

 私は一発で心臓を撃たれ、貫かれ、我を取り戻した。


「ダメではないです!」

 首振り人形のように、首が勝手に前後した。

「いただきます!」


 元気だね、と大家さんは嬉しそうに言った。

 変わらない笑み。記憶と一致する姿形。

 おかしい存在。

 でも、答えはこの人が持っている——私の第六感が囁いた。

 証拠が手に入るかもしれない——私の胸は高鳴った。

 あの日々は、それこそ童話の中の魔法のようだった。

 もう一度だけでいい。

 私は魔法を手に入れたい。

 それは証拠となって、私の記憶を裏付けてくれることだろう。


「良かった——それじゃあさ、ここから上がっておいでよ。不躾なお願いで悪いけどさ」


 大家さんは窓辺から離れ、部屋の奥へと消えた。

 目は、自然と大家さんの姿を辿っていた。視界に牽引されるようにして、私は彼女の背を追った。

 地面を擦る靴の音が、やけに大きく聞こえる。

 足の裏の感触までは覚えていないけれど、確かに私はこの裏庭を飛び跳ねていた。毎日と言っていいほど駆け回っていた。そして、そこには必ず猫が居た。


 にゃあ、とどこからか猫の鳴き声。つられるようにして、みゃあ、とどこかの猫も鳴いた。背中に当たり続けるその声は、過ぎ去った時間をチクタクと巻き戻していった。

 この時、私は過去に触れていた。

 だからこそ、大家さんの口から紡がれる数々の物語を聴くことが出来たのだろう。


 そう。

 そうなのだ。

 全てが終わった今だからこそ解る——それは、私にかけられた最後の魔法だった。

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