さようならのロードショー

はごろもとびこ

第1話

 麦茶のグラスも僕たちも、じっとしているだけで汗だくだ。

「窓開けたら涼しいって言ったやつ本当くそだな」

「いつもこうしてんだよ。開けないよりはマシだろ」

 雑に並んだグラスたちはテーブルに三つの輪を作っている。狭い部屋には二体、ほかほかの十代が転がっていた。

「夏のせいじゃない、お前がむさ苦しいんだ」

 冷房がきくまで時間がかかる、と主張した部屋の主は「くそ」と言われたことに反撃する。

「はあ? てめえがモグラすぎんだよ。夏なんだからもっと焼けろくそ」

「俺はくそじゃねえ」

 げしっ、とテーブルの下から脚だけ伸ばして蹴りを入れ、もう一回「くそはお前だ」と弱々しく細い脚をとばす。

「やんのかモグラ」

 こちらもとんできた足を軽く蹴り返す。その軽さに、モグラは小さく下唇を噛む。

「……無駄に黒光りしやがって。お前なんかやっぱりジーだ、ジー!」

「なん? ジーは速えんだよ」

 今度はすぱん、とジーの逞しい足がとぶ。

「いってえ、ふざけんなくそジー!」

「ジージーしつけえな。蝉かてめえは」

「うっせえ」

 二人は転がったまま蹴り合い、テーブルの脚も混ざって麦茶たちがカラカラ揺れる。

「大体お前は情緒がない」

 ひとしきり蹴り合ったあと、息切れ気味にモグラが言った。

「情緒? ああ、いとをかし、いとをかし……んあー、おかし食いてえ」

「それで本当に文系のトップかよ」

「健康的な高校二年生ですがなにかー?」

 色白で小柄な、細身のモグラに向けられた爽やかな嫌味に「はいはい」とモグラは返事をする。

「あー腹減ってきたあ」

 ジーの声とともに、なんとなく冷風が出始めた。頭上からカララン、と氷が溶ける音がする。「窓閉めなきゃ」とモグラは呟いたが起き上がる気力もなく、二人は肌を撫でる涼しさに自然と目を閉じてしまった。



――バンッ

「買ってきたぞ」

「うおビビったああ!」

 部屋に入ってきた男の声に、うとうとしかけていたジーが身を起こす。

「悪い」

「ノック! あと静かに開けろ、ドアが壊れる」

 両手で顔を覆いながらモグラは言った。こちらもまた、うとうとしかけていた。のっそり起きて窓を閉める。

「……悪い」

 部屋がまた狭くなった。エコバックをぶら下げた汗だくの、モグラでもジーでもない、大柄の男が増えた。

「サイダー三本とポテチと」

 男は買ってきた商品を淡々と濡れたテーブルに出していく。言わずもがなサイダーは一リットル一人一本だ。

「あとサラダチキン」

「サラダチキン?」

「うん」

 おお、とジーは身を引く。嬉しさの「おお」ではない。「こいつこの暑いのにパサパサしたもの買ってきて正気か?」の「おお」だ。

「スモーク味もあるぞ」

「……おお」

「さんきゅ、フジ」

 はいこれ、とモグラが割り勘したお金を払う。ジーも慌ててそれに習う。フジ、は富士山のフジ。見た目は強そうなのにゆったりとした良いやつだから、フジ。

「じゃあ、俺たちの夏休みに~乾杯!」

 いえーい、とジーが無理矢理音頭をとった。

「なんだそれ」

 苦笑しながらもモグラはぬるくなった麦茶で乾杯する。フジも静かにグラスを合わせる。底から水滴が垂れ、それぞれの服に点々と染みを作った。

「どうせならサイダーで乾杯のが良かったんじゃね」

「いやいや、せっかく麦茶いれてもらったんだから飲むだろ普通」

 なるほどね、とモグラは頷く。ジーはただのアホではない、常識的なアホだ。続いて三人は冷たいサイダーでポテチやサラダチキンを流し込む。

「このあとどうする?」

 ジーは言った。

「どうって、いつも通りゲームじゃねえの」

 はあ? というジーの声が壁に反響する。

「お前ら夏休みだぞ? 女もいねえのに部屋でゲームとかまじかよ」

「外、暑かったよ」

 フジがぼそっと言った。

「そうだけど!」

「なんだよどっか行きたいところでもあんのか?」

「ある! 海!」

「本当アホ」

 テーブルの下からモグラに向けて脚がとぶ。

「じゃあプール」

「水着ない」

「じゃあ買おう」

 嫌だ、嫌じゃない、とモグラとジーの掛け合いはしばらく続いた。結局フジが「せっかくだから何かしたいな」と言ったのでとりあえず三人で水着を買いに行くことにした。モグラはフジに弱いのだ。


 近くのショッピングモールまではモグラの家からバスで一本なのだが、さすが夏休み初日。炎天下に連なる長蛇の列を見て三人はバスを断念した。代わりに自転車で行くことになったが、モグラは面倒なのでフジの後ろに乗せてもらうことにした。

「ふううう夏だぜえ!」

「恥ずかしいからやめろって」

 ひゃっはー、と効果音ではなく口に出すジーにモグラは注意するが、坂道だから風の音で届かない。

「近道しよう」

 坂を下って、フジのひと言で大通りから一本横の道に入ることにした。モグラとフジが小学生だった頃の通学路だ。

「変わらないな」

 モグラが呟くと、フジはこくりと首だけで頷いた。懐かしさに、フジの漕ぐスピードも自然と緩くなる。あ、とモグラは何かを見つけた。

「止まって!」

 キキィ、とフジは急ブレーキをかけドリフトする。ゴムの焦げる匂いがたつ。

「どしたあ」

 前を走っていたジーが音に気付いて振り返る。モグラは自転車を降り、路地に入った。カラカラとタイヤをならして他の二人も付いていく。

「なんとか座。って、映画館?」

 割れた看板を見上げてジーは読んだ。

「子どものころよく来てたんだ」

 モグラは答えた。

「ふうん、こんなところに。俺は学区違うからなあ」

 知らなかったわ、とジーは頭をかく。

「入ってみようぜ」

 せっかくだし、とジーはスタンドを立て、看板下の階段をのぼり始める。

「ちょ、見られたらマズいだろ」

 小学生じゃないんだから、とモグラは続ける。

「でも気になるから来たんだろう」

 そう言ったジーにモグラは何も言えなかった。カタン、とフジもスタンドを立てて階段に足をかける。

「えっ、フジ」

「……行かないのか?」

 自分よりもタッパのある二人にいつもより高めから見下ろされる。モグラはその圧に負けて「あーもう知らねえぞ!」と二人にならうことにした。

「あちゃー、鍵かかってるわ」

 ガチャガチャとジーがドアを動かす。

「そりゃそうだな」

 フジも頷く。外階段をのぼりきった先にある、霞んだガラスドアを覗けばクーラーもカーテンも見当たらない。あるのは椅子と机と割れた窓だ。

「よく見えねえ」

 目をこらすモグラに続いてジーもフジも覗いたが、見えたものは同じだった。

「あー!」

 ジーが突然叫んだ。

「うるせえな耳元で!」

「あれ、机の上、雑誌!」

「雑誌?」

 モグラとフジはもう一度覗く。机に何かあるのは分かったが、果たしてなんだかは判らなかった。

「あれ、新世代パイクイーンのアミちゃんが表紙で、撮りおろしのとろとろカテキョーお姉さんセクシー袋とじが最高だったって評判の一冊だぞ?」

「さすが健全男子エロ河童」

 モグラが言った。夏休み前、ジーが女子から揶揄からかわれていたあだ名だ。フジは慣れない単語に顔を赤く染めている。

「いや興味ねえのかよ! あーじゃなくて! 今年の正月に発売だったんだ、あの雑誌。今年だぞ?」

 あ、とフジが気付いた。

「人が入ったってことか」

「そう!」

 ぱちんとジーは指を鳴らした。

「ここ以外の入口……」

 モグラの言葉に、フジもジーも辺りを見た。三人がやっとの窮屈な踊り場には目の前のドア以外何も見当たらなかった。

「くそお、アミちゃんが拝めるチャンスなのにい」

 ジーは腕で汗を拭う。密集していたからか息すらも熱い。諦めるか、と階段を降りて三人はジーのかごに入れておいたサイダーをあおる。

「あ!」

 大きなモグラの声に、ぶっ、とジーがサイダーを吹き出す。フジは首を傾げる。

「てめえいきなりデカい声――」

「ある、入口!」

 ぱあっと明るくなったモグラを見て、フジとジーは顔を見合わせた。


「……ここだ」

 モグラについていくと、確かにあった。

「裏口かあ」

 フジは思い出したように言った。古ぼけた木のドアが歪んで一センチほど開いている。

「なんか怖えな」

 ジーの言葉にフジは黙って頷く。隣の塀伝いに名前のわからない蔦が建物にへばりついて陽を遮っているのだ。鬱蒼とした雰囲気が手伝って、表よりいくらか涼しい。

「よし、入ろう」

「まじかよ」

 ジーの呟きを聞くか聞かないか、初めに拒んでいたのが嘘のようにモグラはさっさとドアを開けて中に入った。続いてジーとフジも入る。

「お、お邪魔しまあす」

「……まあす」

 室内は薄暗く、蜘蛛の巣が垂れて埃っぽい。机上にはまだ資料らしきファイルが何冊か残っている。

 ジーとフジがきょろきょろしているとモグラが奥から声をかけた。

「こっちだ」

「お、おう」

 向かえば、カンカンと金属音が鳴る鉄の階段があった。モグラはもう登り切りそうだ。音が出ないようにひいてある布も虫に食われて意味がない。踏み板のサビがひどくて、ジーとフジは仕方なく蜘蛛の巣だらけの手すりを握る。下が見えるつくりのため、それでも足がすくみそうになった。

「おい、どこだ?」

 フジがモグラに声をかけたが返事はない。なんとか二階へたどり着くと、窓から陽が射しいた。一部だけ色褪せたポスターやチラシがそれを物語っている。

「俺のアミちゃあん!」

「ああちょっと!」

 走り出しそうなジーの肩に手を置き、フジはモグラを指差した。ぼーっと掲示板の前に突っ立っている。掲示板には当時のままいくつもの紙が貼られていた。フジに呼びとめられたジーはモグラに近寄り、声をかける。

「どうした、なんかあったか」

「いや、何でもねえ」

「そうか」

 確認するとジーは「じゃあアミちゃん見つけようぜ」と雑誌を探し始めた。モグラは苦笑し、窓際に立つフジのそばに来た。

「フジ、ここ暑くないか」

「うん、暑い」

 必死に雑誌を探すジーを眺めながら、二人は話した。

「でも」

 フジは言った。「ん?」とモグラはフジの顔を見る。

「楽しいな、三人で遊ぶの」

 モグラは目を見開いた。ほとんど動かないフジの表情筋がわずかに口角を上げたのだ。

「そうだな、むさいけど」

 モグラは笑った。

「おかしいなあ、この辺だったんだけどな」

 ジーはまだ、ぶつくさ言いながら雑誌を探している。

「おい、そろそろ帰るぞ」

「ええー! 俺のアミちゃんは?」

 ジーはうだうだと身体を捻る。

「……帰らないなら置いてく」

 フジはそう言って内階段を降りていく。モグラも「ばいばい」とジーに手を振り階段を降りる。

「そ、それは勘弁!」

 慌てたジーも二人を追うように外に出た。「うおー」と言いながらジーは顔の前に手をかざす。薄暗い一階に戻ったあと外に出れば、遮られていた日光が三人の目を射した。

「行こうぜ、水着買うんだろ」

 モグラは荷台に跨がり最後に出てきたジーに声をかける。

「ああ。んーでもアミちゃん惜しかったなあ」

「……フジ、こいつ置いていこう」

 モグラの言葉にフジは頷き、さっと自転車を漕ぎ出す。

「え、ちょっと待てって」

 スタンドを上げ、ジーは急いでフジの自転車を追いかけた。


 水着を買い終えてショッピングモールを出る頃には、外はわずかにひんやりしていた。

 キコキコと自転車を鳴らして、ジーは蛇行する。カゴには派手なスポーツショップのビニール袋が三つ詰め込まれている。

「あーあー、アミちゅわーん」

「しつけえなあ、もう」

 フジの後ろで揺られながら、モグラは呆れていた。

「お前らの分チャリが重いわあ」

「フジのチャリはカゴねえんだからしゃーないだろ」

「……悪い」

「いや、フジは謝ることないよ」

「そーだてめえがチャリ乗らねえのが悪い、くそモグラ」

「あんだと黒光りジーが」

 ジーの自転車を蹴飛ばすには脚の長さが足りず、口だけで応戦する。水着を買ったもののプールには明日行くことになった。

「ところで、なんでいきなり映画館寄ったんだ?」

「え」

 モグラは詰まった。ジーは蛇行をやめて真っ直ぐ走る。

「まさか、こう、何かに呼ばれてーとか言うんじゃねえだろうな!」

「バカ、そんなわけねえだろ」

 モグラは少し、考えた。

「……懐かしいなって思っただけだ」

「ふうん」

 尋ねたわりにジーは素っ気なく相づちを打つ。

「ただ」

「ただ?」

「感想を書いた、昔。観た映画の」

「感想?」

 ジーは並走して聞いている。

「投書じゃないけど、あの映画館は感想を送ると返事が来たんだ」

 モグラが言う前にフジが説明した。

「えっ、俳優から?」

「館長からだよ」

 アホな返しにモグラはすかさず突っ込んだ。

「それに子どもだけで行くと事務所で遊んでくれたらしい」

 とフジは追加する。

「ああだから」

 裏口を知ってたのか、をジーは省略した。

「俺はさっき、事務所に初めて行ったけど」

 と、フジは言う。

「いい人だった、たぶん」

 そう続けたフジに「ふうん」とジーは再び興味なさそうに相づちを打った。

「で、自分の感想は残ってたのか」

 フジが黙ったままのモグラに聞く。

「まあ」

 モグラは短く答えた。フジはそれ以上聞いてこない。ジーはまた「俺もアミちゃん見たかった」と騒ぎ始める。

「ほんとアホ」

「うるせえくそ」

「あんだと?」

 モグラが身体ごと応戦するたびに、フジも一緒に揺れてしまう。

「お、落としちゃう」

「ああフジごめん落とさないで!」

「落とせ落とせ!」

「はあ?」

 蝉の声と相まって、オレンジ色の住宅街に三人の声が響く。ふざけながら、モグラは思い出していた。親にもフジにも話していない、十年前の夏の出来事を――。



「あれ、どうしたの」

 今日と同じ夏休み初日、七歳だったモグラ少年は映画館の裏口に立っていた。

「おじさん、きょう、おやすみ?」

 いつも空いている上の入口が閉まっていたので、裏口まで来たのだ。

「おいで」

 手招きされてモグラ少年は事務所に入った。いつももらうお菓子のお皿も、ジュースのコップも、物が詰まっていた棚には何もなかった。

「ごめんね、何も出せなくて。一人かい」

 うん、とモグラ少年は頷いた。

「おじさんもナツヤスミ?」

「はは、そうだねえ」

 館長は眉を下げて笑った。聞いてはいけなかったのか、子どもながらに察した。

「ねえ、みてみて!」

 モグラ少年は流行っていたモノマネを披露した。館長は手を叩いて笑ってくれた。よかった、とほっとしたことをモグラは覚えている。

「観ていくかい」

 館長は上を指差した。

「でも、おかね……」

「お代はさっきのモノマネでいいさ」

 おいで、と館長は先に内階段をのぼっていった。

「足が落ちないように、ゆっくりね」

 上から降ってきた館長の声に「はーい!」と返事をして、一段ずつのぼった。やっとの事で二階にたどり着くと、飾ってあるポスターの前で館長が言った。

「さあどれがいい」

 どれでもいいよ、と言われ悩んだあげく指差したのは、怪獣とヒーローが闘う特撮映画だった。

「ではどうぞ」

 館長は小さいモグラ少年に変わって大きな扉を開けてくれた。パッキンの擦れる音がした。

「席はどこでもいいよ」

「いいの!」

 モグラ少年はど真ん中を選んだ。

「ちょっと待っててね」

 館長はさらに上へ行き、セッティングをした。振り向くと小さな窓のカーテンの隙間から手を振ってくれた。モグラ少年も振り返した。一人だけ、いや館長と二人だけの鑑賞会。音も映像もいつもより全部大きく感じた。



――怪獣よ、もう終わりだ!


 スクリーンに映るヒーローはかっこよかった。


――お別れは潔く! さらばだ!



「オワカレハ、イサギヨク!」

 観たばかりのヒーローを真似ると、館長はほっこり笑った。

「すごいな、よおく似てる」

「ぼく、カンソウかいてくるね!」

 モグラ少年はそう言って帰った。とっておきの色紙いろがみに絵を描いた。怪獣とヒーローの絵だ。もちろん文も書いた。でも恥ずかしいから名前は書かなかった。

 次の日、モグラ少年が映画館にいくと誰もいなかった。上の入口はもちろん鍵がかけられていて、裏口も開かなかった。モグラ少年は感想を握りしめた。それから夏休み中何度も通ったが、一度もドアは開かなかった。

 迎えた夏休み最終日、裏口のドアに人影が見えた気がした。

「おじさん、おじさん!」

 ドアを叩いて声をかけたが、誰も出てきてくれなかった。

「おじさん、カンソウかいたよ! これ、おいてくね! よんでね!」

 無理矢理、隙間から紙を差し込んだ。そうしてモグラ少年は走って帰った。


「――曲がるぞ」

「おう」

 フジの合図で自転車は角を曲がる。横目に主婦たちが井戸端会議をしているのが映る。また、思い出す。


「あの映画館、ツブれちゃったんだって」

「ケイエイフシンらしいわ」

 大人たちが噂するのを聞いたのは、夏休みが明けてからだった。こそこそと飛び交う難しい言葉に、モグラ少年は小さな心臓をぎゅっと掴まれた気がしていた。


 急に映画館に惹かれたのも、夏休み初日だったかもしれない。モグラは思った。


「何もねえな」

 狭い踊り場で、三人で顔を寄せて中を覗いたとき、モグラはひらりと掲示板で舞う紙が見えた。見覚えのある、色紙だった。

「俺のアミちゃん~、諦めるかあ」

「そうしろ」

 ジーの言葉には適当に相づちを打った。それは確かにモグラの書いた紙だった。確かめたい、確かめたい。でも、入口は開かない。階段を降りても諦めきれず考えていたら、サイダーのプシュッ、で裏口のことを思い出したのだ。


「くん

の映画、楽しかったね

た絵は上手だよ

がとう、こちらこそ

  館長より」


 掲示板で舞っていたのは、やはりモグラ少年が書いた感想だった。半分は日に焼けてしまっていたが十分読めた。


――届いていたんだ、館長に。あの日の気持ちが。特別な、夏休みが。



「止まるぞ、左な」

 フジの声にハッとする。左脚を地面につけるように準備し顔を上げると、もう家の前だった。

「じゃあな、明日はプールだぞ!」

 通り道だからと付いてきたジーが叫んだ。

「おーまたなー」

 預けていた水着の袋を抱え、モグラは手を振った。フジもつられて手を振る。

「じゃあ俺も」

「ああ、ありがとう。また明日な」

 フジの声色が少し高い。どうやらプールが楽しみなようだ。じゃ、と漕ぎはじめて手を上げる。モグラも手を上げ玄関の門を開けたとき、ブレーキ音が聞こえた。

「思い出した!」

 フジらしくない大きな声だった。高揚した言い方に、モグラは思わず道路まで駆け出た。

「どうした!」

「名前!」

「な、名前?」

「映画館の、ずっと考えてたんだ!」

 看板も割れ、モグラもフジも幼かったため名前など忘れていた。

「カナウ座だ!」

「……あ」

 モグラは息を呑んだ。

「じゃあな」

 フジはきびすを返して帰っていった。モグラは「ああ」と言ったきり、しばらく言葉が出なかった。



――白い。いや、ここはカナウ座だ。いまさっき、おじさんに名前の由来を聞いたんだ。

「なんでカナウ座かだって?」

「うん」

「そりゃここにくる皆の夢が叶うように、という意味さ」

「ゆ、め?」

「魔法も、恋も」

「ヒーローも?」

「ああ。映画は夢だから、何でもできる」

「おじさん、あの」

「だからここは、夢が叶う場所だ」

「おじさん?」

「たくさんの夢を、ありがとう」

「おじさん!」



「おじさん!」


 はっ、と目を開ける。首筋には汗が伝い、目の前には天井が、頭の上で鳴り響く目覚ましが徐々に耳に入ってくる。ああ、夢か、とモグラは気付いた。

 コンコン、とドアが鳴る。枕に顔をうずめて「なんだよ起きてるよ」と返すと、ドア越しに母親が言った。

「ねーえ、フジくんたち来てるけど?」

「やべっ」

 モグラは飛び起きた。


「遅えよ、早く行くぞ」

「わりい」

 ジーにせかされ、荷物を背負ったままフジの自転車の後ろに乗せてもらう。

「近道しよう」

 フジが言った。また映画館の前を通るはずだった。

「あれ?」

 前を走っていたジーが止まる。

「どうした」

 フジも止まり、モグラはひょっこり顔を出す。

「工事だって」

 昨日はなかったのに。仕方なく引き返し、大通りからプールへ向かう。走っている間にフジが呟いた。

「昨日、母ちゃんに聞いたんだ」

「なにを」

「あの映画館、カナウ座」

「うん」

「もう古いから取り壊しなんだって」

 モグラはまた、ぎゅっと心臓が掴まれた気がした。久しぶりの感覚だ。

「引き返そうか?」

 フジは速度を緩める。自転車のタイヤが、カラカラ乾く。

「いや、いい」

 モグラは首を振った。

「それより早くプール行こうぜ、フジ楽しみだろ?」

 にやっと笑ってやると「そうだな」と照れたのが背中越しにわかった。

「よし、ジーを抜かすぞ」

「おう」

 モグラの号令で速度を上げ、フジはジーの自転車を追い越す。

「おい、てめえら、ニケツしてるくせに生意気だぞ!」

「フジくーん、後ろで雑魚が鳴いてますよお?」

「うるせえくそモグラ! おいフジ、待てこら!」

 フジはジーを振り返りもせず、鮮やかに街を走り抜けていく。

「フジ、突っ走れ! 一等賞だ!」

「おう!」

「待てくそ野郎ども!」

 フジは立ち漕ぎ、ジーも負けじと付いてくる。振り落とされないよう掴まりながら、モグラは「トリコワシ」の五文字を風に吹き飛ばしてもらう。





――お別れは潔く!




 あのヒーローのように、潔く。


 さようなら、カナウ座。

 さようなら、ヒーロー。

 さようなら、僕の特別な夏休み。



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さようならのロードショー はごろもとびこ @tobiko_hagoromo

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