第3話 緑と青が続いているだけ
「空、――空だ」
緑色の空。
湿った土の匂いと水を含んだ草の香り。いつもコトルが持ち帰ってきた香りだ。
緑色の地面、透明な風は僕を傷つけることは無かった。肌を焼く空は今天にまでそびえる林檎の大木が、呪いのように枝を広げて、覆っている。
肺に入る清々しい風は僕には少しだけ痛い。
月も忌々しい太陽も今は無い。
星の代わりに金や赤の林檎が点々と浮かぶだけ。その隙間を縫うように、淡くなった陽の光が僕に柔くあたる。
綺麗な世界だ。--それなのに、僕はこの世界を疑いつつある。
コトル、彼女を昼に例えるなら弟の僕は夜だ。僕は、コトルを羨ましがっていた。憎んでいた、と言ってもいいかもしれない。僕にない全てを持っていたから。朗らかで、怖いものなしで、はじけるように笑い、優しかった。僕たちを結びつけていたのは病気で、僕たちにとっての太陽は死を早める。それに加えて僕は醜い。
僕の身体や顔は薄闇が守ってくれていた。耳元で呪いのように可愛い妹が、今はもう形のない声だけとなり、囁く。
「モスタル、太陽よ、太陽が無けりゃ、だめなのよ」。
世界はあの小さな家だけだった。――いま僕一人には広い。――コトルと違うこの姿をみんなきっと笑うだろうと思ったからだ。
精霊のように美しいコトル。花のように繊細なコトルは太陽が僕たちの肌を焼くというのに、陽の光を浴びた。花をいっぱい摘んで帰って来て僕の頭に花冠を作った。
風が髪を撫でて行った。呼吸はさっきよりも震えてはいない。僕は今、居なくなった妹のために歩く。特に急ぐわけでもないのに草原が果てしなく続くように感じられる。一歩踏み出すことに僕は変わっていく。ずっと遠くで雷鳴が聞こえて腹に響いている。それともまだ僕は震えているのだろうか。――僕が怖がっているのはいったい何だろう。
「コトルが居なくなってしまった世界で僕が一人で生きること」
「外に初めて出たこと」
「夕闇」
そのどれも非現実的だ。
そして、あの林檎の木。
今はその口を完全に閉ざして緑の葉と、太いねじれた腕のような枝で空を覆ってしまった。
ある晩、僕はコトルの看病をしていた。彼女は祈る体力もなく、僕は祈ることに疲れ果て、彼女の終わりが刻々と近づいていることをたぶん知っていた。陶器よりも白くなっていく彼女の肌をできるだけ見ないように目と感情を離していた。
窓ガラスががたがた揺れた。と思うと、猛るようなうなり声と例えればいいのか、ライオンが泣いているような声が聞こえた。
「あの子をこんな風にしたのは誰だ」とその声は言った。
そして、
「あの子を連れては行かせない」
それからだ。あの木が空を覆い始めたのは。あの木は空が、太陽があの子を連れて行くものだと思っている。
無理もない。いつも、空があまりにも偉そうに僕らを見下ろしているものだから。
コトルは最期に僕に言った。林檎の木をもとに戻して、いつもの太陽と空と月と、――つまりコトルが元気だったころの世界に戻して欲しい、彼女の背に丁度良かったころの林檎の木に会いたい、と。僕は無理だと言った。僕が外に出て、木のもとへ行って、林檎に説得するなんて無理に決まっている。
コトルはいつものように僕をからかうと、
「よわむしね」――でもそれは、とても小さな声で--
世界から消えてしまった。
--そして部屋の影には、あいつが居た。
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