第三十八話 思い出の地




 コテージを後にし、私たちはナポリ方面へ車で戻りました。イタリア滞在残りの二日、マテオは私をアマルフィ海岸とナポリに連れて行ってくれました。


 そして今私たちはナポリからの飛行機でヴェルテュイユはボードゥロー国際空港に向かっています。


「イタリアに連れて来てくれてありがとう、マテオ。とても楽しかったわ」


 マテオが私の周りの人々に協力を頼んで何カ月も前から念入りに計画した甲斐があったというものです。


「また一緒に来よう。今回は親戚を訪ねる時間もなかったし、他にも君に色々見せたいところが沢山ある。ハネムーンに戻って来るっていうのはどうだ?」


 マテオに求婚されたのですから私たちはいずれは結婚することになるのですが、まだそんな実感がありませんでした。


「新婚旅行でイタリアに……素敵だわ」


「何だ、反応が薄いな。君が別のところに行きたいのならそれでもいいが」


 マテオに顔を覗き込まれました。


「私、何だかこの数日間であまりに色んなことが起こったから、頭がついて行ってないというか……私本当に貴方の奥さんになるの?」


「どうしてそこが疑問形なんだ?」


「まだ夢を見ているみたいで、実感がなくて信じられないの。こんなこと言ってごめんなさい」


 マテオはそこで私の左手を取りました。


「そんな時にはこの指輪の内側を見てみろ」


 彼が私の指から指輪を抜き取って見せてくれます。


「まあ、気付かなかったけれど、私たちの名前が書いてあるのね」


 カサンドラ&マテオ、という文字に彼の誕生日、要するに私たちが婚約者同士になった日の日付が刻まれています。


「ありがとう、マテオ。婚約者という響きにも慣れないとね」


「それでもすぐにフィダンツァータから奥さんになるけどな」


「そうだわ、婚約者や配偶者だったら貴方が緊急入院しても病院の受付で部屋番号を教えてもらえるわね。もうこの春は大変だったのだから! 貴方の居場所を教えてとクレールを半分脅すような形で病院に乗り込んで……」


「いや、もう入院はこりごりだ。縁起でもないこと言うんじゃない、キャス」


「だったらもう事故になんか遭わないで」


「ああ、君の悲しそうな顔も涙も見たくない」


 マテオはしっかりと私の肩を抱いてそう言ってくれました。




 ボードゥロー空港に着いた私は安堵の気持ちもありました。


「ああ、ふるさとに帰ってきたわ。言葉が通じるって何てありがたいのかしら! やっぱり仏語は耳に心地良く響くわ」


 マテオに何か反論される前に私は付け加えました。


「ヴェルテュイユ国内だと声を大にしてこういう事を言えるわよね。あ、もちろん貴方のご家族の前では黙っています」


 彼は苦笑いしているだけでした。


「キャス、こっちだ。レナトたちが出口に迎えに来ている」


「マテオ、そう言えば貴方の車は? まだロリミエ空港の駐車場にあるの?」


「いや。レナトが俺達の出国後直ぐに取りに行ってくれた」


 レナトさんはラモナさんと一緒に今日その車をボードゥローまで持って来てくれたのです。


「お帰りなさいませ、マテオさま、カサンドラお嬢様」


「お前たちにはもう言ってもいいだろう。キャスはもうすぐお嬢様からシニョーラ・フォルリーニになる」


 マテオが私の左手を二人に見せています。レナトさんは満面の笑みで、ラモナさんは歓喜の声を上げて祝福してくれました。


「まあ、おめでとうございます!」


「ありがとう。私とても幸せで、何だか雲の上を歩いている気分なの」


「それでは、私たちは別荘でお待ちしております」


 レナトさんたちとは空港で別れ、私たちはマテオの車でボードゥロー中心街に向かいました。


「ボードゥローには三泊する。二年前と同じホテルだ。もちろん一部屋だけでいいよな?」


「ええ。懐かしいわね」


「それからサンダミエンのあの別荘で過ごして、旅行最終日に君の御実家に挨拶に寄っても良いか?」


「ええ、もちろんよ。ホテルに着いたら両親に電話して確認するわね」


 家の中の掃除をしておくように両親に言わないといけません。我が家は私にとっては居心地の良い空間ですが、お客さまを招くにはあまりにも物があふれかえっているのです。


「来週俺達が来ることは既に了承してもらっている。正確な日時は改めて連絡しないといけないが」


「いつの間にそんなこと……」


「君の卒業式の少し前だったと思う。スザンヌに御両親の電話番号を教えてもらった。お兄さんにも知らせている」


 私が既にマテオと完全に同棲していると兄と両親に報告したのも同じ頃でした。彼らはもう既にマテオが私に求婚することを知っていたのかもしれません。


 イタリアに着いてから、マテオと外国旅行中だということも兄にメールで一応報告しましたが、そう驚いた様子でもありませんでした。リサの言う通り、皆が何もかも知っていて、私だけが蚊帳の外だったのです。


 それは良いのですが、マテオと一緒に押し掛ける前に両親には色々と心構えをしてもらわないといけません。


 ホテルに着いて、マテオがシャワーを浴びている間に私はまず兄に電話をしました。


「リック、いつから知っていたのよ?」


「はぁ? 何のことだ?」


「とぼけないで! 私がイタリアに拉致同然に連れ去られることや、お父さんたちのところにマテオが挨拶に行くこととかよ!」


「いや、そんなこと俺には事後報告に決まってんだろ」


「しらばっくれないで」


「とにかく、お前たちが本当に一緒になりたいのなら、俺はもう何も言わない。父さんも母さんも、お前が婚期を逃す前にさっさと嫁に行くなら大喜びだ。少々の格差は目をつむってくれる」


「リック、ありがとう。けれど私たちまだ具体的なことは何も決めていないのよ」


「心配するな、父さんにはいきなり孫は何人居てもいい、なんて不躾な発言はするなとしっかり言い含めておく」


「そちらはまだリックに任せるわ」


「勘弁してくれよ。うちは三人で十分だ。もう生産ラインは撤収している」


 私たちはボードゥローの街で二人で一緒に行った場所などを再び訪れて、二年前のことを懐かしみました。


 そしてサンダミエンの別荘に向かった私たちはラモナさんたちに温かく出迎えられました。それでも彼らは私たちの滞在準備に寄っただけですぐにロリミエに帰ってしまったのです。ということで広い別荘でマテオと二人きりのんびり過ごすことができました。


 ところで、リリアン一家所有だった隣家の別荘は昨年売りに出され、今は新しい持ち主が建物全体を改装しているところでした。




 私の実家に行く日、珍しくマテオが私より早起きしています。しかも、既に着替えているのです。


「キャス、本当にこの格好でいいと思うか?」


 私はまだ寝ぼけまなこで横になっているのに、先ほどからマテオが髪型がズボンが靴下が、とうるさくてしょうがありません。


「貴方は何を着ていても、髭を伸ばしっぱなしでも素敵よ、それに……」


「フリ〇ンだともっとステキ、と言われても、悪いが今朝はそう言う気分じゃない。俺は真剣に聞いている」


「田舎町に私の両親を尋ねるのにそんな服装に気を遣う必要はないと言おうとしただけです!」


「君の御両親に良い印象を与えたいから、今朝も早く目が覚めてしまった」


「マテオ、貴方でも緊張することがあるの? 何でもそつなくこなしていない?」


「キャス、君は俺を何だと思っているんだ? 大きな仕事がかかっている時はもちろん、私生活だって君に交際や結婚を申し込んだ時も今までになく緊張したに決まっている」


「えっ、そうだったの? だって貴方は私の前ではいつも自信満々だから。そうね、貴方について新しい発見がこれからもあるでしょうね」


 マテオは目を細めて本当に幸せそうな笑顔で私に軽くキスをしてくれました。マテオは結局私が贈ったシャツとネクタイを着て行くことにしたようです。


 両親はマテオを大歓迎してくれ、婚約を手放しで喜んでくれました。その日は兄一家も実家に来てくれて、賑やかな一日となりました。マテオは緊張していると言いながらも、私の家族に対しても礼儀正しく接してくれました。そして今日初めて会う私の両親や義姉とすぐに打ち解けていました。


 家族皆に婚約を祝福されて、私は改めて幸せを噛みしめています。




***今話の一言***

フィダンツァータ

婚約者


山あり谷ありだったこのお話も次回、最終回です。

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