第三十七話 心は君の手の内に
私は次々に走って来る参加者を見届けながら、マテオのことを想っていました。
事故に遭ってしまった彼ですが、適切な治療を受けられ、本人の努力もあってほぼ完治しました。そして今日という人生の大きな節目に記念になることをしたかった彼の気持ちは良く分かります。
「でも、長距離走に向けて練習していると言ってくれたら良かったのに……カロリー計算をして鍛錬するための食事メニューだって私が……」
そう言えばマテオは怪我をしてからというもの、お酒をほとんど飲まなくなりました。お肉は赤肉が好きなのに最近は鶏肉や魚介類を主に食べていて、全体的に食事量も減っていました。彼は食生活まで自分で管理しているのです。
「新米だけど管理栄養士なのに、私ったら全然マテオの役に立っていないわ。いくら彼が秘密にしておきたかったとは言え」
それでも、長距離レースのための食事メニューを考えてくれ、とマテオに頼まれたとしたら、私はいつどこでどのくらい走るのか詳細を聞くことでしょう。
このイタリア旅行計画と共に私に内緒にしておくために何も言わなかったのです。いかにもマテオらしいです。
私はゴールの少し手前でマテオを出迎えることにしました。大部分の十キロ走者はもう走り終わったのではないかと心配になってきた頃に、遠く向こうにマテオの姿が見えました。
「マテオ、ゴールはもうすぐそこよ!」
私は大きく手を振って彼を応援します。ゆっくりながら力強い足取りで走り続ける彼は真剣な表情です。私の姿を見て少し笑顔を見せる余力も残っているようです。
「ほら、あと二百メートルもないわ!」
他の走者も周りには居ないので私は彼に駆け寄ってゴールまで伴走しました。最後は彼に手を取られ、歓声の中で二人一緒にゴールです。ゴールの十数メートル先まで進み、係の人からメダルを渡されるとマテオは私の体をしっかりと抱きしめました。
「マテオ、完走おめでとう、それからお誕生日もおめでとう。素敵な記念になったわね」
私は安堵で少し涙を流していました。
「ああキャス、ちゃんと最後まで走れて本当に良かった」
「ほらこっちに来て、座って休んでね。お水飲むでしょう?」
「その前に記念をもう一つ付け加えたい」
「え、もう一つの記念?」
彼は体を少し離して私の両手を取りました。そしてその手を少し持ち上げ手の甲に軽く口付けると、なんと私の前に
「ラ ミア ぺルラ ペルティオーザ……」
そこで彼はポケットから何かを取り出し私の前に差し出します。周囲の人々が静まり返ったような気もしました。というより、私の耳が既に周りの音を拾っていなかったのです。彼の手の中にあるものは小さな白いクッションに乗った指輪でした。
マテオはイタリア語で話し続け、もちろん私はその一割も分かりませんでした。それでも状況から何が起こっているかはもちろん理解出来ましたし、あまりの驚きに私の涙も止まっていました。
「……シニョリーナ カサンドラ・デシャン、ヴォイ スポザルミ?」
流石に私も最後の一文の意味だけは分かります。すぐにでもはいと言いたかった私ですが、何だか夢を見ているような気分で半分信じられませんでした。
「マテオ、貴方に答える前に、モリエールの言語でも繰り返してくれる? だってきちんと理解して返事したいもの」
「もちろん、何度でも何語ででも言うさ」
後日聞くと、私が『シ』と直ぐに答えないので周りが心配してざわざわし始めたそうでした。そしてマテオが
「愛しいカサンドラよ。君に出会ってからというもの、俺の心は常に君の手の内にある。良い時も苦しい時も君は俺の側で支えてくれた。君なしの人生は意味がない。残りの人生を共に過ごしたいのは君以外には居ない」
止まったはずの私の涙が再び流れていました。
「マドモアゼル カサンドラ・デシャン、愛しています。私と結婚してくれませんか?」
「はい。私も貴方だけを愛しています」
「ああ、君の承諾が最高の誕生日プレゼントだ」
マテオがそこで指輪を私の薬指にはめてくれ、立ち上がった彼に私はきつく抱き締められました。そこで周りの人々が割れるような歓声と拍手で祝ってくれているのに私は初めて気付いたのでした。私たちはしばらく抱き合ったまま、熱い口付けを交わしていました。
「ありがとうマテオ。良かった、仏語でも言ってくれて感動したわ」
「英語でも繰り返そうか?」
「いいえ。もう二か国語で言ってもらったから。やっぱり仏語が一番美しくて愛を語るには適していると思うし」
「おいキャス、誇り高きイタリア人に対して喧嘩を売っているのか? 今の一言で君は俺も含むこの広場に居るほとんどの人間を敵に回したぞ」
もちろんマテオは怒ったわけではなく、苦笑いをしています。
「私は誇り高きヴェルテュイユ人ですもの。それでも、貴方のご家族の前では絶対言わないわよ」
「それは分かっているさ」
マテオはすぐにでもコテージに帰りたいと言うので私たちは今朝来た道をゆっくりと手を繋いで歩きました。煌めくダイヤモンドの指輪がはまっている手をかざしては何度も眺め、私は感嘆のため息をついていました。
「気に入ったか?」
「ええ、とても綺麗ね。でも、まだ実感が湧かないわ。ねえマテオ、これをずっとポケットに入れたまま走っていたの?」
「いや、指輪は左手の小指にはめていた。落としでもしたら泣くに泣けないからな」
「まあ、マテオ。このイタリア旅行に十キロ走に完走後の求婚にと準備が大変だったでしょう?」
「君が驚く顔が見られるならと計画から実行まで何もかもが楽しかった。公衆の面前でのプロポーズなら君もノンと言わないだろうと思ったしな」
確かに二人きりの時に結婚を申し込まれていたら私は
「断るだなんて。私の中ではもうずっと前から貴方以外の人と将来を共にすることは考えられなかったと言うのに……」
「ああ、キャス。早く二人きりになりたい。急ぐぞ」
マテオはコテージへの坂道を私の手を引っ張りながら速足で駆け上がろうとしています。
「マテオ、長距離を走った後に無理しないで。それに帰ったらお風呂に入って休まないとだめよ!」
「君が風呂に入れてくれてマッサージしてくれたら休む」
「まあ、また我儘言い放題のマテオに戻ってしまったわ!」
「頑張った俺にはその権利があるし、今日は誰の誕生日だ、キャス?」
「……確かにね、いいわよ。貴方の言う通りにします」
「おお、俺の言うこと何でもしてくれるのか?」
「もう、調子に乗らないで!」
そんなマテオでしたが、コテージに戻って入浴した後、私がマッサージを始めて数分で眠ってしまいました。十キロ走を無事に終えて安心したから疲れがどっと押し寄せたのでしょう。
マテオの目が覚めたのは夕方近くになってからでした。一人で寝てしまったことを謝られましたが、ひと眠りしたことによって彼がすっきりした顔をしていたのが何よりです。
その夜はコテージの庭で食事をしました。私が冷蔵庫にあった肉や野菜を外のグリルで焼いただけです。
マテオは無事に目標の十キロを終えたからか、久しぶりにワインを開けていました。私は彼に誕生日祝いの小さな箱を渡しました。
「マテオ、ささやかだけどこれは私からの贈り物よ」
濃い青のネクタイと
「君がくれたあのシャツに合いそうだ、ありがとうキャス。今日はもう十分祝ってもらえたのに、俺は幸運だ。更にプレゼントまで貰えるとは予想外だった」
「何から何まで予想外なのは私の方よ」
本来の予定では、私が予約したボードゥロー旧市街のレストランで洗練された仏料理のコースと誕生日ケーキを食べた後にこの箱を渡す筈でした。
実際はイタリア南部の山中でケーキもなく、食事はとても簡単なものです。それでも一番の大きな違いとは、私はマテオの恋人としてではなく、婚約者として彼の側に居ることでした。
***今話の二言***
ラ ミア ぺルラ ペルティオーザ
私の大切な人よ。直訳は私の貴重な真珠
シニョリーナ カサンドラ・デシャン、ヴォイ スポザルミ?
カサンドラ・デシャンさん、私と結婚して下さいますか?
ムッフッフ……
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