(十二)

 手にしたエコバッグにいっぱいの食材を買い込んだ蘭風は、アパートへの帰り道をゆっくりと歩いていた。


「桜が、きれい……」


 車道沿いには、満開となった桜が整然と列をなしていた。木々の間を風が通り抜けるたび、薄いピンク色の花びらがパラパラと舞い踊る。蘭風は、そんなおだやかな春の息吹を全身に感じていた。


「んっ……。っくああ……」


 蘭風は午後の陽光を浴びながら、大きく腕を伸ばし、息をついた。



 やがて、アパートの入り口へとたどり着いた蘭風は、そこにひとりの人影がたたずんでいることに気がついた。


「あら、春希さま、こんにちは。いま学校からのお帰りですか?」


 蘭風の問いかけには答えず、春希はゆっくりと彼女の方を向き直った。春希は、通学用のカバンと、部活のラクロスで使うスティックを肩に掛けていた。


「……あんた、いったい誰?」


 低い声で聞く春希に、蘭風はキョトンとしながら言い返す。


「え? 私、蘭風ですけど……」


「そうじゃなくて、何者なの、あんた?」


「あ……えーと、時雨馬さまの母方のおじさんの、イトコのお姉ちゃん……ですよ」


「ウソ」


 蘭風の言葉をさえぎって、春希は言葉を続ける。


「ウチの親に聞いたの。みやこおばさんに、兄弟なんていないわ。イトコなんて、でたらめよ」


「え? ええと……」


 春希から視線をそらし、考えをめぐらす蘭風。ふたりの少女の間を風が吹き抜け、無数の桜の花びらが舞い散っていった。


「時雨馬は……」


 春希は言葉を続けた。


「……時雨馬とは、ああやって毎日毎日、この部屋でいっしょにごはん食べたり、いっしょにお風呂入ったり、いっしょに寝たりしてるの?」


「トイレは別ですよ?」


「当たり前でしょっ!」


 こらえきれず、とうとう春希は大声を上げた。


「あんた、いったい何が目的なの? なんの関係もないのに、どうして時雨馬の世話なんか焼いてんの? 言っとくけどね、時雨馬んちにお金なんてぜんっぜんないんだからね。いまだって、交通事故でお父さんもお母さんもいっぺんに死んじゃって、ひとりぼっちでこんな築三十年のボロアパートで暮らしてんの! たったひとりでよ? まだ中学生なのに。だから……、だから……」


 早口でまくし立てると、春希はそのままうつむいた。


「だからもう、時雨馬に近づかないで……」


 蘭風は、春希が落ち着くのを待って、声をかけた。


「それだけ、ですか?」

「……え?」


 思わず、春希は聞き返した。


「あのぅ私、これからお夕飯の用意しなくちゃなりませんので、これで……」


 そう言って、アパートの階段を上がろうとする蘭風を、春希はあわてて呼び止める。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ! まだ話は終わって……」


「あなたに、なにができるんですか?」


 蘭風は春希の方を振り向くと、そう言った。


「……!」


 絶句する春希。


「どうぞ、ご安心ください。時雨馬さまは、私がお守りしますから」


 そう言って微笑む蘭風に、逆上した春希は思わず、持っていたラクロスのスティックを彼女に向かって振り下ろした。


「う、うるさいっ!」


 クロスの先端の、網のついたヘッドが蘭風の頭を捉えたと思った瞬間、蘭風はすでにそこから、階段の最上段にまで跳び退いていた。それは、常人にはあり得ないほどのジャンプ力だった。

 蘭風は、無言のまま春希に向かって丁寧にお辞儀をすると、そのまま二〇一号室のカギを開けて、部屋の中へと消えていった。そしてそのあと、ドアのカギを閉めるカチャンという音が、春希の耳に冷たく響いた。


 春希は全身から脱力したように、その場にしゃがみ込んでしまった。


「時雨馬ぁ……」


 うつむいた春希の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


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