(十一)
次の日、時雨馬を学校に送り出した蘭風は、スーパーや専門店がテナントで入っている駅前ビルへ買い物に出かけた。
東京を訪れるのは、今回がはじめてというわけではなかったが、スーパーどころかコンビニすらない「
「わあ、きれい……。それに広ぉーい!」
そんな声を上げる蘭風の横を、母親に手を引かれた五歳くらいの女の子が不思議そうに見ながら歩いてゆく。それに気がつくと、蘭風は微笑みながら女の子に向かって小さく手を振った。
「ふふ、ばいばい」
色とりどりの商品で埋め尽くされた店内に足を踏み入れ、蘭風はすっかりウキウキした気持ちになっていた。
しばらく、各フロアをぶらぶらと散策したあと、蘭風は地下の食料品街へとやって来た。なにしろ今日は、食事の材料を買いに来たのである。
「さて、と。今晩は何にしようかな……」
財布の中身は、決して潤沢ではなかったが、時雨馬の顔を思い浮かべながら夕食の献立に思いをめぐらすことに、蘭風は静かな喜びを感じていた。
青果売り場を通ったとき、蘭風は商品棚のある果物に目がとまった。
「あ、メロンだ」
それは、季節的にはちょっぴり早めのマスクメロンだった。いかにも高級そうな木の箱に収められたそのメロンは、棚の最上段に鎮座していた。
「いい香り……」
メロンは、蘭風の大好物だった。彼女はゆっくりと手を伸ばし、ひび割れた表面の模様を指でそっとなでながら、昔のことを思い出していた。
「
それは、十年前のことだった。
「時雨馬さまは、ちょっと恥ずかしがっていらっしゃるようですなあ?
時雨馬の父、重馬の御守刀を務める
「どうした、時雨馬」
「……」
そのとき、蘭山が物陰に隠れてこちらを見つめている少女に気づき、声をかけた。
「
「は、はい! とうさま!」
はきはきとした声でそう答えると、蘭風は小走りでやって来て、神条親子の前にちょこんとひざまずいた。
「おはつにお目にかかります! わたくし、『おにがみらんふう』ともうします。こんごとも、よろしくおねがいもうしあげます!」
「まあ、元気で立派なご挨拶ね、蘭風ちゃん。いまいくつ?」
都の問いに、蘭風は答えた。
「七さいです!」
「そうか……。よろしくな、蘭風ちゃん」
重馬は、優しく微笑みながらそう言った。
「はい!」
すると蘭山は、娘に言い聞かせるように話しはじめた。
「蘭風、こちらの時雨馬さまは、
「そうしゅさま……?」
「お前が将来、命を懸けてお仕えする方なんだぞ」
「はい! ……しぐまさま、らんふうです。よろしくおねがいいたします!」
そう言って、かしこまっておじぎをする蘭風。すると時雨馬は都のそばを離れ、ゆっくりと蘭風に近づいていった。
「……うん、よろしくね、おねえちゃん……」
そう言って時雨馬は、ちょっとだけ微笑んだ。それは、幼い少女の心に、小さな笑顔が刻み込まれた瞬間だった。
その明くる日、蘭風は熱を出して寝込んでしまった。どうやら、知り合ったばかりの時雨馬と仲良くなろうとして、はしゃぎすぎたらしい。
「しょうがない。今日はおとなしく寝ておきなさい、蘭風」
「ふぁい……」
そう言って、蘭風の寝ている部屋のふすまを閉める蘭山。すると、その向こうから時雨馬の声が聞こえてきた。
「ねえ、おねえちゃんは?」
「あ、時雨馬さま、いけません。今日は娘は熱を出しておりますので、あちらで……」
蘭山が時雨馬にそう言い聞かすのを、蘭風は熱に浮かされながら聞いていた。
「ああ……。きょうも、しぐまさまとあそびたかったな……」
そのとき蘭風は、障子に時雨馬の影が映っているのに気がついた。部屋の中で寝ている蘭風の様子をうかがっているようだった。蘭風は思わず布団から手を伸ばそうとしたが、時雨馬はそのまま何も言わず走り去ってしまった。
「ああん、しぐまさまぁ……」
熱のせいもあってか、悲しい気持ちに覆い尽くされるようになりながら、やがて蘭風は眠ってしまった。
それからしばらくたって、蘭風の寝ている部屋のふすまを、蘭山があわてて開けながら言った。
「蘭風、こちらに時雨馬さまがいらっしゃらなかったか?」
「……いえ、さっきから、こちらには……。どうかしたのですか?」
目を覚ました蘭風は、そう答えた。
「どこにもお姿が見あたらないのだ。いったいどちらへ……?」
それを聞いて、起き上がろうとする蘭風。
「わたくしも、そちらへまいります」
「いかん、お前はまだ寝ていなさい」
「でも、とうさま……」
「時雨馬さまはわしらがお捜しする。起きてはいかんぞ」
そう言うと、蘭山はまた去っていった。幼い時雨馬のことが心配で、いてもたってもいられない蘭風。だが、いまだ熱も引かないままの彼女には、どうすることもできなかった。
「……」
それからまた、長い時間がたった。
やがて陽は落ち、すっかり夜になってしまった頃、蘭風の部屋に向かってくる足音と、人々の声が聞こえてきた。
「時雨馬! いったいどこへ行ってたんだ?」
父親の重馬の問いにも答えることなく、時雨馬は蘭風の部屋の前で止まると、ガラッと障子を開けた。
「しぐまさま……」
「おねえちゃん、これ、あげる」
時雨馬は手にしていた紙袋を、蘭風に手渡した。その中には、何か大きな果物が入っていた。
「これは?」
「メロン!」
そのとき、時雨馬の後ろから都が話しかけてきた。
「時雨馬、そのメロンどうしたの?」
「買ってきたの」
「ひとりでか? しかし、このあたりに、そんなもの売ってる店はないだろう」
重馬の問いに、時雨馬は答えた。
「でんしゃとバスにのってね、町までいってきたんだ!」
「なんと……。まだ四歳でいらっしゃるというのに……」
それを聞いて、感心したように言う蘭山。はじめて鬼神の里を訪れたというのに、時雨馬はちゃんと道順を覚えていて、一日かけて町まで往復してきたのだった。
「だって、おねえちゃんカゼひいたんでしょ? カゼにはぜったいメロンだもん。ねえ、ママ。これ切ってあげて」
時雨馬の両親は、心配をかけた息子を怒る気持ちをすっかりなくしてしまった。それよりも、甘えん坊だった時雨馬が、今日たったひとりで成し遂げた冒険のことを思い、都は思わず時雨馬を抱きしめた。
「もう、あんたって子は……」
おそらくは、手持ちの全財産をはたいたと思われるプリンスメロンをカットして皿にのせ、時雨馬は布団から身体を起こした蘭風に差し出した。
「しぐまさま、あの、わたくし……」
メロンのような高級な果物など、口にしたこともない蘭風は、どうしていいかわからず戸惑ってしまっていた。時雨馬は、スプーンで一番上の甘い部分を丁寧にすくった。
「はいあーんして」
「あ、あーん……」
言われるままに、大きく口を開ける蘭風。時雨馬がメロンを食べさせると、その口の中にはじけるような歯ごたえと、爽やかな甘酸っぱさが広がった。自分の周りを取り巻いていたあつぼったい霧が、少しずつ晴れていくような気がした。
「プリンスメロンだよ。おいしい?」
「はい、とっても甘くておいしいです……」
はじめて経験するメロンの高貴な味に、蘭風は目の前の少年を重ね合わせていた。
(
「ほら、ぜんぶたべてゲンキだしてね、おねえちゃん」
「ありがとうございます、しぐまさま……」
そんなふたりの子どもたちの様子を、親たちはなんとも言えない表情で見守っていた。
あれからもう十年。時雨馬さまも私も、すっかり大きくなりましたね。
時雨馬さまは、あのときのこと全然覚えていらっしゃらないですよね。
でも私、あれよりおいしいメロン、いちども食べたことないんですよ。
蘭風は、青果売り場に陳列されている木箱入りのメロンから静かに指を離して、再び歩き出していた。
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