(十)

「時雨馬さま、お風呂が沸きましたよ」


「うん、ありがとう」


 夕食をすませて、テレビを見ながらくつろいでいた時雨馬に、蘭風は声をかけた。時雨馬はタオルと着替えの用意をすると、風呂場の方に向かっていった。


「じゃ、お先に」

「はい、どうぞ」


 服を脱いで洗濯機の中に放り込むと、時雨馬は風呂のガラス戸を開けた。真っ白い湯気で満たされた空間に、時雨馬は足を踏み入れる。


 かけ湯をして、ゆっくりと湯船に浸かる時雨馬。


「はあ〜」


 四十三度と、ほどよい温度に沸いたお湯に浸かり、時雨馬は思わず大きな息を吐いた。

 今日一日の緊張と疲れが、湯船の中で少しずつ解きほぐされていく気持ちよさを、時雨馬は全身で感じていた。安アパートのユニットバスとはいいながら、なかなか入り心地のいい風呂に、時雨馬は十分満足していた。


(やっぱり、日本人はお風呂だよねえ)


「時雨馬さま〜、お湯加減はいかがですか〜?」


 ガラス戸の向こうから聞こえてくる蘭風の声に、時雨馬は目を閉じながら答えた。


「ん〜、ちょうどいいよ〜」


「それは、よかったです〜」


「ん〜」


「じゃあ私も入りますね〜」


「ん〜」


 ……ん?


 目を開けた時雨馬の視界に飛び込んできたのは、一糸まとわず風呂場の中に入ってきた蘭風の姿だった。



「ちょ、ちょっと待って! なんで入ってくるの!」


「せっかくですから、お背中をお流ししようと……」


「いいって!」


「あら、遠慮なさらないでください、時雨馬さま」


「遠慮なんて……。べつにしてない……けど……」


 そう言いながら、時雨馬の目は蘭風のたわわに実った胸に釘づけになった。彼の人生で、はじめて目にする、家族以外の女性のナマの裸。それも、いままでに想像したこともないほどの、特大のボリュームを携えて登場したのだった。


「時雨馬さま?」


 蘭風は、その身体を少しも隠そうとせず、湯船に浸かったままの時雨馬の前に立った。そのまま呆然としている時雨馬の顔を、心配そうにのぞき込む。


「どうかなさいました?」


 両腕の脇にはさまれて、窮屈そうな蘭風の胸が時雨馬の顔の前に現れ、プルンと揺れた。そのふくらみも肌のきめ細かさも、その先端の色や形状さえ、近眼の時雨馬の目にもくっきりと確認できる。


「いや……。蘭風って、よくほかの人といっしょにお風呂に入ったりするの?」


 時雨馬は、なぜかそんな質問をしていた。


「うーん、そう言えば……。覚えはないですね。家族以外とは、はじめてです」


「は、は、はじめてなんだ……。や、やっぱ、はじめてのほうがいいよね……」


「はい」


 自分でもよく訳のわからないことを言う時雨馬に、にっこりと微笑んで答える蘭風。


「それでは、よろしいでしょうか?」


「なにが?」


「いえ、そちらにごいっしょしても……」


「こっここ、ここ入るの?」


「ええ、せっかくですから」


「そっか、せっかくだしね」



 どっくん どっくん どっくん どっくん



 心臓の音が、はっきりと耳に聞こえてくる状態となった時雨馬にかまわず、風呂桶を使って丁寧にかけ湯をする蘭風。白い肌の上をお湯が流れ、さらさらとしたたり落ちてゆく。



「ふう……」


 ひと息ついて、蘭風はゆっくりと振り返る。


「それじゃ、時雨馬さま、失礼しまぁす」


「うん……」



 どっくんどっくん  どっくんどっくん



 時雨馬が浸かったままの湯船の中に、両手をかけて入ろうとする蘭風。すらりと伸びた右脚の太ももが、ゆっくりと上がってゆく。


「はぁ……」



 どっくどっくどっくどっくどっくどっく……



「うふ……。はいっちゃいますよぉ……」



 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくど



 時雨馬の目の前に、蘭風の秘密の部分が現れようとしていた。あまりのことに、時雨馬の胸の鼓動は最高潮に達しようとしていた。



コンコンコン!


 そのとき、玄関のドアを勢いよくノックする音が聞こえた。


「時雨馬ぁー、あたしー。晩ごはんのおすそ分け持ってきたよー。肉じゃがー」


 それは、春希の声だった。一気に我に返り、湯船から立ち上がる時雨馬。


「時雨馬、いないのー?」


 突然の緊急事態に対処するため、次にすべき行動の優先順位を頭の中で組み立てはじめる時雨馬。

 と、とにかくダッシュで上がって、体を拭いて服を着て、風呂場の中は絶対見られないようにして……ああんっ、もう!


「しっぐっまっ、いっるっんっでっしょっ? ……なんだ、カギいてるじゃん」


(だめぇーっ、いま開けないでぇーっ!)


 時雨馬の心の叫びもむなしく、春希はドアを開けた。玄関を入って、すぐ横に見える風呂場の中で、素っ裸のままなかよく並んでいる時雨馬と蘭風に、春希は目を合わせた。


「やあ、春希」

「こんばんは」

「どうも……」


 三人は、とりあえず挨拶を交わした。


「って……」


 やがて、春希は怒りに震える声で叫んだ。


「あんたたち、なんでいっしょにお風呂入ってんのよ!」


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