(七)

 気がつくと、あたりはすっかり暗くなっていた。さすがに、この広い道場をひとりで雑巾がけするともなると、結局一時間以上もかかってしまっていた。


「ふう……。ま、こんなもんかな」


 時雨馬はようやく掃除を終え、満足そうに言った。その後、制服に着替えるためロッカーを開ける時雨馬。荷物をまとめ、風雅の入った竹刀袋を肩に掛けると、明かりを消すために再び道場に戻ってきた。


「じゃ、そろそろ帰るかな」


 電気を消し、扉を開けようとしたとき、時雨馬に声をかける者がいた。


「いやー、まだ帰ってもらっては困るのう、宗主そうしゅどの」


「?」


 その声に振り向いたとき、時雨馬は顔のすぐ前を何かが通り過ぎるのを感じた。


 ヒュンッ!


「おっと、外したか」


 時雨馬の前を通り過ぎた何かは、再び元へと戻っていった。暗闇でよくは見えなかったが、そこにはふたりの人影があるように思えた。


「だ、誰ですか?」


 時雨馬の声には答えず、人影のひとりが、また彼の方に向かって何かを投げてきた。時雨馬は、とっさに脇へ跳び退いて避けたが、それは反射神経の乏しい彼にとって、奇跡的といっていい動きだった。


「な、なんだ、いったい?」


 時雨馬に向かって投げつけられたもの。それは鉄の鎖でつながれた、分銅ふんどうのようなおもりだった。再び標的を外したその人影に、もうひとりが声をかけた。


「なんじゃ姉者、下手へったくそじゃのう。わしが先にってしまうぞ?」


 それは、女の子の声だった。その少女は、頭に鉄兜てつかぶとらしき防具を、両手に鋼鉄製のかぎ爪のような武器をつけていた。月明かりに照らされて、彼女が右手の甲にはめた鉄の爪をペロッと舌で舐める仕草が、時雨馬にはっきりと見えた。


「わああっ!」


 時雨馬はあわてて壁の方に走り出し、さっき消したばかりの道場の明かりをつけた。そこには、ふたりの少女が立っていた。


 ひとりは髪が長く、背の高い少女だった。よく見ると、二十歳はたちくらいにはなっていそうである。彼女は左眼に大きな傷があり、その上を黒い眼帯をつけて覆い隠しているようだった。手には鎖鎌くさりがまを持っており、右手で分銅をヒュンヒュンと回転させていた。


 もうひとりの鉄の爪をつけたほうは、鎖鎌の少女とは対照的に、ぐっと小柄な女の子だった。ふたりが身にまとっているものは、まるで時代劇に出てくる忍者のような服装に思われた。


「スグリ、ボヤボヤしていると人が来る。さっさと片づけるぞ」

「あいよ」


 そう言うと、ふたりの少女は武器を構えた。時雨馬は、無意識のうちにその場から走り出した。


「逃がさん!」


「くあっ!」


 鎖鎌の少女は、また分銅を投げつけた。時雨馬は、すんでの所でジャンプして、分銅の攻撃を逃れた。時雨馬は、背負っていた竹刀袋から、風雅を取り出した。


「はあ、はあ、はあ……」


 時雨馬は息を切らせながら、鞘から刀身を抜いた。そしてその刀を構えて、ふたりの少女に対峙する。


 しかし、彼女たちはそんな時雨馬の様子に動じることなく、余裕の表情を見せた。


「なんじゃおぬし、その剣でわしらと勝負しようというのか? ハン! わしらもなめられたもんじゃのう〜」


 スグリと呼ばれた、鉄の爪をつけた小柄な少女は、ものすごい勢いで時雨馬のもとに走ってきた。またたく間に時雨馬の目の前にたどり着くと、両手の爪を振るって攻撃を加えてくる。


「りゃっ!」

「っく!」


 時雨馬はただ身体をこわばらせたまま、風雅を立ててスグリの爪を弾いていた。やがてスグリの動きが一瞬止まったとき、時雨馬は刀を振りかぶり、ここぞとばかりに渾身の力で叩きつけた。


 しかしスグリは時雨馬のその攻撃を、バク転しながらいとも簡単にかわした。その動きから、彼女が決して本気を出しているわけではなく、ただ遊んでいるだけだということは明白だった。


「ふんっ、はあっ、たあっ!」


 時雨馬は何度も風雅を振り回すが、その刃はスグリにかすりさえしなかった。


「じぇんじぇん当たらんのう〜、兄ちゃん。それでもおぬし、本当にここで剣の修行をしておるのか?」


 そう言って、スグリは大声で笑った。何も考えることができず、ただ肩で息をしているだけの時雨馬。



「もういい。遊びは終わりだ」


 鎖鎌の少女が、分銅を刀に向かって投げつける。風雅は、時雨馬の手から弾かれて、道場の床に突き刺さった。


「しまった!」


「悪く思うな。苦しませはせん」


 時雨馬は、一瞬の隙を突いて風雅のもとに駆け寄った。


「剣から手を離せ。無駄だ」


 鎖鎌を回しながら、少女は冷たく言い放つ。しかし時雨馬は、その刀を抜こうとはせず、両手で柄を握りしめたまま叫んだ。


「蘭風!」


 そのときだった。風雅の刃がまばゆいばかりの光を放った。



 カッ!



「むっ?」

「なんじゃ?」


 その光に、ふたりの少女は思わず目を背けた。そして次の瞬間、時雨馬と刀のもとに、人影が現れたことを知った。


「……ら、蘭風……」


「時雨馬さまっ!」


 それは、まぎれもなくあのセーラー服の少女、鬼守蘭風だった。時雨馬は、彼女の姿を見ると、そのままその場に座り込んでしまった。


「来てくれたんだね……」


「時雨馬さまぁ……」


 蘭風は、時雨馬の体を抱きとめると、ふたりの少女の方へ向き直った。


「……あなたたち、夜来衆やごろしゅうですね?」


 いつになく怒りの表情を見せる蘭風は、ふたりに向かってたずねた。


「いかにも。我らは夜来衆、紅蓮ぐれんのカラマと」

蒼雷そうらいのスグリじゃ。ぬしらの命、いただくぞ」


 スグリはそう言うと、蘭風に向かってダッシュをかけた。爪を振り下ろすが、蘭風は風雅を床から抜きながら、すばやく跳び退いて避けた。


「やるのう、鬼神衆おにがみしゅう


 蘭風は、風雅を逆手で構えて刃を向けた。


「私の名は龍神りゅうじん宗家そうけ、神条 時雨馬さまが御守刀、鬼守おにがみ 蘭風らんぷう宗主そうしゅさまへの狼藉ろうぜきは、決して許しません!」


「ぬかせっ」


 カラマと名乗った隻眼の少女は、分銅を蘭風に投げつけた。その手に構えた刀に、鎖が絡みつく。


「スグリ!」

「あいよ!」


 ものすごい勢いで、回転しながら突っ込んでくるスグリ。だが蘭風は、その攻撃を高く跳び上がってかわした。


「なんじゃっ?」


 目標を見失ったスグリは、その場に転倒した。着地した蘭風は、スグリの頭を踏みつけると、そのままカラマのいる方に跳び込んだ。


「こいつ、わしの頭を踏み台にぃ?」


「させるか!」


 カラマは、左手に持った鎌で蘭風に向かって斬りかかるが、蘭風は紙一重のところで何度もその攻撃をかわし続ける。やがて、風雅に絡みついた鎖がほどけると、蘭風は、すぐさまカラマに向かって刀を振り上げた。


「とおっ!」


 間一髪のところで、蘭風の攻撃を避けたカラマだったが、手にした鎖鎌を弾かれてしまった。


「こいつ……速い……」


 カラマはすばやく体勢を整え、再び鎖鎌を手にすると、倒れたままのスグリの方へ駆け寄った。


「スグリ、行くぞ」


 カラマは、スグリの体を抱きかかえたまま、窓ガラスを割って道場の外に脱出した。蘭風が後を追うが、すでにそこからふたりの姿は消えていた。


「夜来衆……。こんなところにまで……」


 蘭風はそう言うと、ゆっくりと息を吐いた。



 危険が去ったことを確認した蘭風は、時雨馬のもとへと駆け寄った。


「大丈夫ですか、時雨馬さま!」


 時雨馬は若干の打ち身やすり傷を負った程度で、疲れ果ててはいたもののとくに大きなケガをしている様子はなかった。


「ありがとう、蘭風。あのとき僕、君の顔が浮かんで……。そしたら……」


「よかったぁ、時雨馬さま……」


 蘭風は時雨馬の体を抱きしめると、彼の顔に頬をこすりつけて涙を流し始めた。


「時雨馬さま、時雨馬さまぁ……」


「い、痛いよ、蘭風」


 だが蘭風は、いつまでも時雨馬のことを離そうとはしなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る