(六)

「おはよう……」


 そう声をかけながら、時雨馬が自分の教室の扉を開けたとき、生徒たちの声でざわついていた部屋の中が一瞬静まりかえった。


「……ございます」


 一週間ぶりに登校した時雨馬を、クラスの生徒たちは極めて微妙な空気をもって迎え入れた。両親を交通事故で失うという経験は、中学生の彼らにとっては想像しがたいものだったらしい。教室にいっしょに入ってきた春希も、そんな雰囲気に対してなにも言い出せずにいた。


「……」


 時雨馬と春希は、黙って自分の席に着こうとした。


「よ、時雨馬」


 そのとき時雨馬は、肩のあたりを誰かにつかまれた。時雨馬は、そのまま教室の外の廊下まで強引に引っ張っていかれてしまった。


「なんだよ、ガース


 でっぷりとしたその少年は「ガース」こと、親友のすが義之よしゆきだった。その隣には、同じく小学校時代からの付き合いである串本くしもと和哉かずやがいた。ガースとは対照的に身体が細く、背が飛び抜けて高いことから「ヒョロ」というあだ名のこの少年が、かわりに話しかけてきた。


「時雨馬、これあげるよ」


 串本ヒョロはそう言って、リボンのついた紙包みを渡した。


「なにこれ?」

誕生日バースデープレゼント」

「え? ていうか今日って、まだぜんぜん誕生日じゃないんだけど」

「そうだっけ?」


 そう言う串本ヒョロをさえぎりながら、時雨馬の肩に手を回したままのガースが言った。


「いいから、開けてみろよ」

「うん。……あ、これ、串本ヒョロ買ったばかりじゃん」


 それは、串本ヒョロが発売日に行列してまで手に入れたと自慢していた、最新ゲームソフトのパッケージだった。驚く時雨馬に、いつものようにニコニコと微笑みながら串本ヒョロは言った。


「へへ、俺、もう終わっちゃったからさ」


 その顔を見ながら、何かに気づいて時雨馬は聞いた。


串本ヒョロ、ひょっとして昨日徹夜とかした?」

「ん? んん……」


 どうやら彼は、時雨馬にこのゲームをプレゼントするために、超特急で最後までクリアしたらしい。なんだか悪い気になってきた時雨馬に、ガースが話しかけた。


「まあ、くれるって言うんだからさ、ありがたくもらっとけよ。……あとそれから、これはオレからな」


 そう言って、ガースは周囲を見回しながら、そっと紙袋を時雨馬に渡した。なぜか、声のトーンが若干下がっていた。


「こっちは、ウチに帰ってからゆっくり読め」

ガース……」


 それは、中学生が手にすべきではないタイプの週刊誌だった。


「アニキの部屋からパクった。袋とじはもう開けちゃってるけど、まあ気にすんな」

「あ……ありがとう、ふたりとも」


 時雨馬は、ふたりの親友に礼を言った。彼らなりに、傷ついているであろう時雨馬のことを気遣ってくれていたらしく、それが時雨馬にはうれしかった。



 キーンコーンカーンコーン



 そのとき、予鈴が鳴り響いた。


「おっと。じゃ行こっか」

「またあとでね、時雨馬」


 三人は、教室に戻っていった。


「時雨馬」


 自分の席に着席しながら、時雨馬のほうを指さしつつガースが言った。


「巻頭特集のヤツ、マジオススメ」

「うん」


 ふたりからのプレゼントをカバンにしまいながら、時雨馬は思わず笑顔になっていた。ちょうどそのとき、教室にドアが開いて担任の教師が入ってきた。


起立きりーつ!」


 いつもの朝のように、日直の生徒が号令をかけた。



 一日の授業を終えた時雨馬は、道場へと向かった。すでに部活の始まる時間となっており、そこでは剣道部の練習が始まっていた。


「おお、来たのか、神条!」


風間かざま先輩」


 時雨馬の姿を見つけて、剣道部の三年生、風間かざましんが声をかけた。彼女はいつもと同じく、純白の剣道着を身にまとっていた。その剣道の実力と立ち振る舞いのりりしさから、風間心は男女を問わず、多くの生徒から屈指の人気を集めていた。さらに校内には、彼女のことを「しんさま」と呼び、熱心に追っかけをする女生徒までいるらしい。


 風間心はレッキとした女性でありながら、この剣道部の主将を務めていた。また、かつて時雨馬を剣道部に勧誘したのも彼女である。そんな縁もあって、風間主将は他の部員以上に、時雨馬にことを気にかけているようだった。彼女は、久しぶりに顔を見せた後輩に対し、いつもと変わらない様子で話しかけてきた。


「どうだ、久しぶりに一番?」


「いえ、今日は素振りだけにしておきます」


「そうか……。でも、お前が道場に来てくれてうれしいぞ、神条」


「はい、ありがとうございます、先輩」


 時雨馬は、ロッカーにしまっておいた稽古着と袴に着替えた。久しぶりに袖を通した紺色のその道着は、相変わらずツンとくる汗くさい匂いがしたが、それが時雨馬にはなんだか懐かしく感じられた。


 練習用の竹刀を持って、時雨馬は道場に足を踏み入れた。ヒンヤリとした床の感触が、裸足の時雨馬を迎え入れた。ほかの部員たちは、大きなかけ声を上げながら乱取りを続けていた。


 時雨馬は、彼らの邪魔にならないように道場の脇で、竹刀の素振りをはじめた。


(イチ、ニ。イチ、ニ……)


 ゆっくりと竹刀を振っているうちに、時雨馬はしだいに無心になっていった。

 苦手意識ばかりが先行していた剣道だったが、こうして汗をかくのもいいものだと、彼は感じていた。


 時雨馬はそれからしばらくの間、ひとりきりで素振りを続けていた。



「ようし、本日の練習はここまで!」


 やがて夕方になり、風間主将は部員たちにそう告げた。練習を終えた彼らは、それぞれに帰り支度をはじめていた。


「神条、お前も上がっていいぞ」


 そう声をかけてきた風間主将に、時雨馬は汗を拭きながら答えた。


「あ、あの風間先輩。僕に、道場の掃除をさせてください」


「どうしたんだ、急に? 掃除なら新入生が……」


「いえ僕、しばらく部活に来なかったし、みんなにもお詫びも込めてちょっと……」


 時雨馬のそんな申し出を、黙って聞いていた風間主将は、笑顔を見せてうなずいた。


「……そうか。じゃあ、あとはお前に任せる。頼んだぞ、神条」


「はい!」


 剣道部員たちは、練習後の掃除を時雨馬に任せて、道場をあとにした。時雨馬はホウキを使って床のホコリをきれいにすると、水を入れたバケツと雑巾を用意した。


「……ようし、やるか!」


 時雨馬は、無人となった道場の床の、雑巾がけを開始した。

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