(四)

「……時雨馬さま、起きてください、朝ですよ」


 そんな声に、時雨馬はようやく目を覚ました。まぶたを開けると、自分の顔のすぐ前に、超どアップの蘭風の顔があった。


「おはようございます! 時雨馬さま」


「わあっ!」


 びっくりして跳ね起きる時雨馬。彼の布団の上に、覆いかぶさるようにしていた蘭風は、すばやく跳び退くと、時雨馬に優しく声をかけた。


「朝ごはん、できてますよ、時雨馬さま」


 そう言いながら、台所の方へ向かう蘭風。時雨馬は枕元のメガネをかけながら、昨夜のことを思い出していた。


「やっぱり、夢じゃなかったんだ……」


 昨日はいろいろなことがありすぎて、すっかり疲れてしまった時雨馬は、制服を着たまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 勉強机の上を見ると、そこには両親の遺影が並んで飾られていた。おそらく寝ている間に、蘭風が置いてくれたのだろう。


 窓の外からは、朝の光がまぶしいほどに差し込んでいた。すでに雨雲はすっかり消え、空はすがすがしく晴れ渡っていた。

 台所からは、蘭風が食器を洗うカチャカチャという小さな音が聞こえてくる。彼女の鼻歌交じりのこの音が、おだやかな朝の空気をいっそう和ませていた。時雨馬は思わず伸びをして、大きく息をついた。


 それにしても、蘭風は昨夜いったいどこで寝たのだろう? この狭い六畳一間に、ほかに寝る場所はないし、そもそも布団だってひと組しかなかったはずだ。


(……まさか、この布団で僕といっしょに?)


 そう考えて、急に心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる時雨馬。思わず右手を自分の脇に伸ばして、手のひらをシーツの上に当てる。当然ながらそこにはもう、彼女のぬくもりは感じられなかった。


「時雨馬さまー、早くお起きになって、お顔を洗ってきてくださいねー」


 そんな時雨馬をせかすように、蘭風が台所から声をかける。


「う、うん」


 寝床から出た時雨馬は、布団をたたんで押し入れにしまった。顔を洗って部屋に戻ると、ちゃぶ台の上にはふたり分の朝食が用意してあった。


「さ、食べましょう。いただきまーす!」

「い……いただきます」


 手を合わせて、元気よく声を上げた蘭風につられるように、時雨馬も声を合わせる。


 焼き鮭の切り身に、ひじきの炒め煮、お新香、納豆、玉子焼き。そして、暖かい湯気を上げるお味噌汁。これぞ正しい日本の朝ごはん、という感じのメニューに、時雨馬はうれしくなって箸を伸ばした。


「いかがですか、時雨馬さま?」


「うん、おいしいよ。蘭風は、本当に料理がうまいんだね」


 素直にそう答えた時雨馬に、蘭風は思わずデレデレになってしまう。


「はあ〜。そう言っていただけると、とっても幸せです! だって、時雨馬さまに毎日のごはんを作って差し上げるのが、私の夢だったんですもの」


 その言葉を聞いて、時雨馬の箸が一瞬止まる。


「えっ? ひょっとして、蘭風は僕と、前に会ったことがあるの?」


「ええ、もちろんです。いちどだけ、『鬼神おにがみの里』にいらしたときに。あの頃の時雨馬さまって、ちっちゃくてかわいらしくて、私いまでもそのときのこと、よ〜く覚えているんですよ」


 鬼神おにがみの里? また、時雨馬の知らないキーワードが出現した。そう言えば昨夜からというもの、蘭風の正体や目的に関しては、結局何ひとつ判明していないということを、時雨馬は思い出していた。


「あのさ、昨日の話の続きだけど、つまり君は……」

「はい?」


 そう言って、首をかしげながら微笑む蘭風。


「……」


 時雨馬は、そんな彼女の表情を見ているうちに、だんだん彼女の正体など、どうでもよくなっているように思えていた。


『私、どんなことがあっても、絶対に時雨馬さまの味方ですから』


 昨夜の蘭風のひと言が、時雨馬の心によみがえった。


「蘭風。君は昨日、僕の味方だって言ったよね」

「はいっ!」

「……じゃあ、いいや」


 時雨馬はそう言うと、蘭風に笑顔を見せた。


「時雨馬さま……」


「ん?」


「やっと、笑ってくださいましたね」


 安心したようにそう言うと、蘭風はまた昨夜のように時雨馬のそばに来て、彼をギュッと抱きしめた。


「ら、蘭風……離して……」


 どうやら彼女には、抱きつきぐせがあるらしい。だが、早朝からの顔面おっぱいサンドは、中学生の時雨馬には刺激が強すぎた。


「す、すみません、時雨馬さま」


 我に返って、あわてて時雨馬から離れる蘭風。ずれたメガネをかけ直しながら、時雨馬は再び彼女に微笑みかけた。



「それじゃ僕、学校に行ってくるから」


 ほぼ一週間ぶりに学校へ行く準備を整え、部屋を出ようとしていた時雨馬。そのとき、蘭風が声をかけた。


「時雨馬さま、お待ちください!」


 蘭風は、部屋の隅に置かれていた自分の荷物を探った。彼女の私物は、大きな風呂敷包みと、古ぼけた革製のトランクがひとつだけだった。


 彼女がその中から取り出したのは、ひと振りの日本刀だった。時雨馬の前にひざまずきながら、うやうやしく蘭風はこう言った。


「どうぞ、これをお持ちくださいませ」


 蘭風は両手でその刀を捧げるようにして、時雨馬に手渡した。


「これは?」


「時雨馬さまの剣、『風雅ふうが』です。今後はいついかなるときも、この剣を決して手放さないようにしていただきたいんです」


「わあ……。すごい……」


 時雨馬は息をのんで、ゆっくりとさやからそのやいばを抜いた。日本刀という武器の持つ、ずっしりとした鋼鉄の重さ。朝の光を鮮やかにきらめかせる切っ先の輝き。


 それは、玩具おもちゃでも模造品レプリカでもない。正真正銘、本物の日本刀である。中学校では剣道部に所属する時雨馬だが、実物を目にすることも手にすることも、もちろん生まれて初めてだった。


「ホンモノだ……」


 風雅の迫力に飲まれていた時雨馬だったが、ふと我に返りつつ言った。


「ちょっと待ってよ。こんなもの持ち歩けるわけないじゃないか。捕まっちゃうよ」


 そう言って、刀を返そうとする時雨馬に、蘭風は言った。


「いいえ。これは、時雨馬さまにとって絶対に必要なものなんです。どうしても、お持ちになってください」


 そう話す蘭風の顔は、真面目そのものだった。その姿を見て、やがて意を決したように部屋に戻っていく時雨馬。


 壁に立てかけてあった、革製の竹刀袋しないぶくろをつかむと、中から竹刀を取りだして代わりに風雅を入れた。幸い、袋のサイズはこの刀にピッタリだった。時雨馬は、風雅の入った竹刀袋を肩に掛けて言った。


「これでいいかな、蘭風」


「はい! ありがとうございます、時雨馬さま!」


 蘭風は、再び笑顔になって時雨馬に礼を述べた。


 時雨馬は昨日の夜、安尋和尚から言われた言葉を思い出していた。これから自分の身に何が起こるというのかはわからない。だが彼は、いまはとにかく蘭風のことを信じようと、覚悟を決めたのだった。


 玄関のドアを開けると、時雨馬は蘭風のほうに振り返って言った。


「行ってくるよ」


「あ、私お見送りします」


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