(一)

 折からの雨が、龍庵寺りょうあんじのお堂の瓦屋根に、叩きつけるように強く降りそそいでいた。そのせいか、もう四月だというのに、体の芯から震えさせるような寒さを、この寺を訪れた人々に感じさせていた。境内に立ち並んでいる、ようやく花を咲かせはじめたばかりの桜の木々も、この春の嵐に必死で耐えているように思われた。


時雨馬しぐま、ここにいたの?」


 そう声をかけられ、神条しんじょう 時雨馬しぐまは振り返った。その少年は渡り廊下の窓から、雨の降る外の景色をながめていたのだった。


「そんなとこにいると、風邪かぜ引いちゃうよ」

春希はるき……」


 それは時雨馬の幼なじみであり、中学校でのクラスメイトの少女、丸川まるかわ春希はるきだった。

 短めのツインテールに、ちょっと気の強そうな切れ長の目。すっきり通った鼻筋に、ほどよいアクセントとなっている泣きぼくろ。あと四、五年もすれば、かなりの美人に成長しそうだが、今のところはその控えめな胸と同様、まだまだ発育途上の段階であった。


「ねえ、大丈夫、時雨馬?」

「うん。ありがと」


 心配そうにたずねる彼女に、時雨馬は静かに答えた。


「あのさ、あんちゃんがね、最後にみなさんにご挨拶あいさつしろって言ってるんだけど……。どうする、やっぱ断っとく?」


 いつもは元気いっぱいで男勝りの春希だが、今日ばかりはすっかり泣きはらした顔のままでそう言った。もう、かれこれ長いつき合いになるが、時雨馬はこんなに沈んだ彼女の表情を見た記憶はなかった。


「ううん、わかった。すぐ行くよ」


 そう言って時雨馬は、学生服の詰め襟についたホックを締め直すと、春希と並んで歩いていった。

 今日はなんと言っても、実の父母の葬儀なのである。喪主として、ひとり息子である自分が挨拶をしないわけにはいかない。



 高校の数学教師である父と、中学校の英語教師の母。そして中学二年生の時雨馬は、西東京市内のこの街で、ごくごく平凡な暮らしを続けていた。まじめで学力優秀ではあるが、体を動かすことにかけてはまるで苦手。最近は本の読みすぎで、めっきり近視が進んでしまったひとり息子のことを、彼の両親は温かく見守っていた。


 だが、そんな平穏な日々は、ほんの十日ほど前の深夜、突如終わりを告げる。神条夫妻はドライブからの帰り道、峠道のカーブを曲がりきることができず、崖下に転落してしまった。ふたりとも、即死だった。


 時雨馬はその休日、たまたま剣道部の試合があったため、その旅行には同行していなかった。また、この事故に第三者を巻き込まなかったことも、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。


 しかし時雨馬は、この事故の責任を誰のせいにすることもできないまま、ただ最愛の両親を同時に失うという現実を、受け入れなければならなくなった。それからの彼の生活は、まるで早回しのビデオテープのように、自分の意志とは関係なく慌ただしく過ぎていくばかりだった。



 ふたりがお堂に戻ると、葬儀への参列者たちの居並ぶ前に、この寺の住職である三島みしま 安尋あんじんが待っていた。


 住職とはいうものの、時雨馬にとっての彼は、幼い頃からの兄貴分である。まだ三十代半ばで、細身だが筋肉質。銀髪にガン黒ピアスとネックレス、ついでに無精ヒゲの目立つこの男は、一見すると聖職者にはほど遠いアブナイ仕事にでも就いていそうに思われた。


 だが、そんな姿とは裏腹に、その気さくで親しみやすい人柄のせいか、この安尋和尚おしょうは檀家からの評判も決して悪くはないらしい。時雨馬や春希はそんな彼のことを、親しみを込めて「あんちゃん」と呼んでいた。


「いいのか、時雨馬……」


 安尋和尚は、時雨馬にマイクを渡しながら、そう声をかけた。


「うん」


 参列者たちは、時雨馬の姿を見ると、いっせいに話し声を潜めた。

 時雨馬は、両親の遺影を抱えたまま参列者に向き直り、静かに話しはじめる。


「えー、みなさま、本日は足元の大変お悪い中、葬儀にお越しいただきまして誠にありがとうございます——」


 まだ中学二年生である時雨馬の、喪主としての挨拶が始まった。春の雨は、いっそうはげしさを増していた。



 とどこおりなく葬儀が終わり、帰り支度をする時雨馬に、安尋和尚が話しかけた。


「今日はお疲れさん、時雨馬」

「あ、あんちゃん」


 安尋和尚は、今日無事に自分の両親を送り出したこの少年を気遣うように、優しく声をかけた。


「なあ、今夜は寺に泊まっていってもいいんだぞ」


「いや、新しい部屋の方も気になるし、今日は帰るよ」


 時雨馬はそう答えた。


「それにしても、こんなに急にあの家を出ることなかったんじゃねえか?」


 ほんの数日前まで、時雨馬たちが家族三人で暮らしていた借家は、すでに引き払ってしまっていた。


「うん……。でも、あの家にひとりでいても、昔のことばっかり思い出してつらいし、それに——」


 時雨馬は、ゆっくり上を向きながら言った。


「これからは僕ひとりだから、少しでも生活費を節約しないとね」


「そうだな……」


「それから安ちゃん、アパートの契約の時、力になってくれてありがとう」


 時雨馬は、自分の新たな住み家として、近所に木造アパートの一室を借りていたのだった。その部屋も、安尋和尚が身元保証人になってくれなければ、しがない中学生の身分である時雨馬が借りることなどできなかったはずだ。


「気にするな。大したことじゃねえ」


 安尋和尚はかぶりを振りながらそう言った。いつの間にか、大人の顔になったような時雨馬の姿を見て、彼は少しだけ感心していた。


「時雨馬、いつでもこっちに来ていいんだからな」


「うん、ありがとう、安ちゃん」


 そう答えて、時雨馬は寺を後にした。門の外に歩みを進めたとき、目の前に傘を差した春希が立っているのに気がついた。


「帰るの?」

「ああ。今日はどうもありがとう、春希」


 できるだけ笑顔を見せられるように努力しながら、時雨馬は彼女に礼を言った。


「……ねえ時雨馬、本当にひとりで大丈夫?」


 春希は、意を決したように時雨馬に話しかけた。


「パパもああ言ってるしさ。……あんた、やっぱりあたしの弟になるのはイヤなんでしょ?」


 春希の父親は著名な開業弁護士で、時雨馬にとっても昔から親しみ深い人だった。彼女の両親は先日、ひとりぼっちになってしまった時雨馬を、養子として引き取りたいと申し出てくれていたのだった。だが、時雨馬はその申し出を丁重に断った。


「別に、そんなことないよ。……僕、ホントに平気だから」


「そう……。ねえ、困ったときは、いつでも言ってね」


 いつもは、たった二ヶ月早く生まれたということだけで、お姉さん風を吹かせている春希だったが、今夜に限ってはそんな雰囲気を微塵みじんも感じさせはしなかった。


「うん、ありがとう。それじゃ」


 静かに背を向けた時雨馬に、春希は大声でこう言った。


「時雨馬ーっ。明日、学校迎えに行くからね!」


 時雨馬は、黙ったまま手を上げて応えた。


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