硝子の骸

平凡ノ助

硝子の骸

 グラスに注がれたワインは赤暗く不透明で、柘榴ざくろのようであった。その柘榴色は、吹き込む木枯らしに誘われて小さくたゆたい、どこか不気味な婉美があった。私は長らくワインを見つめているうちに、気付けば肌寒さを感じていた。私は軋む窓を閉めると、ボトルに残ったワインをグラスに注ぎきり、一気に呷った。柘榴色は私の喉を焼きながら臓腑に至り、今度は臓腑を焼いた。


 私はボトルとグラスを携えて、暗く冷え込む廊下を明かりも点けずに歩んだ。古木でできた廊下の隅には埃が溜まり、蜘蛛の巣があった。私は縁側に至ると、簡易な突っ掛けを履いて、庭に出た。とうに日は沈んでいたが、庭はその中央に佇む灯籠に照らされ、僅かながら夜闇を和らげていた。庭園には点々と裸になった樹木があるが、この樹木たちは徒に枝が伸びており、私の無精を物語っていた。樹木の下には枯山水が広がっているが、見做みなされて構成された「水」は、まるで本当の水面であるかのように、きらきらと輝いていた。


 私はその輝きに目をやると、おもむろに片手を挙げ、枯山水の一角にある小岩に向かって、グラスをぶつけた。グラスは砕け、柘榴色の残滓をはじかせながら散った。残骸の周囲には、他にも多くの硝子がらす片が散らばっている。それらの硝子片は、透明であったり、彩色が施されて半透明であったりするが、一様に粉々である。その片々は、夜闇の中で微少に輝いていた。




****************************************




 私がこのような、児戯にも等しい破壊行為に興じるようになったのは、妻を亡くしてしばらく経ったある晩のことであった。ちょうど今日のような、樹木が衣を脱いだ初冬のことであったと思う。


 妻は私よりいくらか年下であったが、虚弱な節があった。それが祟ってか、妻は病を拗らせた。しかしまだ四十を少し過ぎたばかりであったから、きっと快復してみせると思われた。私は繁忙のさなか、幾度も見舞いに行き、切に快復を願い続けた。そのような日々を何十か繰り返したある秋口の日のこと、私は職場で妻の訃報を聞いた。最期を看取ってやれなかったことは、悔やんでも悔やみきれなかった。


 私はそれから、酒をよく飲むようになった。もとから嗜むたちではあったが、哀惜に押されての結果であった。酒を逃避の道具として使うことには抵抗があったが、悲嘆を紛らわすことに手段を選べるほどの猶予が私にはとっくになかったのである。しかしいくら呑んでも、私が酒に強いこともあってか、泥中に沈むような心地にはならなかった。酔いの中でまどろみ、うつつを忘れることもなかった。私はつまるところ、酒を舌で転がす全うな酒客から、浴びるように暴飲する酒狂へと堕落することができなかったのである。


 私はいつしか、日々に苛立ちを覚えていた。その苛立ちは、哀情に襲われながらもどうすることもできない自分に向けられたものか、あるいは自分を残してあっけなく逝ってしまった妻に向けられたものか、今となっては判然としないが、とにもかくにも、ある冷ややかな晩にも私は酒を飲んでいたのである。その晩に飲んでいた酒は、妻がいつかに贈ってくれた赤ワインであった。妻は酒をあまり嗜まなかったが、たまに私の晩酌に付き合って口にすることがあった。その節に、私の好みを覚えたのであろう。妻が私に贈った赤ワインは、私がいたく気に入るものであった。私は陰鬱な日々からの脱却のために、この思い出深いワインを飲むことを決したのである。


 液体は深みのある赤色であったが、私は鮮やかでありながら落ち着いているこの色が好きであった。私がコルクを開けると芳醇な香りが漂い、鼻孔をくすぐってきた。その香りは、グラスに注ぐといっそう強まった。このグラスも、妻からの贈り物であった。高級な品であるがゆえ、硝子は精巧に構築され、曇りのない透明は煌めき、典雅を演出していた。ワインとグラスは伴って、私のうちにある妻への思慕をどうしようもなく呼び起こした。


 私はワインを繊細に味わった。一口含むたびに、重厚な渋みがいっぱいに広がった。その渋みは私の哀慕と合わさり、ぐちゃぐちゃになった。私は涙を零しつつ、美酒を呷った。いつしか味わうことも忘れ、自棄のように次々と呷っていった。しかしワインが尽きても、私の哀慕が流失することはなかった。いやむしろ、このワインに流し込まれたせいで、臓腑に悲念が溜まっている気がして、無性にやるせなくなった。酔いも手伝って癇癪かんしゃくを起こした私は、空のボトルとグラスを持って庭へと向かい、力の限りそれらを叩きつけた。


 これが事の始まりであった。当然の話であるが、私はほどなくして冷静さを取り戻し、砕け散ったボトルとグラスを見つめ、ひどく後悔した。しかし、この後悔は長くは続かなかった。どうやら冷静になったのは束の間のことであったようで、あろうことか、私の酩酊した頭は、散らばる硝子片を妻への哀惜に例えたのである。私は砕けた硝子片を見て、妻への哀惜が四散したと捉えたのである。甚だ馬鹿げたことである。慙愧の念に駆られずにはいられまい。だがそうであっても、当時の私にとって救いになったこともまた確かなのである。


 私はこの十年の間に父母を亡くしたが、その節にも同様のことをしでかした。父が亡くなった際には、父から成人祝いに贈られた清酒の瓶と御猪口おちょこを、庭に叩きつけた。御猪口は出来がいいものであったからか、一度叩きつけただけでは砕けなかったので、何度も叩きつけた。母は私の健康を気遣ってか酒の類を贈ってくれたことはなかったため、母が亡くなった際には、私はいつかに買った年代物のワインを開け、そのボトルと当時気に入っていたグラスを割った。私はやはり、このような児戯に興じることで、深い哀情から逃れることができた気になっていた。それからというもの、私は鬱憤を解消するために、平生であってもたびたび庭で硝子を割るようになった。いつしか硝子片は庭中に散らばり、枯山水を作る砂利は硝子に取って代わられた。立派な庭園を構えるこの屋敷は、私の庭園趣味が高じて購入したものだが、息子が自立をし、妻を亡くしてからは私一人で住んでいた。そのため、庭園の異状に言及する者は誰もいなかった。また、庭園を維持するために樹木の手入れは欠かすことができないが、硝子片が散乱する中では煩わしく、気付けば私が庭園を整美することはなくなっていた。こうして、私の庭は硝子のむくろとなった。




***************************************




 私は片手を振り上げると、今度はボトルを叩きつけた。安酒であることも関わっているのか、ボトルは容易に砕け散った。それから、私は硝子の骸をぼんやりと見つめた。骸の中で目に付くのは、やはりついさっきに死んで骸となったボトルとグラスである。これらの破片には、まだ柘榴色の残滓が付着していた。そういえば妻から貰ったあのワインも、このような柘榴色であっただろうか。いやもっと気品のある、柘榴というよりは柘榴石ガーネットのような色であったと思われるが、今となっては定かではないし、殊更に頓着することでもない。私はふとしゃがみ込むと、骸の一欠片を手に掴んだ。硝子は私の指を小さく裂いて、血を滲ませた。私の血は夜闇のせいで、ちょうどれきった柘榴のようであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

硝子の骸 平凡ノ助 @heibonnosuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ