第6話 外の世界からやってきた者(下)

 三人は、再び此処へやって来た。武藤真二と楠木雫那が出会い、胡原円が迷宮支配者ダンジョンマスターを務める東京地下の大迷宮の一つ「分かたれし神の左手」のダンジョン。マンホールの蓋に擬装された入口に佇む三人。全員無言だった。

 真二は改札を潜り抜けたくらいからずっと他に解決法は無いものかと考え込み、言葉少なになっていた。円も何時もの少し脅えた感じの思わず抱きしめたくなってしまう笑顔が戻ってきてはいたが、真二が黙ってしまい、更に元々言葉数の少ない雫那に囲まれて、何時までもカラ元気が続かなくなってきてしまった。だからこれからの事を考えて円も暫し口を閉ざし、体力の温存に務めた。三人が電車に乗る。帰宅ラッシュに突入した時間。車両の中は人いきれとそれの発生源。その中心にいる三人は、奇妙な錯覚に捕われていた。

 自分たち以外の人間が、感じられない。真っ白い空間の中にぽんっと放り出され、周りには何も無く、天からぶら下がったつり革に真二と雫那が、地から生え出でた手摺に円が掴まっている。この移動する世界には秘密を共有する自分たち三人しかいないような、そんな感受。その想いがこんな不思議な交感を呼んだのだろうか? だから三人は時間の経過を殆ど感じる事も無く、駅前の改札から一瞬にしてこの場所へ着いたような錯覚を覚えていた。

 雫那が鞄から解錠ノ剣キークリフを取り出し鞘から引き抜く。それをマンホールの鍵穴に差し込み捻ると、ガチャリという開錠音が響く。再び鍵剣を抜き取り代わりに取っ手を掴み、鉄蓋を引き上げた。油圧シリンダーで支えられた扉が開き、現実世界と非現実世界が邂逅する。

「行くぞ」

 再び解錠ノ剣キークリフを鞘に収めながら、雫那が二人に問う。

 首から魔封じの首飾りアミュレットをぶら下げた円と宝箱を抱えた真二が頷く。真二は予め荷物を置きに自室に戻り、代わりにこの自作の宝箱を持って来ていた。雫那が作ったものに比べればあちこち歪んでいたりするが、彼が今持ちえる全力をかけて作り上げた恥ずかしくない一品。そして腰のベルトには歌嵐を括りつけている。雫那は二人に先に入ることを促すと、自分は最後に入り扉を閉める。今度は忘れずにしっかりと鍵を閉めた。

 三人は、静かに地下迷宮へと下りていった。


 迷宮第九層。

 迷宮支配者の居室である最下層の一つ手前であり、それだけ強力な怪物が潜んでいる危険なフロアである。だがそれに比例して設置されている宝箱の中身も貴重な品となっていく。真二はここへ到着するまで、まったく恐怖を感じることがなかった。一階から四階まで移動できる昇降機エレベーターで四階まで移動した後は、更に四階そこにも下層へと直通で移動できる昇降機が存在し、それで一気に九階まで移動していた。だから殆ど素人同然の真二は、本来来れる筈の無い危険な場所へと一気に来てしまった。しかし、これだけ危機的状況にあるのに、真二の体には一滴の冷汗も流れていない。それは迷宮支配者まどかという絶対の守護者がいるから、という理由では無かった。これから自分達三人に起こりえる事、そしてもし円の想像どおりの事が本当に実行されてしまった時の事を考えたら、それは恐怖の内に入らなかったからだ。

「ここだ」

 所定の場所に到着すると、真二は雫那の指示に従い床に空の宝箱を下ろした。雫那はその前にしゃがみランタンを床に置くと、蓋を開き作業を始めた。鞄の中から小瓶を一つ取り出すと、それをまず空の箱の中に詰めた。多分あれが霊薬エリクサーなのだろう。

「さて、胡原さん、落ち着いたところで改めて考えてみようよ。ね、楠木さんも。三人寄れば文殊の知恵って言うじゃない?」

 とりあえず落ち着いたところで、真二が話し合いを促した。

「今日」が終わるまでまだ時間はある。そして守秘義務が強要される地下迷宮の、それも裏方を支える者が三人も集まったのである。この中の誰か一人でも、たとえ欠けたままの解決法でも考えつけば、それを改めて三人で話し合って皆が助かる解法が見つかるかも知れない。

 そして真二には「もしかしたらこれなら」と思うことが一つ、うっすらと頭の中に浮かび始めてきていたのだ。先程感じた、白日夢はくじつむのような感覚。あの時感じた奇妙な疎外感。首都が燃えて無くなるという事実を知る、三人。それが真二の中に、何かの解法をもたらそうとしていた。そして円が語った「嘘であれば良いのに」という言葉。これを利用すればなんとかなるのかも知れない。だからその考えを二人に話し、さっそく意見を聞きたかった。しかし、そんな急き立つ真二の手に、小さな手が添えられる。

「胡原さん?」

 真二の手を優しく包むたおやかな指。円は軽く首を左右に振ると再び手を離しながら小さく笑った。そしてその儚い微笑みには「もう充分ですよ」という言葉が込められていた。

「武藤さん、わたしはもう行きます。ちゃんと迷宮支配者ダンジョンマスターとして最下層にいないと」

 円はそう告げて軽い会釈をした。彼女の体の動きに合わせて、首から下げた十字形の首飾りが仰々しく揺れる。迷宮に入る直前に鞄から出して首にかけたそれは、ネックレスというには余りにも大き過ぎる物体。それは迷宮支配者としての存在を表す印。

 円も真二が黙り込んでしまった時から、考えていた。今まで考えつくしたことを、更に考えていた。そして同じように感じた、白い世界。その時感じた世界から阻害されたような感覚を、真二とは違う捉え方していた。もう自分はこの世界には完全に不要な存在だと。だからこそ他人を感じられなかったのだと。自分ひとりが消えて無くなれば、全てが終わる。全てが救われる。だからこそ、わたしは世界から、その存在を拒否された。そしてこの首飾りアミュレットを首にかけた瞬間に、覚悟は決まったのだった。しかし、自分自身の力だけでは、この世界から消えて無くなれない。――だから

「しずちゃん……あの」

「私とお前は共に迷宮を生きる関係者としての存在の前に、一緒に生きてきた古い友人だ。大切な友の願いは、ちゃんと聞くさ」

 円の願いに雫那は振り向きもせず答えた。雫那もまた、白い夢のような空間で、感じていた。共に迷宮に生きる者。共に同じ時間を過ごしてきた者。それゆえ彼女しずなの出した答えは、彼女まどかと同じものだった。そしてその答えは、もう何年も前から決まっていた筈の解答。しかし彼女の「殺してほしい」という願いを聞かないふりをしていたのは、雫那の中にも抗いたい気持ちがあったのだろう。最後の瞬間、この日を迎えるまで。死を享受する覚悟と、最後まで抵抗を諦めきれなかった、二つの想い。上手く優しさを伝えられない不器用な女の子の、友を想う正直なキモチ。

「……しずちゃん」

 円はその言葉を聞き、全てを理解したように満足げに微笑む。悲しいまでに美しい笑顔。

「しずちゃん、来る時はしずちゃん一人で来てね……じゃないと」

 雫那が「了解した」と頷くのを見ると、今度は真二の方に向き直った。

「武藤さん、全てが終わったら、一〇階に下りてきてこの魔封じの首飾りアミュレットを持っていってください。そうすればこの迷宮内全ての怪物を避けて地上に出れます」

「……胡原さん、なにを……」

「あなたと出会えて本当に良かった……最期に、自分にも変わらない明日が来るという夢を見せてもらえました。もうわたしそれで、充分です。だから……」

 そして真二に最期に微笑みをもう一つ残し

「さよなら!」

 別れの言葉を告げて円は回廊を駆け出していった。

「こ、胡原さん……どうして!?」

 真二が思わず手を伸ばすが、すくった水が手から零れ落ちるように、真二の指をすり抜けて円は消えて入った。ランタンの照らす灯りから零れた彼女は、光苔の発する微光だけの薄闇の中に溶けてしまった。突然のことに一瞬どうしていいか判らず、真二が右手を伸ばしたままの状態で、動きを止めてしまう。

「あいつは、あんなミテクレでも、この迷宮の正式な迷宮支配者ダンジョンマスターだ。ちゃんと選定者たる最後の間にいなければ、誰かに倒されても自殺として認識されてしまって殉死の呪いが発動してしまうかも知れないからな」

 円の行動を、彼女に変わって雫那が淡々と説明した。

「……何その、胡原さんが死ぬこと前提の台詞?」

「結局答えは見つからなかった。だからここで終わらせる。彼女の望んだ終わり方で」

 一切の感情が消失した声。事実をただ説明するだけの自然言語の羅列。

「な……なに、なんだよそれ……二人はそんなこと一言も話していないじゃないか!?」

 三人とも確かめ合った訳ではないが、移動中に感じた共感を、お互い何となく判っている。思考の集中による緊張感の具現化。純白に埋められた時間の消失。三人以外の人間が消えた世界。そこで一人一人が感じた、世界のあり方。未来への進み方。自分という存在。

「円とはもう十年以上前からの付き合いなんだ。アイツが何を言いたいのか、どんなことをして欲しいのか、今更話し合って確認しなくても判る」

 しかし、異邦人に近しい真二には、二人の間に成立した無言の会話に介入できなかった。

 二人は言葉を交わさずに同じ答えに辿り着き、それを実行しようとしている。一番望むべきではないのに、それが一番だと望まなくてはいけない未来。

「……それって、楠木さんが胡原さんのことを殺しに行くって……こと?」

 仲間の筈なのに、一人だけ置き去りにされた屈辱感に、真二が唇を噛む。

「はっきり言うなら、そうだ」

 狭い回廊内に、冷淡な声が響く。

「円の命は私が断つ。それが彼女の願いだし、それを実行できるのは私しかいない」

「……そんな、ことって」

「このような結果になることは円が迷宮支配者になった時点で予想はできていた。それが現実となったに過ぎない。彼女の命数も私の命数も今日の日に終わると、その時点で定まっていた」

 雫那が何度か口にして来た命数という言葉。それは君を一生懸けて守るだなんてロマンティックな台詞じゃなかった。今日この日に、二人の命は終了するということが判っていたからこそのストイックな台詞。まるで道具のように自分たちの命の価値を語るシビアな言葉。今までの会話で雫那が端々に忍ばせていた命数という言葉に、そのピースが全てはめ込まれカタチになった。非絶ひぜつの覚悟という名のパズルになって。

「円を殺したら、その場で私も自決する予定だった。幼い頃から共に生きた友人を殺めて、尚まだ生き続けられるほど、私の心は強くない」

 それは悲壮な決意。多分逃れられないと判った時点で既に覚悟していた一意いちい

「円も私もいなくなった後、この地下迷宮ダンジョンはどうなるかと危惧していた。私のほかに迷宮仕事人が現存しているのかは、結局判らなかった。だから誰もこのダンジョンの守人はいなくなる」

 何時の時代からか、数が減り続けてきた迷宮仕事人たち。彼らは今日の日の為に、本能でレミングのごとく数を調整したのだろうか。

「そして私は考えついた。もうこの地下迷宮ダンジョン迷宮支配者ダンジョンマスターも、そして迷宮仕事人ダンジョンワーカーズも必要とされなくなったのだと。そしてそれは三六〇年前に予想されていたのかと」

 今現在の迷宮支配者である円を遥かに超える力を持っているであろう、当時の支配者達。彼らは未来の世が、自分たちは必要とされなくなっていることすら、予想しえたのか。

「巨大な力が必要となった時、それを具現化できる唯一の存在だった『分たれし機械神』。しかし今の時代、この『分たれし機械神』を超える巨大な力は幾つも存在するだろう。ならば我々は滅び行くのは必然ではないのだろうかと」

 この地下迷宮が存在している本当の意味。それは「分たれし機械神」の力を必要とする者が現れたる時まで機械神を封印補完し、必要とする者に対して、迷宮支配者が審判を与える。それがこの場所の存在理由。しかし科学技術が発展した現代、そんな危険を冒して地下数百メートルまで下り、使用許可が出るかどうか判らないようなものを取りに行くくらいなら、一から造り上げた方がよっぽど効率が良いだろう。「分かたれし機械神」とほぼ同じ大きさの巨大ロボットという冗談のようなシロモノも、実現するのも難しくない技術力を現代人は得ている筈だから。

「そんな時、キミが現れたんだ」

 パタンと、箱の蓋が閉じられた。ガチャリという施錠音がそれに続く。

「私は円を殺した後、直ぐに自決する予定だったが、キミという後進ができたのだ。キミが私の変わりに魔導器の生成を行い、一人で宝箱の設置を行えるまでキミを指導しなければならなくなった。だからキミがいれば迷宮だけは残る。迷宮仕事人わたし迷宮支配者まどかも必要とされなくなってしまったが、地下迷宮だけはまだ必要とされているらしい」

 雫那が語った「あと一ヶ月キミと早く出会っていれば」という言葉。それはそのひと月の間で真二を何とか迷宮仕事人として育成し、彼が一人になってもこのダンジョンを守っていけるようにする為。つまりそれは、雫那と円の命数を合わせる為。自分も円と同じ日に死ぬ為。

「だから私は感謝した。キミが宝箱設置委員会に入りたいと言ってくれたことを。キミを指導するために、私は円を殺した後も幾許いくばくかは生き恥を晒さねばならなくなったが、彼女もそれぐらいは許してくれるだろう。そしてキミが一人前の迷宮仕事人となった時、私は命を絶つ。円を何時までも一人ぼっちにはできないからな」

 宝箱のトラップが発動し、錠前に仕掛けられた罠を解除しなければ開封できない状態となったのを確認すると雫那は立ち上がった。雫那振り向く。其処には真二の顔がある。

「それに私はキミのことを守ると誓った。円の殉死の呪いはキミにも及ぶだろう。キミは迷宮仕事人にはなったばかりだが、駅前に二人連れ立って現れた時、円を大切に想ってくれる気持ちを確かに感じた。呪いの効果が発動するには充分すぎる。だからこそ私は円を殺さなければならない。キミを守るために私はその誓いを果たさなければならない」

「僕を……宝箱設置委員会に入れてくれたのは……胡原さんが死ぬことが……前提だったってこと……?」

 今まで黙って雫那の言葉を聞いていた真二が、震える口調で訊いた。

「それだけを免罪符にするつもりはないが、キミが我々の仲間になってくれると言ってくれた瞬間に、円を殺す覚悟が完全に決まったのは確かだ。キミの優しさは、君自身を滅ぼすに違いないと、その時点で予想はついた。だからこそ彼女の願いを叶えなければならない。殉死の呪いからキミという地下迷宮最後の守人を護るために」

「……」

「さて、行くとするか」

 雫那が促す。幼馴染の待つ最下層へ。全てに決着をつける為に。真二は見た。彼女の切れ長の瞳に写る輝きを。複雑な輝きで組み合わされた雫那の瞳の色で一番最初に知った、彼女の色。それは本物を知る目。全ての事柄は、本当の事を知っている私たちにしか解決できない。彼女の瞳はそう語っている。そして今日再び綴られるその言葉。

「気にするな。運命とはそんなものだ」

 全てを突き放した、その言葉。絶対不可侵を強要する鋭利な、その言葉。それは、定まった運命など変えられないと、己の命の消失すら肯定してしまう、言葉。

「……ざけるな」

 真二の唇が震えた。

「……ふざけるな……」

 雫那が再び発したその言葉が耳朶を打った時、真二は叫んでいた。

「……ふざけるな! ふざけるなぁ!」

 真二の絶叫が、回廊内に木霊す。

「どうした?」

 真二の突然の激昂に、雫那が思わず宥めようと手を伸ばす。

「なんでも……なんでも自分たちだけで決めるな!」

 その差し出された雫那の手を真二が思いっきり掴んだ。

「僕は宝箱設置委員会に入りたかったわけじゃない! ……僕は、楠木さんの側にいたかっただけなんだ! だから二人がいなくなって僕と迷宮だけが残るなんて僕にはありえない。二人ともちゃんと生き残って、そしてこの街もちゃんと無事な姿で残らなきゃ意味が無いんだ! だから二人とも死ななきゃ終りに出来ないって僕の知らない所で勝手に決め付けるなぁ!」

「キミ……」

「それに胡原さんを殺さなきゃいけない理由に、僕はなりたくない! 何が殉死の呪いだ! 胡原さんが死ななきゃ得られない平和なんているもんか!」

 真二の言葉。それは心から出た言葉。雫那の指を強く握るその力に、それが現れている。

「なんで二人とも、誰かが死ななきゃ終りにできないって思ってるんだよ!?」

「仕方ないじゃないか、三六〇年の昔から決まったことなのだから……」

「だからふざけるなって言ってるんだよ! そんな昔から決まってるからって、前の迷宮支配者が書き残したからって、誰かが死ななきゃ守れない平穏なんて、そんなのあるか!」

 雫那の指を握る力が更に強くなる。それは痛いほどなのだが、雫那は文句の一つも言わず彼の想いを受け入れていた。泣き叫ぶほどの力を込めて、腹の底から思いをぶちまける。

「それに楠木さんが、胡原さんの殺してくれっていう願いを最後まで聞こうとしなかったのも、楠木さんだってそんな未来が来ることを望んでいなかったからだろう!」

「!?」

 その言葉に雫那の目が大きく見開かれる。そう、雫那だって望んでいない。こんな未来、誰も望んでいない。言いたくても言えなかった二人の望む世界。それが形に出来なくて、自分たちの命数どおりに終わらせようとしてしまった雫那の胸に、真二の言葉が深く突き刺さる。

「僕は諦めない! 今日は終わってない! 僕は今日が終わる最後の瞬間まで諦めない!」

 彼は叫ぶ。変わらない明日を作るため、絶対の不文率を変えるため、叫ぶ。

「僕は見つけた、多分見つけたと思う、みんなが助かる方法。成功するかわからないけど、それでもやらないままで二人が死んでいくのは嫌だ! だから僕は抗う! 最後の最後まで!」

 真二の言葉で狭い回廊が満たされる。言葉は力になり、力は未来を変えるための想いになる。それは彼が知らずのうちに使ってきた、強い力。かつて「おはよう楠木さん」というたった一言を具現化させた、ほんの少しの切っ掛けをもたらした力。そしてその切っ掛けが、後に同じ仲間になることを可能にさせた、強い想いの力。彼のチカラ。

「……キミ」

 運命を享受した雫那は最後の最後に抗いを止めてしまったのに、真二はその運命を捻じ曲げようとしている。望む明日に進むため、彼は最後までがむしゃらに抗う。そんな彼が語った、みんなが助かるという方法。

「それは……」

 雫那はそれを尋ねようと思い、口を開きかけたその時

 ズシン! と、腹に響く重々しい音がこだまし、石の床が揺れた。

「地震!?」

 しかもそれは一回で止まらなかった。ズシン、ズシンと何度も繰り返され、しかもその音と震動が徐々に大きくなっていく。

「違う、これは……」

 そして一際大きくその音がこだました時、回廊の角から震動原が姿を現した。ランタンの灯りに照らされて、重苦しい影をまとった巨体が出現する。

「!?」

 それは中世の騎士が着込む完全鎧プレートメイルのような形状をしたもの。しかし図鑑などで目にするような完全鎧は平均的な体形のスラっとした物が多いが、今現れたのは、筋肉と脂肪という天然の装甲の上から更に甲冑を被せたような、固太りの騎士鎧だった。そしてもう一つ大きな違いがある。それは三メートルはあろうかという迷宮の天井に頭を擦るほどの巨体なのだった。

「……怪物モンスター

 真二の頭にそのものズバリの思考が浮かび、それを口にする。彼は遂にこの地下迷宮ダンジョンに住まう怪物と邂逅を果たした。

「……アイアンゴーレム……よりによってこんな面倒くさい相手と遭遇するとは」

 雫那は巨大甲冑騎士――アイアンゴーレムに向かって叫んだ。

「アイアンゴーレムよ! 私たちは迷宮仕事人ダンジョンワーカーズだ! キミとの戦闘は望んでいない! 速やかに退去してくれ!」

 しかし雫那の声はまったく相手に通らず、轟音と地響が此方に向かってくる。

「やはり、人造巨人ゴーレムに交渉は効かないか」

 雫那は鍵剣を取り出……そうと思ったのだが、指を握られたままだったことに気付いた。

「すまないが、戦闘態勢に入りたいので手を離してくれないか?」

 真二は雫那に指摘されて、その時初めて彼女の手を握ったままだった事に気付いた。

「え? ……わわっ、ごめん!?」

 慌てて真二が手を離すと雫那は鞄の中から解錠ノ剣キークリフを出して抜き放ち、得物を正眼に構えた。

「これが円に先導を頼んだ理由だ。上級悪魔グレーターデーモン吸血鬼バンパイアだったら、此方の身分を明かせば向こうも戦闘を回避してくれるはずなんだ。お互い戦闘を望んでいる訳ではないからな。しかしこの手の人造巨人はそうもいかない。迷宮に入り込んだ冒険者を自動的に攻撃し、侵入者から迷宮を守る動く壁みたいなもんだ。壁に交渉は効かない」

 鉄の巨人が近付いてくる。しかしその動きは緩やかというよりは緩慢のように見える。

「でもアイツ、動き鈍いよ? このまま一気に逃げちゃえば……」

 真二がその動きの遅さを指摘する。そう、これだけ動きのノロい相手ならば、全力疾走すれば、逃げ切れるのではないだろうか? 雫那はもとより、真二だって長年山育ちで鍛えた体なのだ。平均的一般男子高校生よりは高い敏捷力を持っている。しかし、そんな戦略的撤退を許さないかのように、アイアンゴーレムは右手を重々しく掲げた。すると次には、突然肘の辺りから蒸気を噴き出した。一瞬の後、下腕から先が真二たちに向かって打ち出される。

「なぁ!?」

 それは狙ったのか外れたのか、驚愕の顔の真二と、何時もと変わらない無表情の雫那との間の床に、轟音と爆裂を伴って突き刺さった。

「……ぜ、前言撤回」

 相手の見せた予想外の攻撃に、思わず後じさる。打ち出された腕には後ろにワイヤーが伸びており、それが上腕の中に繋がっていた。あれで巻き取って何度も使えるようになっているらしい。ゴーレムの体から何かが回転する音と共に、ワイヤーが戻り始めた。床に打ち込まれた腕がズボリと抜け、本体へと戻っていく。床には大きく穿たれた穴が一つ。

「これは、壁面修理の迷宮仕事人の仕事が増えてしまったな。いるかどうか判らないが」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」

 雫那の妙に落ち着いた反応に、思わずツッコミを入れてしまう真二。

「というか、なんであんなロケットパンチなんて付いてるの!?」

「そんなことはアイツを作った魔導師にでも訊いてくれ。ちなみにあの空飛ぶ拳はキミにあげた歌嵐と同じ風の精霊の力で動いている。あれを作ったのも凛姫かも知れないな」

 雫那の冷静な説明。しかし、まさかこんな豪快な飛び道具を装備しているとは。これでは逃げようと思って後ろを向いた瞬間に、あの射出鉄拳ロケットアームを食らいかねない。あんなものをまともに食らったら、ミンチは確定だ。しかも多分あれは左腕の方も使えるに違いない。更に、一回打ち出してもワイヤーで回収すれば何回も射出可能ときてる。まさに最下層一歩手前の階に相応しい、とんでもない怪物と遭遇してしまった。真二はつい忘れていた隣り合わせの死の危険を、改めて感じさせられた。

(と、とりあえず武器を……)

 到底敵わぬと判っても、とりあえず武器を持って戦おうとするのは生き物の生存本能として仕方の無いことなのだろう。だから真二はベルトに括りつけていた歌嵐を引き抜いた。生きるために。

 アイアンゴーレムが今度は左腕を掲げた。それは発射態勢を整えると間髪入れずに二人に向かって射出される。その一撃は、今度は願い違わず真二に向かって飛んできた。

「危ない!?」

 その軌跡を予測した雫那が思わず真二の前に飛び出そうとする。しかしもう間に合わない。具現化する死の旋律。時と時の狭間の、一瞬の静寂。そして、恐怖。

「う、うわぁぁぁあああ!?」

 恐慌に見たされた真二が、手に持った得物を振り回した……すると

「!?」

 彼の乱舞によって描かれた切先は、旋風の塊を作り出し、打ち払うような感じで偶然振り下ろされた一閃により、前に向かってふっ飛んでいく。その風塊は、見事に打ち出し式鉄拳にぶち当たり、吹き飛ばされた左腕は壁を深く抉って停止した。

「……はぁ、はぁ」

 真二が青ざめたように冷汗れいかんを流す。信じられないものを見るように、己の持つ歌嵐と、抉った壁からずり落ちるアイアンゴーレムの左拳を見比べる。

「凄いな、キミはもうそれを完璧に使いこなせているのだな」

 しかし真二が行った偉業を見て、雫那は至極冷静な声。

「だからそんなこと言ってる場合じゃないでしょぉ!? それにこれは偶然だよ!?」

 本当なら自分がしでかしたことに真二自身が一番驚く場面なのだろうが、雫那のあまりにも落ち着きすぎたコメントは、そんな大事を簡単にスルーさせてしまう。

「これって……こんなにも凄い力を秘めたアイテムだったんだ」

 放出した力の反動なのか小刻みに震える歌嵐を見て、真二が改めて驚きの声を上げた。今まで練習で出してきた風魂とは比べものにならないくらいの威力。脅威的存在との戦闘という危機的状況が、この歌嵐に秘められた力を限界まで発揮できるようにしたのだろう。しかし今はそんな力が出せた理由など冷静に考えている暇は無い。目前の恐るべき相手をなんとかすることが先決だ。

「よし、じゃあここは僕が食い止め……」

「駄目だ」

 真二の肩を掴み、グイっと自分の後ろに下がらせる雫那。

「ここは私が食い止める。キミは早く下へ降りて円のところへ行くんだ」

 しかしそんな絶望的な相手を前にして、雫那は真二を庇うように前に出た。

「でも、それじゃ楠木さんが!? それにさっき胡原さんは楠木さん一人で来てって言ってたじゃない!?」

「円を殺しに行くのではなく止めに行くのであれば誰が行っても同じだ。それに偶発的成功を、作戦手段に組み込む事はできない。今ここで確実なのは、身体能力の高い私がアイツの注意を引きつけ、キミが下の階へ向かうことだ。それにキミは円も他のみんなも全員助かる方法を見つけたのだろう? だったらキミが行かなければ意味がない」

 雫那の落ち着いた声が、その判断を確実な考えだと形作る。雫那に方法を伝えて彼女に行ってもらうという手もあるが、そんな事が許される余裕があるような状況ではない。

「アイツを倒すことは不可能でも、キミが下の階への階段に向かうまで相手の注意を引きつけ、攻撃をかわし続けることは可能だ」

 そしてそれは真二にはどうあがいても無理な相談だ。選択肢は既に決まっている。

「それに私はキミのことを守ると約束したからな。此処でキミの為に命を使うのも悪くない」

「楠木さんが死んじゃ意味が無いでしょ!? みんなが助からなきゃ!?」

「そう思うのだったら、早く下に行って全てを終わらせて、円をここに連れてきてくれ。下に降りる階段は、円が消えた方向に走って三叉路を右に曲がった突き当たりにある。そこの大階段を下れば迷宮最下層だ」

 雫那がそう説明しながら一瞬真二の方を見る。意思の強そうな切れ長の瞳に輝くあの光。様々な意味合いを持つ彼女の瞳の輝き。だが真二には、今の彼女の瞳が何を言っているのか、直ぐに判った。それは「信頼」だ。

「判ったよ!」

 真二はそう一声上げると、反転して一目散に駆け出した。振り向きもせず、円が消えた回廊を全力で走る。それが身を呈して敵を食い止めてくれている、雫那に対する一番の答えだから。


 地下迷宮ダンジョン最深層。地下一〇階のフロアのほぼ全てをぶち抜いて作られた大広間。その壁の一つから巨大な左手の彫像が突き出すように生えている。此処は他のフロアとは違い、現代日本の地下街と同じくらいの光量で満たされていた。篝火の類は見られないので、魔力で動く照明が配置されているのだろう。流石最後の間というべきか。

「……」

 円はこの最後の間の存在理由でもある、突き出した左手の下に設けられた豪奢な椅子に、膝を抱えて座っていた。迷宮支配者ダンジョンマスターの玉座。

 いや、確かに玉座ではあるのだが、これに椅子という表現が適用されるのかは判らない。円の座る部分は座席の形状はしているのだが、それを支える部分が、ありえない程に肥大化している。太いパイプやシリンダーに支えられた金属パーツを幾重にも組み合わせた六本の脚柱が、重厚な作りの本体に繋がっている。そして本体前面のくぼんだ部分に座の部分が設えられていた。

 それは形容するならば古めかしい作りの重機――中世の時代にもし油圧ショベルか均土機ブルドーザーでもあったならばこんな形状なのではないか? そんな不安定な雰囲気を醸し出す物体。まさに最後の相手ラストボスに相応しい物々しさだ。

「……」

 その中心に取り込まれるように座っている少女。彼女は確かにこの玉座に座する資格を有する迷宮支配者。しかし彼女にとってはこんな仰々しい玉座が自分の物だと言われてもまったく嬉しくない。こんなもの、己を拘束するためのケージにしかならない。自分の生まれ育ったケージ以外の世界を知りえない、ペットショップで生まれ育った血統書付きの由緒正しき仔猫。可愛い可愛いと誰からも愛される仔猫。しかし彼女の世界は四角に区切られた何も変わらない空間だけ。同じように四角く切り取られた窓の外を見るしか彼女には許されない。ケージの前に付いたガラスから外の世界を眺めて、その四角に切り取られた世界には、最初から自分は住めないと諦めた目。誰にも引き取られず年老いて、愛でられるという役目を終えたら……処分。

「血統書なんて……いらないよ」

 円が小さく呟く。野を駆ける元気な山猫。都会で生きる孤高の野良猫。鼠を狩る為に養われる長閑のどかな飼猫。世界には様々な種類の猫がいるけれど、自分はどれにもなれない。己の中に流れる正統なる血脈によって、生まれた瞬間から生きる目的と命数が定められた存在。それは本当にケージの中に生きる血統証明書付きの仔猫と同じ。

「……」

 彼女の手には三六〇年の昔から、代々の迷宮支配者が今の世まで伝えてきた書簡が握られている。それは「分たれし神の左手の迷宮」の主となって、ずっと自分を苦しめてきたもの。しかし、もうすぐその呪縛からも解き放たれる。そう思うとその開放手段が「死」であったとしても、少しは気持ちが楽になる。

 腕時計を見てみる。時計の針は午後八時を少し回った所。今日が終わるその時まで、まだ四時間ある。雫那に命を断ってもらうのは、日付が変わるギリギリにしてもらうつもりだった。円は残されたこの時間、雫那とのお喋りの時間に費やしたいと思っていた。自ら殺さなければならない相手との会話など残酷極まりない願いだが、こんな特殊な環境で幼馴染として生きてきたお互いなのだ。彼女ならば自分の願いも聞いてくれるに違いない。

 何を話そうか。オシャレの話? しずちゃんは中学の時に久しぶりに合った時、絶対に似合うからとわたしが結ってあげたおさげを、いまだにしてくれてるんだよね。今度は三つ編みでもしてあげよっかな。でもあのツインテールすっごく似合ってるし……それでしずちゃんの髪を結いながら、おしゃべりして……そうだ、武藤さんとのデートの時に穿いてたニーソックス! やっぱり足の長いしずちゃんにはピッタリだったネ……制服の時も穿いてくれてれば良かったのにな……そういえば武藤さんとは、どこまでお付き合いしてるのかな?

 恋愛にも壊滅的に不器用だと思われる雫那が、武藤真二という男性と一緒にいるところを始めて見た時、正直驚いた。一体いかなる手段で二人は出逢ったのか? そして一体どんな経緯があって彼が新たな迷宮仕事人となったのか? 自分は迷宮支配者という立場上、雫那よりも上位の立場にいるおかげで、あれだけ敏感な彼女が気付かない内に行動できたりもする。アミュレットにはそれだけの力がある。

 だからそれを生かして土曜日などは情報収集をしたのだが、結局二人の仲の核心部分は判らずじまいだった。後で雫那に問い掛けて、その経緯を話してもらおうか? でもこの状況では雫那本人には訊いてはいけないような気もする。彼女は正直に話してくれるだろうけど、それは死に逝く者への手向けのような気がして、何だか嬉しくない。

 もし本当に「明日」が来るのであれば、その時に改めて訊いてみたい。そしてもう一人その経緯を知る真二から訊いてもみたい。教室内で傍若無人ともいえる態度を見せてきた雫那にどのように好意を持ち、どんな言葉で口説き落としたのか? 幼少時より雫那を見てきた円にとっては、興味が湧かない方がおかしい。

「……」

 しかし、自分には「明日」は永遠にやってこない。自分の手を見つめる。真二が思わず掴んだ手。自分が見ても迷宮支配者として情けないほどに小さくて短い指には、彼の手の温もりが残っているような気がする。自分の頬に手を添えてみる。ほわんとした温かさが伝わってくる。

(最後の最期に、初めて男の子に手を握られたな)

 思い出すと、嬉しいような恥ずかしいような、そんなこそばゆい気持ちになって来る。

 人生最後の日に、こんなことを経験できるなんて夢にも思わなかった。だからもう、思い残す事は無い。運命を受け入れよう。変わらない明日が来るかもしれないと一瞬願ったが、それは自分には望む事の出来ないことだと。真二との約束を破る結果になってしまったが、それも仕方の無いことだと。一瞬だけ見れた夢。少しの間だけ自分の手の中にあった未来へのチケット。自分には、それで充分だ。

「……?」

 思考の深層にいた円に九階からこの最下層に繋がる石階段を力強く叩く足音が聞こえた。

「やっと、来てくれた」

 嬉しそうに顔を上げる円。抱えていた足を降ろして玉座にちゃんと座り直す。これでやっと退屈な時間から開放される。もう自分に残された時間は少ない。だから、少しでも雫那に側にいてもらいたかった。階段を駆け下りる音が止まり、それが廊下を走る音へと変わる。大門を潜り最後の間に、人影が入って来た。

「しずちゃ……」

 その人影が誰かと判った時、円の台詞が途中で止まる。それは、彼女の望んだ人物では無かった。彼女が最後の日と決めた日に、彼女にほんのちょっとの甘酸っぱい思い出をくれた者。変わらない明日を本当に作るため、たった一枚のチケットを渡すために、迷宮支配者の居城に飛び込んできた、愚か者。――武藤真二。

「しずちゃんじゃ、ないの……?」

 自分に残された最後の時間をせめて彼女と幸せに過ごしたいと思っていた円は、この最後の間に現れた少年の姿を見て愕然とし、そして同じくらい驚愕の表情となった。

 確かに真二に来てくれても嬉しいと思う気持ちはある。しかしそれでは……

「……なんで、あなたが、来たの?」

「キミを止めるためだ」

「!」

 息を弾ませる真二が、決然と言い放った。円はその言葉を聞き、ゾクリと背中に電流が駆け上るのを感じた。彼に手を握られた時以上の、強い気持ち。そしてそれは、まるで雫那のようなもの言い。その声も凛として、静かながらもはっきりとした意思を、聞く者の心に浸透させる。でも目の前にいるのは雫那じゃない、武藤真二だ。強い意志は同じでも、彼女と彼の間には、迷宮仕事人として生きた時間に差がありすぎる。

「ダメぇ! それ以上近付いちゃダメぇ!」

 円が思わず絶叫する。しかし、円が叫んだ意図が上手くくみ取れない真二は、更に一歩踏み出した。その時、右手に持ったままの歌嵐が小刻みに揺れた。それは真二の手が震えている訳ではなく、小刀自らが振るえていた。何かを訴えかけるように。遠くの方で風が切り裂かれる音が聞こえた。それが刹那の判断を誘い、彼の体を止める。真二はその直後、高速で何かが通過する音を、耳の側で聞いた。顔の左横を何かが跳ねる。

「?」

 スローモーションのように跳ね上がったそれが、切り裂かれた頬から飛び出た血の雫であることに気づいたのと同時に、間一髪狙いを外れた矢が石造りの床に当たり跳ね飛ばされていた。

「!?」

 後ろに転がる矢を恐怖に青ざめた顔で見ながら、熱くなってきた頬に触ってみる。指先に血がべっとりと付いた。傷は浅いようだが、大きく切り開かれてしまったらしい。

「だから……しずちゃんに来てくれって……言ったんです」

 少女の声が迷宮最下層に悲しげにこだまする。矢の飛んで来た奇跡と、円の声が聞こえてくる方向は、まったく同じ。呆然とする真二が何とかそれだけ知覚すると、円が座っている巨大な椅子の表面に、発射孔らしき筒のようなものが露出していた。

「武藤さんはまだ、迷宮仕事人になって日が浅い……だから、この『忘却の椅子オヴリビオン』に、侵入者として認識されてしまったのです……『分かたれし機械神の左手』を与えるのに相応しい者なのか、自らが最後の相手となり審判を下す者として」

 最下層の床を鈍い震動が揺らす。円の座する忘却の椅子から、錆付いた部品を無理矢理動かした金属同士を擦り合わせる耳障りな音が聞こえた。

そして玉座が、動き出した。

 本体に付いた六本の脚柱の内、後ろの四本を支えにして玉座が立ち上がった。部品同士を繋ぐシリンダーが伸縮し、巨大な脚部を動かす。部品の隙間からは歯車が覗き、巨体を動かすために重々しく回っている。残った前部の脚柱二本も稼動している。先端から爪のようなものが展開した。爪一本一本が、今まさに上の階で雫那が必死に戦っているアイアンゴーレムの腕一本と同じだけの大きさがあった。最後に本体後方から盛大に蒸気を噴出すと、数百年ぶりに現れた己に対する挑戦者のために、戦闘態勢を整えた。

 忘却の椅子オヴリビオン。この迷宮に突入して来た冒険者に最後の審判を下す者。

 なぜ「神の左手の迷宮」の迷宮支配者には胡原の血が必要なのか? それはこの「忘却の椅子」と呼ばれる魔導兵器を、このダンジョンが最後の相手ラストボスと頂くためだ。迷宮支配者が冒険者と相打ちになって倒され、審判を下す者が空白となっていたこのダンジョン。凛姫が最初の迷宮仕事人となり四つのダンジョンを整備し直し始めた時、「神の左手の迷宮」の新しい迷宮支配者をどうするのか? それも仕事の一つになっていた。この迷宮に入って最後の間まで辿り着けたのならば、一国の首都を簡単に灰燼にできる超兵器を容易に入手できる状態が百年以上も続いていたのだ。凛姫が現れるまでは幸か不幸か、最下層まで辿り着ける者はいなかったがそんな危うい平穏は早期に修正しなければならない。他の迷宮はドラゴンや意志をもった負の魔剣など、最上級クラスの怪物モンスターが迷宮支配者を担っている。だからこの迷宮もそれに準ずる強者を配置しなければならない。しかしそんな魔王クラスの怪物など、現在の首都で見つけるのは困難だろう。だから凛姫は、自らそれを作り出すことにした。

 正確には、自分が魔術を習得する過程で見つけ出した古代の魔導兵器を動かせるようにしただけなのだが、それを成すだけでも大業たいぎょうだった。しかも凛姫が習得できた現代魔法や現代錬金術では、この兵器単体では他のダンジョンの迷宮支配者と同等の力を発揮させることすらできなかった。だから、魔を強く導く血に、その力を求めたのだった。

 凛姫の魔導の助手を務めていた胡原の血には、元々魔導士としての才覚を発揮する力が濃く出ていた。そこでその濃い血のみに反応することを前提として限定魔法レストレンドルを施す事にした。操作できる者を選ばれた血にのみ限ることにより、比類なき力を発揮出来るようになる。しかし選ばれた血族の者が死に絶えた場合、その強力な力は失われる――だからこそ限定魔法レストレンドルなのだ。

「わたしはこの玉座が起動したら、もうこの椅子から体を剥がすことができません。胡原の血によって動くこの玉座は、胡原の血そのものが動力源。だからもう、わたしが死ぬか、武藤さんがここから逃げ出すか、どちらかしなければ止まらない」

 だから円のように未熟で矮小で、そして優しい迷宮支配者であっても、この迷宮の主は務まる。

「……胡原さん」

 真二の前に現れた最後の敵。ついさっき迷宮内の怪物と初遭遇を果たした駆け出しの迷宮仕事人の前には、その直後、もっとも忌むべき相手が現れた。確かに胡原円は虫一つ潰さないような優しい女の子だ。しかし彼女はそれと同時に迷宮支配者最強の怪物。彼女がこの迷宮内において絶対の存在であることを、真二は改めて思い起こされた。

「……武藤さん。あなたが最下層ここに来たってことは、あなたがわたしを殺しに来てくれたって……ことですよね」

 小さいな愛らしい女の子から、全ての破壊者へと変貌した円の声が、悲しげに響いた。彼が雫那の代わりにここへ来たのなら、彼女の役割を彼が担うことであるはず。そして円もそれを一度望み、真二を屋上へと召還したのだ。

「わたしがこの忘却の椅子を抑えます。その隙に武藤さんはわたしを……殺してください」

 零れ落ちそうになった涙を荒々しく拭うと、円は一歩踏み出した。

「武藤さんはそこでじっとしていてください。わたしがなんとか武装を起動させずにそちらへ近づきます。ほんのちょっとでも動いたら自動射出の飛矢マジックミサイルがまた飛んじゃいますから」

 本当は今日という日が終わるまで雫那とお喋りしていたかった。しかし胡原の血に縛られた自分には、そんな小さな望みさえ砕かれた。でも今は、彼を生還させることが先決だ。如何なる理由で真二がこの場に現れたのかは判らないが、彼は迷宮仕事人になってくれたのだ。自分が消えた後の世界で、唯一雫那の側にいてくれる人間を、わたしはちゃんと生きて彼女の下へ返さなくてはならない。円が忘却の椅子を進ませる。地下最深層の床を揺らして古の魔導兵器が進む。自らを殺してもらうための前進。それは、悲しくて、切なくて――寂しくて

「もうすぐ終わりますから……わたしさえいなくなれば、全て終わ……」

「だめだ!」

 円の悲観に彩られた柔声を、真二が力強く制した。

「だめだ……だめだ、だめだ、だめだぁ!」

 真二が怒気を孕んで叫ぶ。普段の彼からは想像できない声を聞いて玉座を進ませていた脚部が一瞬停止する。歌嵐を右手で構えると、その切先を動きを止めた円に向かって突きつけた。

「神の左手の迷宮迷宮支配者ダンジョンマスター、胡原円! キミはこの地下迷宮の主としてそこにいるんだ! そうじゃないと、意味が無い! キミが迷宮支配者として定められた鎖を断ち切らないと意味がないんだ! 自ら死を選んじゃ意味がないんだ!」

 真二は叫びながら一歩踏み出した。矢は飛んでこない。冒険者と認めた相手が接近しても、直ぐには射出装置は起動しないようだ。改めて二歩目を踏み出す。ゆっくりと歩を進める。三歩、四歩……、まだ飛んでこない。そして十歩目を数えた時、再び歌嵐が揺れた。精神を落ち着かせ、間隔を研ぎ澄ませる。そして、聞こえた。遠くの方で風が動く音。真二は動きを止めた。その直後、風切り音。宙を舞う衣服の切れ端と血片。今度は右腕を浅く切り裂かれた。

「もう、やめて……死ぬのはわたし一人で良いんですから……」

「胡原さんも楠木さんも、なんで簡単に死を選ぶ!? なんで最後まで抗おうとしない!」

 痛む右腕を押さえながら、真二が叫ぶ。

「楠木さんって……しずちゃんは関係ない、死ぬのはわたし一人だけ……」

 真二の言葉への円の返答。「神の左手」を動かす力を有する迷宮支配者である自分が消えれば全ては終わる筈。だから自分さえいなくなれば、全部終わる。自分が死ねば、「神の左手」を操り、そしてその使用を求める者に選定を下す者がいなくなるが、そこまで気にすることもできない。何しろ自分が書簡に従うのならば、明日大量に人が死ぬのだから。それに胡原の血によって動く忘却の椅子が配置される前までは数百年も迷宮支配者が不在だったのだ。それを考えれば本来迷宮支配者そんなものなんていらないのかも知れない。だからこそ誰かに倒される己の死が、自分のような情けなくてちっぽけな最後の迷宮支配者にでも出来る、最初で最後の大きな仕事。しかし真二は、そんな彼女の決断を、許さない。

「キミのことをあんなにも大切に思っている楠木さんが、キミ一人だけ死なせるわけがないだろ! 胡原さんを殺すなんて、あんなに友達思いの優しい彼女ができるってことは、それは自分の命も一緒に代償にする覚悟があるからだよ! キミは楠木さんの幼馴染なのに、そんなこともわからないのか!」

「!?」

 円の心に、真二の言葉が深く突き刺さった。多分それは円も予想ができていたこと。でも、犠牲は自分一人で済むと思い込まなければ、円も素直に死を選べなかったこと。

「楠木さんは、キミを殺したら自分もすぐ死ぬつもりだって言ってた。でも僕という後輩が出来たから、キミを殺したあとも僕を迷宮仕事人に育てるまでは生きると言っていた。でもそれも長くは無い。僕の事を早々に育てて、すぐにキミのあとを追うつもりだ。だから今のままじゃ、キミが死んだあとに楠木さんもいなくなるのは変わらない」

 自分を殺したあとに、雫那も責任をとって自決することなんて、彼女の幼馴染を長い時間やってきた円には、容易に予想できていた。しかしそれをあえて他人の口から伝えられることのショックは、余りにも大きかった。

「わたしだって……わたしだって、死にたくない。しずちゃんにだって死んで欲しくない! でも……でも、仕方ないじゃない!」

「だから僕がここに来たんだ! だれも死なさない、変わらない明日を迎えるために!」

 真二は円の座する忘却の椅子へと近付いていく。その度に歌嵐が反応し、真二は一旦歩を止め、傷付きながらも矢をかわす。遠くから飛んでくる飛矢の音は、思いのほか良く聞こえた。毎日の教室での、雫那が空気を裂く際に発生する微量な風動を感じ分ける苦労に比べれば、大仰な風切り音を伴ってやってくる矢をかわすこと自体は、真二には難しくなかった。彼の危機対応力は雫那との接触によって知らず知らずの内に強化されていたのだ。

「『分たれた神の右手』が審判の迷宮の上に鎮座する街を焼き払った三六〇年の後、神の左手の迷宮支配者は、同じように迷宮の所在を隠蔽すべし」

 しかしそれでもこんな状況では真二の風読みの力は絶対の打開策にはならず、制服を切り裂いた破口から血を滲ませるが、それでも前進はやめない。一歩一歩の速度は遅いが、それでも確実に進む。円が忘却の椅子を進ませた死のための前進とは全く逆の、生きるための前進。

「たしか、そう書いてあるよね?」

「……そうよ、だからわたしはそれに従って……」

「でも同じように隠蔽しろとは書いてあるけど、同じように街を燃やせとは書いてない」

「そ、……それは」

「キミたちこの迷宮に生きる者にとっては、この地下迷宮ダンジョンは特異な存在だと思う。街を燃やしてまで隠さなければならないと考えても不思議じゃない。でも、僕は外の世界からやって来たから判るんだ。この街には、他にも大きな情報がたくさん溢れている。そしてこの地下迷宮はその中にある」

 地下迷宮という特異な情報であっても、これだけ情報の渦にまみれた首都の中にあるのなら、それは数多い「変なモノの一つ」として処理されてしまう。明暦の大火で燃やし尽くされたダンジョンを地下に内包する旧市街は、時を経て今の街になり、世界でも類を見ない情報過密都市、混乱都市ケイオスシティとなった。混乱を作り出し、混乱の中にいるこの街は、常に進化し生き物のように蠢いている。その力は、有史以前に建設された地下迷宮という、歴史をひっくり返すだけのシロモノであっても、他の巨大な情報の中に埋没させ、文字通り地下へと隠蔽してしまう。

 それは再び自分を燃やされないようにと、この街自身が抵抗を図った結果だったのかも知れない。木を隠すなら森の中。それを例えるならば、地下迷宮という存在は、混凝土密林コンクリートジャングルと呼ばれる都市の中の、木を模した石造りの彫刻なのだろう。そして外の世界からやってきた真二だからこそ、それに気付いた。気付けたからこそ、白日夢のような感覚を三人が感じた時、真二だけが違う答えを出した。「死」ではなく「生」への答えを。

「でも……三六〇年前に神の右手の支配者が苦渋の決断を下したのよ、だったら今度は神の左手の支配者わたしが、同じことをしなくちゃいけないじゃない!」

「そんなこと、誰が決めた!」

「……だって、ここにそうしろって書いた紙があるんだもん……だったら、それに従わなくちゃいけないじゃない!」

「だったら、始めからそんなものが無かった世界にすれば良いじゃないか!」

 真二は更に歩を進める。そして円の場所まで後一〇メートルと近付いた時

「!? ダメェ! それ以上近づいちゃダメェ!」

 円の絶叫。その叫呼きょうこに、思わず真二も足を止めた。その直後、轟音。真二の足元に、忘却の椅子のカギ爪が突き立っていた。

「あ……ああああああ」

 もうすぐ真二を殺してしまうところだった円が蒼白になる。今まで何とか自分の言う事を聞いていた魔導兵器が、真二が懐に入り込んだ途端、円の手を離れて勝手に動いた。

 挑戦者として認めた相手が接近しているのに、円が表立った戦闘行動を取らないため、忘却の椅子本体が防衛本能を発動させていた。これはもし迷宮支配者が冒険者に精神的に操られる等の不足の事態に対する防御機構なのだが、現状では災いを増加させる行為にしかならない。今は何とか真二を潰そうとして繰り出された右腕を直前で止めたが、これ以上彼が接近してきたら何処まで玉座を抑え込めるか判らない。

 しかも自動制御の飛矢は、目標を新人迷宮仕事人に合わせたまま。再び射出装置の一つが開く。風切り音。真二は余りにも接近しすぎた。そして自分を直接襲ってきた忘却の椅子に対する戦慄が、歌嵐による対応を遅らせた。その結果が、彼の左腕に突き立った矢柄やがら。真二は左腕に、灼熱に包まれたのかと思う程の、凄まじい熱波を感じた。そしてその直後に襲われた激痛。たまらず膝を突く真二。

「武藤さん!?」

 暴れ出す直前の忘却の椅子を必死に抑え付ける円が、更なる惨状に悲鳴を上げる。

「はぁ……はぁ」

 一瞬意識が空白になる。傷口から流れ出る血液が、思考の欠如を更に増長する。

 しかし、矢を受けたショックで気を失わなかっただけ、マシなのかも知れない。ヘタをしたらその衝撃で死んでいたかもしれない。でも、まだ自分は倒れていない。まだ進める。

 真二は、自分を圧殺しようとした忘却の椅子の右腕に手をかけると、鈍り始めた体に鞭を打ち、立ち上がった。朦朧とした意識で前を見る。彼女までの距離はもうすぐ。あと少し。

「もういいです! もう充分です! もう動かないでください! あなたがわたしを殺さないのなら、しずちゃんが来るまで待ちます! だから、もう……」

 何故真二は、自分を殺さないと宣言しているのに近づいてくる? しかも自分の体を傷つけてまで。自分の命を磨り減らしてまで。矢に刺し貫かれても、それでも立ち上がる真二の姿を見て、円が泣き叫ぶ。

「だめだ!」

 真二が声を張り上げる。その張り上げた自分の声で、意識を失いそうになるが、それでも叫ばないといられない。

「……あと、少し」

 少し高い位置に持ち上がった玉座に座る彼女との距離は、一〇メートルを切っている。敵の豪腕が襲ってきたということは、自分はもう既にそのかいなの内にいるということだ。

 真二は、懸けることにした。左腕の出血も酷い。意識が薄れる前に決着をつけなければ。

 一瞬腰を落として身構えると、手をかけていた忘却の椅子に真二は飛び乗った。実家の山深い遊び場の中で、幼い頃の真二は横に向かってくねるように育った大木の上を、兄弟と一緒に走り回って遊んだりもした。何を危ない事をしているんだと両親にはこっ酷く叱られたが、楽しくて止められない自分がいた。そんな危険な経験がそれ以上に危険な場所で発揮された。忘却の椅子の前腕は、実家の大木より余程太く、走りやすいくらいだった。分厚い表面装甲を蹴り付け、猛然とダッシュする。

「うぉぉぉおお!」

 ガン! ガン! と、真二が駆けた軌跡の後に矢が突き立っていき装甲に弾かれる。己を傷つけることを全く厭わない壮烈な攻撃を避け円の下へ駆け上がる。玉座まで急接近を果たした真二が、歌嵐を振りかぶった。最初に考えた方法は自分の手で直接行う方法だったが、こんな状況では円の傍に辿り着くのもままならない。それに今は忘却の椅子そのものに自分も乗っているのだ。振り落とされたらそれで終わりだ。だから此処まで導いてくれた歌嵐に懸ける。

 玉座までの距離があと二メートルとなった時、真二は忘却の椅子の腕から飛び出した。その先には一人の少女の姿。真二は歌嵐を振り下ろす。それと同時に最後の飛矢が襲ってきた。だが落下途中の彼にはそれを避ける事はできない。そして既にその時、真二の目にはある一つのもの以外、何も写っていなかった。彼の瞳に写っているのは只一つ。両手にしっかりと薄汚れた書簡を持った小柄な少女の姿。彼はそれに向かって刃を振り下ろした。

「おおお!」

 円の瞳には自分に向かって上段に掲げられた剣が映っている。

(ああ、やっぱりあなたも、最後にわたしを殺してくれるんだね)

 自らを切り裂くであろう凶刃を、円が安堵した気持ちで見つめていた。最期に雫那との会話は楽しめなかったけど、もうこれで終りにできるのならそれで構わないと、覚悟を決めた。自分の最期に女の子らしい甘酸っぱい思い出をくれた男の子に殺されるのなら……

 振り下ろされる歌嵐。そしてその刃が切り裂いたものは

「!?」

 宙を舞う、白く細かい紙片。ひらひらと漂うそれは、円が握りしめていた書簡だった。

「……え?」

 雫那が語った歌嵐に秘められた特性。それはある一定距離離れた特定の対象物のみ、風の力により切り裂く能力。アイアンゴーレムとの戦闘で大きく開花したその力。そして飛矢をかわすことによって徐々に引き出されてきた力。この短く、それでいて濃縮された戦闘の中で、歌嵐はある程度真二の力に反応して動くようになってきていた。だから真二はその力に懸けた。ギリギリまで接近して、アイアンゴーレム戦で見せた風塊が出せれば。そしてその想いは具現化し、円を苦しめ続けた書簡をバラバラに切り裂く事に成功した。

「……ぐぅ!?」

 宙を翔けた真二は叩き付けられるように地面を転がる。着地に失敗して呻き声を上げた。

「……これで、終りにできるでしょ? もう手紙はなくなったんだから……それにしたがってこの街を燃やす必要も……ないでしょ?」

 しかし、彼が苦しげな声を上げたのは、着地に失敗しただけではなかった。

「でも、……ごふぅ!」

 起き上がろうとした真二はそれが果たせず再び倒れこんだ。そして口から吐き出される血汁。

「武藤さん!?」 

 その時、張り付くように固定されていた円の体が、座席から剥がれた。真二が既に脅威の対象ではないと認識した忘却の椅子が、主の拘束を解いたのだ。

「……きゃぁ!?」

 急に体が自由になった円が、支えを失って床の上に滑り落ちた。その時足を強く打ってしまったが、自分の痛みより今は倒れこんだ真二の方が気になる。足を引きずり倒れた真二の側に近づく。そして彼女は見た。

「いやぁぁぁああ!?」

 真二の左胸の下辺りから背中にかけてを刺し貫く一本の矢を。

「……みんなを、死なせないために頑張ったのに……自分が死んじゃうなんて……情けない、よ……ね……ぐふぅ」

 肺臓を突き破られ、左肺の上葉下葉に溜まった血液が、再び口から吐き出される。

「……胡原さん……言ってたよね……その嘘が、本当の事であれば良いのに……」

 もう喋る事もままならないはずの真二。だがそれでも伝えるべきことを円に伝えるために、彼はなんとか口を動かす。

「この世界ではもう……今日という日が……大火で、この街が消失する日と知っているのは、僕たち三人しかいない……」

 雫那の言葉を信じるなら、迷宮仕事人は雫那と新しく増えた真二の二人しかいないのだ。それに迷宮支配者の円を加えても、たった三人のダンジョンを知る者たち。

「今の前の街が……燃えたのは……明暦の大火。女性の振袖から……燃え移った火が……引き起こした火事。それは偶発的……に、引き起こされた災害。歴史ではそう……なってる。誰も神の右手が燃やした……なんて……知らないし、そんな事実は歴史に……は、残っていない……ぐふぅ!?」

 真二が肺に溜まった血液を盛大にぶちまけた。

「武藤さん!」

 それまで凍りつくように真二の血塗れた語りを聞いていた円が、現実世界に引き戻されたように、彼の頭を抱きかかえ膝の上に載せる。

「武藤さん! 武藤さん!」

 真二が吐き出す鮮血で制服が真っ赤に汚れていくが、そんなことはお構いなしに叫び続ける。

「嘘でも……それが本当のことになる時がある。その嘘を信じた方がみんなが幸せになるのだとしたら、真実を実行する必要なんて……ないよ……世界は壊すだけじゃない……創っていくことだってできるよ……明日がこないんだったら……自分で、明日が来る世界を創れば、良いんだよ……だから僕たちの手で……それを……本当にすれば……良いんだよ」

 それが真二の出した答えだった。三人だけが感じた白い空間の中で見つけた答えのカケラ。彼はそれが正しいと信じ、自分の全力を懸け、その答えを本当に正しいものへと変えた。誰も死なない、誰もいなくならない、未来の姿。

 しかし何かを叶えるためには、必ず代償が必要となる。誰もいなくならない筈の答えの代償に供されたのは――彼自身の命。

 円が抱きかかえる真二の体は、急速に冷たさを帯びていった。言葉を形にして彼女に伝えるたびに、彼の体温が少しずつ失われていく。

「だから……もう、これで……誰も、死ぬ……必要は、ないよね」

「……それで、武藤さんが死んじゃ、意味ないじゃないですか!?」

 真二の顔にぼたぼたと、大粒の雫が何個も落ちていく。多分円はボロボロに泣き崩れて、酷い顔になっているのだろうなと、真二は思う。既に視界は白く濁り、何も見えなくなっていた。

「……そうだね……でも、最後に……迷宮仕事人としての……大きな仕事ができたから……迷宮支配者胡原さんを……止めることが……できた」

「武藤さん……」

「……キミの仕事は……街を焼き払うこと、じゃない……冒険者を選定して、正しき者に……分かたれし神の左手を与える……ことでしょ……だったら……」

 そこで真二の言葉が途切れた。目を瞑った状態で、円の膝の上でごろんと首が横に倒れる。円を助けたいという気持ちを信じて、そして自分の気持に反応してくれた歌嵐を信じて、彼は未来へと進む道を切り開いた。ケージの中でしか生きられないと信じ込んでいた少女に、本当に未来に進む為のチケットを与えた。彼は、命数の決まっていた筈の少女達を、助けた。

 でも、彼はもう

「武藤、さん……?」

 動きを止めてしまった真二を、円がゆする。何度も何度もゆする。

「武藤さん? 武藤さん!?」

 もう、こうなることは予想できていたが、それでも抗いたい気持ちは変わらない――しかし

「……い、いや」

 円の、心の奥の理性が、終に現状を理解する。

「嫌ぁぁぁぁああああ!」

 迷宮最下層の大広間に、少女の慟哭が鳴り響いた。


「……ここ、どこだろ?」

 見渡す限り真っ白な空間。なにもないただ空白だけの場所。電車の中で感じた白日夢のような世界。しかし今度は自分一人しかいない。それに体が浮いている。白い世界の只中にポツンと自分だけが浮かび上がっている。ふわふわと浮いている自分。まるで自分のからだそのものが存在していないかのような、そんな気分。

 死ぬってこういうことなのだろうか? と、朧げながらに思う。

 体が宙を漂い始める。重力の拘束を受け付けなくなっている体が、空中を流れ始めている。一つの方向を目指して勝手に漂い出す。そちらの方に体が進み始めると、なんだか更に体が軽くなって行くような気がする。そして例えようもない安心感。もうこのまま、ずっとこうしていたい。この先に進みたい。そんな気持ちに満たされる。

「……?」

 そのまま進んで行くと、何かが右から左へと流れて行くのが見えた。一面相変わらずの真っ白な世界で、見た目には特に変わったところは見受けられないのだが、確かに何かが流れているのが判るのだった。それはまるで此方と向こうを隔てる境界線のような。

 そして、その向こうへは行ってはいけない何かを感じる。しかし体は、そこを越えて向こうへ渡る事を欲している。このまま行っても良いのだろうか?

「……」

 心の中に葛藤が生まれる。体は確かに向こうへ進むことを欲している。しかし、心は望んでいない……ように思う。でも宙に浮いた体は、心のいうことを聞いてくれない。止めようと思っても止まらない。何度もそんな葛藤が続く。すると心が体に徐々に押されてくる。もう良いじゃないかと、囁いてくる。ゆっくり休めと、促してくる。

「……もう……いいのかな?」

 そして、折れた心は、疲れた体には抗うことはできず

 ふわふわと宙を進み、流れる境界線に入ろうかとした――その時

「こらぁ! 勝手にそっちに行くんじゃない!」

 突然襟首をぐいっと掴まえられ、そのまま後ろに引っ張られた。

「わわ!?」

 驚く間もなく、そのまま地面に引き倒される。地面という概念すら無い世界で、どうやって地面にぶつかったのか判らないのもすっ飛ばすほどの刹那の間。

「とりあえず、迷子を迎えにきたわ」

 地面(?)にあお向けにぶっ倒れている真二に、艶やかな女性の声が聞こえた。

「……どちらさまですか?」

「その前に、寝たままのあんたとじゃ話しづらいから、さっさと立ちなさい」

 この状況を作り出したのは彼女自身であるので、それを考えれば随分な物言いだが、それでも彼女に従わなければならないのではと思わせる迫力が、その声にはあった。だから

「は、はい!」

 と、少年も素直に飛び起きるのであった。

「時間がないからさっさと説明するけど、ここは生きてる世界と死んでる世界のちょうど境界。でも三途の川なんて陳腐な名前で呼ぶのはやめてちょうだい」

 彼女が親指をぐいっと、自分の後ろに向けながら解説する。

「え、えーと……僕はやっぱり死んだんですか?」

「だから今説明したでしょ? あそこがその境界だって? まったく、判らない子ね」

「……すいません」

 彼女の叱咤の言葉に素直に謝る少年。その率直な姿を見て、彼女がくすりと笑った。

「その素直なところ、良いよね。だからあたしもそんなあなたが、あの娘の側からいなくなるのは申しわけなく思って、出てきたんだけども」

 そう言いながら、切れ長の瞳で少年を値踏みするように見つめる。

「ふ~ん、結構可愛いじゃない? あたしの時代に生きてたら間違いなく小姓にしてたわね」

「え、えーと、あの……」

 何がなにやら判らないので、とりあえず自分も目の前に立つ彼女の姿を観察してみた。白く美しい和装の女性。この白い世界ではそれが周囲に溶け込んで、黒く艶やかな髪と、同じだけ輝いている漆黒の瞳を際立たせている効果があるように思う。印象的な切れ長の瞳は、ただキツイ感じを与えるだけではなく、高貴な優しさも兼ね備えた、何時までも見つめていたくなる、そんな瞳だった。そして少年はこんな瞳の女の子を一人知っていた。良く見れば顔の作りだって似ているし、身長も体格もほぼ同じだ。しかし目の前の彼女は、自分の知っている少女ではない。違う。違いが判る。――目の前の彼女がツインテールではなく、一房のポニーテールだから――という訳でもなく、なんとなく違いが判るのだ。

「現代の迷宮支配者が持ってた書状、実はアレ、あたしが作ったモノなんだわ」

「は……はい?」

 そんなポニーテールの彼女が、とんでもない事を口にした。

「地下迷宮に冒険者を呼び込むために作った、いわば餌みたいなものね」

 彼女が説明する。自分がカラであった地下迷宮を再生し終え、約束通り冒険者として一通りダンジョン内を周り終えた時、世界は総近代化に進もうとしていた時代だった。何しろ自分自身がその所為で城を追われてしまい、新たな就職口として迷宮仕事人ダンジョンワーカーズとなったくらいなのだから。その為、祖先より解錠ノ剣キークリフが伝承されている冒険者としての資格を持った者も、ダンジョンという存在を忘れ、己も自国の経済発展等に勤しむようになったという。その方が命の危険を冒して迷宮を彷徨うよりも、よっぽど良いと判断したのだろう。解錠ノ剣キークリフの所有者が冒険心というものを、全ての者が持ち合わせている訳ではないからだ。

 しかし困ったのは、地下迷宮ダンジョンを管理する側だ。地下迷宮というものは「迷宮」と「怪物モンスター」と「迷宮支配者ダンジョンマスター」だけでは成り得ない。それだけしかないのならそれは只の「祠」である。地下迷宮が地下迷宮として機能するには、外より呼び込まれる風「冒険者」がどうしても必要であるということが、過去の経験より判っていた。――そこで

 自分が流離った時に解除してしまったトラップを元に戻したり、開けてしまった宝箱の中身を入れ直して再び補充しながら、彼女は一つの計画を考えた。

「迷宮に突入して攻略しないと街が滅んじゃう、そんな危機的状況を作ろうと思ったのよ」

 そして彼女は過去の記録を思い出し、明暦の大火を利用する事にした。

「でも明暦の大火って、昔の迷宮支配者が起こした火事なんじゃないんですか?」

 真二が円から教えられた記録を口にする。

「新人のクセに良く知ってるわね? 確かにそうよ、街を焼き払ったのは『神の右手』という名の武装兵器」

 あまりにも発展しすぎた迷宮の上に立つ市街を、一旦燃やしてリセットしてしまおうと、神の右手は、闇夜の空に現れた――だが

「でも別にその時点でそれから三六〇年経ったらもう一度街を燃やせなんて決まりは無かったし、そんなことを書いた紙も無かった。あれだけ一回こっ酷く燃やしておけば大丈夫だろうと、普通は思うでしょ」

 しかし神の右手が街を燃やしたという事実は残っている。だからその事実を冒険者を呼び寄せる文献に利用しようとしたのだ。そして街を焼いた火炎は明暦の大火という事象で正史に残っているが、旧市街上空に現れた巨大な鉄の塊を見たという文献もそれなりにまだ残っていた時代だった。神の右手が街を焼き払い迷宮を隠蔽した三六〇年後、今度は神の左手が同じように隠蔽する。そのように新規に作成した文献を、解錠ノ剣キークリフの所有者が住む地域にばら撒き、神の左手の迷宮支配者の元にも、同じ文献を残したのだ。一応自分のダンジョンに何故こんなにも冒険者が侵入するようになったのか、その理由を残しておく為に。

「いや~、それからは千客万来ってくらいに冒険者がやって来たのよね。純粋に正義に燃えてやってきたのもいれば、最初のあたしのようにお宝目当てもいたけどね。それにあの娘がいるダンジョンが神の左手の迷宮だとは外からは判らないから、他の三つのダンジョンにも満遍なく冒険者がやって来たわ」

 そして時代を経て、彼女が迷宮を再生し終えた直後と同じ状態になってしまっていたのだった。その中で再びこの街が大火に襲われるという情報も風化し、迷宮支配者の元に残る文献だけが唯一の残存になってしまった。

「結局、元に戻っただけ。なんだったのかしらね?」

 空しさを顔中に現しながら、そう呟く彼女。

「じゃ、じゃあ……あの文献に従わなくても……良かった?」

「迷宮支配者っていうのは迷宮内の最高権力者なんだから、迷宮に関わることなら全て自分の自由にしても良いのよ。だからあの文献もその後の迷宮支配者が判断して破棄しても構わなかった。でも彼女では、それに気付くのはちょっと無理だったのかも知れないわね」

 もしあの文献に従い神の左手を起動させ首都を焼き払っていたら、どうなっていたのだろう? それを考えると身震いする。半ば死んでいる状態で震えるのもどうかと思うが。

「だからあんたには感謝しているのよ。紙媒体で迷宮支配者宛てに何か残しておこうと思ったのが、結局裏目に出ちゃった形になった。あんなに優しくて素直な子が迷宮支配者になる可能性も考えておかなければならなかったのよね。だから良く破ってくれたって、良く気付いてくれたって。そんなわけで感謝の印として、こうやってなけなしの残留思念を使って、あんたを連れ戻しに来たのよ」

 そう言いながら、彼女がぐいっと、少年の体を引き寄せた。

「まぁ、だからこれはささやかな追加のご褒美だと思ってちょうだい。あんたは意識が無い状態なんだから、あの娘だけ経験しちゃうのは、不公平でしょ?」

 彼女から出た言葉。それはどういう意味だろうと思った瞬間、少年は彼女に唇を奪われていた。


「……さん! 武藤さん!?」

 遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。

(……あれ? 僕は……左胸の下に矢が刺さって……)

 そう、死んだはずだ。円に自分が伝えたかった事を全部伝えて、そこで安心して意識が無くなった。そしてそのまま死んだ……と思ったのだが

(生きてる?)

 矢の貫通傷も確かに致命傷だが、それ以上に出血多量死を引き起こすほどの血を吐いた筈だ。物理的に考えれば、自分が生き残っている筈は無いのだが、どうも自分はちゃんと生きているらしい。瞼を開いてみる。ちゃんと開くことが出来た。視界も良好。白く濁りもしていない。

「武藤さん!」

 一体どういう状況なのだろうと復活した視力で辺りを確認しようと思う前に、真二は抱きしめられた。真二の顔の横には、彼の名前を呼び続けて泣き叫ぶ女の子。それは

「胡原さん?」

「武藤さん……良かった」

 胡原円が、真二のことをぎゅうぎゅうに抱きしめながら泣いていた。自分の体に密着する彼女の体。円の体の感触を通して感じると、自分の左胸の矢は無くなっていた。腕に刺さった矢も抜き取られている。

 そして真二が円の頭で半分塞がれている視界の反対側に目を向けると、そこには見慣れた顔があった。切れ長の瞳、細い顎。真二の頭の中に曖昧な記憶が蘇ってくる。白い世界。ゆっくりと流れる境界線。――そして

「あ!?」

 そこで何があり、何を伝えられたかを思い出し、真二が思わず声を上げる。その世界に居た彼女と、同じ容姿の女の子。決定的に違うのは、束ねた髪の毛が、ふたつに増えているということ。そしてそれがもの凄く良く似合っているということ。

「楠木さん……」

「良かった、間に合った」

 真二が雫那の名前を呼ぶと、締め付けるかのような勢いで抱きしめていた円が、ようやく離してくれた。そのまま再び自分の膝の上に彼の頭を載せる。

「あれ……僕、死んだんじゃ?」

「限りなく死に近い状態にあった。だからあと少し蘇生に遅れていれば、本当に復活不可能なところだった」

 雫那が脇に置いていた硝子の小瓶を、コトリと手前に持ってくる。

「すまんな円、あの場所の霊薬エリクサーの設置、もう十年待ってもらうことになった」

 雫那の謝罪を聞いて、円が涙を拭いながら苦笑する。

霊薬エリクサーはまた作れば良いけど、武藤さんをもう一回作るわけには、いかないもんね」

「え……どういうこと?」

 状況がまったく飲み込めない真二が尋ねる。

「私は禁忌を侵してしまった。本来不可侵である筈の、迷宮内のアイテムに迷宮仕事人ダンジョンワーカーズが手をつけてしまった」

 アイアンゴーレムをなんとかかわし、遅ればせながら最下層についた雫那。そしてそこで起動した忘却の椅子オヴリビオンと、そのかいなの中に出来た血だまりに座り込む円と、抱き抱えられたまま動かない真二を発見する。直ぐに現状を判断した雫那は、泣き叫んだまま真二の側を動こうとしない円を強引に横抱えして、再び九階へ上がってきた。ゴーレムの相手を円に頼み(座り込んで泣いているだけだったが、充分効力は発揮していた)自ら仕掛けた罠を再び開錠、中に入れたばかりの霊薬エリクサーと円を引っ掴んで、再び最下層へと向かい、真二の蘇生を行ったという訳である。

「でもしずちゃんったらいきなりなんだもん、多少はわたしに権利を譲ってくれる素振りを見せてくれても良いじゃない?」

 霊薬エリクサーを使用しての真二の蘇生を思い出して、なにやら汚い笑いの円。

「何を言ってる? 彼は三途の川に片足を突っ込んでたんだぞ? そんな余裕があるか!?」

「でも武藤さんはわたしのせいでこんな目にあったんだもん」

「私は自分の命数尽きるまで彼のことを守ると約束したのだ。それに従ったまでだ」

「えー、なによそのロマンチックな約束ぅ~、でもそういうカッコ良い台詞を言うんなら、男と女の立場が逆じゃありませんのこと?」

「うるさい」

「でも武藤さんはわたしの所為でこんな目に合ったんだし、今回はわたしに譲ってくれても良かったじゃない、霊薬エリクサーの口う……」

「それ以上言うな」

 円が口に出しかけた言葉の先を察知して雫那が止める。そんな雫那の顔は、真っ赤。

「どうしたの? くちう?」

 真二も円が言いかけた言葉が気になっているらしい。

「き、キミは知らなくて、い、良いことだ」

 そして真二に対しても、雫那はぷいっとそっぽを向きながら少し慌ててつつ答える。そんな雫那の姿を見てみると、朱色に染まった頬以上に全体的に赤く汚れていた。特に口の周りから胸の辺りまでが血に染まって濡れている。血汁を吐き出しつづけた真二を抱きしめた円が血に汚れているのは判るが、何故彼女まで汚れているのか?

「内緒だぞ?」

 そんな真二の疑問を知ってか知らずか、円に更に口止めする雫那。

「は~い」

 そして円も一応素直に返事をしている。血液が付着して真っ赤になった口元でバレバレな気もするが、円はあえて黙っていることにした。

「え、え……もしかして」

 しかし真二は様々な状況証拠を元に、答えを見つけつつあった。意識を失った相手に、零さずに液体を飲ませるにはどうするのが最良か? そして夢だったのかなんだったのか良く判らない白い世界の最後、自分は雫那に良く似た彼女に……

「それ以上は言うな」

 再び雫那の制動が入り、真二も流石に口ごもってしまう。この話は当分雫那の前では禁忌タブーのようである。

「……」

 真二は傍らに置かれていた歌嵐を取った。

「どうしました武藤さん?」

 膝枕をしている相手が側に置いてあった小刀をいきなり掴むのに対して円が不審な声を上げるが、真二はそれが聞こえないかのように鞘に収められた魔導器に見入っていた。

(この歌嵐という名前の剣、やっぱり本物なのかな?)

 徐々に薄まりつつある先ほど感じた白い世界の記憶。この歌嵐に宿っていると言われる思念が、自分のことを助けてくれたのだろうか?

「さぁ、帰ろう。もうここにいても仕方ない」

 ハンカチで少し恥ずかしそうに汚れた口元を拭いながら、雫那が帰還を促した。その言葉を聞いて真二の思考も現実に戻された。

 例え様々な可能性があろうとも、自分が書簡を裂き、雫那が自分のことを助けてくれた事実は確定されたものとして変わらない。だからもう、自分だけしか知らないあの白い世界のことは、自分の胸の中だけに仕舞っておくことにした。

 この歌嵐は本物を模して作られた模造品レプリカ。それは嘘かもしれないけど、でも今はそれが真実。そしてそれを、ポニーテールのあの女性も望んでいると、真二も思ったから。

「彼は私が背負う。円はみんなの荷物と先導を頼む」

 ハンカチを折り返し、吐血で汚れた真二の口元をさり気無く拭って再びポケットに戻しながら、雫那がてきぱきと指示を出す。女の子である雫那に背負われるのに例えようの無い恥ずかしさを真二は感じたが、蘇生直後という事もあって体がまったく動かず、ここはおとなしく従うしかない。三人分の荷物を抱え、逆に荷物に抱えられているような状態になってしまっている円が、その隙間から前を窺うと、思うように体が動かない真二が、雫那の背に載るのに四苦八苦しているのが見えた。円はそれを確認すると目を輝かせ、なにか企みを思いついたような意味深な笑いを見せた。

「ねぇねぇ、迷宮仕事人ダンジョンワーカーズさんが禁忌を侵したんだから、何か罰を受けてもらわなければいけないよね?」

「……ああ、そうだが?」

 突然の円の提案。雫那も真二を助ける為とはいえルールを破っているので素直に応える。

「なにをすれば良い? 大抵の事は甘んじて受ける覚悟はあるが?」

 その雫那の潔い言葉を聞いて、円のニヤニヤ度が更に上昇した。そして、下される罰。

「じゃあ、武藤さんのことをお姫様抱っこして、地上まで連れて行ってくだサイ」

「……は、……はぁ!?」

 その言葉を聞いて一番ビックリしたのは、他でもない運ばれ役の真二だ。

「ちょ、ちょっと胡原さん!? なに言ってんですか!?」

 背負われて運ばれるのも恥ずかしいと思っていた自分である。これが更に横抱きで運ばれるなんてされた日には、自分はちゃんと更生できるのか心配になってしまう。

「……楠木さん……そんなこと、しないよ、ね?」

 真二を背負う姿勢で止まっていた雫那の背中に懇願する。

 しかし雫那は一旦立ち上がると、真二の横に回りこみ、彼の背中と膝の下に手を添えた。

「他ならぬ迷宮支配者直々の罰だ。これで罪が消えるのなら、私には拒否する理由が無い」

「きゃぁーっっっっっあ!?」

 そしてそのままひょいっと抱えられてしまう真二。さすが地下迷宮という過酷な状況で生きてきた少女である。凄い力だ。しかしそんな潔過いさぎよすぎる行動に、真二は悲鳴を上げる。

「こらっ暴れるな。それからちゃんと私の首に捕まれ!」

 真二も最初は諦めきれずなけなしの体力を使いじたばたしていたが、流石に観念したのか、雫那の細い首に手を回してしっかりと抱きついた。

「……」

 武藤真二、無言。もう文句を言う気にもなれず。彼はこの街と雫那と円の命を守ったヒーローだというのに、あんまりな仕打ちである。

「さて行くぞ……って、お前が私の後ろに着いてどうする?」

 おとなしくなった真二を抱えて進もうと思った雫那は、何故か円が自分の後ろを着いてきているのを見て、それでは先導の意味が無いと叱る。

「えーだって、前にいたらお姫様抱っこしてるしずちゃんと、恥ずかしそうに縮こまってる武藤さんが見れないじゃな~い?」

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