第5話 外の世界からやってきた者(中)

「ね、眠い……」

 週始めの新鮮な喧騒に包まれた錫白高校の昇降口。其処によたよたと元気無さ気な足取りでやって来る一人の男子生徒、武藤真二。他の日でも、満員電車に揉まれて朝っぱらから一日分の仕事をこなしたかのように登校してくる彼だが、本日は更にお疲れ気味の様子。

 週始めの本日、平日より何かと荷物が多くなる日だが、真二の場合、何時もの通学鞄に加えてそれの何倍も大きく重いバッグが追加されていた。良く見ればそれは、土曜日に雫那が持っていた道具や食糧の詰まったトートバッグ。彼はそんなにも巨大な荷物が増えているから疲れた顔をしているのかというと、そういう訳でもなく……いや、それも理由の一つだろうが、大元の理由は他にある。

 あの後、再び真二の前であどけない寝顔を見せていた雫那は、そのキッカリ二〇分後に本当に目覚めて作業を再開し、夕陽が沈む頃には真新しい宝箱を一個完成させていた。塗料の塗布による汚し塗装まで施されたそれは、光蘚ひかりごけの照明しかない地下迷宮ダンジョンの中に置けば、もう何百年と前から其処にあるような、貫禄ある宝箱に見えるに違いない。それ程見事な出来栄えの一品を作り上げていた。

「……すごいね、これ」

「何個も作ってるからな、キミの作ってくれた料理と同じだ。経験はそのまま力になる」

 それは全ての物事に言える事実。生まれながらにして「天才」と呼ばれる人間は存在せず、一つの物事に対して極限まで練習を繰り返したものが「天才という職業」を得る。

 雫那は木材の切断に使っていた小刀を取り出すと、宝箱の蓋を開き中に収めてみた。

「うん、まぁまぁの出来だな」

 雫那は蓋を開けたり閉めたりを繰り返して具合を見ている。

 そして蓋を開き中に入れていた小刀を取り出すと、それを真二の前に差し出した。

「これをキミに進呈しよう」

 それは新品の宝箱に今入れたばかりのアイテムなのだが、何百年と迷宮に保管されていたものを渡されたように思えて、真二はビックリしてしまった。

「本来は迷宮仕事人ダンジョンワーカーズとしてキミにも解錠ノ剣キークリフを渡したいのだが、あいにく宝箱設置委員会所有のものは私の装備する一振りしかないので、この歌嵐からんを進呈する」

「からん?」

 突然自分の物になった武器の名前を告げられて、真二も他人事のようにその名前を呼ぶ。

「これは最初の迷宮仕事人である凛姫が自分用の脇差として制作した魔導器だ。解錠ノ剣キークリフを予備装備にするようになってからは、隠れた存在となってしまったが」

 雫那は一旦真二から歌嵐を受け取ると鞘を引き抜いた。刀身が窓から差し込む夕暮れを受けて煌めいた。

「この剣の特性は、ある程度離れた任意の対象物を刃から発生させた風魂によって切り裂くことができるというものだ。相手を傷つけることなく手に持った武器だけを破壊することもできる。つまりアウトレンジから攻撃して敵を無力化することができる。迷宮仕事人は別に相手の殺傷を望むわけではないからな。だから使いこなせればかなりの力になる」

「ちょ、ちょっとまって!? そんな重要アイテム、木を切るのに使っちゃって良いの!?」

 原初の仕事人である者が作ったという魔導器マジックアイテムを、仕事人になったばかりの新人が受け継ぐ重大さよりも、そっちの方に真二は驚いてしまった。そんな凄いアイテムをただの切除道具にするなんて。

「まぁ話の続きを聞け。そんな我々にとっては便利と思われるこの歌嵐なのだが、実際にその刃から風魂を出した事例がいまだにないのだ」

「へ?」

「つまりこれは本物の歌嵐ではなく、それを模して作られた模造品レプリカなのではないかと言われている」

「レプリカ?」

「考えてみれば歌嵐が迷宮仕事人の手にあるのもおかしな話だ。それこそ本物ならば迷宮支配者ダンジョンマスターが直接所持するような国宝級の魔導器だ。魔術師である凛姫の作品なのだから、本物であれば凛姫の残留思念のカケラくらいは宿っているはずだからな。だからこれは本物を模して作ろうとした失敗作なのだろうし、そう思うほうが自然だ。本物が迷宮仕事人われわれの下にあるわけがない」

 雫那は再び刀身を鞘に収めると、歌嵐を真二に返した。

「しかし一応このレプリカも風の力は持っている。自動的に微弱な鎌鼬かまいたちを発生させて切断力を強化するくらいはできる。私が木材の切除にこれを利用したのもそれが理由だ。そしてある程度風を読む力があるキミなら、この歌嵐から本当に風魂を出すこともできるかもしれない」

 一昨日、宝箱を作っている最中の雫那から「何故気配を消して教室内に進入するような異様な行動を取る私に、ずっと話し掛けてくれてきていたのだ?」と真二は訊かれていた。真二はその時に、自分にはある程度風を読む力があって、そのおかげで雫那の動きも何となく読めたから皆のような恐怖を感じることが無かったことを簡単に説明していた。だから雫那も真二の風読みの力を知っていたので、この武器を選んだのだが――

「まぁこの歌嵐は魔導器だけあって、風の力が使えなくとも普通に精錬された剣よりは余程頑丈だ。持っていて役に立たないことはないだろう」

 雫那はもの凄く不安な説明で締めくくった。

「というかなんで急に、これを僕に?」

「キミは迷宮仕事人になった。だからこれからは宝箱を設置するために地下迷宮の奥へ向かわなくてはならない。もちろん約束したとおり私が生きている限りはキミのことを全力を持って守るつもりだが、それでも自衛のための武器は装備してその扱いに慣れて欲しい」

「……」

 雫那の言葉が狭い室内に揺蕩たゆたう。その重い響きに真二は言葉が出なかった。

 自分は死と隣り合わせの仕事に就いてしまったのだ。それも自分の意思で。だからこれは相手を殺傷するための斬敵兵装ではなく、己を守るための防具。

 自分の決意した事の重大さを改めて認識してしまった真二が言葉を無くして考え込んでしまった脇では、雫那が道具と材料を片付け始めていた。しかし大工道具の類をトートバッグに押し込んでいる彼女の姿を見て、真二は不意に現実に戻された。

「……そういえば、ずいぶんと材料が余ってますけど、楠木さん?」

 出来たての宝箱の隣りには、その製作材料がちょうど半分くらい残っている。

「私はこれにて帰宅するが、翌日から私は別のことをしなければならないので、キミに明日の作業の指示を出しておく。キミにはこれと同じ宝箱をもう一つ作っておいてもらいたい。それと歌嵐の素振りぐらいはしておいてくれ。素振りなら誰に教わるでもなくできるだろう?」

 そう、雫那がこの真二の自室を作業場所として選んだのは、ダンジョンの近くに保管場所を確保したかったという他に、ダンジョンの近くに生産場所も確保したかったという意味もあったのだ。自分以外に宝箱を作り出せる者も込みで。

「……はい!?」

 という訳で真二は翌日朝五時くらいに起床して、午前中は歌嵐の扱いの練習、午後からは宝箱の製作という、充実し過ぎる休日を送ることになったのだった。

 とりあえず朝食を挟んで歌嵐の素振りを終えた後、「見取り稽古っていうのも、やっぱり大切なんだなぁ」と真二が思い出しながら、見様見真似でなんとかそれっぽいのが完成したのが、日曜夜の十二時過ぎ。更に雫那との約束もある昼の弁当も作らねばならないと、それから夜中までやっている量販店スーパーへすっ飛んでいき、その準備が終わったのが夜中の三時過ぎ。

 いくらまだまだ若い肉体とは言え、この時間に睡眠して翌朝起きるのはツライ。しかも真二は農家の生まれなので、実家にいた時は早寝早起きが基本であり、夜遅くまで起きているのに慣れていない。そんな理由なので彼が週始めのまだ一時間目すら始まっていない時点で、こんなにも疲労度が高い状態にあるのだ。

「ふわぁ~……?」

 そんな頭の半分くらいが空白のままの真二が、欠伸を交えつつ自分の下駄箱を開き、手を突っ込む。すると、靴以外の何か別のものが指先に当たった。

 なんだろうと? と真二が下駄箱の中を覗き込んで見ると上履きの上に封書のようなものが入っていた。ちょっとオシャレな手紙を出す時なんかに使いそうな、大きな三角の蓋の付いた封書。裏に「武藤さんへ」と一言書かれた以外は、差出人名などは特に記入無し。蓋は糊止めされている訳でもなかったので開いてみると、中には便箋が一枚入っていた。

「??」

 考えもなしに、便箋を取り出してみる。すると其処にはこのような一文が書かれていた。

『今日の放課後、一人で屋上へ来てください』

「???」 

 一体何の事なのかさっぱりな真二が改めてその一文を頭の中で読み、そして考えてみる。

(今日の放課後に、屋上へ来て下さい? それも僕一人で?)

 すると、その意味が徐々に咀嚼され、遂にはその言わんとしていることを理解した真二の頭が、わだかまっていた眠気を一気に吹き飛ばした。

(……これって、もしかして……ラブレターっ!?)

 デートの経験も無かった彼である。もちろんラブレターなんかもらったことも無かったが、彼の思考はこれが「恋文」というものであると理解した。何かの間違いかも知れないと、もう一度封書の裏を確認すると、やっぱりちゃんと「武藤さんへ」となっている。

(ラブレターなんて始めてもらった……というか、一体誰が?)

 そう、真二にはこの手紙をくれた相手がまったく思いつかない。クラス内には親しい女友達などいないし(約一名除く)自分自身誰かから憧れられるような格好良いことをした覚えも無い。金曜日にクラスの皆にも指摘されたように地味な自分が、一体どういう理由でラブレターをもらえるのだろう?

「よっ、真二、おはよ」

 そんな事を考えていると、ぽんっと肩を叩かれながら呼びかけられた。

「ほぎゃーっ!?」

 突然のことに、思わず咆哮を上げる真二。彼が思わず上げる叫び声は大体同じになるらしい。それでももらった手紙を隠蔽するのは忘れなかったらしく、開いたままだった便箋を慌ててたたみ封書に収めると、とりあえず口が大きくて入れやすい雫那のトートバッグに放り込んだ。

「ほぎゃー? そんな幼児退行させるほどビックリさせちまったか?」

 そして伍郎もどっかで聞いたような台詞を言っている。

「心臓から口が飛び出るかと思ったよっ」

「それを言うなら逆だ」

 そう言いながら、伍郎が真二の肩に自分の腕を組ませた。

「で、どうだったんだよ、土曜の楠木とのデート?」

 逃げられないように相手を捕まえた状態で、話を促す伍郎。伍郎にしても中学三年間、普通がまったく通用しない「変人」で押し通してきた楠木雫那の姿を知っているのだ。だからこそ一体彼女がどんなデートプランを組んだのか? と、気にならない方がおかしい。

「どうだったんだよって言われても……」

 しかし真二も土曜日の二人の行動を正直に話すわけにもいかないのでもちろん口ごもる。

「やっぱりあういう憂いなお姉さま系は、お前みたいな小さくて可愛い系の男とくっ付くモンなのかな? スカートとか穿かせて着せ替え人形にして遊んだりとか?」

「なに言ってんの?」

 もの凄い恐ろしげな台詞が伍郎の口から出てきたので思わず神速のツッコミを見せる。

「いや、独り言――で、どうだったんだよ?」

 以前真二が頑なに「僕の目を見て」と頼んだのと同じくらい、強固に答えを求めてくる伍郎。伍郎は自らが折れるという解決手段を選んだが、逆の立場となった真二が今回選んだ手段とは

「わ~っっっ」

 逃走であった。

「うわっ、逃げるなぁっ」

 するりと、伍郎の腕から抜け出た真二が、猛然とダッシュをかます。

「ごめんーっ、伍郎ぉーっ」

 卑怯だとは思いつつも、雫那とのことを話す訳にもいかないので廊下を全力疾走で駆け抜ける。しかし一体どこへ逃げれば良いのか見当もつかなかった真二は、何時の間にか自分のクラスに飛び込んでいた。

「……はぁ、はぁ……」

 電車での移動による疲労と睡眠不足も重なって、一瞬にして息切れしてまった真二が、膝に手を付いて、荒く息を吐く。そしてようやく息の整った真二が顔を上げると、教室内の全員が、一斉に彼の方に振り向いた。

「……はい!?」

 全員が、生温かい笑顔。そう、彼の先週土曜日の行動を聞きたがっているのは、伍郎だけではないのだ。武藤真二、逃げ込んだ場所は思いっきり虎穴であった。彼は咄嗟に身の危険を感じ、その場で一八〇度回転し逆戻りをかけたが、無情にも飛び出してきた何人かの男子生徒に捕獲されてしまう。その回収係には追いついた伍郎も含まれていた。

「た、助けて伍郎ぉ!?」

「さぁ、聞こえないなぁ」

 無論こんな状況で親友伍郎が己の助けになってくれる筈もなく、武藤真二絶体絶命。そのまま荷物ごと教室内に搬送される。そして真二が自席に収まったところで、教室中の全員が集合した。

「なにっなにっ、なんですか!?」

 爛々と輝いて自分を見つめる八〇個以上の瞳に、思わずたじろぐ真二。

「ふふふふふ、さぁ武藤真二、一昨日のことを話してもらおうかぁ?」

「お、一昨日のことって……?」

 何を言わなければらないのか察しがついているが、それでも最後の抵抗を真二が試みる。

「うふふふ、楠木さんとの甘いひと時のご報告に決まってるじゃぁ、ありませんのこと?」

 委員長が、無駄にうふンとしなを作って色っぽく迫る。正に四面楚歌。もはや自白しか手段は残されていない状況。

「……え、えーと……楠木さんって宝箱を作るのが趣味なんだって、だからそれを作るお手伝いをしてくれって言われたんだ……あ、作ってた場所は、新孰にある大きな公園で作ってたから、別にお互いの家に行ったわけじゃないよっ……このバッグはその時の道具。宝箱とバッグ両方持って帰るのは大変だろうと思って、僕が今日まで預かってたんだよ」

 多分こんな事態になるだろうと、昨日の深夜弁当を作りながら予め考えておいた言い訳をなんとか口にする真二。しかし前回考えた言い訳よりも支離滅裂である。

(しかし「宝箱を作るのが趣味」ってのも……無理があるよなぁ)

「宝箱を作るのが趣味?」

 そして予想通り、一番不自然な部分を誰かに突っ込まれる。

(やっぱり!?)

 思いっきり背中に汗をかきまくる真二。

「さっすが楠木だなぁ、趣味まで変わってるんだなぁ」

「ていうか、宝箱ってあの海賊船とかに積まれてるアレでしょ? あんなもんいっぱい作ってどうすんのかしら? ま、趣味なんだから良いケドさ」

 しかし、このクラスメイトたちは、そんな怪しすぎる真二の説明を意外にもすんなりと受け入れてしまった。真二は東京という街の懐深さに改めて慄いた。

「ふーん、結局お手々つないでの甘いデートじゃなかったのか……まぁお前らいっつもゲームの話とかしてたからな、それを見込んでスカウトされたのかもな」

「じゃあ、なんで相坂は無視されたんだ?」

「中学同じだったから、今更誘うのも恥ずかしかったんじゃね?」

「お前、なんで俺と楠木が同じ中学だって知ってんだ!?」

「ジャのミチはヘビってな~」

 とりあえずクラスメイト達は都合よく勘違いしてくれたようだ。しかし首都艦で生まれ育った少年少女たちには、疑うという感覚が全く存在しないのだろうか? とも思う。

「それにしても外で日曜大工なんて、ずいぶんと清々しい趣味だなぁ?」

「しかも趣味ってことは、そんなもんが何個も家にあるってことだよね?」

「そうだよねぇ? あんなもんいっぱいあったら部屋がすぐ埋まっちゃうね」

「もしかして、フリーマーケットとかで売ってたりして」

「あの楠木雫那が、ちょこんと正座して自分の作った宝箱売ってたりするのか!?」

「ねぇねぇ武藤さん、楠木さんは一体どこで売ってるの?」

 いきなりとんでもない事態に発展していき、更に真二に答えを求められる。

「え……えぇ!?」

 流石にまさかこんな状況になるとは、真二の想像の範囲を越えているので、対処方法が思いつかない。首都艦の子は世界中の情報に日々囲まれている結果、このようにあまり物事に動じないようになってしまったのだが、比例して発想力も凄いのであった。真二もふにゃっと柔らかく何でも受け入れてしまう性格だが、首都艦この街の子供達はそれ以上かもしれない。

「今度販売する地が決まったら、場所を説明するが?」

 そんなワイワイと賑わい始めた教室の中、皆の会話の間隙を縫って凛とした声が響いた。殆ど聞く機会がないのに、誰でも知っている冷厳で硬質な声。全員がはっとして声のした方に振り向くと、真二の隣の席に何時の間にか、その席の主が座っていた。これだけ大量に人が集まっているのに、誰にも気づかれずにどうやって着席までこなしたのかまったく判らないが、そんなことを可能としてしまうのが、楠木雫那という少女である。

「わぁ!?」

 とりあえず一同全員大ビックリ。蜘蛛の子を散らすように、一斉に逃げていくクラスメイト達。そして全員が自分の席に戻った瞬間に、始業のチャイムが鳴った。


「というか楠木さん、あんなこと言っちゃって良かったの?」

 お昼。小窓から差し込む小さい灯りだけの狭い室内。様々な用具の置かれた中、積み上げられたマットに腰かけて、真二と雫那が食事を摂っていた。昼食の時間になって、真二が二人分の弁当箱を鞄から出そうとすると、雫那の姿は既に消えていた。「どこへ行ったのか?」と、最初は不安になったが、昼食時は体育用具室で過ごすと先日雫那から聞いていたので、真二はとりあえず二人分の弁当箱を持ち、教室を離れた。

 普段の真二は伍郎と一緒に食事を摂っている事が多いが、伍郎かれの場合、母親が作ってくれた弁当だったり、購買部でパンを買っていたりと、その日によって昼食が違うので、自分もあまり型どおりに食事しなくても怪しまれないのが助かった。更に運が良いことに、本日の伍郎は購買部組みだった。既に伍郎も「何時戻れるか判らないから先に食べててくれ」と言い残し、昼の大争奪戦へと向かっていたのだった。というわけで、とりあえず二つの弁当箱を違う袋に移し変えて体育館へ向かう。

「雫那のために弁当を作ってくる」とは約束したのだが「体育用具室へ二人分の弁当を持っていって、そこで一緒に食べる」とは特に約束をしていなかったので、少し不安になりつつも到着すると、小窓ががらっと開き、中から雫那が顔を出した。「こっちへ」と指示され、そこで真二も用具室に入り、二人で昼食を摂り始めたという次第。到着した真二が「お昼は体育用具室へ集合とか言ってくれれば良かったのに」と少し不満を洩らすと「昼食という時間は学業時間中で唯一長時間私語が許される時間であり、私は普段人のいない場所で昼食を摂っている。この二つの条件が揃えば、その後の行動を理解してもらえると思った」という答えが返ってきた。つまり、多分キミなら気づいてくれるだろうと思って特に説明はしなかった、という訳だ。信用されているのか、それとも雫那が大雑把なのか。多分後者の要素の方が大きいのではないかと、雫那の人となりを判りかけている真二は思うのであった。

「ああ、フリーマーケットのことか? クラスメイトたちが勘違いしてくれるのなら、一度くらい出店して販売している姿を見せても良いかと判断したからだ」

 真二の用意した弁当を頬張りながら、雫那が事も無げに語る。鶏の唐揚げに千切りキャベツとプチトマトという手作り弁当の定番メニューに、白米の真ん中に特大の梅干を一つ押し込んだメインのご飯。飾り気も何にも無いが、それでいて美味しさと栄養価のバランスの取れた、優しい一品である。

「迷宮の中には廃棄予定の宝箱もたくさん放置されているからな。アンティークものとして出品するのも悪くない。まぁその時はさすがに罠を外して出品するが。そう言えばキミにお願いした箱の製作は完了したか?」

 雫那が話の流れで、土曜日に真二に出した作業の結果報告を促した。

「うん、なんとか」

 出来栄えはともかく、ほぼ同じようなものが完成したので、真二も素直に答える。

「じゃあ、今日の設置にはキミの作った宝箱ものを使おう」

「あれ? 二個設置するんじゃ……ないの?」

「私が作ったものは、キミに対するお手本として作ったものだ。だから今後はあれを見ながら、時間のある時は自主的に数を増やしてもらいたい」

「はぁ……わかったよ」

 宝箱設置委員会に入ったとたんに、本人の覚悟もままならない内に、なにかとんでもなく重要な仕事を任されているような気がするが、それは雫那が自分のことを信用してくれている証だと、思い込むようにする。恐いから。

「というか、今日も行くんだね? ……お休みとかないの?」

「普段は学業の無い日曜日を休日に設定しているのだが、昨日は霊薬エリクサーの最終精製日だったから、この日は外せなかったんだ。十年に一回あるかないかの特異日だったからな。休みたいのならキミは休みにしても良いが?」

「いや、僕は大丈夫。逆に楠木さんの体が心配になっただけだよ。この前も酷い風邪をひいたばっかりだし……って、というか霊薬エリクサーって、あの霊薬エリクサー!?」

 真二が今になって気づいたように、雫那の発した単語に改めて驚く。

「なんだ、意外に物知りだな? キミは錬金術の最高傑作の一つを知っているのか? 魔女の創造主が開発したものだが」

「……いや、ゲームとかにも良く出てくるんだよ、究極の万能薬って感じで、死んだキャラクターを生き返らせちゃうとかできたり」

 真二がプレイしていたレトロゲームの数々にも「エリクサー」という名前の回復薬は数多く出典されている。大概はその手の回復用ポーション中最高の力を持つものとして登場してくる。

地下迷宮ダンジョン魔法マジックなども数多くの文献に真実と虚偽が混ざって残っているからな。霊薬エリクサーもそんな流れで、一般社会に情報が流出したのだろう」

 錬金術というものは元々「鉄を練成してきんを作る」というところから始まり、一時期世界中の様々な場所で研究が行われたのだが「鉄から金を作るよりも、金を普通に採取した方がコストが安い」という噂が流れてから、一気に廃れだしたと言われている。科学技術の台頭もあるが、仕事量にコストが割に合わないものは自然と消えていってしまうものだ。

 だが霊薬エリクサー自体は完成していたらしい。しかし当時の錬金術士達はそのあまりにも強力な力故に、門外不出の秘薬とした。そして錬金術師たちは表舞台から姿を消してゆく。「鉄から金を作るよりも、金を普通に採取した方がコストが安い」との情報も、実は錬金術士達が、表の歴史から自分達の存在を断ち切るために自ら流したのではないかと言われているが、今となっては確かめるすべがない。

霊薬エリクサーとは一言でいえば人体に強力な回復力を呼び起こす薬。条件が合えば、死んだと思った人間を蘇生させることもできる」

「……本当に、そんなことができるんだ」

「現代医療では心停止した人間に電気ショックを与え蘇生を試みるのがあるだろう? それと同じようなものだ」

 行き過ぎた科学は魔術と同義と評されることもあるがこれもそんなことの一つなのか?

「それと歌嵐の扱いは、多少は慣れたか」

 その言葉を聞いた時「待ってました!」といった感じに、真二の目が輝いた。

「えへへ、それがね」

 真二は食べかけの弁当を一端マットの上に置くと、弁当箱を入れてきた袋から、細長い棒状の物――歌嵐を取り出した。

「さて、何が良いかな……あ、あれにしよう」

 緩く湾曲した黒い鞘を抜き放つと、真二は準備室の片隅に転がっていたボールに向かって刃を振り下ろす。すると遠くにあった筈のボールは何かがぶつかったように飛び跳ね、そのまま壁にぶち当たった。

「お?」

 その一連の動作を、から揚げを租借しながら見ていた雫那は、口の中のものを飲み込むと同時に軽い驚きの声を上げた。あの楠木雫那に驚きの声を上げさせたということは相当なことに違いない。

「キミは本当にそれを使えたのだな」

「使えたというか……偶然の発見かな?」

 照れ笑いを浮かべつつ歌嵐を鞘に収めながら、真二が日曜日のことを説明する。

 昨日はお昼ご飯を食べた後から宝箱の製作に入ったのだが、材木の寸断を最初真二は鋸を使って基本通りに進めていたが、「僕にも出来るかも」と素振りで使っていた歌嵐で切断に挑戦した。だが無様な傷が付くだけでまったく上手くいかなかった。しかしその時に妙な違和感を感じたのだ。しっかりと押さえているはずの板が、変な動きをする。これはなんだろう? ……いや、もしかして? 

 真二は何となく感じた直感にしたがって、試しに板に当らない位置から思いっきり振り下ろしてみると、何かに押されたように木片が二センチほど動いたのだ。

 余程の剣の達人でも、剣圧や剣風だけで物体を動かすなんて不可能だ。つまりこれは微弱ながら歌嵐の力が発動しているに他ならない。

 その事実にもの凄い驚愕を覚えた真二は、宝箱の製作どころではなくなってしまい、テーブルの上に消しゴムや瓶などを並べて、一心不乱に風魂を出す練習を始めた。そして中身の入った瓶をテーブルの下に落とせるくらいになった時、外を見ると思いっきり夕暮れになっていたのだった。集中しすぎて時間の経過を忘れていた。

「やばい!」と、歌嵐を再び鋸に持ち替えて再び作業を再開、夜更けに木を切る音や釘を打つ音をさせるのは申し訳ないと思ったがそれでも作業を続行し、何とか夜の十二時に完成したのは前述の通りである。

「でもなんで急に僕が使ったら、風魂を出せたんだろうね?」

 雫那が幾ら振るっても、歌嵐は多少切れ味の良い刃物くらいでしかなかった。それは当然の疑問だ。

「キミは生まれてからずっと自然の息吹に囲まれて暮らしてきたんだ。それだけの年月風の匂いを感じ、風の動きを読んでいたのだから、私よりも風の属性の強い魔導器の使用に長けていてもおかしくないのだろう。首都艦では風の匂いを感じることなんて、滅多にないからな」

「そんなもんなのかな?」

「それと、もしこれが本物の歌嵐なのだとしたら、中に宿った凛姫の思念が頼りない新人のために、力を貸してくれているのかもしれない。これから赴く危険な場所に備えて」

「危険な……場所?」

「今日向かうのは迷宮最下層の一つ手前、地下九階のフロアだ。まだその程度の力の具現では焼け石に水とは思うが、何も無いよりはマシだ」

「九階って確か迷宮支配者のいるところの一つ手前の階だよね……とんでもない怪物モンスターとかいるんじゃ?」

 かつて真二が侵入した四階ですら、彼のような特に冒険者としても迷宮仕事人としても訓練をしていない一般的な人間であれば一瞬にして食われてしまう怪物が生息しているのだと説明された。ならばその五層も下の階には一体何者がいるのだろう?

「ああ、想像以上に危険な場所であるのは確かだ。何しろ昔の迷宮支配者自らが魔界から召喚した上級悪魔グレーターデーモンとかいるからな」

「ぐ、上級悪魔グレーターデーモン!?」

 その名に思わず声が大きくなってしまう。RPGなどのゲームでは上級悪魔グレーターデーモンと呼ばれる存在は最後の敵ラストボスに順ずる程の力を秘めているものだ。そんなものが実在するのか、あの場所には。

「そ、そんなところへ、一体どうやって行くの!?」

 雫那に命を狙われた時以来忘れていた「死の危険」というものを、真二は改めて思い起こされた。そう、迷宮仕事人ダンジョンワーカーズとは常に死と隣り合わせの危険な仕事。そして自分もそれに志願したのだから、それは覚悟しなければならない。しかしこうも早くそんな事態がやってくるとは。速達で実家に遺書でも送らなければならないかと、真剣に考えてしまう。雫那と一緒に食べているこの弁当が最後の晩餐になってしまうのか……と、考え深げに白米を口に運ぶ。

「それほど心配するな。これは現代の『神の左手の迷宮』限定なのだが、一つ裏技がある」

 どうもそれが思いっきり顔に出ていたらしく、雫那はそれ程危険ではないと説明する。

「裏技?」

「迷宮支配者に着いて来てもらう」

「……へー、それは安心だねぇ~……って、えええ!?」

 思わず口に入れたご飯を吹き出しそうになってしまう真二。雫那はというと「何をそんなに驚く?」と言った風に、もぐもぐと最後の唐揚げを頬張っている。

「な、なにそれ!? 迷宮支配者って、地下迷宮の中で一番偉い人でしょ!? なんでそんなことしてくれるの??」

 確かに迷宮支配者ダンジョンマスターという存在が相手なら、迷宮内のどんな怪物でも、道を通すだろう。しかし何故そんな絶対の存在に協力を仰ぐことができるのだろう?

 食べ終えた弁当箱に蓋をしながら雫那が説明を続ける。

「だから言っただろ、裏技だと。それに上級悪魔が本当に生息しているとは限らないしな。私もいまだに遭遇したことはないんだ。昔の冒険者に倒されたのかも知れないし。もっともその裏技が使えるのも今日で最後だが……」

 最後の方は声が小さくなり、真二は良く聞き取れなかった。雫那はそのまま体を後ろに倒し、マットにごろんと横になる。

「昨日の一日、本当は何をキミにしてもらうか迷っていた。一日という時間があればキミに魔導器制作の基礎くらいの魔術を教えることもできるかと思ったのだが、二十四時間では無理と判断した。宝箱と同じように霊薬エリクサーの最終精製も私の作業を見学してもらおうかと思ったが、変に不確定要素が入って精製に失敗しては元も子もないからな」

 それは真二に見られて変に緊張してしまって失敗するのが拙(まず)いから、という意味だろうか? 雫那にも女の子らしい部分があるというよりも、そのような要素で折角の貴重な霊薬エリクサーの精製を失敗したく無いというのが本心だろう。

「キミとあと一ヶ月早く出会っていれば、私の技能の基礎的なことは今日までに全て教えられたかも知れない……そうすれば私もアイツと同じ命数で終われただろう」

 雫那が誰に聞かせるとも無く小さく呟く。

「……」

 真二は雫那の言葉の中にある「あと一ヶ月早く出会っていれば」という一文が、胸に引っかかっていた。それは伍郎と何とか会話を成功させて友達になった日。そして隣に座っていた女の子にも話し掛けようと、チャレンジを試みた日。そして自分の中の勇気が無くて諦めた日。

「楠木さん……」

 真二はその時の経緯を雫那に語った。

「そうか、そんなことがあったのか。そんなに昔から私のことを気にかけてくれていたのだなキミは」

「うん……でも、ごめん楠木さん、僕があの時伍郎に話し掛けるのと同じだけ勇気があれば、もっと早く楠木さんとこうして一緒にいられたと思うのに」

 一ヶ月前に出会っていれば雫那から手解きを受け、ある程度迷宮仕事人として仕事をこなせるようになっていたのかも知れない。そしてどのような結果になるのか真二には判らないが、雫那の望んだ未来となっていたのかも知れない。

「だが、もし一ヶ月前に出会っていたのならば、今どのような結果になっていたのかは判らない。私が病魔に侵されキミが助けてくれたという条件が揃っていなければ、キミとはこうして仲間としては出会えなかった。条件が悪ければ私はキミを処分していた」

「あ……」

 様々な要因が重なり合って今二人はここにいる。単純に「早く出会っていれば良かった」とはならないだろう。雫那が語るように条件が悪ければ、ルールに従い真二を殺していた。

「……」

 何を言っていいか判らなくなってしまって俯いた姿勢になってしまった真二。

「気にするな、運命とはそんなものだ」

 雫那の言葉。それは突き放すような音律で紡がれた。死地に赴く部隊の隊長が、もう誰もついて来るなと部下の兵士たちに言い聞かせるような、そんな悲壮な台詞。何故だか真二には、そんな悲しげな言葉に聞こえた。

「私はこのまま授業開始まで休息する。キミもあとは自由にしてくれ。今日もおいしいものを食べさせてもらった、礼を言う。弁当箱は後で洗って返す」

 そう伝えると、雫那は目を閉じた。

「……楠木さん、あの」

 雫那の言葉に只ならぬものを感じた真二は、何か言おうと思ったが、不意に目を開いた雫那に機先を制せられた。

「そうだ、忘れるところだった」

 雫那は、寝転がった姿勢のまま、懐から一通の封書を取り出した。スイっと出された、一つの封筒。真二は始めそれがなんだか判らなかったが、次の瞬間にはそれがとんでもなく重要な書類であることを認識した。

「うわぁっ!?」

 何故か雫那の手元にある、自分宛てのラブレターを思わず毟り取るように奪った。

「先ほど返してもらったバッグの中に、キミのものが一つ入っていた……」

 そう、真二は教室内に入った時の騒動で伍郎に呼び止められた時に雫那のトートバッグに慌てて手紙を隠したのをすっかり忘れたまま、彼女にバッグを返してしまっていたのだ。

「み、見た!? 中見た!?」

 真二が慌てるように、雫那の方を見る……が、

「……」

 彼女は既にすーすーと寝息を立てていた。

「く、楠木さん!?」

 しかし真二の叫びがまったく届かないのか、雫那は可愛い寝顔を見せたまま。

「う~……」

 だが、結局見たか見てないかは、彼女の鞄の中に自分宛ての手紙を放置してしまった己のミスであり、しかもその手紙は最初から封のされていなかったものであるので、他人に見られたとしても仕方ない。真二は彼女が見ても見なくても、一時いっとき所有者の移動した相手が雫那で良かったと思う事にして、彼女の側から離れた。もしこんな場所で二人一緒の場面を目撃されてしまったなら一体どんな事態になるか想像もできないので、自分は早々に退散することにした。雫那の思いがけない攻撃で、話し掛けようと思っていたこともすっかり忘れてしまった。とりあえず彼女の分も弁当箱を回収して、体育準備室を出る。

「……」

 雫那は、真二が出て行ったことにも気づかないように、すやすやと眠り続けていた。雫那は封書の中身は読んでいない。仲間である真二宛に届いたものの中身を覗くということは相手を侮辱する行為であり、そんなことなど彼女の思考範囲外だからだ。それに彼女は中身を見なくともその封書の宛名の筆跡だけで、この送り主が一体誰なのか判っていた。一体何の目的でこの手紙を真二に送ったのかも。そしてこの手紙の送り主こそが、真二が気になった雫那の言葉を具現化する存在だとは、迷宮仕事人になりたての少年には思いもよらなかった。


 昇降口から生徒たちが吐き出されていく。一日の授業を終え、皆嬉しそうだ。これから一人一人が思い思いの自由な時間を過ごすのだろう。どんな形であれ、それは幸福である筈。

「……」

 そんな幸せな雰囲気に包まれた生徒達を校舎で一番高い位置から見下ろしている者がいた。彼女の手には薄汚れた書簡が一つ大事そうに抱えられている。彼女は細心の注意を計りながらそれの封を開けると、中に収められていた書状を取り出した。外装の書簡と同じくらいくたびれた感じのするそれを開くと、彼女はそれに書かれている文章を読み始めた。もう何度も何度も読み返した文字の羅列。既に一つの儀式ともなったその行為を、彼女は何回も繰り返した。何度も読んで、何度も考えて、どこかに抜け道は無いものかと必死に探したが、結局「今日」という日を迎えるまで、見つからなかった。

「……」

 もう一度フェンスの向こうを見下ろす。自分たちにこれから一体どれだけの災厄が降りかかってくるのか、露ほども理解していない無邪気な笑顔の生徒達。その中には見知った顔もいる。

 自分が本来の役目を実行すれば、彼等の命は消えてなくなる。東京という街を処分するおまけとして。何故、こんなことをしなければならないのか。

「……」

 彼女は、もう一度書状を読んだ。じっくり、一語一句、一切の矛盾を見逃さず、読んだ。

「【分たれた神の右手】が審判の迷宮の上に鎮座する街を焼き払った三六〇年の後、神の左手の迷宮支配者は、同じように迷宮の所在を隠蔽すべし」

 しかしその墨摺りの一文は、変わらぬ姿でそこにある。

「……」

 自分は何故こんなことまでしなければならないのか?【分たれた神の左手】を必要とする者を、審判するだけではいけないのか? 何故自ら「分たれた神の左手」を使い、こんなことをしなければならないのか? そして今日東京の街を焼き払ったなら、再び三六〇年経った未来で、新たに再建された街を、その時代の迷宮支配者が焼き払うのか? 地下迷宮を隠蔽するためという目的で、再び大火は繰り返されるのか?

「……」

 彼女はそんなことは、最初から求めていない。可能ならばここで連鎖を食い止めなければ。そして多分、こんなことを断ち切れるのは「彼」しかいない。

「彼女」には拒否されてしまった。だから新たに此方側の人間となった彼に。だから彼を召喚した。

 その時、屋上へ通じる扉が開かれた。そして其処から現れた者は


「……胡原こはらさん?」

 真二が屋上へ通じる扉を開いて外へ出ると、胡原円がフェンスの近くで一人佇んでいた。

「……え? あれ?」

 登校時の下駄箱に入っていた一通のラブレター。彼は午後の授業時間中ずっとそのことを考えて、一つの解答を出した。多分これは、誰かのイタズラなのだろうと。自分と雫那との仲を誰かが妬んだのか? それとも怒っても害のなさそうな真二を狙って単純に楽しみたかっただけなのか? どういった理由かは判らないが、多分悪戯好きな男子が仕組んだものなのだろうと、真二は判断を下したのだ。そうでなければ、自分がラブレターをもらう理由が説明つかない、悲しい事だが。もらった手紙の筆跡は女の子らしい丸まるとしたものだったが、男子の中にはそんな風に文字を書ける者もいるのだろう。

 だからそんなこともあり、雫那には正直にこの顛末を話して、本日迷宮へ行くのは、先日待ち合わせに使った場所と同じ「錫白高校最寄駅の改札前に夕方六時集合」という約束を取り付け、とりあえずどんな野郎が、自分をからかったのかと確認に来たのだったが

「……まさか、胡原さんが、僕を?」

 なんで、クラス一のアイドルが、僕にラブレターなんかを? 周りを見回しても、この屋上の広い空間には彼女しかいない。誰かが潜んでいるという気配も……多分無い。いや、胡原さん自身が僕のことをからかった? ああ、なんだ、そうなのか……ははは、胡原さんも意外に悪女だなぁ~……とかなんとか思いを巡らしながら、真二が円の方へ近付いてみると――

「お待ちしてました武藤さん」

 円の口から出たのは、確かに真二を招き入れる言葉。意外な展開に思わず驚いてしまう。

「……あの、手紙って、胡原さんが、くれた、の……?」

 何故、胡原円が自分にラブレターを渡す? その理由がまったく判らずあえて訊いてしまう。

「二日前の土曜日、楠木雫那とあなたが共に迷宮仕事人ダンジョンワーカーズとして行動しているのを、わたしは観察しました」

 しかし真二の確認の言葉など一切耳に入らないかのように、言葉を繋ぐ円。しかも彼女の口から出てきた言葉は、真二と雫那しか知らない筈の名称。

「ちょっ、胡原さん!? なんでそのことを!?」

「あなたもこちら側の人間になったのですよね?」

 真二の意見が一切通じないまま、胡原円の話は続く。

「こ、胡原さん……」

 普段の常に脅えているような円の行動からはまったく想像できない、上から叩きつけるかのような口調に、真二は何も言えなくなっていた。

「……あなたにお願いがあります」

 円は少し間を置くように瞳を閉じた。一瞬の間を置き、再び瞼を開く。

「!?」

 真二はその時見た。あの色の瞳を。楠木雫那が見せる、あの色の瞳を。

「わたしを……殺してください」

 そして彼女の可憐な唇から紡がれた言葉。冷たく、硬質な響きで紡がれた言葉。

 ……え、胡原さんはなんていったの?

 真二にはその言葉の意味がまったく理解できなかった。

 コロシテクダサイ

 それはもしかして、自分が胡原円のことを殺すということ?

 ……何故?

 なんで!? どうして!?

「あなたはこちら側の人間になったんでしょ!? だったらわたしの要求に答えてくれても良いじゃないですか。あなた方に仕事を発注しているのは、わたしなのですから」

 その言葉に彼女が普段見せる小動物じみた雰囲気は一切無い。獣のように猛々しい旋律。

「それとも楠木雫那と同じように、わたしの要求を拒否するのですか?」

 下から見上げる円に、射竦められる真二。皆に愛される仔猫のような存在である筈の彼女。しかし、大事に大事に育ててきた仔猫が、実は虎の子供だった――それぐらいの激しい変化。

「迷宮支配者という【分かたれし神の左手】を独自に動かす権利を唯一持つ者がいなくなれば、この災厄も無くなります……だから」

「こ、胡原さん……僕、胡原さんが何を言っているのか、さっぱり判らないんだけど……」

「円」

 真二が円の言葉に混乱し始めたその時、冷艶とした涼やかな声が響いた。静かに木霊したそれは、しかしフェンスだけで区切られた屋上という空間全てを満たすように浸透する。

「楠木さん!?」「しずちゃん」

 二人が同時に、彼女を別々の呼び名で、呼んだ。

「し、しずぅ!?」

 思わず円の方に振り向く真二。彼女の口から出た思いも寄らない雫那の愛称。

(え……どういうこと!?)

「私に断られたからと言って、期待の新人を誘惑しないでもらいたいな」

「……だって、しずちゃんがわたしのいうこと聞いてくれないからじゃないの!」

 ゆっくりと近付いてくる雫那に対して、円が食って掛かった。

「ちょ、ちょっと待ってよ二人とも!?」

 一人だけ展開に着いて行けない真二が思わず声を上げる。

「一体なんのことなのか、説明してよ!」

 高校生離れした大人びた印象の雫那と、まだ中学生、いや小学校高学年と言っても通用しそうなあどけなさを色濃く残した円。対照的な二人を前にして、真二が説明を促す。

「……あなた、しずちゃんからなにも聞いていないの?」

 真二の言葉を聞いて、呆れたように雫那の方を見る円。

「しずちゃん、もしかして何も教えてないの? 今日がどういう日だってことを!」

「人には知るべき情報と知るべきではない情報がある。だから余計な情報は与えない」

「よ、余計って……この首都艦が焼かれるのが、余計なことだっていうの!?」

 怒るという要素を、その小柄な体にまったく含んでいないように見える彼女。そんな彼女が見せた激昂には、全てを平伏させる程の力があった。真二はその力に抗えず言葉を失い後じさる。しかしそんな彼女の絶対の怒気も、楠木雫那という少女には効かなかった。

「それにここに来たのはお前の頼みを聞きに来たんじゃない。お前にこちらの頼みを聞いてもらいに来た」

 円の怒声をさらりと受け流し、雫那は自分の用件のみを伝える。

「神の左手の迷宮への先導をお願いしたい」

「……なにをするつもりなのよ?」

 怒りを無理矢理押さえつけているような、少し震える語尾で訊く円。

「我々宝箱設置委員会が請け負った仕事『神の左手の迷宮九階に霊薬エリクサーの入った宝箱を設置する』その仕事を果たすだけだ」

 用件だけを伝えるだけのその言葉に、遂に円の怒りが爆発した。

「果たすだけって……明日にはこの首都艦が全部焼き払われてなくなってるっていうのに、なに言ってるのよ!?」

「それが私の仕事だ」

 しかし決然とした態度で、己の意思を突き通す雫那。円がどんなに言葉を重ねても彼女の意志を捻じ曲げる事はできないようだ。

「お前は迷宮支配者ダンジョンマスターなんだ。だったら迷宮仕事人ダンジョンワーカーズに対して、円滑に仕事をできる環境を提供するのも義務だろう?」

「だったら支配者の頼みを聞くのも仕事人の義務でしょ!? わたしのこと殺してよ!」

怪物係モンスターメーカー以外の迷宮仕事人は、迷宮内の怪物モンスターに関しては不可侵がルールだ。それはもちろん迷宮支配者にも適用される。自分の命の保身以外で、相手を殺傷することはできない」

「じゃあ、わたしがしずちゃんを襲えば、わたしのことを殺してくれるの!?」

 円は遂に最後の手段に訴えかける。自分の身が危険に晒されれば、流石に雫那と言えども相手を倒して、自分の保全を図る筈。

「お前が私を殺そうとするのなら、それなりに私が死ななければならない理由があるのだろう。お前の手に掛かって死ぬのなら、私はそれを受け入れる」

 仕事を与える者、仕事を請け負う者。その信頼が崩れたならば、彼女は喜んで死を選ぶという。雫那は、どこまでも自分の意志を貫き通す女だった。

「それにそんなに死にたければ、自ら命を断てば良いだろう」

「……そんなことしたら、しずちゃんだって死んじゃうの判ってるくせに! わたしそんなの嫌だから、わたしだけ殺してって頼んでるのに!」

「言っただろ、お前のために死ぬのなら、構わないと」

「……しずちゃんのわからずやぁ!?」

「まって、まってよ二人とも!?」

 自分の理解の範疇を超えた所で喧嘩を始めた二人を、止めに入る真二。

「話がどうなってるのか全然判らないよ!? まず二人がどんな関係なのか説明してよ!?」

「幼馴染だ」

 真二の質問に対して、雫那の簡潔な答え。

「え……えぇ!? おさななじみ!?」

 誰からも受け入れられるアイドルのような存在と、誰とも混ざらない孤高の存在。その意外すぎる接点に、真二は驚きを隠しきれない。

「幼馴染って許婚じゃないの!?」

「許婚? なんのことだ? まぁ良い、先日話しただろう、意外に近い場所に幼馴染がいると。彼女がそうだ」

「近い場所って……近すぎるよ!?」

 自分の妄想が華麗にスルーされたのも更に自分自身でスルーする程のあんまりな答えに、半分呆れてしまう真二。

「それに胡原さんのこと迷宮支配者ダンジョンマスターって呼んでるけど……ほんと?」

 そう、幼馴染というカテゴリーよりも、そっちの説明の方が余程重要だ。

「円の家は凛姫の魔術の助手を務めていた直系の魔導士の家だ。冒険者と相打ちになり長らく不在となっていた神の左手の迷宮迷宮支配者ダンジョンマスターとしての役をその時同時に賜り、それが続いているという事実に過ぎない」

 とんでもない事実を雫那が淡々と説明する。真二が驚いて円の方を向くと、肯定するようにこくんと頷いた。

「こんななりですけど、わたしが迷宮支配者ダンジョンマスターです」

 そう儚げに笑う円。真二は自分のことを見上げてくる目の前の小柄な少女が、迷宮内全ての怪物の頂点に立つ絶対者だとは、俄かに信じられない。しかし、既に話の流れも彼の理解力の許容範囲をとっくに越えているのだが、それでも全て事実に違いなく、彼女たちが語った言葉は、全てを真実として受け入れなくてはならないのだろう。だから真二はあえて、日常での彼女たちの姿を訊いた。

「……ていうか、なんで一緒のクラスなのに、二人は全然お話とかしないの?」

 幼い頃からの友人であったならば、せめて一言二言会話を交わしても良いのではと思うが、教室内での二人は、この学校で初めて逢ったかのような他人行儀である。

「必要が無いからだ」

 そしてその質問には、雫那の冷徹な言葉が帰ってきた。

 どさっ

「……胡原さん!?」

 何かが床に落ちる大きな音にビックリして真二が振り向くと、円が力尽きたように屋上の床に頽(くずお)れていた。雫那の発した言葉が思考の深い所に染み込んでしまった彼女は、立っている事すらできなくなった。

「必要じゃない、必要じゃないって……しずちゃん、いつもそうだよね」

 円は、涙を零していた。雫那のその言葉を聞いた瞬間、悔しくて悲しくて、とにかく涙が零れていた。しかし幼馴染のそんな姿を見ても、雫那は冷徹なままだった。

「我々宝箱設置委員会は、駅前夕方六時に集合する。お前も私たちに協力してくれるのなら、その時間に集合してくれ」

 真二が予めお願いしていた集合時間を円に伝えると、雫那は踵を返し屋上から去っていった。屋上には最初にいた二人が残される。

「……」

 真二は腰を降ろすと、ポケットから円にハンカチを差し出した。

「……しずちゃんのこと、追わないんですか?」

 確かに真二は宝箱設置委員会の一員となった者だ。だから先輩である雫那と一緒に行動するのが、都合が良い筈。それに、自分にラブレターにしか見えない召喚状を送った相手の正体も判ったのだから、ここにいる必要はもう無いのだが

「泣いてる女の子を一人にはできないよ」

 そう、真二は人間として、そして男として、然も当たり前に取るべき行動にしたがってここに残ったのだ。それに自分が決めた集合時間にはまだ時間がある。

「……あの、胡原さん。僕で良かったら話してくれないかな、今日一体何が起こるのかを」


「明暦の大火って知ってますか?」

 下校時間も大きく過ぎて、放課後という時間帯も半分が過ぎ去った時間、真二と円は駅へと向かっていた。

「えーと、確か先週歴史の授業でそんなことを先生が言っていたような……」

 今はこうして雫那の待つ駅前の通学路を歩いているが、夕陽が再び大地へ帰ろうとゆっくり下降していた少し前の時間、二人はまだ屋上にいた。

 真二は泣きじゃくる円に寄り添って、彼女の話を聞いていた。胡原の血でなければ、迷宮支配者ダンジョンマスターとして審判を下すことが出来ないという特殊条件が、神の左手の迷宮には存在するということ。それが自分以外には居らず、必然的に胡原円じぶんが迷宮支配者の役を継ぐしかなかったということ。その時に迷宮支配者としての力の証である《分たれた機械神》を動かし、その力を必要とする者へ与える選定の力が与えられた事。

「胡原さんって、魔法は使えるの?」

「残念ながら今はわたし単独では使えないです」

 円はそう言いながら鞄の中から十字形をした金属の分厚いプレートを出した。

「私が使える力はこの魔封じの首飾りアミュレットに封じられた選定者としての力だけです。こんな情けない迷宮支配者でゴメンなさい」

 そう言いながら、苦笑しつつぺコリと頭を下げる雫那。

「い、いや、そんな謝られてもっ」

 しかしそんな照れ笑いを浮かべる円の表情には、先ほど雫那と言い争いをしていた時の悲壮感は無くなり、何時も教室で見る小動物のような愛らしさが戻り始めていた。やはり自分の中に溜め込むしかできなかったことを誰かに話せたという事実は、かなり大きいようだ。その作用は既に雫那の例で実証済みだが「誰かが聞いてあげる」という効果の絶大な力に、真二は改めて驚くのであった。そしてそんな簡単にみえることですら、それを可能にするのが、自分しかいないという現実にも。

 そうして円の話を聞いていると、陽も殆ど没してしまい、集合時間が近付いてきた。円に「どうする?」と真二が訊くと、彼女は少し考えてから「一緒に行きます」と答えた。だからこうして通学路を連れ立って駅に向かって歩いているのだった。もしクラスメイトの誰かに、入学以来誰からの誘いも断り続けた胡原円と一緒に歩いているところなんて見られた日には、いったいどんな目に合うか判ったものではないが、そんなことを言っていられる状況でもないので、真二は円を連れて駅前に向かった。

 それに屋上では円の話を全部訊ききれてなかったので、それを聞く必要もあったからだ。それも一番重要なこと「何故今日の日に、首都艦は焼き払われるのか?」ということを。

「今あるこの都市以前の旧市街の大半を焼き払った大火。その出火には諸説ありますが、それは当時の迷宮支配者の使い魔たちが、様々な虚偽情報を流布したからです」

 再び魔封じの首飾りアミュレットを鞄に戻しながら、円が話しを続ける。

「【分かたれし神の右手】が街の上空へ出現し、一瞬にして焼き払った……それが真実です。信じられないかも知れませんけど」

 彼女の口から語られる歴史の本当の事実。

「あの……疑問に思ってたんだけど、その【分かたれし機械神】って、なんなの?」

 そう、それは今まで気になっていたのだが、今まで相手が雫那しかいなかったので、タイミングが無くて訊くに訊けなかったこと。しかし今ここに、もう一人地下迷宮の秘密を知る者が現れたということで、真二は思い切って尋ねてみた。

「超古代の魔導兵器」

「超古代の、魔導へいき!?」

「と、予想されてます」

「……と、よそうされてます!?」

 ある程度想像していた正体とそれに続く円の回答に、思わず真二の声が裏返ってしまう。

「首都艦地下に一〇〇メートルクラスの機械巨人が、分割された状態で迷宮に封印されているという事実は判っているのですが、何のために作られて、それが一体何時ごろ作られたのかなどは、良く判らないのです」

 確か雫那も以前同じようなことを言っていた。一番最初に地下迷宮に突入した凛姫は、迷宮仕事人としての役を迷宮支配者から請け負った後は、迷宮創生の秘密には無頓着になったと。

「また魔導兵器という説明も、予想の範疇でしかないです。もしかしたら異星人が残した遺失機械オーパーツ的なものかも知れませんし、異界からこの世界へ廃棄された超兵器なのかも知れません」

「……異界、から?」

 平坦な口調の中にいきなり飛び出す、突飛な言葉。

「でもそれは不確定な予想が数多くあるだけです。機械神と呼ばれるものが存在する確定を揺るがす要素にはなりません。わたしたちは確定という事実を自動的に受け入れなければならないからです。機械神は確かにこの首都艦の地下に存在するのですから」

 そしてその為に地下迷宮が存在し、それを維持する迷宮仕事人と迷宮支配者がいる。

「だから今では、実際に過去の世界の魔導師や錬金術師たちが作った、とんでもない魔導兵器であると考えが統一されているのです。この方舟艦隊という名前の船上列島は魔法学的に非常に安定した場所らしいので、この超魔導兵器の建造と保管の場所としてこの地が選ばれたと考えると、非常に納得のいく説明ができるのも、その考えを助けていますし」

 先日雫那も同じようなことを語った。「この首都艦というの国の真ん中が、なんでまっさらな平地なのかと不思議に思ったことはないか?」と。

 これは封印の地としての特性を高める為に、迷宮を造った際、その地下大規模工事と共に、今までそこにあった山並などはそっくり削り取られたのだと伝えられていると円も答える。

「しかしそれは平野というものを作り出し、人の住み易い土地を作ってしまったという結果ももたらしました」

「それは楠木さんから前に聞いたよ。歴史の真実を知らない平民が国を治める立場になってしまって、ここが禁忌の場所とは知らずに将の一人を街の建設に派遣してしまったって」

 今あるこの街以前の土地に派遣されてきた将は、ある程度この地が不可侵の場所であることは知っていたらしい。それはムラマサという名で伝えられてきた解錠ノ剣キークリフと呼ばれる存在が己の家に代々伝えられてきたからだという。しかし国のまつりごとを治める長には逆らえず、街の建設は行ったのだが、今後起こるであろう災厄を未然に防ぐため解錠ノ剣キークリフを平和に仇なす妖刀という形で封印し、禁忌の場所の上に建設された街の平安を願った。そして特に災厄に見舞われることも無くこの街は少しずつ発展して行き、遂には旧首都艦の中心都市となったのであるが、一つの問題が生じた。

 繁栄し過ぎてしまったのだ。

 それはこの街に住む者たちに取っては良き事ではあるのだが、地下に迷宮を構える者達にとっては不都合にしかならない。迷宮支配者達は、人が集まり過ぎた地上の街並みを鑑みて、解錠ノ剣キークリフを持たぬ者が迷宮の入口を強引に開き「分かたれし機械神」を持ち出してしまうかもしれないという危惧を抱いた。資格無き者が機械神を手に入れ、機械神を護り続けて来た者の意志にそぐわない使われ方をしてしまうかも知れない危険性……増えすぎた人口にはそれだけの危うさがある。だからこそ地下迷宮は隠蔽しておかなければ意味が無い。

 そして当時の支配者達は一つの決断を下した。この土地は禁忌の場所であるという事実を、実行を持って人々に再認識させたのだ。夜陰に紛れて出現した【分たれし神の右手】は、その巨大な手の平を一振りしただけで大気中の水素を発火させ、一瞬にして街を業火に包んだ。火災は三日も続き、延べ十万人以上の死傷者を出し、世界的規模の大災害として記録される。

「でも、そんな真実は誰も知らない。それは女性の振り袖に引火した火が飛び火して起こった火災。普通の人はそう思ってるし、それが正しいと歴史には載ってる」

 円が寂しそうにぽつりと呟く。

「その嘘が、本当の事であれば良いのに……」

 そしてそれから魔法学的に一つの区切りになる三六〇年の年月としつきの後、再びこの土地に街が繁栄していたならば、今度は神の左手の迷宮支配者が、迷宮ダンジョンの隠蔽をする。円が迷宮支配者としての役と共に受け継いだ書簡にはそのように書いてあったのだ。二十一世紀を越えた東京の街は、世界有数の情報都市となって、先進国首都として君臨している。「分たれし神の右手」と同じように隠蔽作業を行わなくてはならない条件は揃い過ぎていると、円は痛いほどに感じる。

「父の後を継ぎ迷宮支配者となったこの三年間、何か抗う術はないのかと、色んなことを考えて、色んな手段を試してみました。でも……結局なにも見つからなかった」

 万策尽きたと言った感じで、力なく言う。

「自ら命を断つことすら封じられているなんて……もう、どうすることもできないです」

「あの、胡原さん、その自殺するのはダメっていうのは、どういうことなの?」

 これは彼女自身の命をあたかも道具のように捉える非人道的な言葉だが、そこに何か解法があるのかと思い、真二は思い切って訊いてみた。

「迷宮支配者が故意に自ら命を断った時、それは選定者としての役割を放棄したということになる。だから重い罰が下される」

 円も自分から言い出しにくいことを訊いてくれて感謝するように、詳しい説明を始めた。

「それは迷宮支配者に親しき者、迷宮支配者が愛する者、全ての近しき者たちの、強制的殉死」

 彼女の口から告げられたのは、自分が死してなお降りかかる、壮烈な罰だった。

「じゃあ、胡原さんが自分で命を絶ったら楠木さんも……」

 そう、その結果から生まれるのは、首都の街を焼き払わないで済む代償の、友の死。

「うん……なんだかんだいって、やっぱりわたしもしずちゃんのこと好きだから」

 お互いの心の奥深い気持ちをぶつけ合って喧嘩しあった二人。それは本当にお互いの事を良く知り得る仲でなければできない筈だ。二人の間には不思議な優しい繋がりがあるのが、真二にも判ってきていた。

「それにどこまで殉死の呪いが及ぶか判らない。わたしを口説いてくれた男子や、わたしを守ってくれた委員長や女の子たちも、みんな死んじゃうかも知れない……それに迷宮仕事人になったばかりの武藤さんにも、この強制的殉死は及ぶかも知れない」

 円には迷宮支配者として「分かたれし神の左手」を独自に動かせるだけの強い力が託されている。もしそれを自ら放棄したのなら、その強大な力の反動は、罪の呪いにどこまで影響を及ぼすか判らない。真二はそこで胡原円が、己に対する一切の誘いを断り続けていた理由がはっきりと判った。

 多分彼女は、迷宮支配者となりその任とその書状を受け継いだ瞬間から、友人達との交友を全て断ち切ってきたのだろう。子供の頃から共に育ってきた幼馴染という存在でも、相手の生存を願うならば、彼女には会話すら許されない悲しい連鎖。そして雫那が、教室内で生徒達に囲まれる円を時折り見ていたのは、円の気持ちを愁いていたのだ。自分の周辺に人が好意を持って集まれば集まるほど、その者達は殉死の呪いが近くなる。

 そんなことを考えながら同級生たちと付き合わなければならない円の心の疲弊を、陰ながら心配していたのだ。その気持ちを抱くたびに雫那の死の危険も回避不可能なものとなるが、それでも円のことを心配せずにはいられなかったのだろう。雫那が先程語った「必要が無いからだ」という冷淡に思える言葉も、彼女なりの優しさの表れだということが判る。しかし彼女のあまりにも直線的過ぎる言葉は、最後の日までぎりぎり保たれていた円のか細い心を折ってしまい、彼女を頽れさせた。

 だがその残酷なまでの生真面目さは、お互いが分かり合える者同士であるからこその、優しさ。嘘で飾らない、不器用な優しさ。それは雫那らしい優しさ。

「じゃあ、さっき胡原さんが僕に……殺してくれって言ったのは」

「うん……それしか方法がもう……思い浮かばなかったから」

 自ら死を選べないのなら、迷宮支配者の任に則り、誰かに倒されることによって得られる死を選択しなければならない。そうすれば再び大火を起こす者はいなくなる。円はそれを望み、唯一その願いを伝えられる雫那に、実行を願ったのだ。しかし、雫那はそれを拒み、だから新たに迷宮仕事人となった真二へと、そんな悲壮な願いが移された。

 消えた方が良い自分。しかし自分自身では消える事はできない矛盾。そして、消えたくないのに、みんなの為に消えていかなければならない悔しさ。悲しいまでの現実に翻弄される円は、何時も以上に小さく見えた。

 だから真二は思わず、彼女の手を握っていた。

「武藤さん?」

 ビックリしたように、真二の横顔を見上げる円。

「なんだかこのまま胡原さんが小さく霞んで、そのまま消えて行ってしまうような気がして……だから思わず……」

 男の子にいきなり手を握られて驚いたが、でも円は嫌な気分はしなかった。その手のぬくもりから彼のやわらかな優しさを感じることができたから。

「大丈夫、他にまだ手はあるはずだよ。僕も一所懸命考える。だから胡原さんも諦めないで。まだ今日という日は終わってないんだから!」

 真二は笑顔で、円に語りかける。その言葉と同じで、一生懸命に作った笑顔。円は、自分に対してこんなにも心からの笑顔をもらったのは、久しぶりのような気がした。雫那は優しさはくれるけど、笑顔はほとんどくれない。だから彼の笑顔が、嬉しかった。

「しずちゃんとも、こんな風に手を握ったりするんですか?」

 ぎゅっと、強く手を握り返す円。

「え……えええええ!? そんなことしないよぉっ……でもそれ以上のことはしちゃったような気がするけど……」

 真二の慌て振りに、くすくすと笑う円。先ほどまで体の全てが悲しみで満たされていた少女が、何時も通りに微笑んでいる。雫那の時もそうだったが、真二の言葉には相手を優しく落ち着かせる力がある。多分真二自身も気づいていない彼の持っている最高の武器。

「もし夜が明けて変わらない朝がやって来たとしたら、しずちゃんとのお話、もっと聞かせてもらえますか?」

 真二の特殊攻撃にすっかり翻弄されてしまった円が悪戯っぽい言葉を呟く。下から覗き込むように小動物のように少し潤んだ瞳で告げられた言葉。それは誰もいなくならない明日へ進むためのチケット。それが例え仮初めであったとしても、それが一瞬だけのものだったとしても。

「う~ん……わかったよ……でもその時は胡原さんと楠木さんの昔のお話なんかも聞かせて欲しいな」

 そして真二も恥ずかしながらも、それを円にあげるため頑張ろうと、誓うのだった。


 二人が駅前に着くと、錫白高校の制服を着た一人の女子生徒が、腕組みをした格好で佇んでいた。集合時間ピッタリの行動を常に心掛けている筈の彼女だったが、既に一時間以上前からそこにいるような雰囲気である。さっきは素っ気無い対応だった彼女も、ちゃんと円のことを心配しているという事実が窺い知れた。そしてもう一つ、常時より変化している場所があった。雫那の顔が何時も以上にむすっとしていたのだ。二人に睨むような一瞥を向ける。

「円、彼と私は一応同級生からは恋人同士と疑われる仲なのだ。そんな簡単に誘惑しないでもらいたいな」

 繋いだままの二人の手に視線を落としながら、雫那がそんな風に言う。

 二人は手を繋いだまま駅前に現れた。真二は先程からタイミングを見計らって手を離そうとしていたのだが、円がぎゅうぎゅうと握って絶対に話そうとしなかったのだ。

「こ、これは僕が胡原さんを元気付けようとして、僕のほうからむりやり握ったから、胡原さんは悪くなくてっ……というか恋人どうしって!?」

「キミがそういう行動を取るのは予想済みだ。そんなキミの行為に甘えている円に言っている」

 そして真二の焦りまくった台詞と雫那の台詞を聞くと満足そうに円はそこで手を離した。

「しずちゃんも一応女の子っぽく嫉妬するんダ?」

「……」

 円の言葉に、ぷいっとそっぽを向いて黙ってしまう雫那。

「えへへへ、武藤さんとは今度デートの約束もしちゃったもんネ~」

「こ、胡原さん、なに言ってるんですか!? そんな約束し」

「いい加減にしろ! 急ぐぞ!」

 雫那は二人の襟首をがしっと掴むと、改札の方へずんずん進んで行った。

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