第4話 外の世界からやってきた者(上)

 ねぇかみさま、教えてください

 なぜこんなにも残酷なことをするのか、教えてください

 なぜわたしのまわりにはこんなにも人が集まってくるのか、教えてください

 いつの日かわたしが殺さなければならない人たちが

 教えてください

 こんなにも優しい笑顔でわたしを包んでくれる人たちが

 教えてください

 あの娘と同じように、わたしの周りにも友達はいらないはずなのに

 教えてください

 友達がいればいるほど、悲しみは大きくなるのに

 友達がいればいるほど、一緒に死んでしまう人は増えるのに

 教えてください

 わたしになんでこんな運命を与えるのか、教えてください

 かみさまだから、なんだって知ってますよね

 ねぇかみさま、教えてください

 もし、知らないとか言いだしたら

 かみさまだって……殺しますよ?


 ――◇ ◇ ◇――


 終業のチャイムが鳴り、錫白高校は一日の授業を終えた。

 授業終了後の喧騒に包まれる教室内。しかもその騒ぎっぷりは、いつもより幾分か大きい。実はこの終業のチャイムは、通常鳴り響いているものと少し違う。本日は金曜日。完全週休二日制が導入されたこの国の教育制度に従い、旧体制が色濃く残る錫白高校は公立校である態勢そのままに法律に従順な結果、固有の校則も設けずに土曜日は普通に休みである。つまりこれは平常授業の最後の終了を知らせる鐘。この鐘がなり終わってしまえば後は四十八時間以上の自由時間が学生には与えられるわけだ。だからその浮かれ様が他の日とは比べものにならないのは、やはり遊びたい盛りの高校生にとっては仕方の無いことなのだろう。そんな中、気持ちの上ずりが頂点に達した男子の何人かが、いつも通り胡原円こはらまどかの周りを囲み始めた。

「ねぇ、まっ、どっ、かっ、ちゃぁんっ、明日デートしなぁい?」

 今日も今日とてクラスのアイドルをゲットしようとする骨肉の争いは絶えることがない。

 事実、彼氏の座を他人と争ってまで勝ち取りたいと思わせるほど、円は可愛い。常に俯き気味な顔は充分以上に美少女に入る造作で、小さな身長の彼女に少し垂れたその大きな瞳で上目遣いで見つめられたなら、きゅーんとこない方がおかしいだろう。入念にブローをかけていると思わせるセミロングの髪はいつもさらさらで、体に比例して小作りな頭を撫でまわしたい欲求を他人に与える。鼻を埋めてくんくんとその髪をかいだなら、絶対に日向ひなたの心地好い匂いがするだろう。そして彼女全体から醸し出されるふわふわとした柔らかそうな印象は、男女問わず「ぎゅっと抱きしめたい」と思わせる要素、充分である。そんな彼女の争奪戦は、明日から休みであるのも加味されて、いつも以上にヒートアップしていた。出来れば二日連続のデートの約束を取り付けて、そこで好印象を与え――あわよくばそのまま彼氏になってしまえと、鼻の下が長くなった男たちは火花を散らす。

「あの……ごめんなさい……」

 そんな狼たちの競演が続く間隙を縫って、か細い声が通り抜ける。小柄で華奢な円は見るものに儚い印象を与えるが、その声までもが儚げだった。

「もう胡原ちゃんってば、今日もダメなのぉ~?」

「明日はせっかくの休みなんだよーっ、一緒に遊ぼうよ!」

「でも……ごめんなさい」

「いいじゃんいいじゃん、たまには羽伸ばそうよぉ」

「そうだよ円ちゅぁあん」

 しかしそんな少女の拒否の囁きは、男たちの喧騒の中に霞んでいく。

「もしかして胡原ちゃんってば、二人っきりになるのが怖かったりする? じゃあ初デートはみんなで行こうぜ!」

 煮え切らない少女に、男子生徒の一人が妥協案を提示した。

「おう、円ちゃんがOKしてくれるんなら、俺も乗るぜ!」

「なにぃ! せっかく円ちゃんと午後の甘いティータイムを二人っきりで満喫しようと思ったのに……だが仕方ない、彼女がうんといってくれるならここは男らしく折れようぞ!」

 なんだかこのままグループデートの約束が強引に決まってしまいそうな雰囲気であるが

「……でも、ごめんなさい……」

 それでも円は頑なに拒否し続けた。これだけの重圧を受けてもなお、己の意見を押し通すとは、見た目に反して意外に芯の強い女の子なのかも知れない。

「もう胡原さんってば、はっきりしないなぁ」

 業を煮やした男子の一人が強く出た。円自信ははっきりと拒絶の意思表示をしているのだが、円自身をゲットすることしか考えてない狼たちには、一番尊重すべき彼女の意思そのものが、まったく伝わっていない。

「そうだ、これから軽くお茶でも飲みに行こうぜ。まずは予行練習だよ胡原ちゃん」

「お、それは良いアイデアだな。早速行こうぜ円ちゃん!」

 そして遂に魔の手が、円を襲う。無遠慮に伸ばされた男子の手が、華奢な腕を掴んだ。

「きゃあっ」

 小さな悲鳴を上げる円。しかし彼女自身の人権そのものは既にどうでも良いらしく、円の小さい体を席から強引に引っ張り上げようとする。そしてそのまま男子生徒たちに囲われて、有無を言わせず連れ出されようかとしたその時

「こらぁ!」

 ごすっ、という鈍い音と共に円の腕を掴んでいた男子生徒の頭頂部に拳が炸裂した。痛みに耐えかねて彼が円の腕を放すと、その隙に複数の影が円を取り囲み、男子の輪から連れ出した。

「な、なにしやがる!」

「な、なにしやがる――ですってぇ?」

 男子の間から一定距離離れた所に円を護るように女子が数人集まり囲んでいた。そしてその囲いと男子の間を断ち切るように、一人の女子生徒が腕組みの仁王立ちで立ちはだかっている。

「女の子に手を上げるなんて、あんたたちなに考えてるのよ!」

 女生徒が咆哮を上げる。彼女が円を連れ去ろうとした男子に怒りの拳をぶち込んだ本人だ。ショートカットの髪型をこざっぱりとまとめた、雫那しずなとはまた違う印象の切れ長の瞳を持った女の子。背丈は円と雫那のちょうど中間、高校一年生女子の標準的な体格。

「べ、別に手を上げるなんて」

「あんなに強く腕を掴んだら暴力を振るったのと同じことよ! そんなことも判らないの! 判らないんだったら、委員長の名に懸けてたっぷりと判らせてあげようか?」

 びしぃ! と当事者の男子を指差す女生徒。彼女はこのクラスの学級委員長だ。

 男子による円をゲットしようとする連帯組織が生まれた時、自分の拒絶の意志が口説こうとしている男子たちにまったく伝わらない円を不憫に思って、クラス委員長である彼女が守るように立ち上がったのだ。そして委員長の行動に呼応するように何人かの女子もその防衛戦に名乗り出た。円のような無垢な女の子が男子に不用意に汚されるのを黙って見てられない正義感の強い女子も、委員長以外にもいたのだ。

 そして今現在、円を中心とした男子と女子の攻防戦に発展しているという次第。

「しっしっ、あっち行った!」

 臭いものにたかる蝿を追い払うかのように、手で男子達を払う胡原円を守る会委員長。

「ていうか、お前にそんなこと言われる筋合いはねぇよ! お前らこそ円ちゃんを返せ!」

「そうだぞ、これからみんなでお茶しに行く約束になってたんだからな!」

 しかしここで諦めきれない男子陣。本人の了承していない約束を盾に食って掛かる。

「ほほぉ? アンタらが円に言い寄ってあたしにぶん殴られるまでの一連のできごとを生活指導の先生にご報告しても良いっていうなら、このまどかを引き渡しても良いケド?」

 しかし、そんな言葉は委員長には効かず、逆に脅されてしまう男子陣。後ろに控える女子たちも、ギロリと睨み据える。

「そ、そんなことしたらお前だって、俺のことぶん殴ったんだから、停学処分になるぞ!?」

「この娘のためなら、一日二日の停学くらい、喜んでうけますわよ?」

 そう言い放ち、ニヤリと不敵に笑う守る委員長。中学生から高校生へと進学するのと同時に、子供から大人へと成長していくこの時代、確実に先行して大人へと成熟していく女子に、高校を卒業する歳になっても子供のままの人間が多い男子が、口喧嘩で勝てるわけが無いのだった。

「く、くそっ、おぼえてろーっ!」

 もうこれ以上争っても勝利は覚束無おぼつかないと判断した男子陣は、まるでヒーローにボコボコにされた後の怪人達のような捨て台詞を残し、各個に散っていった。

「ふぅ、まったくバカ男子どもが」

 そして委員長も腕組みを外し戦闘状態を解除すると、胡原円の方へ振り向いた。

「恐かった、円?」

「だいじょうぶ……」

「でも嫌な気分だったでしょ? だから気分直しにこれからファミレスでも行こっか?」

 と、さり気なく円をお茶に誘う委員長。こんな後があった後は気分を変えた方が良いと、毎回誘っているのだが

「ご、ごめんなさい……」

 しかし円の言葉は同姓が相手でも拒絶の意思表示。円本人の気持ちは、男子も女子も変わらないのであった。

「ていうか円、あたしたちの誘いも受けてくれないのぉ?」

「……ごめんなさい……」

 結果的には自分を守ってくれた恩人の言葉だが、それでも頑なに拒む円。その申しわけない気持ちと、それでも拒否し続けないといけない自分の気持が彼女の中で綯い交ぜになって、彼女の体を小動物のようにふるふると震わせていた。自分より背の高い委員長を見上げる瞳は、少しうるっと涙目である。そして円のような小柄で可愛い女の子に、しかも上目遣いでそんな仕草をされてしまったら、きゅーんと来ない方がおかしい。委員長も含め円を囲っている守る会の面々、既に全員瞳がハートマークだ。

「あーんもぅ可愛いなぁ」

 とりあえず委員長が抜け駆けして、円のことをぎゅーっと抱きしめた。

「お茶の誘いが断られたのは、この『むぎゅぅ』っで許しちゃう♪」

「あ、ひとりだけずるーい」

 更に周りの他の女子も争うように円に抱きつき始めて押しくらまんじゅう状態になってしまう。

「は、はなして……」

 機動する女子の垣根の隙間からか細い悲鳴が漏れるが、多分女の子たちが満足するまで終わらない。そんな光景を指をくわえて見ている、先程彼女たちと争奪戦を繰り広げた男子達。既に男子は悪者と認定されているので、今の状態から委員長が見せた大立ち回りを再現しても無駄である。この辺りの狡猾さも、やはり成長の早い女子に一日の長がある。

 そんなことがほぼ毎日ように繰り返され、日々が過ぎていく、

(今日も胡原さんは人気者だなぁ)

 このクラスではお馴染みとなったその光景を見ながら、真二しんじは何時に無くそわそわとしていた。彼はいつもそわそわしているような気もするが、今日のそわそわは通常以上に、そわそわ度は高い。本日も満員電車にもまれていつも通りの時間に登校してきた真二は、いつも通り伍郎ごろうとたわいも無い会話をし、宣言どおりちゃんと登校してきた雫那といつも通り挨拶を交わし、そしていつも通り一日の授業をこなしていた。特に何も問題が無いように見える高校生としての一日。しかし今日に限っては問題が無いのが問題なのである。

 雫那は昨日いつも通り登校すると宣言したことと同時に、今後の宝箱設置委員会についての活動の説明を、後日学校で話すと言っていた。雫那の方も、朝一番に真二に挨拶されて「おはよう」と返した以外はその後一切の私語も無く、彼女も彼女でいつも通りの学校生活を送っていた。真二は一体どのタイミングで話してくれるのだろうかと朝からずっと待っているのだが、まったくその素振りもなく下校時刻となってしまったのだった。

「……あの、楠木さん」

 流石にそわそわも最高潮に達した真二が遂に我慢しきれなくなって、雫那に喋りかけた。

「はい?」

 呼びかけられた雫那が答える。その声もいつも通りの彼女のもの。一切の感情が消失した冷徹な声。昨日一昨日と二人の間には様々なことがあったのだが「果たしてそんなことがあったのだろうか?」と錯覚してしまうほどの、淡白で硬質な声だった。

「昨日の、約束、覚えてる……?」

 そのあまりにも素っ気無い声に、思わず訊ねてしまう真二。

「ああ、もちろん」

 しかし雫那はいつも通りの素っ気無い声でちゃんと覚えていることを伝えた。昨日までの出来事は、夢でも空想でもなく、ちゃんと現実だったのだ。

「……授業、もう全部終わっちゃったんだけど?」

 そして現実の出来事であるならば目的を果たさなければならない。何しろ自分は雫那の所属する宝箱設置委員会という組織の一員となったのだから。一応は。

「え、えーと、これは誰にも知られちゃいけないことだと思うから、僕の方から説明を聞こうとするのは止めておいたんだけど……」

 真二が雫那にしか聞こえない小さい声でぼそぼそと喋る。

「その気遣いありがたい、礼を言う」

 妙に雅な台詞の後に、雫那が軽く会釈をする。物腰まで雅びやかだ。

「私も今日一日、いつ切り出そうかと機会を伺っていたのだが」

 机の中の教材を鞄の中に入れ直しながら雫那が答える。

「この学校という施設は、守秘の必要とする会話の場には適していないという収穫があっただけだ。二人で連携を取ってお互いを補おうにも、それを実行するには様々な障害があるものだ」

「はぁ?」

 なんだか良く解らない難しい説明に、あいまいに相槌を打つ真二。

「キミは男子であるのだから、女子トイレに連れ込んでそこで秘計を繰ることもできん」

「はぁ!?」

 女子トイレ。そこは女の子たちのおしゃれの場であり、情報交換の場であり、恋の作戦会議室。そんな普通の女の子らしく社交場としての女子トイレの使い方を雫那が知っているのは意外だが、いくら他に秘密裏に会話をする場所が無いとは言え、本当にそれが実行され、もし見つかったりしたら一体どんな事態になるのか想像もつかない真二は、流石に声が裏返る。

「そこで」

 動揺を隠せない真二を放ったまま、淡々と帰宅準備を完了させた雫那が立ち上がる。

「キミは、明日空いているか?」

「う、うん、大丈夫だけど?」

 雫那の質問に真二の即答。今のところ宝箱設置委員会以外に予定などある訳が無い。学生であるので予習や復習は義務の一つだが、今は二の次だ。

「活動内容についての説明は省くことにする。翌日はいきなりだが実地を行うことにする」

 そして、座ったままの真二に顔を近づけながら雫那が言う。

「明日は私とデートだ。朝一〇時に学校最寄の駅前に集合。定期券があるはずだから来るのは容易いだろう。目的地は集合の後に追って話す。それではまた明日」

 真二の答えを聞くと雫那はそう一気に捲くし立て、そのまま二股のお下げ髪をなびかせて涼風のように教室を出て行った。

「あ、はい、ばいばい……」

 そこを潜っていった彼女の残風だけが留まっている教室後ろのドアに真二は手を振った。

 そうか、昨日は学校で話すと言ってたけど、こんなに人のいっぱいいる場所じゃ無理と判ったから明日改めて場所を変えて話してくれるのか……でもなんか話の最後の少し手前でなんだかとんでもない単語を聞いたような気がするけど……気のせいだよねぇ、ハハハハ、ハ

 真二が声にならない乾いた笑いをしながら前を見ると、前の席に座っている伍郎が此方に振り向いていた。何か雰囲気のおかしい伍郎。彼は限界以上に目を見開き、真二を驚愕の表情で凝視していたのだ。

「お、お前ぇえええええ!?」

 伍郎はいきなり真二の肩を掴むと、思いっきり揺さぶった。がっくんがっくんと真二の頭が前後に動く。

「で、デートぉ!? あの楠木雫那とデートだとぉ!?」

 その伍郎の絶叫に呼応するように教室全体から声が上がる。

「なにぃ!?」「なんだとぉ!?」「なんですってぇ!?」

 そして地響きを立てて、教室に残っていたほぼ全員が真二と伍郎の机の周りに結集した。

「え、え、なになに?」

 激しく揺さぶられ朦朧とした意識のまま、あまりのことにオロオロしだす真二。

「武藤! お前いったいあの楠木雫那になにをしたんだ!?」

 先程まで胡原円の周りにいた男子の一人が声を上げた。

「な、なにって別に……」

 もの凄い量の自分を見つめる瞳。その大量の目が話を聞かせろと、無言の圧力を真二に与えている。もちろん楠木雫那本人でもない限り、その圧っする力に抗う事は不可能だろう。仕方なく真二がシドロモドロになりながら言葉を紡ぐ。

「え、えーと、一昨日電車の中でたまたま楠木さんと会って、楠木さん少し具合悪そうだったから、二人で少しファーストフードショップで休んで、そこで少し話しをしただけだよ……昨日は風邪が悪化して一日寝こんじゃったけど、今日はもう大丈夫って言ってた……だけだよ?」

 これは、自分と雫那の関係をクラスメイト達に勘繰られた場合に備えて昨日の夜に必死になって考えた言い訳である。多分雫那の場合はお互いの関係を推測される事態となったとしても、そんなものどこ吹く風と一切気にしないのだろうが、真二はそんなにも豪胆に振る舞えない。

「というかお前、既に楠木とお茶までしてんじゃねえか!?」

「お茶しただけで、次は休日デートだとぉ!?」

「まさか雫那ちゃんって、以外にオトしやすいコだったってオチ!?」

 クラスの男子たちの意外な反応に、真二が思わず驚く。

「でもみんな楠木さんのこと怖がってるんじゃ……?」

「そりゃ怖えよ!」

 真二の問いに、男子が声を揃えて答える。想像通りの回答。――しかし

「でもな、あんな美人放っとくほうが、よっぽど怖えよ!」

 その想像を、一八〇度裏返したような、想定範囲外の言葉が追加された。

「えぇ!?」

「他校の奴に取られるんならってんで怖いの我慢して近々話しかけようと思ってたのに!」

 今明かされる衝撃の事実。

「そうだよ、他の誰だかわからん野郎に楠木を取られるほうがよっぽど怖え」

「それをまさかこのクラスでも一番地味なお前に先を越されるとは!」

 そう、クラスのみんなは確かに楠木雫那に対して恐怖を感じたり気味悪がったりしていたが、それと同時に特に好色家の男子達は、胡原円とはまた違う良い素材の揃った女の子としての彼女への興味も、同じくらい持っていたのだ。恐怖映画を好んで見るような感覚と言えば良いのだろうか? もし、雫那の隣の席が例え真二ではなかったとしても、彼女はちゃんと仲間を得ていたのかも知れない。運命とは不思議なものである。

「それに楠木さんとお近付きになりたいと思ってたのは男子だけじゃないわよ」

 真二と男子生徒の問答に割り込むように、委員長がずいっと前に出た。その後ろに他の女の子たちも続く。一番後ろの方では抱きしめ攻撃からようやく開放された円が、目をぐるぐるにしてフラフラと佇んでいた。

「あの娘、背もそれなりにあるし、さばさばしててなんでもこなすし、確かに怖いけど――でもその怖くてクールなカッコ良さに憧れるとこもあるのよ」

 女子の大半が委員長の意見に頷いている。男子の中にもちらほらと頷いている者もいる。

「だから、楠木さんってば最近あなたと話し始めて物腰が少しずつ柔らかくなってきたから、あたしたちも話しかけようかと思ってたら、いきなりデートですって!? 一体どんな魔法を使ったのよ!?」

 ズビシぃっ! と今度は真二に突きつけられる委員長の人差し指。

「え、え~と、魔法だったら多分楠木さんの方が使えると思……」

「確かにあの娘だったら火炎魔法の一つくらいぶっ放せるとは思うけど、円とはまた別の意味でこのクラスの注目の人と、アンタみたいな田舎かから出てきたばっかの地味地味男とくっ付く方がよっぽどマジックだわよ!」

 思わず口が滑ってしまった「雫那は魔法が使えるかも知れない発言」は華麗にスルーされ、今度は真二自身がやり玉に挙げられる。しかし無茶苦茶な言われようだ。

 そんな中、ぽんっと、何かを理解したように手を打つ者が現れた。伍郎だ。

「はは~ん、お前が昨日一昨日と俺に向かって『僕の目を見て』なんて言ってたのは、楠木との愛の語らいの練習だったってわけだなぁ」

 そう言いながら、にへらぁ~と汚い笑いを見せる伍郎。

「そ、そういうつもりじゃっ」

「いいっていいって、親友のためだったらいくらでも一肌脱いでやるぜ」

 伍郎も伍郎で真二との不当な同性愛説を完全に払拭できるチャンスと、一気に畳み掛ける。真二にしても別に伍郎が自分に対して悪い事をしているわけでもないのでそれ以上言い返せず、彼の台詞に赤くなって縮こまるだけであった。

「そういえば楠木雫那は明日の朝、駅前に集合って言ってたよな。それってこの錫白に一番近いあの駅だよな?」

 たまたま真二と雫那の会話が聞こえていた生徒の一人が、明日の集合場所をバラした。

「なぁ、武藤と楠木の恋路がどうなるか、みんな興味ねえか?」

 一同頷く。もちろんこの状況で興味が湧かない人間なんているわけが無い。

「よし、明日の九時半に駅前集合にしようぜ!」

「おー、良いね良いね」

「きゃーっ、キスシーンとか見れちゃうかもぉ☆」

 そしてその流れに沿って、真二と雫那のデートをみんなで覗き見しようという計画が、画策されてしまうのである。

「だ、駄目だよそんなこと!」

 流石に、思わず声を荒げる真二。自分だけではなく雫那のためにも、声が大きくなる。しかしこの状況では、当事者の絶叫などまったく耳に入らない。それが集団心理というものだ。こうなってはいくら個人が正義を押し通しても、団塊の悪には敵わない。既に何組かグループになって、明日はどのように隠れてどのように尾行しようかと、そんな算段になってしまっている。そして真二が、流石にこれ以上は自分の力ではどうにもならないと判断し、明日は雫那に会った時点でその日の予定を中止にしてもらわなければと覚悟を決めた、その時

「や、やめておいたほうが良いと思います……」

 全員が騒ぎ続ける中、一瞬会話が途切れた間隙を縫って、か細い声が全員の耳を通り抜けた。

「胡原さん!?」

 全員が声の発生源である小柄な少女に注目した。八〇個近い瞳が、円の体を射る。

「……あ、あの……その」

 円は許容限界以上の衆目に晒され気絶寸前になっていたがそれでも何とか二の句をつなげる。

「人の恋路を邪魔すると、う、馬に蹴られて、死んでしまいますよ……」

 必死に搾り出した小さな声が、全員の心根に染み入るように、響き渡った。

「……あの胡原さんが、楠木雫那のことを心配するなんて」

 当事者の一人である真二の方は完全無視である。いと哀れ。

「胡原さんがいうんじゃしょうがないな~」

 しかし、クラスのアイドルの言葉は余程効いたらしい。誰かが声を上げると、多くの者が賛同するように、うんうんと頷いた。

「ま、考えてみればデート邪魔するなんて可哀想だもんな」

「武藤っち、月曜日の報告まってるからネ♪」

 とりあえず、彼女の言葉でみんなも冷静な気持ちを取り戻したようだ。考えてみれば、一度そんなことをしてしまえば今度は自分のデート時に同じ目に合う可能性もあるのだから、止めておいたほうが良いに決まっているのであるが。

 そして興味を失ったように生徒たちがゾロゾロと教室を出始めた。もう終業のチャイムは鳴っている、何時までも無駄に残っていても時間が勿体無いだけだ。男子は全員律儀にも、退室する際に真二のわき腹を一人一回小突き「いたい」と人数分叫び声を上げさせてから帰った。

「キミも楠木さんのこと泣かせるようなことしちゃダメだよ? あ、でも逆にキミの方が泣いちゃうのかな?」

 女子たちも、そんな委員長の言葉にくすくすと笑いながら、教室を出て行った。後に残ったのは、わき腹を押さえつつ、突然嵐に巻きこまれて身包み剥がされたように呆けている真二と、この現況を作り上げた伍郎、そして運悪く週末の掃除当番になってしまった数人の生徒だけだ。

「一体……なんだったんだろう?」

 疲れたように呟く真二。

「に、してもまさか胡原円が全員を諌めるとは思わなかったな。さっすが我クラスのアイドルは違うなぁ」

 騒動の発端である伍郎がまるで他人事のような感想を洩らす。

「というか伍郎があんな大声でデートだなんて叫ばなければ、良かったんじゃ」

 思わずジト目になる真二。

「あの楠木雫那にデートイベントが発生したんだったら、誰だって声を上げて驚くわい」

「う~ん、それは……」

 確かにそう言われると、自分がもし他の生徒の立場だったら、一緒になって驚いていたのだろうなと思う。連れ立っての覗き見には参加しないと思うけど、多分。

「それにしてもお前がここまで楠木と接近するとは思わなかったな。そんなに好きか?」

「す、好きって!? ……そのぉ」

 いきなり確証を求める伍郎の言葉に、真二は動揺を隠せない。確かに彼女雫名に対して好意を持っているのは事実だが、それが好きとか嫌いとかどういう気持ちなのかは、大人になりきれていない真二には判らない。しかし「大切な人=好きな人」とは単純にならない真二は、晩熟おくてというよりもお互いが依存し合わなければ生活が成立しない土地から出てきた要素の方が大きいのだろう。

「まぁいきなりデートもびっくりしたが、他のみんなにもアイツが意外に好かれていたってのもびっくりだけどな」

 中学時代での楠木雫那の同級生からの扱われ方を知っている伍郎は、このクラスでの意外な受け入れられ方に正直驚いていた。高校生へと進学した少年少女達は、あのような恐怖を与える存在も「一つの個性」として認められるくらい、大人となっていたのだろう。この東京という情報過多都市で成長してきた若者は、雫那程度の変人具合ではもはや驚かなくなっているのかも知れない。また雫那という存在と遭遇してから全員がひと月半を経て「慣れた」というのもあるに違いない。異常な状態であっても、それが常に続いてしまえば「普通」になってしまうものだ。小学生、中学生のうちは、まだ接触者が感受性の高過ぎる子供である為に「普通」にはなりきれないのだ。しかし、クラスメイトを変えさせた一番大きな要素は、雫那の周りに張られていた胡乱の恐怖という名の障壁をぶち壊した、武藤真二という存在そのものだろう。

「さて、俺らも帰ろうぜ」

 伍郎が、疲れたように座り込んでいる(実際に疲れてしまっているのであるが)真二の腕をぐいっと掴んで立ち上がらせた。彼は雫那を徐々にクラスに溶け込ませている力の源泉なのだが、それに比してどんどん変な苦労が積み重なっているようである。

「道すがらこんな短期間でデートまでこぎつけた、お前の手腕を話してもらおうか?」

「そ、そんな、みんなに話した通りだよっ」

 そして腕を掴まれたまま連行されるように、真二も伍郎に連れられて帰途についた。

「……」

 そんな二人、いや正確に言えば今回の大騒ぎを引き起こす結果となった当事者の一人を、掃除に勤しむ一人の生徒が先程から見つめていた。自分の身長とほぼ同じくらいの箒で一生懸命床を掃きながら、友人に連れられて廊下に消えて行くまで彼の姿をじっと見ていた。

「……」

 危うく真二と雫那のデートがぶち壊しになるのを、直前で諌めた彼女。

 その小柄な少女の瞳は、楠木雫那と同じ「あの色の瞳」をしていた。


 ――◇ ◇ ◇――


「えーと、あと五分か」

 駅改札の天井から吊り下げられた四面型の時計は、全ての面の針が九時五十五分の位置となっていた。真二はいつも通学に使っているこの駅に、九時二〇分くらいに着いた。一応胡原円によって「二人のデートをクラス全員で盗み見る」というとんでもないイベント発生は回避されたのだが、それでも実際に現地に着いてみないと安心できなかった。集合予定時刻より四〇分も早めに着いた真二は、人が隠れられそうな場所を丹念に調べて回った。駅前のベンチや喫茶店、コンビニエンスストアは元より、木の陰や茂みや電信柱の裏などありとあらゆる場所を、見知った顔がいないかと歩き回ったのだが、クラスメイトの顔を発見することは遂になかった。

(胡原さんの一言ってそんなに強力だったんだ……)

 クラス一番のアイドルの人徳は凄いものなんだなぁと、関心と安心をしつつ、駅前に戻ったのが九時五〇分。彼女の性格だと外での集合では一〇分くらい前に到着するのかと想像したが、その予想は外れ、それから更に五分経過したという状況である。

 あと数分で一〇時という今現在、真二の緊張は最高潮に達していた。雫那がどんな思惑で本日の予定を立てたのか判らないが、真二は思いがけず人生初デートとなってしまった。雫那とは既にそれ以上のことをしてしまっているような気もするが、男女間においては初期段階における最大とも言えるイベントを前にして、緊張しないわけにもいかない。

(そう言えば、私服でこの街に来るのは初めてだなぁ)

 いつもだったら学生服に包まれた自分が、通学の為に利用する駅。そんな場所にいつもとは違う服を着ていると感じると、更に緊張が増長されてくるような気がする。ちなみに今日の真二の格好は、長袖のワイシャツに首都艦に出てきてから穿いているジーンズという、極々普通の私服である。デート未経験の真二には、一体どんな格好で現れれば良いのかまったく判らなかったが、あの楠木雫那と行動を共にするのだから、何れにしろ動きやすい格好が良いのだろうと、なんのあたりさわりも無い普段着にしたのだった。それに今日の本題は、宝箱設置委員会としての活動なのだ。しかも真二にとっては初仕事。一応雫那を迷宮内から助け出したのもカウントされているらしいが、改めて仕事に望むのは本日初めてだ。ならば其方のほうが緊張の度合いが大きいような気もするが、ああもはっきりと「デート」と言われてしまったらそうもいかなくなってしまうのが、健全なる一般的高校生としての証である。

(もうすぐ一〇時だね)

 そんなそわそわを紛らわす為に再び時計を見ると、あと数一〇秒で一〇時という状態になっていた。でもまだ雫那の姿は見えない。

(あれ、楠木さん少し遅れるのかなぁ……はっ、まさか!?)

 実は自分は雫那に担がれたのではないだろうか? このデートという企画も実は嘘で……しかし、雫那は嘘をつくのだろうか? ……いや、行動上必要な嘘だったら彼女はつくはずだ……え? じゃあ今日のデートも実は嘘!?

 真二がなにやら崩れた思考をしだす。張り詰めた気持ちが限界点に近付こうかという状態であるのだ。無理も無い。そして彼がぐちゃぐちゃになった頭を抱えようとしたその時、四面の時計の針が一斉に一〇時になり、それと同時に後ろから声をかけられた。

「おはよう」

「ほぎゃーっっっ!?」

 突然耳殻じかくを通り抜けた女性の声が、真二の緊張を最高点に引き上げた。それと同時に意味不明な絶叫がこだまする。何事か? と数人の通行人が奇異の視線を送る。臨界を突破し、体育で持久走を走り終えた以上に激しく鼓動し始めた心臓を抱えながら真二が振り向くと、自分より少し上の位置にいつもの切れ長の瞳があった。

「ほぎゃー? 幼児退行させるほどに驚かせてしまったか?」

 左肩に大きめのトートバッグ、右手にはパンパンに膨らんだ紙袋を持った雫那が、少しキョトンとした顔で真二を見下ろしていた。なんとかどきどきする胸を押さえようとする中、そう言えばこうして雫那と向かい合って立っているという状態は始めてだなぁと、真二は思った。その気持ちが彼を妙に冷静にさせ緊張感を和らげる。彼女の身長は公称では一六八センチ。女性としては大きい方の部類に入る。高校生になれば体測定の値は非公開になるものだが、何故こんな正確な値が判っているのかというと「中三の時に測った時からアイツの背は見た目には変わってない」という、古くからの彼女の同級生である伍郎の観察眼から得られた情報だ。だからまだ成長途中とは言え一五九センチの真二では、女性の方から見下ろされる格好となってしまう。男としては少し悔しい。

 しかしそんな悔しさ等吹き飛ばす要素が彼女にはあった。本日の楠木雫那、私服である。

「早めに来て待機していたのならすまない。私はあまり時間を無駄に消費したくないので、集合時刻が定められている場合、時間ちょうどに到着するように心掛けている……というか、なんだジロジロと。わたしの顔に何かついているか?」

 そう言いながら糸くずでも付いているのかと右手で頬を拭う仕草をする雫那。

「い、いや!? なんでもないよ!?」

「じゃあなんだ、私服姿が意外に可愛いとか思っているのか?」

「!? ……読心術とかできるの?」

 自分の胸の内を思いっきり見透かされて、戸惑う真二。

「制服姿の相手としか会ったことのない男子が見せる行動の統計に従ったまでだ」

 さすが楠木雫那、己の最優先事項であろう「目立たない行動を実現させる」という目標のためには、情報取得の努力を惜しまない女である。

「私も一般的少女として無理なく行動できるように色々と準備はしている。この私服もそうだ。若年女性の統計に合わせて服を選んで揃えてある。ただ、複数必要な機会があまりないので、春と初夏用はこれ一着しかないが」

 しかし彼女の場合、今の時代中学生や高校生が制服のまま休日などに歩いているのは珍しくも何ともないので、制服で構わない場合は制服のまま通常は行動する。学生にとっては制服が礼服でもあったりするので、着っぱなしの方が何かと都合が良い。

 しかしデートと宣言した手前、休日にわざわざ制服のまま自宅を出るのも不自然と、私服を着てきたのだった。制服のスカートとはまた違うデザインと素材のプリーツスカートに、春らしい色合いの長袖のシャツ、そして足には膝上丈のニーハイソックスという格好。

「……」

 そして真二の目線はつい下の方に行ってしまっていた。

 このニーハイという穿き物も、真二は首都艦に出てきて始めて見た。だが、今まで何度か目撃したこれを穿いている娘たちは太い太腿に肉がめり込むようないでたちの娘ばかりで、あまり良い印象が無かった。しかし、筋肉と脂肪がほど良く混ざり合っている雫那の長い脚には凄まじいまでに良く似合っており、スカートの裾とソックスの間に露出する張りの良い生の太腿部分に、つい見惚れてしまうのであった。

「ん? どうした今度は、私の足元ばかり見て? なにか変か?」

「い、いや、その、あの」

「どうした、ハッキリしないで? 私たちはもう仲間なのだから、しっかりとした意思疎通をしてくれないと困るぞ?」

「え、えーとその……」

 雫那にそこまで言われてはもうウヤムヤには出来ず、ぽりぽりと頬を掻きながら真二が恥ずかしそうに答えた。

「え、えと……楠木さんのそのニーハイすっごい似合ってるから……見惚れてました」

 真二が顔を真っ赤に染めながら、雫那の足を見ていた理由を伝える。そして相手を誉めるという事はこんなにも恥ずかしいものなのだと、真二は実感した。『一般的な男は女のことを誉めない』と良く揶揄されるが、口に出して軽く称誉しょうよするだけでこんなにも自分が照れてしまうのだから、それは致し方ないことなのだと思う。

「そうか、似合っているのか」

 しかしそれに対して、雫那は不思議な受け答えをした。改めて確認するような口調。

「お前は背が高くて足が長いのだからコレを穿けと進められたのだが、そうか、ちゃんと似合っているのか」

 独り言のような雫那の台詞。その口調から予測すると、ニーハイ自体は本人が決めたものではないらしい。彼女に勧めたのは一体どんな人物なのだろう? 一昨日少し口にしていた「あいつ」という人物がその人なのだろうか?

 と、真二が不思議に思っていると、雫那が今日の予定を説明しだした。

「まず再び電車で移動し、作業予定地に移動する。そして準備の後、組み立て作業に入る。完成後今日の作業は終了。本日の一連の行動は以上だ。何か質問は?」

 驚くほど簡潔に本日の予定を淡々と説明する雫那。一切の無駄の無さが非常に彼女らしい。しかもこれはデートという甘い時間ストロべリィタイムを楽しむものではなく、本当に宝箱設置委員会としての活動だけであるらしい。では何故雫那はデートなどと言い出したのだろうか?

「い、いえ、特にないです……あ、紙袋の方、僕が持つよ」

 真二はその事実にほんの少しガッカリしてしまったのだが、直ぐに気持ちを入れ替えると、両手に大荷物を抱えている雫那から、重いと思われる方を引き取った。そしてそれは本当に重かった。

「重!? なに入ってるのコレ!?」

「宝箱の材料だ」

「宝箱の材料?」

「本日の予定は迷宮内に設置するための宝箱の製作。宝箱設置委員会にとって基本中の基本作業だ」

「宝箱って、一から作るものなんだ……」

 考えてみれば自分たちは迷宮仕事人の中でも「宝箱設置委員会」という職種なのである。設置する為の中身の他に、設置する入れ物そのものも作らなければならないのは当たり前ではないか。真二は改めて己の選んだ職業の意味に、感慨を受けた。

「で、どこに移動して作るの?」

「……それなんだが」

 何でもてきぱきと対応する雫那の言葉が、妙に歯切れ悪い。なんだか嫌な予感が真二にはした。そしてそれが見事に当るのが世の常というもの。


「お、武藤じゃないか。お帰り、どこに行っていた?」

 首都艦での自宅である錫白高校男子寮に入ろうとしていた真二は、ちょうどそこから出てきた男に呼び止められた。その男が、学校で見知った教師の一人であると直ぐに確認した真二は、定型通りの挨拶をこなす。

「あ、先生おはようございます、ちょっと遠くまで買い物に行ってきました」

「買い物? ずいぶんと大荷物だな?」

 真二の格好を見て訝る男性教師。右肩には大きめのトートバッグ、左手にはそれと同じくらいの大きさの紙袋。これだけの荷物なのだから日々の生活を指導する教育者でなくとも怪しがるだろう。

「自分で本棚を作ろうと思いまして、材料を買ってきました。バッグの方はさっき友達の家に行って借りてきた大工道具です」

 真二が淡々と説明する。

「なるほど、本棚も買うと高いからな。それを自分で作ろうとするなんて感心感心」

「はい、せっかく学費節約のためにこの寮に入ったのですから削れるところは削らないと」

「うむ、まったく感心だ。他の生徒にも見習わせたいくらいだ。でも武藤、あんまり大きい音を夜中まで出すんじゃないぞ? 近所迷惑だからな」

「はい! 判りました!」

 真二は最期に非常に模範的な良い子の返事を残すと、二階に上った。自室に入り鍵を閉め荷物を下ろし、そして窓を開ける。その直後、ふわっと舞い込む旋風が一つ。真二が振り向くと音も無く侵入してきたた雫那が、入口に使った窓を再び閉めているところだった。

「や、やっぱりいたね、今日の管理人の先生」

 雫那の姿を見て緊張の糸が切れたように、へなへなと畳の上に座り込む真二。

「ああ、キミの予想にしたがって行動したおかげで、問題無く侵入できた。礼を言う」

 部屋のドアの所に靴を置くと雫那も同じように床に座り、真二が持ち込みに成功した宝箱製作の材料を開封し始めた。


 話は一時間ほど前に戻る。

「――キミの寮の部屋を借りたいのだが、良いか?」

「……はい!? ていうか、あそこ一応男子寮だよ!?」

 一瞬雫那が何を言っているのか理解できなかったが、改めて彼女が言わんとしていることが判ると、真二は思わず声を上げた。先日は女である雫那を自室に上げたが、それは緊急事態だからであって、いつもそんなことがまかり通る訳ではない。見つかったら停学処分は必至だろう。いきなり退学を言い渡される可能性も無視できない。

「わかっている。それを了解の上であえて頼んでいる」

 しかし雫那が説明するには、今日作った宝箱を設置するのも、錫白高校男子寮の地下にある神の左手の迷宮なのだという。そして設置自体は今日では無く週始めの月曜日の予定であり、それまでの補完場所としても、迷宮へと近いこの場所を利用したいのだという。

「無理ならば場所を変える。新宿まで向かい、そこにある大型の公園で作ろうかと思っている。他人に直接的迷惑をかけなければ何をやっても許されるのが東京という街だ。それにこの公園にはパフォーマーも多いので、我々の作業もパフォーマンスの一つとして擬装できるだろう」

 雫那も無理強いはしたくないらしく、代替案も既に考慮済みであった。

「……」

 そして真二も少し考えた後、決断を下した。

「わかったよ楠木さん、うちで作ろうよ」

「良いのか?」

「というか結局楠木さんが見つからなければ良いんだし。楠木さん、管理の先生に見つかるなんてこと、しないよね」

「ああ、まかせてくれ。迷宮下層の怪物モンスターから気配を消して逃げるのに比べれば、人間相手の隠密行動など容易いことだ」

 結局は、男子寮に雫那がいるのが見つかって学校に通報されるという失態も彼女の行動次第であり、彼女自身は教師達による発見を不可能としてしまう程のポテンシャルを持っているのは事実だ。後は男子寮に女子を平気で入れてしまうという背徳的行為を、真二がどれだけ我慢できるか? である。

「でも入る時は別々に入ったほうが良いと思うから、その時は僕の指示にしたがってね?」

「ああ、よろしく頼む。あのアパートに関しては私よりもキミのほうが詳しいからな」

 そしてまず、真二は管理人役の教師がいる可能性を考慮し、全ての荷物を持ってまず自分が帰宅し、その後窓を開いて、そこから雫那を招き入れるという作戦を考えた。二階程度の窓なら音と気配を消失させて侵入するのは簡単だという雫那の言葉を信じて、真二は今回の「楠木雫那侵入計画」を立てたのだった。そして予想は見事に的中、本日は管理の教師が存在した。しかし侵入計画自体は滞りなく成功。そこでようやく二人は、真二の自室で落ち着いた。

 というわけで真二は、デートと意気込んで一端出発した地元の駅に、一時間後には再び戻ることになってしまっていた。そんなことになるのなら始めから待ち合わせ場所を地元駅前にしておけば良いのではなかったのかと思ったりしたが、多分それは真二に自宅の開放を強制したくないという雫那なりの礼儀なのだろう。

「それにしても楠木さん、なんで昨日いきなりデートとか言い出し……たの?」

 電車での移動中、真二は雫那に尋ねていた。

 そう、結局昨日の時点で雫那が「明日はデートだ」などと口にしなければ、自分がデートだと意気込んで変にドキドキすることも、クラス中があんな騒動になることもなかったのではないかと。

 真二は雫那が帰宅した後にその言葉が元で大騒ぎになり、危ういところを胡原円が諌めてくれたことを伝えた。

「そうか、それは大変な事態になってしまったのだな、すまない、謝罪する」

 ぺこりと頭を下げる雫那。

「良いってばっ……それに謝るんなら僕じゃなくて胡原さんにしなくちゃ」

「そうだな」

 楠木雫那と胡原円。まったく接点の見出せない二人だが、雫那の性格からすると週明けに登校した時に「先週は助かった、礼を言う」と、いきなり言うのだろうなと、真二は想像する。

「デートという言葉に関しては、男と女が休日に共に行動するのはデートという言葉で表現されると教えられたのでそれに従ったまでなのだが、違うのか?」

 そんな雫那が随分彼女らしからぬ間抜けな解答する。真二は思わず拍子抜けしてしまい「……はぁ?」と答えるのが限界だった。

 土曜日や日曜日などの休日に、見知った男女が連れ立って行動する。その事実を全て「デート」と括ってしまう。確かに親族でも、例えば姉が弟を買い物等の荷物持ちに連れ出して「今日はデートよ♪」とか、冗談めかして言ったりする場合もあるが、雫那が冗談を言っているようには全然見えない。いや、本気だろう。

 そして真二はなんとなくその言葉で、雫那の性格が判ったような気がしていた。彼女は一般常識が通用しない場所で長い時間を過ごしてきた為、逆に一般常識自体が大きく欠けているのではないのかと。今から思い返してみれば真二の前で平気で着替えようとしていたりとか、その片鱗は見えていたのだが、どうもそれは確実のような気がしてきていた。宝箱設置委員会の運営以外には驚くほどに無頓着。楠木雫那という少女は、そういう女の子なのだろう、多分。

 そして一つ、改めて疑問に思うことがある。

「ねぇ楠木さん、楠木さんにニーハイを勧めたり、デートの意味を教えたり、そんなことをしているのは一体誰なの?」

 そう、彼女にこれらの情報を与えているのは一体誰なのだろう? 彼女自身の口から迷宮仕事人には横のつながりは殆ど無く、しかも数自体も減っているので、自分以外に仲間がいるかは判らないと告げられている。だから仕事仲間という可能性は少ないように思う。

 中学校などの同級生? しかしそれも伍郎の口から雫那は何時も一人だったと教えられた。そして今の錫白高校でもそれは変わらない。実はお近づきになりたい人間は結構いたという事実は発覚したが。

 ならば家族? そう言えば雫那の口からは家族のことは何も話してもらっていない。彼女の家族構成はどうなっているのだろう? 一昨日の時点で彼女は確かに「あいつ」という言葉を口にしている。だから確実に彼女の近くに誰かがいるのは確かだ。

 しかし雫那は限りなく一人だ。一人でいなければならない理由は彼女が他の人には言えない仕事に就いているからだ。だからダンジョンの存在を知らない一般の知り合いがいるのだろうか? と真二が思っていると、雫那の方から答えが告げられた。

「幼馴染だ」

「おさなななじみ?」

 それは意外な答え。だから思わず真二も同じ言葉を繰り返してしまう。

「楠木さんって幼馴染いるんだ……」

 やはり地下迷宮のことを知らない普通の人という予想は、合っているのだろうか?

「まぁ通常の偶然が引き起こした幼馴染ではなく、必然としてなるべくしてなった幼馴染と言ったところだがな」

 必然でなった幼馴染? それは親同士が決めた許婚いいなずけみたいなものか?

(え? ということは楠木さんにはフィアンセというか、彼氏がいたりするのか?)

 なんだかとんでもない事実が解明されかけているような気がする。そしてそんな者がいるのに自分なんかとデート(結果的には違うが)していて良いのだろうかと、自分のことは放っておいて、真二は心配になってしまう。

「じゃあ、その人も……迷宮仕事人ダンジョンワーカーズなの?」

 それは当然の疑問。その人物も迷宮仕事人ならば雫那は一人でいる必要は無い。そして親同士が決めたのであれば、その子も迷宮仕事人である可能性も高い……いや、この職業の場合、両方の親とも迷宮仕事人でなければ婚約者として成立しないのではないか?

「いや、仕事人ではない。だが近しい者ではある」

 しかし雫那の口からは「違う」と告げられる。迷宮仕事人では無いけれど、迷宮仕事人には近い者。一体どんな立場の人なのだろう? 雫那と地下迷宮ダンジョン迷宮仕事人ダンジョンワーカーズには、まだまだ自分には吸収しきれない謎が大量にあるのだなと、真二は改めて思う。

「そう言えば幼馴染のその人とは遊んだりするの?」

「……そういう経験はあまりないな。お互い普段過ごしている時間軸があまりにも違い過ぎて、最近までは顔を会わせる機会もほとんどなかった」

「ふーん、そうなんだ……」

「今は意外に近いところにいるぞ。機会があれば紹介しよう」

「う、うん……お願いします」

 将来雫那を嫁にもらう相手に紹介されても困るなぁと思いつつも、とりあえず了承の返事をしてしまう真二であった。


 そして真二は再び自宅である男子寮に帰って来たのだ。女子同伴で。

「このアパートはどの程度声が響く?」

 ビニール袋を引き裂き、中身を取り出しながら、この建物の構造特性を雫那が尋ねた。

「二階の喋り声が一階に聞こえることは無いみたい。だから先生にはバレないと思う」

 ひと月半ほどここで暮らした真二が、それで得た経験を元に雫那に説明する。

「そうか、なら会話をしながらの作業は可能だな。説明を要する場合もあるし」

「うん、あんまり大声にならなければ大丈夫だよ」

 雫那はトートバッグを開くと中身を取り出し始めた。教師に中を訊かれた場合、ある程度何が入っているか把握していないといけないので『大工道具』という説明は聞いていたが、取り出されたものを改めて見ると本当にそんなものばかり入っていた。金槌、木槌、ノコギリ、小刀の類はもちろん、ハケや溶剤の入った小瓶の類、大量の釘、作業用ブルーシート、そして更には電動ドライバーなんて電気工具の類まで揃っている。

 雫那はブルーシートを部屋の一角に広げると、其処を作業場所に定めた。てきぱきと道具と材料をその上に並べ、さっそく作業を始める。まずは薄木に鉛筆で辺りを書いて切断作業の準備に入ろうとしている。

「なにか手伝う?」

「いや、今日のところは良い」

 長い木板に何本か線を入れたものを大量にこしらえながら、雫那が真二の申し出を断る。

「素人に手を出されても作業が遅れるだけだ。今日は見ているだけにしてくれ」

「そ……そう……」

 いきなりの冷徹な言葉。真二もある程度覚悟していたとは言え、こうストレートに言われると萎縮してしまう。

「対象となる者の動きを良く観察するのは見取り稽古という。ただ見るだけでも気持ちの持ちようによって充分な訓練となる。だから本日のキミの仕事は私の作業を見ることだ」

「う、うん」

 雫那はトートバッグから細身の小刀を取り出した。黒く塗られた簡素な握りと鞘に包まれたそれは、時代劇に登場する侍が予備武装サブウエポンとして装備する脇差のような印象。雫那は躊躇なく鞘を抜き放つと、中から白銀に輝く刃が現れた。見ただけで相手を切り伏せそうな、そんな鋭利さを持っている。雫那は右手に小刀それを持つと、左手には線を引いた薄木を持った。真二は最初その小刀を使って鉛筆で書いたところをケガき、ノコギリで切り易くするのだろうと思った。しかし雫那は、小刀を軽く振りかぶると、無造作に振り下ろした。スパンっという小気味好い音の後にボトリという擬音が続き、薄木の上端部分が綺麗さっぱり切り落とされていた。

「……って、え、えぇぇぇぇぇっ!? ノコギリで切るんじゃないのぉ!?」

「あんまり大声を出すと、管理の教師に見つかるぞ?」

 思わず声を上げてしまった真二に対し、至極冷静な雫那の言葉。真二は両手で口を押さえて一旦気持ちを落ち着けると、声を普通の大きさに戻して訊いた。

「な、なにそれ??」

「なにそれ? って、木の板をサイズに合わせて切っているだけだが?」

「ていうか、普通はノコギリで切るもんじゃないの!?」

「まぁ、前はちゃんとノコギリで切っていたのだがな」

 真二に説明しつつ、スパン、スパンと、どんどん木を叩き切っていく雫那。

「何度も切るのもめんどくさくなって試しにこれで切ってみたら思いのほか上手く切れた。だからそれ以来こうやって切っている。ノコギリのように大鋸屑おがくずも出ないし便利だぞ?」

 そんなことできるの楠木さんだけだよと、真二が心の中でツッコミを入れている内に、雫那は全ての薄木の切断作業を済ませてしまっていた。次にはトンカントンカンと、金槌が振るわれる音が聞こえ出す。先程切り出した木片を組み合わせて、まず下の箱の部分を作っている。そしてある程度組みあげると、今度は補強である周りの金属板をつけ始めた。等間隔にダイヤモンド刃のドリルをつけた電動ドライバーで穴を開け、それから釘頭が丸く膨らんだ特殊な釘を打ち込んで固定する。

 ぐぐぐー

「?」

 順調に進んでいた作業を一つの音が遮った。発信源を見ると、作業を止めた雫那が、腹の辺りを押さえて自分のお腹を見ている。普通の女の子だったら赤面ものの生理音を聞かれても顔色一つ変えないのは、いかにも彼女らしいがお腹が空いてきたのは確かだ。時計を確認すると一時を大きく過ぎていた。作業に没頭していて時間の経過に気付かなかった。

「そろそろ昼食にするか?」

 雫那が持っていた金槌を置きながら、遅めの昼休憩を宣言する。

「お昼ご飯どうしよっか?」

 真二がそう尋ねると、雫那はトートバッグの中に再び手を突っ込んでいるところだった。そしてなにやら金属質の塊をごろごろと何個も取り出す。

「自分の分は持ってきた。キミの分は自分でなんとかしてくれ」

「か、缶詰!?」

 更には軍隊で使っているようなレーションの類まで出てくる。


「最近は便利な時代になったものだ。二十四時間営業の万屋コンビニエンスストアが出来て以来、どんな時間でも簡単に食べ物が手に入るようになった。そこではこの缶詰のような長期保存の利く食品も手に入る。それに最近は携帯食品として有効な軍用レーションを扱う店も増えているしな。迷宮なんて場所で活動する私たちには本当に便利な時代になったものだ」

「……楠木さんって、もしかしていっつもそんなご飯なの?」

 食糧、という言葉が良く似合う食べ物たちを前にして真二が訊く。

「そうだな、学校の給食以外だと、ずっとこんな感じだな。高校に入ってからは給食それもなくなったから、一日ずっとこれだ」

 雫那は学業に務めている以外の殆どの時間を、迷宮仕事人ダンジョンワーカーズとしての作業に費やしているのだろう。時間短縮を最優先で考え、金銭的解決で済んでしまうものは購入によって済ませてしまっているものも多いはず。そしてそれが一番色濃く反映されているのが「食事」に違いない。

「ん? なんだ心配しているのか? 最近の弁当のカロリー表示も行われているから熱量計算もしやすいので必要以上の栄養を摂らないで済む。外食で得難い野菜成分は野菜ジュースの摂取によって簡単に補給できる。それでも足らない栄養素は栄養補助食品サプリメントで補える」

 自分が取り出した食糧を目撃した真二の顔色の変化に気づいた雫那が、気にするなと諭す。確かに雫那の説明する食事法であれば、外食だけでも体の調子を壊すことなく彼女のような高い行動力を備えた体を維持することも可能ではある。しかし……それでも何かが足らない。

「……うん」

 真二が何かを決心するように立ち上がった。そして今まさに缶詰の一つを開けようとしていた雫那の手を掴む。食事を邪魔された雫那が、少し訝りつつ真二を見上げた。

「僕も、もう宝箱設置委員会の一員です」

 改めて自分の存在を認めてもらえるように、強く口に出す真二。

「うん、そうだが?」

「だから僕もその一人として、委員会を効率良く運営するための仕事を今からします」

 何時に無く真剣な口調で訴える真二。

「そのためにはある程度の時間が必要です。だから僕に時間を下さい。楠木さん、あと一時間くらいご飯食べるの我慢できますか?」

 一体真二はなぜそんなことを聞いてくるのだろう?

「大丈夫だが?」

 しかし、迷宮内での作業の関係上一日二日まともに食べないことなどザラにある雫那は、なんのためらいもなく即答した。

「じゃあ、あと一時間待ってください。その間に、僕は、僕にもできる宝箱設置委員会としての仕事を全力でやりますから」

「――うん、判った」

 理由も聞かず雫那は素直に応じた。自分の仲間となった者が自分の意志を込めて口にした言葉だ。従わなければ礼儀に反する。だから雫那は真二の言葉に従い、一旦出した缶詰やレーション類を再びトートバッグに詰め直すと、宝箱製作を再開した。文句も言わず自分の言葉に従ってくれた雫那に真二は心から感謝すると、ドアを開けて廊下を抜けて外へ飛び出していった。


 そしてきっちり一時間後。折畳式のテーブルの上には、質素ながらも、手をかけて作られた料理が幾つも並んでいた。

「……ずいぶんとご馳走が並んでいるな」

「そ、そんな、ご馳走だなんて」

 茶碗にご飯を盛りながら、真二が照れたように答える。

「人の手の温もりが染み込んだ料理は、全てがご馳走だ」

「……う~ん、そうかもね」

 炊きたてのほかほかご飯が載ったところで、全ての食事が揃った。合挽肉とタマネギだけで作った簡素なハンバーグに、細やかに切られた千切りキャベツと大振りのトマトが載ったメインディッシュ。その手前に並んだ味噌汁とご飯。茶碗や箸なども今まで自分用の一組しかなかったが先ほど食材を買いに行ったついでに百円ショップに寄って一通り買ってきて雫那の分も揃えた。

「じゃあ、いただきまーす」

「いただきます」

 真二の食事前の挨拶に続いて雫那もいただきますを言って、ようやく遅めの食事が始まった。

「……」

 黙々と食べる雫那。表情一つ変えずに淡々と咀嚼を行う雫那を見て真二が「美味しいのかな? 不味いのかな?」と内心はらはらしながら、自分も食べている。雫那がハンバーグを半分ほど食べ、味噌汁とご飯も三分の二以上減らしたところで、ぼそりと呟いた。

「……おいしい」

 その、なんの飾り気も無い無骨な、それだけに心の底から出た誉め言葉に、真二はぼんっと顔が赤くなった。

「ありがと……そんなにおいしい?」

「ああ、こんなにおいしい食事は久しぶり……いや、生まれて初めて食べたかも知れない」

「そ、そんな……あの、その、ハンバーグもご飯もお味噌汁もまだまだあるから、遠慮しないでおかわりして良いよ?」

 真二がそう照れ隠しに言った時には、既に雫那の皿の上は全て空になっていた。

「すっごい、食欲だね」

 雫那の皿を一旦回収し、別の皿に移しておいたハンバーグと予め切り置いていたキャベツとトマトを載せながら、真二が感心したように言う。

「ああ、夢中で食べていたら何時の間にか無くなっていた」

 自分の分を食べ終えてしまったのに今頃気づいたかのような雫那の台詞。そして再び雫那の前に料理の皿とご飯と味噌汁が置かれた。

「しかしキミは料理が上手いんだな」

 二杯目の味噌汁をずずずと啜りながら雫那が言う。

「う~ん、上手いというよりも練習の成果って言ったほうが良いのかな?」

 真二も同じように味噌汁をずずずと啜りながら答える。

「僕が東京で一人暮らしを始めるって決まった時から、色々と仕込まれたんだ。食は生活の基本だから美味しくて体に良いものを自分で作れるようにって」

 真二が雫那の食生活を奇妙に感じ、自ら作った料理を雫那に食べさせようと行動したのは、この母親の教えも大きいのだろう。

「僕はちょっぴり弁当生活に憧れてたんだけどね。でも自炊って安くて量が作れるから、殆ど毎日作ってる。だからこれはその成果」

 量をこなせば技術は向上する。その結果が目の前に並んだ食事の味に反映されている。

「この味噌汁の作り方もか?」

 ごくんと二杯目の味噌汁を飲み干しながら、雫那が訊く。具にワカメと油揚げを入れたこの味噌汁、その出し汁はどこにでも売っている粉末の出し汁である。

「うん、味噌汁の出し汁って結局下地作りがメインだから、ダシが取れればなんでも良いんだって。後から味噌っていう味の濃いものを入れちゃうから、一般家庭で作るレベルではそんなにこだわってもしょうがないみたい。そんなことに時間をかけるなら、その分時間を削って早くできた方が良いでしょ?」

 三度みたび味噌汁を雫那によそってやる真二。

「先日作ってくれた粥も非常に美味しかった。こんなに美味しいものがぽんぽんと目の前に出されるのを見ていると、まるで魔法のようだ」

 目の前に並ぶ暖かい食事をばくばくと平らげながら、雫那が改めて呟く。

「ははは、こんなんで魔法って言えるだったら、料理人のヒトはみんな魔法使いだね~」

 それでも誉められて悪い気がしないのか嬉しそうに微笑んでいる真二。なにやら誉めている人間と誉められている人間の性別が逆のような気もしないではないが。

「キミは良いお嫁さんになれるな」

「それって僕のもらい手は、男なんですか? 女なんですか?」

「さぁ、それはキミ次第だが?」

 冗談なのか本気なのか良く判らない雫那の言葉を適当に返しつつ真二が気づいたように言う。

「そう言えば楠木さんって、学校でのお昼はどうしてるの?」

 気付いてみると、真二は雫那が学校で昼食を食べている姿を見たことがない。昼の休憩時間のチャイムが鳴り、真二が鞄から弁当箱を出すと、何時の間にか雫那の姿は消えているのであった。そして午後の授業開始のチャイムが鳴ると、何時の間にか隣の席に戻っている。それが普段の学校での昼食時に見せる雫那の行動である。

「体育準備室で食事を済ませた後、そこで授業開始直前まで仮眠を取っている」

 真二の疑問に対する雫那の答え。その解答に、いかにも彼女らしい昼の時間の過ごし方だと真二は思った。そしてその時も携帯に適した缶詰やレーションの類を食べているのだろうと予想できる。味気ないだろう昼食。

「あの、楠木さんが良かったら、来週から僕が楠木さんのお弁当も作っていこうか?」

 そんな彼女の食生活を憂いて、真二が一つの提案を出した。

「は? どういうことだ?」

「いや、だから、楠木さんのお昼ご飯も僕が作ろうかと言ってるんですけど?」

「それは面倒くさいだろう?」

「ううん、毎日自分のお弁当は作って行ってるから、一つ作るのも二つ作るのも対して変わらないんだよ」

 これがもし夕陽に包まれた二人っきりの教室内で交わされた会話で、性別が逆だったなら、女子が好きな男子に対しての最高の口説き文句となったのだろうが、この二人では業務連絡のようにしか見えない。いや、実際に二人ともそんなノリなのだろうが。

「じゃあお願いしたい。こんなに美味い食事が食べられるなら私には拒否する理由がない」

「うん、僕もこういう形で楠木さんの役に……宝箱設置委員会の役に立てるなら嬉しいよ」

 体調を整えるのも大事な仕事。彼も彼なりに迷宮仕事人ダンジョンワーカーズとしての仕事をこなそうとしているのだ。そして真二の気持ちが何となく判った雫那が考え込むように、箸の動きを止めた。真二が「どうしたの?」と訊こう思った直前に雫那が口を開いた。

「私は高校には進学する予定は、最初はなかった」

 突然自分のことについて語りだす雫那。相手から質問される形ではなく、自ら話し始めた雫那に対して、真二が戸惑いの表情を見せる。

「そう思っていた時、この神の左手の迷宮がある庭のアパートが、とある高校の所有する寮施設だと知った。ならばそこへ入寮すればこの神の左手の迷宮ダンジョンでの作業も楽になるかと思い、この錫白高校へと入学したんだが、まさか女子の入れない男子寮とは思わなかった」

 それを聞いて、ああ、やっぱり楠木さんはそういう所は思いっきり抜けてるんだなぁと、改めて雫那の性格を確認する真二。

「だから今後の事を考えて近々退学届を提出する予定だった」

「……えぇ!?」

 雫那のボケっぷりを可愛いと思ってた直後にいきなり叩き付けられるとんでもない事実。

「楠木さん……辞めちゃうの!?」

「あまり大きな声を上げると、階下の教師に見つかるぞ」

 真二が再び口を押さえる。いくら雫那が退学を希望しているとはいえ、自分の所為でそんな事態になってしまったら目も当てられない。

「私が風邪をひいて遅れて登校した日があったな?」

 夜更けから降り続いた雨が止み、久しぶりに空が晴れ渡ったあの日。真二にとっては全てが始まった、あの日。

「あの日は魔法薬の精製をしていたのだが、最後の熟成時に少し待ち時間ができたので、その時間に退学届をしたためた」

 雫那が当日の事を思い出すように言う。

「雨に打たれながら一晩作業に費やした私は、かなり体力を消耗した。そして体調も崩れた。こんな状態でわざわざ学業を続行させる意味はないと判断し、あの日は退学届を提出したらそのまま帰るつもりだったのだが」

 人生の重大事をまるで他人事のように淡々と説明する雫那。

「職員室に行く前に私物を持ち帰ろうと教室に寄った時、私の考えはそこで改められた」

 全てが始まった、あの瞬間。

「キミと会話して、元気が出たからだ」

 それは雫那の中でも、何かが始まったときでもあったのだ。

「キミと会話して体力を回復できた私は、せっかく取り戻した体力を退学に関する煩雑な手続きに消費するよりも、迷宮内での作業に使用する方を選んだ。この数日の間に何れは全てを清算しなければならないから、最終的には退学届けを出さなければならない筈だったが、その時の私は地下迷宮へと向かう方を選んだのだ。結果的にはその後昏倒してしまったが、キミに出逢うことができた。そしてキミという仲間を得ることができた。だから今は錫白高校へ通うほうが、利点が多くなった。ここへ入学しようと判断した過去の自分にも今は感謝している。学校自体は守秘義務の必要な会話にはあまり向いていないが、毎日顔を合わせて一言二言情報を交換するのには都合が良いしな。だから退学はしない。キミという後進ができたのだ。キミを一人前の迷宮仕事人に育てるまでは、私の命数も伸びてしまったし、学校も辞めるわけにもいかなくなった。というわけなのでそんな顔になって心配するな」

 雫那の告白。何かを含むような言葉が端々に垣間見えたが、今にも泣きそうな顔になっている真二には、そんな事を気にする余裕が無かった。そんな彼の姿を見て雫那が問う。

「キミはなぜ錫白高校ここへ来た?」

「え? 僕?」

 突然話を振られて、戸惑う真二。自分が錫白高校にまつわる話をしたのだから、キミも話しなさいという勢いで雫那が尋ねた。

「キミの実家は確か農家をしていると記憶しているが?」

「わ、良く知っているね」

「キミと相坂伍郎との会話から得た情報だ」

「あ、そっか隣同士だもんね」

 学校が守秘義務を要する会話の場所に向いていないのはこういう意味である。教室は元より、場所を変えて話していても、どこで誰が聞いているか判らないというのが学校という施設であるし、そうでないと学生の生活施設としての意味が無い。雫那が守秘会話に使おうとした女子トイレにしても、トイレ内に自分たち以外の誰もいない状態をまずは確保しなければ意味が無い。

「農家であれば首都艦に出てきて苦しい日々を送らずとも、安寧な生活が送れるはずだが?」

 不躾な言葉とも取れる質問。しかし言葉を飾るという事をあまりしない雫那にとっては、これが相手に尋ねる普通の言葉使いなのだろう。

「うん、確かにそうだよね。変わらない日常をのんびり過ごすだけで満足できるなら、田舎って良いところだと思う」

 真二も雫那のその真っ直ぐさを知っているので特に気分を害することも無く答えられた。

「キミは変わらない日常を文句も言わず、のんびり過ごしていける素質があると思うが?」

 誉めているのか貶しているのか良く判らない雫那の台詞。しかし雫那が言うと、さもしい感じが全然してこないのは不思議だ。

「……でも僕は、次男だから」

「次男?」

 真二の口から発せられる意外な言葉。その意図が待ったく掴めない雫那が聞き返した。

「変わらない日常を過ごしていける特権を持っているのは、その家を守って継ぐ者、つまり長男だけなんだ」

 真二が食卓から目を外し、遠くを見るように窓に視線を向けた。

「昔からずっと変わらずあり続ける家を守るのは、息子が一人いれば充分。だからその家に生まれた女の子や次男以降の男は、そのうち邪魔になってしまう。他の家の目もあるから、何時までも実家に残っているわけにもいかない。田舎からどんどん人がやってきて首都艦が地元の人は迷惑に思うかも知れないけど、半ば仕方なく出てくる者だっているんだよ」

 真二が窓の外を見ながら言う。彼の瞳には遠い故郷が写っているのだろうか。

「失敗したら実家に帰れば良い」そんな甘ったれた考え方で夢を追いかけて、結局無駄に首都を汚して田舎に帰っていく若者が多い中、古くからの慣習が今なお息づいている山里から出てきた少年は、既に我家には帰れない覚悟で出てきていたのだった。

「なにか悪いことを聞いたな、すまない」

 居住まいを正しながら雫那が、深々と頭を下げる。

「いや、そんな謝られても困っちゃうよっ」

 真二も反射的に正座の姿勢になり、ペコペコと頭を下げる。

「僕も楠木さんのこといっぱい喋ってもらったから、お相子だよっ」

 食事の並んだテーブルを間に挟んで頭を下げ合う真二と雫那。生まれた場所も育った環境も全然違う両者だが、意外にも二人は同じような覚悟でこの東京という街にいるのかも知れない。


「ごちそうさま」

 昼食を食べ終えた雫那が箸を置き、手を合わせた。結局雫那は、真二がお腹いっぱいになり早々に離脱した後も食べ続け、残っても構わないと大量に用意した昼食を全て食べ尽くしていた。

「いや~、清々しいくらいの食べっぷりを見せてもらえて、僕も嬉しいよ」

 雫那の細い体の一体どこに入ったのだろうと、その大食いぶりに苦笑しながら、真二が片付けを始める。自分が作ったご飯を誰かが大量に食べる様を見るのは、何故にこんなにも楽しいのだろう? そんな風に真二が思い、頭上から音符を飛ばしながら流しで洗いものを始めた時、後ろの方でどすんという音が聞こえた。真二が驚いて振り向くと雫那が横転して畳の上に倒れていた。

「楠木さん!?」

 驚いて真二がすっ飛んで行こうとすると、雫那が手を上げて制した。

「大丈夫、許容範囲以上の食物摂取の所為で胃への消化に血液が大量に使用され、それに即した脳内血流の減少で強烈な睡魔に襲われ、一瞬気を失っただけだ」

「……つまり、食べすぎてお腹いっぱいになって、眠くなっちゃったってこと?」

「簡単に言えばそうだ」

 雫那は恥ずかしがりもせずそう答えると、瞼を閉じた。

「これからの効率の良い作業再開を考えて仮眠をとらせてもらいたい。二〇分後に目覚めるので、それまで床を貸してほしい」

「あ、うん……というか、寝るんだったら布団敷くけど……って、あれ?」

 真二が改めて雫那に近寄ってみると、彼女は既に寝息を立てて眠りに落ちていた。「やっぱり寝顔は可愛いなぁ」と思いつつ、とりあえず押し入れから毛布を出して上にかけた。気持ち良さそうに、眠りの世界を彷徨いはじめた雫那。普段は、常に神経を研ぎ澄まされたギリギリの鬩ぎ合いの中で生きている彼女が、真二の前では簡単に見せる無防備な姿。

 それは既に真二の事を、心から信用している相手だということなのだろうか?


「……」

 雫那が軽い午睡に入った時、彼女が侵入に使った真二の自室の窓を見上げている人物がいた。大き目のハンティングキャップを目深に被り、一五〇を少しだけ越えた小柄な体を長袖のパーカーとストレートパンツで覆っている。一見するとオシャレな格好の小学生の男の子と言った印象。しかし「彼女」は、実は真二と雫那が最初に集合したあの駅前からずっと二人の事を見ていたのだ。真二が駅周辺を捜索している時も、ずっと彼女は駅前のベンチに座って改札口を見ていた。その後同じ電車に乗り、常に一定距離をおいて、この錫白高校男子寮に二人が消えるまでずっと観察していた。先ほど真二が食材を買いに外へ飛び出した時も、自分の家の近くに少年のようなこの人物がいることすら彼は気づかなかった。買い物を終えて再びすれ違っても、まるで其処にこの人物が存在していることがまったく視界に入らないのか、真二は雫那の待つ自宅へとすっ飛んでいった。しかし真二は元より、あんなに感の強い雫那が、こんなにも長時間自分たちを観察している人物に気づかないというのは、一体どういうことなのだろう?

「……」

 彼女の手には古ぼけた書簡が一通、大事そうに握られていた。その表面の磨耗具合から推察するに、三百年以上は経過していそうな古めかしい書状。まるでそれが自分自身の命そのものであるかのように、大事に抱えている。

「……しずちゃん」

 その人物は一言そう呟き、書簡をぎゅっと強く握ると、何かを決心したように踵を返し、その場を離れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る