第2話 現実(リアル)

 朝。朝焼けの匂いのしない空。

 一晩振り続けた土砂降りの雨は、明け方にようやく止んだ。

 己の体をいだく。冷えている。一晩雨に叩かれたのだ。体調も少しおかしくなっている。

 しかしその代価として、道具は作成された。後は設置するのみ。

 冷たい肩を抱きながら空を見上げる。

 自分の体の調子と、この街の交通機関を麻痺させた大雨は、その見返りに空にたまった残滓を洗い流したはずだ。

 いつもより蒼みが増した空。だけど、うっすらと白い膜が残っているようにも見える。

 どれだけ強い風に吹き荒らされても消えることの無い、この街の白い残滓。

 地方から逸遊いつゆうに来た者は決まってこう感想を漏らす。

「ここはヒトの住む街じゃない」

 では、ナゼ、人はこの首都艦まちを目指すのだろう?

 故郷を捨て、ナゼ、このまちに住みたがるのだろう?

 人の住む街ではないのなら、故郷で平穏無事な一生を送ればいいのに。

 そうすれば「彼女」に処分されることもないだろうに。

 そのために「彼女」が死ぬこともないだろうに。

 この街の空を覆う薄い膜。

 どんなに雨と風が洗い流しても蒼くならない空。

 その白い残滓は、故郷を捨てこの地で命を亡くした者の、死に際のため息に思えた。

 朝。朝焼けの匂いのしない空。


 ――◇ ◇ ◇――


「ねねね、僕の目を見て」

「……は?」

 翌日。真二は登校してきて早々、伍郎を捕まえるとそんな風に言った。

 なにごとか? と思ったが、真二があまりにも嬉しそうに言ってくるので、伍郎も無碍に出来ずとりあえず付き合う。暫し見詰め合う少年二人。

「……」

「……」

 まるで好きな人からの告白をまっている女子のように、胸の前で握りこぶしを作って目を爛々と輝かせている真二と、この稀有な状況を作り出している相手の意図がまったく掴めずただ視線を合わせているしかない伍郎。

「……お前、首都艦に出てきて禁断の告白まで身につけたのか?」

 最初は伍郎も、真二が喋り出すまで我慢比べをしても良いかと思ったのだが、流石に根負けしたようだ。それに周りの視線もそろそろ気に成り出す頃合いである。

「……は?」

 最初は伍郎が何を言っているのか判らなかったのだが、徐々にその意味を理解し始めると、顔の表面が急に熱くなって来るのを感じた。

「わわわ、そうじゃないっ、そうじゃなくってね!?」

 考えてみればこんな風にお互い見詰め合っているっていうのは、ドラマや漫画の中の恋人同士みたいな光景じゃないかと、真二も気づく。そしてクラスの何人かが二人に奇異な目線を送っているのも感じる。

「……えーとね、僕の目、昨日とどっか変わったところないかなって」

「目?」

「そう、目」

 真二が相手と向かい合った状態の姿勢を崩しながら、こんな頼みをした理由を説明する。

 昨日、真二はあれだけ奇妙な場所を探検してきた。だからゲーム風に考えれば多少は経験値を貯めたはずであり、今の状態なら昨日までの自分とは違う眼、雫那しずなのする瞳の色ができるのではないかと思ったのだが

「昨日と変わらないぞ?」

 しかしそれに対し、伍郎は至極簡潔な感想。

「う~」

 やはりたった一度だけ地下迷宮のような場所を歩いてきただけでは、雫那のような目はできないということらしい。

 ならば毎日あの場所に通えば、あんな瞳ができるようになるのだろうか? あの地下通路が彼女の知る「本物」ではないだろうけど、かなり近いものではある筈だ。

「そういや昨日と言えばお前、タイプライターはちゃんと取りにいけたのか?」

 伍郎は自分の発した昨日という言葉で、真二が神陀郵便局まで叔父のタイプライターを取りに行ったことを思い出した。

「うん、色々あったけど、ちゃんと取りにいけたよ」

 真二が、その後なんとか神陀郵便局にたどり着いたあらましを、彼に説明しだした。

 思いもよらずダンジョンのような地下通路を探検することになってしまった彼は、その後たどり着いた地下鉄の友人改札に詰めていた駅員に尋ねてみた。そして神陀郵便局の最寄の駅は神田駅ではなく、隣駅である佩茶ノ水駅であるという事実を真二は知ることになる。更に真二のように間違えて神陀駅に来てしまう人間も結構多いことも教えてくれた。やはり「神陀郵便局なんだから神陀駅の近くにあるに違いない」と思ってしまう先入観はだれでも持っているらしい。地下鉄と国電というまったく違う会社の路線であるのに、駅員は気さくに教えてくれた優しさを不思議に思いながら、真二は再び中央線に乗った。その後教えられた佩茶ノ水駅で下車し、そのまま新孰方面とは逆向きに続く坂を線路沿いに下っていくと、簡単に神陀郵便局が見つかってしまったのだった。その間雨は相変わらず降り続いていたのだが、まだこの時点ではなんとか傘無でも耐え凌げる雨量だった。そして真二がタイプライターの入ったダンボールを抱えて家に帰り着いた途端、それは土砂降りに転じた。雨は首都の水害に対して非常に脆弱な交通機関を麻痺させるのに充分な量に発展し、更に一晩降雨は続き、あちこちの河川の増水警報が流されるほど酷くなった。真二は間一髪で風邪をひくのを免れたのだった。

「そうか神陀じゃなくて佩茶ノ水駅の方だったのか。間違った方教えちまってなんか悪いことしたな」

「いいっていいって。そのおかげで、僕は郵便局を探してる途中で、ちょっとしたダンジョン探検ができちゃったんだから」

 少し胸を反らせつつ、自分の冒険譚を得意げに語る真二。

「……それで『僕の目を見ろ』とかいきなり言いだしたわけか」

 ようやく彼の奇矯を理解した伍郎があきれ気味に言う。多分昨日と違うであろう自分を見せ付けたかったのだろうと伍郎は予想した。いや、まったくその通りであるが。

「でもそれってこの国最古の地下街の一つだよな。まだあったんだな」

「……へ!?」

 しかし自慢げに語った勇壮な冒険譚は、友人の一言で簡単に瓦解してしまう。思わず頓狂な声を上げる真二。

「なになに、伍郎ってば、あのダンジョンみたいな地下通路知ってるの!?」

「ああ」

 驚きを顔中で表現した真二の問いに、先ほどと同じクールな答えの伍郎。

「あそこって……そんなに有名なの?」

 まったく人の歩いていなかった閑散とした地下通路。真二の眼から見れば本当に誰も知らない首都艦の秘密の場所みたいに思えていた。だから友人の伍郎がこうも詳しく知っていたのは、結構ショックだった。

「有名というか、知る人ぞ知るってレベルだと思うけどな」

「じゃあなんで伍郎はそんなこと知ってるの? 最古とか?」

 一部の人間しか知らないのならば、何故伍郎はその知識を持っているのか?

「中学の時の社会科見学で行ったんだよ」

「社会科見学?」

「そう。なんかその時はこの国で一番古い地下街が首都艦に三つあるからって、それを全部回ったりしたよ。だから神陀の地下街もその時に行って知ってるんだよ」

「……」

 自分だけが知った「本物」だと思った場所。しかし伍郎も、既に何年も前に足を踏み入れていたのだ。それも首都艦で義務教育を受ける者なら学校行事で簡単に行ける場所として。

 しかも彼の言葉を借りるなら、真二が昨日歩いてきた地下通路とほぼ同様のものが他に二つもあるというのだ。最古と言われるものが三つも存在するのはなにか不条理さを感じるが、そんな不条理も内包しているのが首都艦という街なのだと、不思議に納得してしまう。

「あーでも言われてみれば、あそこは本当にダンジョンぽかったなぁ、今度二人でオモチャの剣とか持って遊びにいってみよっか?」

 淡々と事実を語った伍郎が、その時の風景を思い出しながら本気とも冗談ともつかない提案をする。しかし彼の言葉は、真二の頭を素通りして行っていた。

(結局、僕の見てきたものは「本物」じゃなかったんだ)

 それは多分当然の結果なのだろうとは思う。だけど、ゲーム機の中の0と1だけの世界しか知らなかった自分は、実際に存在しているもので限りなくそれに近かったあの地下通路を「本物」と思いたかった。それだけ彼女のあの瞳は真二の中に強い印象を残している。

「じゃあ、本当に本物というのは、一体……なんなんだろう?」

 真二がぼそりと呟く。その小さな囁きは誰にも聞こえない。

「……」

 彼はこの疑問の発端となっている隣の席へ顔を向ける。しかしその席はいまだに空席。

 真二に「本物の瞳」を魅せる彼女は、今日はまだ姿を見せない。


「えー、みなさん、振り袖火事という言葉を聞いたことがありますか?」

 歴史の授業、社会科の教師が黒板に板書しながら生徒に訊いた。数人が手を上げる。

「何人かは知っているみたいですね。クイズ番組などで出題されることも多いですし、一回か二回くらいはこの名前を聞いたことがあるかも知れません」

 教師がそう言いながら「一六五七」とチョークで書き込んだ。

「一六五七年、首都艦建造以前にあったこの土地の古い年号でいうと明暦三年の、旧暦一月一八日から二〇日にかけ、首都の大半を焼き払った大火災です。現在の首都の形以前の旧時代、火事は日常的に起こる災害でしたが、この振り袖火事、正確には年号の名前を取り明暦の大火と呼ばれるものは、その中でも最大の被害をもたらしたものです」

 淡々と起こった事情の解説のみに費やされる説明句。

「首都を襲った大火災としては、他に関東大震災や首都艦大空襲がありますが、この両者は自然災害と外的要因によるものなので、国民自らが犯してしまった災害としてはこの火事は過去最大、そして現時点でもこれ以上のものはありません。死傷者数一〇万を越えるこの国の災害史上最悪の被害を出してしまったのが、この明暦の大火なのです」

 教師の口から紡がれる意味不明な単語の集合体。このような高低差のまったくなく、更に己の理解の範疇を超えている言葉の羅列による作用は、ズバリ睡眠である。というわけで、社会科教師の口より発せられる睡眠呪文スリープスペルに抗えなかった生徒の何人かが、深淵アビスへと落ちていった。

(……楠木くすのきさん来ないな)

 そんな中真二は「心配」という外力を得て、教師の催眠攻撃を何とか弾き返していたのだった。黒板から再び隣に目を移す。臨席の主はいまだに姿を見せていない。雫那は常に遅刻ギリギリに姿を見せるが、授業を休むということは今まで無かった。だからこそ真二は心配になってしまう。彼女にとっては余計なお世話なのかも知れないが、それでも真二は心配に思う。

「この大火は女性の振り袖に付いた火が飛び火して火災となったといわれ、それが俗称ともなっていますが、もしこれと同規模の災害が現代で発生した場合、首都艦の人口の半分弱、約六百万の人口は死傷すると思われ、他の方舟艦からの旅行者、勤務者を加えると一千万を越える死傷者数になると概算が出ています」

 教師の聞く者の気持ちを一切考えない抑揚を滅却させた説明。それは永遠に続くかと思われたが、流石に不憫に思った学業の神の助けか、授業終了のチャイムが校舎中に鳴り響いた。ようやく眠りの呪文攻撃が止まる。社会科教師は、残りの説明の次回授業への持ち越しを宣言すると、教室を辞した。長かった二時間目の授業が完全に終わる。重苦しい雰囲気から一気に開放され、短い休憩時間を楽しむ生徒の声で教室内が騒がしくなった。

「……」

 そんな和んだ雰囲気の中、三時間目の授業の教科書とノートの入れ替えをしていた真二は、再び隣の席を見た。いまだに雫那は姿を見せない。あれだけ気配を消して行動できる彼女なので、授業中ですら誰にも気づかれず教室に進入し席に座っていた……という事態も少しは期待したが、そんなトンデモ光景は結局見られなかった。朝から教室内には、胡乱な存在が具現化したような彼女がいないという安心感と、正体不明だからこそいないと逆に何をしているのか判らないという不安感が漂っている。それは二時間目の授業が終了しても消えていない。

「トイレ行ってくるわ」

 伍郎はそう真二に断ると教室を出て行った。

「うん、いってらっしゃい」

 実は伍郎は一時間目終了後の休み時間にもトイレに行っている。そんなに出るものなのかと不思議に思うが、彼も雫那のいない不安感に苛まれ、普段の生理反応が崩れているのかも知れない。居ても困るし、居なくても困る。雫那の存在感はそれだけ特異なものなのだろう。

 そんな微妙な雰囲気の教室の中、真二はというと、彼だけが特に変わった様子がない。唯一彼女と積極的に挨拶を交わそうとする人物なのだから、それは当たり前なのかも知れないが、彼だけが妙に落ち着いていた。そわそわはしているが、誰かさんのようにトイレを何度も往復するような体調の崩れは無い。生まれ育った土地で身につけてきた、大自然に育まれた生来の大らかさによるものも大きいのだろうか。しかし周りを見渡してみて、他の者の反応と明らかに違う自分自身を考えると「自分はやっぱり田舎育ちだから人より鈍感なのかな……」と自分で嫌悪してしまう部分もあったりするのが彼らしい。そして彼も彼なりに一応そわそわを続けていると、不意に自分の背中を風が撫でたのを感じた。

「……!」

 いつもだったら見過ごしてしまうような風。誰かが動いた拍子に空気が乱れて発生しただけの微量な風。しかし彼が生まれ故郷で身につけてきた風を読む力は、風動に含まれる鋭利でいてどこか悲しげな寂莫とした流れに感応できた。その直覚ちょっかくに従い彼は振り向く。

 そこには彼の想像した通りの光景があった。だから真二は何のためらいも無く口を開く。

「おはよう楠木さん」

 彼女のことを考えていたおかげなのかどうなのか判らないが、真二は着席する前の彼女の姿を、新学期を一ヶ月半経過した時点で、始めて捉えることが出来た。

「おはよう」

 鞄を右手に下げ音も気配も存在感すらも消失させて教室に侵入して来た雫那は、自分を発見するという稀な行為を成しえた相手に対して、特に表情を変える事もなく答えた。

 教室内に充満する会話の間隙を縫って響いたその声を、クラスのほぼ全員が聞いた。それに伴い全ての会話が強制終了し、全ての視線が声の発生源に集中する。教室が一瞬、静かなどよめきに包まれた。

 今までクラスの誰も着席するまでその存在に気づけなかった雫那。そんな彼女に対して、まだ相手がドアを潜って教室内を歩いている時点で挨拶を交わせた者が現れたのである。それは確かに驚くべきことだった。しかし雫那本人は、そんなクラスメイトの視線などまったく感じないかのように、いつもと変わらぬ冷厳な雰囲気のまま着席までこなす。クラスの生徒達は彼女が着席に要する所作を、この時始めて目撃した。そして金縛りにあったかのように一時停止していた教室内が再び動き出す。しかしクラスメイトの殆どの話題が、ある一つの事柄に一元化されて再開していた。雫那に対しての感想である。

「……」

 教室内が遅れてやって来た彼女の話題に包まれる中、真二は再びそわそわしていた。今度の挙動は先程とは違い、何とか彼女との会話を成立させてみたいという欲求によるものだ。今は雫那が遅刻してきたという事実がある。だからそれを話題にすれば話しのきっかけを作成することは可能だ。しかし……切り出すまでの勇気が、今の真二にはない。

「今日は遅いんだね」とか「寝坊でもしちゃったの?」とか、簡単なことでいいのだが、そのほんのちょっとの行動が、できない。

 凄い豪雪の日に中学校へ行ったりとか、誰も入ったことの無い近所の樹海に竹の子を採りに行ったりとかそんなことは平気でできるのに、なぜ直ぐ隣の席に座る女の子に話しかけるだけという、もの凄く簡単に見えることができないのだろう?

「……」

 最後の一歩が踏み出せないヘタレな自分を呪いつつ、更なるきっかけを求めて彼女の方に少し顔を動かす。次の授業の準備をするフリをして彼女の手元を盗み見る。それ以上見上げてしまうと彼女に気づかれてしまう恐れがあるので、手を中心としたバストショットが限度になる。

「?」

 しかし、そこで真二は気づいた。いつもならてきぱきと次の授業の準備をしている筈の彼女なのだが、今日は動きが少しおかしい。鞄から教科書を出そうともせず、机の上に腕を投げ出して座り込んだままだ。動きを見せない彼女の手を不審に思った真二の視線が、自分の気付かぬ内に上へと移動する。そしてその横顔を見た時、頬が少し火照っているのを確認した。

「……!?」

 朱に彩られたその頬を見た時、挨拶以上の会話しか今まで出来なかった真二の中で、新しい形の勇気が芽生えた。そして保健委員という役職の責任感が彼の背中をひと押ししてくれた。

「……あの……楠木さん?」

「はい?」

 けだるそうにしていた雫那が声をかけられた途端、背筋を伸ばし真二に向かってはっきりとした口調で返事をした。

「あ、……あの」

 その豹変振りに心が折れそうになる真二。特徴的な美しい切れ長の瞳で冷々と見つめられる。しかしその意志の強そうな瞳が少し潤んでいるのを見て、胸の奥に沈みかけた覇気が、再び戻ってくるのを感じた。

「だいじょうぶ楠木さん? 体調……悪い?」

 真二が雫那に対して、彼女の体の失調を促す。彼女は自分と同じように昨日の雨に打たれたのだろうか? しかも自分は運良く避けることができた、夜半にかけてのあの強い雨に?

 そう考えた瞬間、右腕が自分の意志を超えて動いた。

「熱あるんじゃないかな?」

 真二はそう言いながら、無意識の内に相手に対して手を伸ばそうとする。

「!?」

 しかし、自分がこれから何をやろうとしていたのかに気づくと、伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。相手のおでこに手を当てて熱を測りたいと体は反応したのだ。しかし、今始めて挨拶以外の会話らしい会話した相手にそこまでしてしまうのはさすがに躊躇われる。そしてその真二の躊躇いが通じたのか、彼女は自らの手の甲を額に当てた。

「やはり、熱があるのが外からでも判るか」

 ぼそりとした一言。自分の体を再確認するような台詞。

「だったら保健室に! 僕、保健委員だから一緒に行くよ! それとも早退する? 先生には僕が言っておくよ!」

 遅刻してきていきなり早退というのも豪気な提案だが、自分でも信じられないくらいスラスラと言葉が出てくる。彼女に熱があると判ると、今まで雫那に対して抱いていた特別な緊張感が一気に消え去っていた。真二の目に写っているのは、体の調子を崩した普通の女の子。早くなんとかしないと。しかし慌て始めた真二を抑えるように、額から離した手で雫那が制す。

「大丈夫、この程度なら静かに座っていれば熱は収まる」

「で、でも」

「それにキミと会話して少し元気がでた」

「……はい?」

 突然なにを言うのだろうこの人は? そんな困惑の表情で真二が固まる。

「私を気遣ったキミの言葉を聞いて、少し体力が回復された。会話を交わすというのも、体の状態維持には大切な要素だということを、改めて認識した」

 何か浮世離れした雫那の言葉。

「??」

「心配してくれてすまない、礼を言う」

 狐に摘まれたような顔をして彼女の言葉を聞いている真二。とても自分と同い年の少女とは思えない、大人びた言葉。軽く会釈をすると少し俯くような姿勢になって瞼を閉じる。

 真二はまだ何か言いたげだったが、雫那が休む姿勢になってしまったので、それ以上会話を続けるのは止めた。それでも急に気持を切り替えるのは無理なので、頭の中は風邪をひき始めているかもしれない雫那を心配する気持で埋まっていた。


 夕方にはまだほんの少し早い時間。本日も特に変わりなく授業を終えた真二は、自分が首都艦に引越して来てから住んでいる街を歩いていた。新孰から中央線で二駅ほど進んだ街。言うなれば彼にとっては新しい地元。朝の登校時にはいたるところにあった水溜りもこの時間になってすっかり乾いて消え、いつもの街並みに戻っていた。しかし、そんな住み慣れ始めている筈のこの街を、真二は妙におどおどしながら歩いている。

(自分の地元を歩いているんだから……べつに悪い事はしてないよね)

 新しい街に住み始めて、真二は一ヵ月半ほどを過した。それなりに道順も覚えたし、量販店スーパーや郵便局などの生活に必要な店舗の場所も大体覚えた。だからこの街にはもう慣れているはず。挙動不審者のごとくびくびくとこの街を歩く必要はないはず。しかし今日の真二は、引越し二日目に必要な品物を買い揃えるべく始めてこの街を歩いた時とほぼ同じくらいに、恐る恐る歩を進める真二。その少し俯き気味の双眼の向こうには、見慣れた高校の制服。真二の通う錫白高等学校の女子用制服を着た女の子が歩いている。

「……」

 別に真二の住む街に同じ高校に通う生徒が他にいたとしても不思議では無い。一年生は真二のクラスの他にあと三つあり、二年三年の上級生もいる。その半分弱が女子生徒。

 だから、彼の通う高校にはそれだけ女の子の生徒がおり、その中で真二の知らない女子の誰かが、この街の住人だとしてもおかしくは無い。おかしくは無いのだが……

 ――なんで楠木さんが、この街にいるんだろう?――

 そう、一〇メートルほど先を歩く女の子は、多分真二が錫白高校で一番良く知っているであろう女子生徒だったのだ。


 真二は授業が終わった後、特に寄り道もせず帰りの電車に揺られ、帰途についていた。別に今日に限らずとも、首都艦に出てきてまだ日も浅く街に慣れていない彼は、基本的には寄り道などせずに真っ直ぐ家に帰ることが殆どであるのだが。寄り道の要素となるであろう唯一の友達である伍郎とは、実は通学に利用する電車が反対方向であるために、繁華街で途中下車して連れ立って遊びに行く――という機会も今のところ無い。

 一応錫白高校近隣の駅前周辺には軽食店ファーストフードショップ遊技場ゲームセンター等それなりに時間をつぶせる施設もあるにはあるが、彼ら二人ではそこまでして時間と金を消費するなら家に帰ってゲームをした方が良いと思うのが通常だ。時間は無駄にあろうにも、自分で使える金銭がそれに反比例するように少ないのが高校生というもの。更に真二には今日だけは早く伍郎と別れて、一人になりたい理由があったのだった。

 真二と雫那が休み時間の間に会話していた時、実は伍郎がこっそりと廊下から二人を窺っていたのだ。二時間目の休み時間にトイレに行っていた伍郎は、用を済ませ教室に戻ってくると真二が雫那と会話しているのを目撃、そのまま一体どういう展開になるのかとずっと見ていたらしい。そして昼食が終わった後、校庭の人気の無いところに連れ出された真二はそこで「やっぱりお前の楠木に対する愛は本物だったんだな~」とか「お前があそこまで積極的ならもう俺は止めないゼ~」とか「まぁライバルなんて皆無に等しいから、精々がんばれよ~」とか散々からかわれたのだった。殆ど小学生レベルの揶揄であるが、同年代の子供との付き合いがほぼ皆無のままこの歳まで来た真二には、それを軽くいなせるだけの耐性が備わっておらず、顔を真っ赤にして縮こまるしかなかった。だからこの日だけは自分の顔を見るたびにくすくす笑い続けている伍郎とは、早く別れたかったのだ。

 というわけで「昨日もらってきたタイプライターを使ってみたいから今日は帰る」と、もっともらしい理由を述べて帰途に着き、家路へ向かう電車に乗り込んだのである。

 揺れる車中。真二は電車の動きに吊られてひらひらと動く広告を眺めながら、伍郎の態度の変化を考えていた。先日はあそこまで真剣に雫那と関わるなと忠告していた伍郎が、今日は一八〇度変わった態度を見せた。「楠木雫那と会話を成立させた」という行為は、そんなにも人を激変させるものなのだろうか?

「……」

 不思議に思う真二。昼時の伍郎の顔を思い出す。真二を楽しげにからかう伍郎の表情の中には、茶化す顔の中にほっとした表情が確かに含まれていて、それが不思議さを増長させていた。心から安心できたというそんな顔。それがあるからこそ真二は自分をからかいまくる伍郎を心から憎めず、更なる不可思議を呼び込んでいた。

 再び吊り広告を見やりながら、真二は気持を整えようとしていた。そして気分を変えようと車内をキョロキョロと眺めた彼は……見た

(楠木さん!?)

 時間的には、学生の下校時間と会社員等の帰宅ラッシュの、ちょうど中間くらいの時間帯である列車内。その少し混雑し始めた車内の端に、見慣れた制服姿とそれ以上に見慣れた横顔を見つけた。思わず顔を背けてしまう真二。こういう場合、自分は悪い事をしているわけではないのに、妙な背徳感を持ってしまうのは何故だろう? そして、たった今その思考の大部分を占めていた存在を突然自分の近くに確認した場合の人間心理に従って、真二の体が急激に変化する。心臓が大きく飛び跳ね、激しく脈動する。

 ――え!? え!? 楠木さん……だよねぇ??――

 痛いほどに脈打ち始めた胸を押さえながら、再び相手の姿を確認するように、首から上だけを動かす。彼女はこの車輌の一番端にあるドアの前に立ち、外を見つめていた。いつもの見慣れた横顔が遠くに見える。確かに楠木雫那だ。

(ホントに楠木さんだよ!?)

 しかし、彼女の無防備な姿を見て、本当に彼女は雫那なのだろうか? と思ってしまう。右手に鞄を持ち、空いた片手で手すりを握っている姿は、ただ立っているだけだというのに、非常に凛々しく決まっている――が、気配というものが全然感じられないのだ。学校で感じる痛いまでの存在感がまったく無い。彼女は本当に雫那なのだろうか? 同じような顔をした他人であるという可能性もあるのではないか? それ程までに今の雫那は空気のように存在が希薄だ。学校とは逆で今は己の存在感を極力消しているように見える。別人に思えてしまう程に。

(楠木さんって、自分の存在というか気配をコントロールできたりするの?)

 真二の疑問。楠木雫那にはそんな特異な力がある? 確かに雫那ほどの強い存在感の持ち主だったら廊下を歩いている時点で、教室内の皆が彼女の接近を感じても良いはずなのだが、雫那が着席するまで誰も気づかない。それは雫那自身が気配を制御できるという証拠なのではないだろうか? そんなことできるのか? 漫画やゲームじゃあるまいし?

(ゲームとかでも、自分の気配を消して行動して敵に見つからない忍者みたいなキャラクターっていうのが、敵味方問わずいたりするけど……えええ!?)

 そんな非現実な出来事、あるのか? その思いを持って、改めて彼女の姿を見てみる。

 雫那ほどに美しい顔立ちの女性であればどこにいても目立って、車内でも彼女のことをチラチラと観察する者がいてもおかしくは無いのだが、そんな視線を送る者は皆無だ。雫那が車外を見ているので顔が良く見えなかったりもするが、制服の上からも判る均整の取れた体つきや、スカートから伸びる高校生離れした引き締まった太ももなど、観賞を誘発する要素は他にもある。

 しかし、それでも彼女は実在しないかのように誰からも注目されない。まるでそこに彼女の形をした看板でも置いてあるような、そんな感じだ。

(そういえば楠木さん、体の調子は大丈夫なのかな?)

 ツインテールの片方の房から覗く頬は、真二の心配どおり相変わらず熱を帯びて赤く染まっているように見える。電車の照明の関係や、窓から射す橙の外光の影響でそう見えるだけなのかも知れないが、その顔の色は今日一日真二が見てきた彼女の横顔と同じ赤さ。

 雫那自身は、学校で真二に風邪をひいていると心配されたのだったが、特に変わった様子は周りには見せず、今日も普通に一日をこなしていた。しかし真二は気づいていた。一瞬だけだが、次の行動に移るときなど微妙に動きが緩慢になる時がある事を。なんでも完璧にこなす筈の彼女が、机の中からノート一つ取り出すのに、妙に手間取っていたりしていた。頬の赤みだって、やっぱりいつも以上に赤い。雫那は確実に風邪をひいている。しかし彼女はそれを極力隠している。他の人間はその完璧な隠蔽でまったく気づかないだろう。しかし、毎日のように彼女の横顔を盗み見ていた真二だけが、隠しきれていない体調の崩れを見抜いた。だが見抜いていただけだ。それ以上は何も出来ていない。

『心配してくれてすまない、礼を言う』

 雫那の最後の言葉をまともに受けてしまった真二は、彼女に喋りかける勇気をそこで一気に消失してしまって、後は何もできないでいた。だからあの後は、再び雫那に体をいたわるような事を一言もかけることが出来ず、伍郎にからかわれた以外は真二もいつも通りの一日を終えてしまっていたのだ。授業終了後、気づいたら雫那はいなくなっていた。彼女は最後まで、彼女にとっての普通の日常をこなした結果になる。掃除当番も委員会活動も無い時、雫那は終業の鐘が鳴り終わったと同時に姿が消えている場合が殆どで、今日もそのパターンにはまった。終了直後の喧騒と一日の授業が終わった安心感に包まれる教室内。彼女の席は既に空。

 自分にだけ判る苦しそうな雫那の姿を今日一日見てきた真二。駅へと進む車輌内でも、その関係は変わらない。もし彼女が困っているのなら、もしかしたら助けられるのは自分しかないのではないか? 今――この時も。

「……うん」

 真二は決断した。電車を降りる時を見計らって、声をかけてみよう。今回は「同じ電車に乗り合わせていたなんて偶然だね」なんて話の切り出しにうってつけの口上も用意できるので、どうにか会話を成立させることは出来そうだ。あの娘が雫那に良く似た別人という説も捨てきれないが、その時はその時だ。そして、真二がそう決意を新たにした時――

「わわっ」

 いきなり前触れも無く電車が速度を落とした。予期せぬ動きに彼の体が大きく跳ね上がる。鞄を両腕で抱き抱えたままだった真二はその速度変化に付いていけず、思わず姿勢を崩してしまった。隣に立っていたスーツの男性にぶつかりそうになってしまった直前に、なんとか吊り革に掴まる。その間に電車は速度を落としホームに滑り込んでいた。

『新孰~終点新孰~』

 録音再生された車内アナウンスが到着を伝える。どうも雫那のことを観察していたら、何時の間にか電車が駅に着いていたらしい。走行中の到着を促すアナウンスすら聞き逃す程に彼女のことを見るのに集中していたようだ。ドアが開くと同時に乗客が一気に吐き出される。終点であるので乗車したままの客は存在せず、その数はもの凄く多い。人いきれにまみれて一気に現実に引き戻された真二は、自分も次の電車に乗り換えなければと、人込みに混ざり電車を降りた。もちろん雫那の姿は既に消えている。車内という人が容易に注視できる状況であれだけ気配を消してみせていたのだ。こんなに大量に人間が移動する中に紛れてしまわれては、探し出すのは不可能だろう。真二の胸裏で交錯する二つの想い。限界以上の勇気を再び振り絞らなくても良いという安堵感と、体調を崩している筈の彼女と接触出来なかったという失計感の二つが、真二の心の内でせめぎ合う。そして空しさ。 

「……楠木さん」

 とりあえず、明日もう一度声をかけてみよう。

「ちゃんと来るかな……楠木さん」

 雫那は、翌日は登校してくるのだろうか?

 彼女に声をかけようと誓った気持ち、明日に持ち越せるだろうか?

「……」

 真二はこの勇気が明日まで持続している事を期待して、乗り換えの電車に向かった。

 しかし彼の勇気は、意外に早く試されることになる。新宿駅で中央線に乗り換えて自分が東京で住む街の駅に降り立つと、自動改札の順番待ちをする人込みの中に、再び見慣れた錫白高校の女子制服姿を見たのだった。

 なんという偶然なのだろう? しかしその天啓をありがたがる前に、考える事がある。

 何故、楠木雫那はこの街にいるのだろうか? 何のために? 買い物?

 確かにこの街は古着を売る店が多いらしく、一つの名所にもなっているそうだ。だから遠方からわざわざ買いに来る若者も多い。雫那はこの街へ古着を買いに来た? いや、彼女の性格や普段の行動から考えると、それはありえない。人は見かけに寄らずという言葉があるが、彼女にはそれは適用されないと思う、多分。それに彼女は風邪をひき始めている筈なのだ。古着の買い物という行為が、だるくなっている筈の体を抱えてわざわざするだけ価値があるとは、普通の人間でも思えない。

 では、彼女の自宅もこの街にある? それは残念ながら考えられない。雫那と同じ中学に通っていた伍郎の家は、真二の住むこの街からはかなり離れている。高校への最寄駅の電車は反対方向の電車を利用するのだから当然だ。だから義務教育期間が伍郎と同じ学区域であった雫那が、この辺りに住んでいるという可能性自体ありえないのだ。

(あれ? でも高校に入って引っ越したってことも考えられるよね……?)

 そんな風に真二が色々な可能性を考えていると、その思考対象である雫那本人は、人の群をいとも簡単に捌いて駅の出口を潜っていた。本当に風邪をひいているのだろうか? と思うくらい素早い身のこなしで街に消えていく雫那を、真二はとりあえず追った。


 そして今に至るのである。真二はどういう訳だか、自分の家への帰り道を歩いていた。とりあえず雫那の後を追うことにした真二は「これってストーカーって言うんじゃなかったっけ?」と、思ったりもした。しかし彼女が歩いている道は、何故か自分が東京に出てきて住んでいる場所がある方向と同じ。しかも道順もまったく同じ。真二としてはただ単に帰り道を歩いているだけなので、後ろめたいことをしている訳では無い……のだが

「これって、あとをつけてるみたいだよねぇ……」と、思わずぼそっと呟いてしまう。

 雫那の一〇メートルほど後方を歩いている真二。相手の体を気遣って声をかけようとしているので、さっさと近付いて喋りかければ良いのだが、雫那が早歩きのような速度で進んでいくため、なかなか切っ掛けが掴めない。置いていかれないように歩調を合わせるだけで精一杯だ。そして、凄い速度で躊躇無く進んで行く後姿は、この街には何度も来ていることを現している。彼女が目指している場所は、何度も通った場所なのだろう。

(楠木さんて、この街詳しいんだろうなぁ)

 多分自分より何年も前からここで活動しているのであろう雫那に、今度街を案内でもしてもらえたらなぁ……と真二が夢想していると、雫那はとある建物の敷地の中に入っていった。狭い路地を幾つも通り抜けてたどり着いた、周りの古い街並みの中でも更に古ぼけた建物。どうやらそこが目的地らしい。しかしそこは真二にとっても目的地である筈の場所だった。

(え……えええええぇ!?)

「錫白高校男子寮」と表札の掲げられた、小さなアパート。そう、そこは、真二が首都艦での住居としている場所だったのだ。真二がこの錫白高校を選んだ大きな理由として「公立高校で寮がある高校」というものがあった。高校入学と共に首都艦に出る決心をした真二がまず最初に抱えた問題は「住み処をどうするか?」であったからだ。生活と学業に費やせる予算が潤沢にあるわけでもないので、家賃や生活費も安く済む学生寮がある高校に入学するのが望ましいのだが、基本的にそういう施設が完備されているのは私立高校が殆どだ。

 学費を考慮して公立高校を最初から受験する事に決めていた真二は、やはり別にアパートを借りなければいけないなと覚悟していた時に、たまたま見つけたのが錫白高校ここだった。

 錫白高等学校は、都外遠方から入学を希望する生徒の為に、公立の学校としては珍しく寮が完備されていたのである。元々が男子校だったので、寮施設の設置はその時の名残らしい。しかし、近年社会問題にもなっている少子化の所為で、寮を利用する生徒も少なくなった。しかも当時そのままの形を継承して寮は男子専用であり、生徒の利用者数の減少に更に拍車をかけていた。しかも遠く県外から来る生徒にのみ開放される施設というルールは公立校らしく適用されたまま。昔の時代ならいざ知らず、現代では相当な山奥の学生でも、高校卒業までは地元高校に通ってそれから上京というのが一般的な考えだろう。以上のように様々な要因が重なり予算削減という見地から、前まで校舎の近くにあった百人単位を収容できる旧寮は数年前に取り壊され、その代替としてこの古アパートを新寮として学校が丸ごと借りたのである。とりあえず寮があるという旧来の体制だけは残して、国からの助成金の供給は途絶えさせたくないという企図の具現である。しかし、その思惑のおかげで真二は安い費用で高校進学と首都艦進出の二つを叶えられたわけだから、そんな目論見にも感謝せねばなるまい。

 雫那はその、真二が住むアパートの敷地に消えた。出てくる気配はない。扉が開いたような気配も無いので、建物の中に入った様子もない。一体楠木雫那は何のためにここへやって来たのか? 雫那の体を心配する気持ちも大きいのだが、その興味も真二の中で大きくなってきた。彼はその目的を達する為に、我家の門を抜ける。

「……」

 錫白高校男子寮であるこのアパートには、庭がある。三部屋ずつの二階建てアパート自体の敷地面積と、ほぼ同等の結構大きめの閑庭かんてい。何故東京のど真ん中でこんなにも広い庭があるのかというと、街自体が古いので戦後復興期に立てられそのまま現代まで残っている建物には、意外にもこんなに大きい、時代から取り残されたような茫洋とした庭がついている建築物が多いのが理由だ。真二がアパートの壁から覗くと、その庭の向こうに雫那の姿があった。隣家と塀で仕切られた庭の隅に立膝の姿勢でしゃがんでいる。

(確かあそこにはマンホールがあったんじゃなかったっけ? しかも四角いやつが)

 真二は首都艦に出てきて様々なものを始めて見たが、その中の一つに「四角い形状のマンホール」というものがある。丸いマンホールの存在しか知らなかった真二は、このアパートに初めて連れられてきた時、それを見て酷くびっくりした覚えがあった。四角いマンホールは形状的な問題として「蓋がマンホール内に落ちてしまう」という危険性を孕んでいるため、現在は殆ど作られていない。だからマンホール自体が新しい存在である地方では、四角い形状のマンホール自体を見る機会が無い。

 雫那はそんな、先進的な街だからこそ未だに現存している古めかしい四角い鉄板の手前で鞄を開くと、中から短めの棒状のものを取り出した。特徴的な形状の持ち手。更に持ち手の先は分厚いカバーで覆われている。普段の生活の中ではあまり御目にかかれない形状の物体。それはRPGなどでグラフィックとして表示される小型の刃物に良く似ている。それを見て真二は「短剣見たいだなぁ」と何となく思っていると、雫那は躊躇もなく、それを抜き放った。街灯に照らされた刀身が一瞬煌めく。思わず声が出そうになって、慌てて口を押さえる真二。

(え……え、ホンモノ!?)

 しかし雫那は真二の気配にまったく気づいた様子はない。熱を帯びて集中力が緩慢になっているのか、普段の雫那であればほんの少しの変化で敏感に反応しそうなこの場面でも、そんな気配は見られなかった。雫那の手に握られた短剣。それは片刃の直刀で、刃の反対側がギザギザに刻まれた作りになっている。山育ちのおかげで目の良い真二は、そのギザギザの背が妙に揃ってなく、不規則な突起を並べた作りになっているのが見えた。

(なんであんなにでこぼこなんだろう……なんか鍵みたいな)

 人を殺傷できそうな武器を雫那が携帯していたという事実よりも、真二はそっちの方が気になった。確かにきまり正しくない乱杭の歯は、古い錠前を開けるクラシカルな鍵に見えなくも無い。事実真二のアパートも古いだけあって、まるで旧時代の錠前を開けるような古めかしい鍵がいまだに使われており、以前伍郎に見せた時「お前んちは本当にロープレの宿屋みたいだな?」と思いっきり笑われたことがあったりもした。真二がそんなことを思い出していると、雫那は自分の行動でその不思議な短剣の正体を明かしてくれた。

 短剣の刃を下に向け、躊躇無く蓋に空いた穴に突き刺した。金属の擦れる音が小さく響くのを確認すると、今度はそれを九〇度捻る仕草をする。金属同士が噛み合いロックされていたものが開放される音が庭にこだます。それは真二の耳にも充分届く大きさだった。

(やっぱりあの短剣……鍵だったんだ!?)

 雫那は再び鍵の短剣を九〇度回すと、それを抜き取り鞘に収めた。そして今度はマンホールの前部に取り付けられたフックを引き上げ、持ち上げる。重々しく分厚い鉄板が動く。音は殆どしなかった。ある程度開くと蓋はそこで止まる。雫那が手を離してもそのままだ。通常の取り外し式のものと違い油圧か何かで固定できるようになっているのだろうか?

 準備を済ませた雫那は鞄を持つと、開いた蓋の下に身を躍らせた。内側にも付いているらしいフックを握り静かに入口を閉じる。後には何事も無かったかのように少し錆の浮いた鉄の板だけが残された。真二は一連の流れるような作業を硬直したままずっと見ていた。

「……」

 一体雫那はなにをする為にここへ来たのか? いや、今はその疑問だけでは収まらない。

 雫那は一体……何者なのか? そして、自分が住んでいるこのアパートの地下には、一体何があるのか? 真二は頭の中を揉みくちゃにされたような感覚に陥っていた。

 何をしたら良いのか、何が起こっているのか……自分は、何を見たのか?

 マンホールの蓋を開くという現実では滅多に遭遇できない光景。鍵の形をした短剣という非現実の光景。そしてそれをなしえた雫那という、現実に存在する筈の少女。様々な種類の情景を一気に叩きつけられ、真二の思考は混乱寸前だった。

 そして彼の身内には混乱の他に、もう一つの感情が芽生えていた。恐怖。そう呼ばれるモノ。それは、他のクラスメイト達が雫那に対して抱く、最初の感情と同じモノ。今まで真二だけは彼女に対して感じた事の無かった心情が、今ここで現れ始めた。

 一体自分はこれから何をしたらいい? 何を、したら?

 ……逃げる? ここから逃げ出す?

 幸いにも自分がもたれかかっている壁は、自分の家の壁だ。固まってしまった体を無理に動かせば、なんとか自分の部屋までたどり着けるだろう。そしてそのまま布団を被って寝てしまえば良い。そのまま何もかも忘れてしまえば良い。忘れられなければ見なかったことにすれば良い。そうだ、それだけ頑張れば、また変わらない日常に戻れる。朝になれば学校に行って、伍郎とまたゲームの話をして、そして楠木さんと挨拶を交わして……

「楠木さん」

 思考の過程で最後にたどり着いた言葉を、口に出す。それはつい先ほどまで自分が追っていた者の名前であり、今はこの下にいる筈の少女の名前。

 自分はなんの為に此処にいる? 自分はなんの為に此処へ来た?

 そう思った時、雫那がマンホールの底に消えていく時に見えた横顔が思い出された。夕暮れを過ぎて宵の口に入った今、身を翻してマンホールの中に消えていく彼女の顔は、そんな薄闇でも判るくらい赤くなっていた。もう四〇度近く熱があるのかも知れない。そうだ、自分は彼女の体を心配して、此処までやって来たんじゃないか。その終着点が自分の家であっても、その目的は変わらない筈だ。それに自分の家自体は目的地じゃない。彼女は更にその先にいる。

 恐怖の感情が薄まり、体外へ流れ出す。変わりに彼女を想う熱い感情が潤滑油となって、固まった関節に流れ込んだ。

「……行かなきゃ」

 体の硬直が解けた。手足が自由に動く。逃げ出すなら今だろう。何も知らないフリをして明日も雫那に挨拶すれば、変わらない日常を送れる筈だ。

 しかし、真二の一歩は、前に向かってしっかりと踏み出されていた。


「これかな?」

 雫那が消えたマンホールの前にたどり着いた真二は、彼女が開閉の為に使ったらしいフックを引き出した。それを掴んで引っ張りあげる。内側から鍵のかかる構造であったらもうここで諦めるしかない。その時は風邪薬や毛布を持って彼女がここから出てくるのを一晩でも待つ覚悟だった。しかし扉の鍵は彼の想いをくみ取ってくれたのか、重々しく口を開けた。空気の抜ける音が響く。

「……暗いなぁ」

 中を覗いてみると、その奥にはまず階段があった。外の明かりが入って入口近くまでは見えるのだが、途中からまったく光が届かず、完全なる闇。昨日、郵便局を探す最中に迷い込んだ地下街へ通じる階段もかなりの薄暗さだったが、これはその比では無い。一切の街灯も星明りも無い故郷の闇夜を何度も歩いた真二ですら、戦慄を覚える程の黒き闇。

 真二はその深い闇を見て身を震わせたが、覚悟を決めて中に入った。

 蓋を閉める。蓋を閉める必要性があるのかどうか判らないが、自分は雫那には黙って後を追っているのだ。できる限り現状を維持して進んでいかなければ彼女に悪いという責任感に従って扉を閉めた。外光すら一切入らない完全なる闇の世界。その中に人工的な輝跡が走る。真二がポケットの中に入れておいた懐中電灯のスイッチを入れ、階段の先を照らしたのだ。

 それは普段から鞄の中に常備されている道具アイテム。陽が落ちると足元すら見えなくなるほど暗くなる土地で育った者であれば、夕方以降外を出歩く場合は必ず持って歩くもの。先日タイプライターを取りに郵便局を探しに行った時も、傘は入れていなかったのにこれだけは入っていたという品。夜でも明るい首都艦で生活するのには、殆ど必要なくなってしまったのだが、それでもいまだに手放せないのは、それだけ生活にしっかりと染み込んしまっているから。そんな嘗ての生活必需品がこんな特異状況で役に立った。とりあえず周りを照らしてみる。

 全体的に石を積み上げられて造られた壁、そして階段。何十年、何百年とそのまま放置されていたことを表すように、至るところに苔が生え、青みがかかっている。

「……とりあえず下に降りてみよう」

 びっしりと生えた苔に足を取られないように注意しながら、真二は階段を下る。昨日も同じように地下へとつながる階段を歩いた。どきどきしながら階段を降りていったあの高揚感。そして興奮気味に歩いていった地下通路。しかし、この謎の地下へ通じる階段を下っていこうとする爆発しそうな緊張感に比べれば、そんなものは子供だましも良い所だと思い返す。

 そしていつも気になっていた雫那の眼。偽物で満足し喜ぶ愚か者を愁いた、沈んだ光の瞳。こんな場所を知っていて、こんな場所に何度も入っているのなら、RPGの話をして盛り上がっている自分たちに向かってあんな色の瞳をしてもおかしくない。そう思うと、言葉が零れた。

「本当に、ほんとうに……ホントウに、ここは本物の地下迷宮!?」

 その軽い叫びが、狭い階段を上下に反響していく。

「わわっ」

 思わず自分でも驚くほどの大きな声になってしまって真二が慌てて口を押さえる。

 そして一〇メートルほど降りただろうか、一つの空間にたどり着いた。今自分が住んでいる六畳間くらいの小さな部屋。照明も無いのになんだか薄明るい。良く見ると壁や天井に群生している苔が、微かに発光していた。

光蘚ひかりこけ……かなぁ?」

 リアルな描写のゲーム等では本来暗いはずの迷宮内が明るくなっている理由として、この「光蘚が生えている」という表記がされることが多い。だから真二もその存在は知っていて、前に調べてみたこともある。全ての光蘚が指定されている訳ではないが、首都艦の数少ない大量群生地のものは天然記念物指定を受けている。

「まさか首都艦の地下で天然記念物が見られるとは思わなか……」

 そこまで思わず呟いた真二は、現状を見て口が止まった。今、自分がいる場所は、天然記念物どころの話では無い場所だ。首都艦の地下、しかも自分が住んでいるアパートの地下に、こんな非現実的な場所が存在する。そっちのほうが余程驚くべきことではないのか? 真二は光を発する蘚程度でびっくりしてしまっている自分自身に苦笑しつつ、改めて周りを見回した。

 この小部屋の壁は四つ。普通に四角い部屋らしい。その一つは自分が今降りてきた階段。もう一つは先へ続く通路となっていた。隣の一つは壁。そして最後の一つも壁だったようだが

「回転ドア? ……と、隠し通路?」

 壁の中央が九〇度回転している。そしてその先には通路が続いている。真二には二つの選択肢があるようだ。目前の普通の通路を進むか隠し通路らしき回転扉の向こうへ進むか。

「楠木さんだったら、どっちへ進むんだろう?」

 真二が雫那の行動を想像する。彼女はとにかく急いでいるような雰囲気だった。素早い身のこなしで人込みや街並みを抜けていく姿はそんな風に思い出される。それを考えると近道ショートカットをして先に進むのではないだろうか? このように隠蔽された通路を開く等して。

「うん、多分そうだろう」

 真二はあえて口に出して自分を納得させると、回転扉の脇を抜けて先を進んだ。

「……なんだろ?」

 先を進んでいくと終点にはポッカリと開いた穴があった。通路の終りは下に向かって四角く掘り下げられており、穴の直上には太い鎖がぶら下がっている。それが穴の下へ伸びている。

 ガチン

「!?」

 穴から下を覗こうとして姿勢を支えるために壁についた手が、何かに触れてしまった。何事かと思い懐中電灯を向けて確認すると、光の先には大きなボタンのようなものがあり、上下に並んで二つ付いている。壁に付いた真二の手は、上に付いた釦を押してしまったらしい。

「……なんか、押しちゃった?」

 驚いている間に、穴の底から何かが近づいてくる音が聞こえてくる。そしてそれに連なってジャラジャラという音。前を見ると、ピンと張った太い鎖が小刻みに震動している。

「エレベーター!?」

 状況から考えて多分そうに違いない。そう思って再び穴を見た瞬間、もの凄い勢いで、四角形の板が上に向かって突進してくるのが見えた。

「うわぁ!?」

 思わず体を仰け反らせる。そして彼の鼻先を昇降機エレベーターが通過した。昇降機枠に跳ねられるという珍妙な事故を危うく免れた真二の目の前で、四角い移動式の箱が静止した。チンという間抜けな音が、更に間抜けな姿勢で固まっている真二の耳に届く。

「……こんなものまであるんだ」

 真二の目前にやってきたのは、扉の無い中身が剥き出しの昇降機。中を覗くと全体的な造りは木製で、所々を金属で補強してあるような構造。多分この先へ進むには、この木造昇降機を使うしかない。

 恐る恐る足を一歩踏み出してみる。ギシッと軋む音と共に、昇降機全体が揺れる。しかし思いのほか底板は頑丈そうだ。自分ひとりが乗ってもいきなり床が抜けるといったことはないだろう。

 真二は一人気合を入れると、躊躇なく中へ乗り込む。もうここまで来たら覚悟は決まったものだ。内壁を見回すと入口近くに、先ほど外壁にあったものとほぼ同型の釦が、同じように二つ並んでいた。階数表示は無し。駅などに設置されているものと同じようにただ上下に移動するだけの無骨な造り。「下に付いてるんだから多分こっちが下りだろう」と少し逡巡した後、真二は下に付いているほうの釦を押した。その直後、目の前の歩いてきた隠し通路が、ゆっくりと上に流れ始めた。それに連れて昇降機が下降していく。数十秒の移動の後、昇降機は再びチンという音を小さく響かせて静止した。

 先ほどと変わらないような通路が目の前に広がる。そしてその先に同じような回転扉。どうもこの昇降機自体が本来隠されたものらしく、この隠し通路を知る者だけが利用できるらしい。真二は昇降機を降り、隠し通路を進み回転扉を抜け、本来の通路に出た。左右に伸びる石造りの道。この隠し扉は本来一本道である途中に設けられたものらしい。

 という訳で、再び道を選ばなければならない。左右どちらに進めば良いだろうか?

「どうしよう?」

 闇雲に歩いてもしょうがない。とりあえず一番の目的は雫那の発見であるので、それが達せられない事には話にならない。真二が考え込んでいると、右のほうから微量な風が流れてくるのを感じた。風の方向に振り向いてみる。静かな風。そしてその風に何かが焦げる匂いが少し含まれているのを鼻腔に感じた。

「なんだろうこの匂い?」

 しいて言えば油が少しずつ焼けていくような香り。真二はこの匂いをどこかで嗅いだような気がしていた。記憶の中の小さな出来事。幼い頃豪雪で停電した時、良く使っていた照明器具。

「ランプ?」

 そう、ランプだ。灯心を発光させる石油が緩く燃える匂いにこれは近い。つまりこの風が吹く風上にはランプかそれに似た照明を焚いている者がいるという事になる。真二は鼻をくすぐる匂いに誘われるまま、風と油が漂ってくる方へ歩き出した。そしてある程度進んだ時、風の音の中に「こほこほ」という咳き込む音が小さく混じっているのが聞こえた。

「!?」

 それは雫那が咳き込んでいる音に違いない。遂に完全に風邪をひいてしまったのだろう。

(楠木さん!)

 そう思った瞬間、真二は風の吹く方へ駆け出していた。そして長い通路を走り、角を曲がった先に……いた。曲がった先の最奥に、雫那はいた。マンホールの蓋を開けた時と同じような片膝立ちの彼女の向こうには、今度は鉄の板ではなく、木の箱が一つあった。板木を組み合わせた本体を鉄板と鋲で各所を補強した、映画やアニメで良く見るような宝箱そのままなデザインの箱。神田の地下街で見たモノなど問題にならない――本物。

その手前には角張った形の発光体。ランプの亜種、ランタンだ。あれが油の焼ける匂いの元に違いない。雫那はそのランタンの灯りを頼りに、宝箱の蓋を開いて何か作業をしていた。真二が通路から飛び出したのにも気づいていないほどに集中している。

 彼女は鞄から豪奢な作りのガラス瓶を取り出すと、それを宝箱に収め蓋を閉める。そして錠前の辺りで何か細かい作業を始める。中身を取り出し難くするために、鍵に罠をかけている、そんな雰囲気だ。細かい作業がしばらく続き、そして終了した。額に浮かぶ、作業の緊張感と体の不調で浮き出したものが混ざった汗を拭って、雫那が一息つく。

「……誰だ!?」

 その時、彼女は気づいた。背中を射る視線を。そして自分の脇を光線が切り裂く。ダンジョン内ではありえない人工的な強い照明。何故こんなにも誰かが接近しているのに気づかなかったのだろうか? 自分はそんなに思考が鈍るほど熱を帯びているのか? 雫那は様々な後悔の念を覚えつつ静かに立ち上がり、振り向いた。

「楠木さん!」

 其処には少年が一人立っていた。錫白高校男子――自分がとりあえず今年から通うことにした高校の制服を着た少年。しかも雫那はその少年の顔を知っていた。彼はクラスメイトの一人。名前は武藤むとう真二。隣の席の者だ。そして教室内でわざと消さないでいる嫌悪を呼ぶ程の強い気配を感じても、それでも挨拶を交わしてくる少年。右手に懐中電灯、左手には通学鞄、体は学生服のみという、この迷宮四階では驚くほどに軽装備の人物。そんな彼が其処にいた。

「楠木さん!? 大丈夫!?」

 真二が声を上げる。作業が終わったのか、立ち上がって振り向いた雫那の顔は、予想以上に紅潮していた。普通に考えれば立っているのも辛いと思うほど、彼女の顔は赤い。

 そんな雫那の体の輪郭が一瞬ブレた。

「!?」

 真二の目前から雫那の姿が消える。倒れたのかと思い視線を下げようと思った瞬間、自分の脇を突風が吹き抜ける。そして風が収まった時、真二は後ろから誰かに強く締め付けられた。

「わ!? え!?」

 羽交い絞めにする相手、雫那。左手で真二の体を固定し、右手には何時の間にか抜き放たれていたマンホールを開錠するために使った短剣が握られ、首筋に当てられている。

「どうやって、此処へ来れた?」

 雫那の問い。それは余りにも冷たい声。普段の雫那も金属質のひんやりとした声だが、これは明らかに性質が違う。その声に触れただけで心臓が凍りつくかのような、凍結感。別人に変わり果てたかのようなその声を聞いて、真二は胸を氷の刃で貫かれたかのような衝撃を受けた。だから質問にも答えられず、ただ相手の名前を呼ぶしかできない。

「……楠木、さん?」

「キミは解錠ノ剣キークリフを持っていない。そしてキミの関係者にも鍵剣の所有者はいないはず……」

 ――かぎつるぎ……?――

 その台詞と同時に、自分の首筋に当てられた短剣に視線が動く。

 ――そうか、これは鍵剣っていうのか――

 自分の命を絶とうとするかもしれない道具の名前が判って、真二は妙な感慨を受けた。

「ダンジョンに入る資格の無い者がダンジョンに入り込み、あまつさ迷宮仕事人ダンジョンワーカーズの姿まで見た。不用意に知ってはいけない情報を得てしまったキミを、生かしておくことは出来ない」

「迷宮……仕事人!?」

 雫那が語ったもう一つの胡乱な言葉。それは雫那自身の立場を表す言葉であるらしい。

 仕事人ワーカーズという一般社会でも通用する言葉に、迷宮ダンジョンという現代社会ではありえない場所を表す言葉の組み合わせ。空想と現実をつなぎ合わせる、正体不明の言葉の羅列。その言葉が、雫那を胡乱な者として見る代表ともいえる伍郎の意見を思い出させていた。

『アイツには近付いちゃいけない独特の雰囲気がある』

 中学生生活を彼女と同じ学習空間で過ごした伍郎は、三年という長い時間をかけて本能的に雫那の正体を感じていたのだろうか。そしておぼろ気ながらも、確信に近い答えを得ていたのか。そしてそれを高校での一番の親友である真二には伝えていたのか。

(そうか、この事だったのか)

 今更ながらにして、友人の忠告をちゃんと聞いていなかった自分を伍郎に対して申しわけなく思う。しかし、事前にその忠告の正体を理解していたとしても、自分の今までの行動が変わるのだろうかと思うと、疑問にも思う。

「……どういう理由でキミがここまでたどり着けたかは判らない……わたしにも不注意があったのだと思う、でも……キミには申しわけないけど……事故にでもあったと思って……諦めて」

 その言葉と共に、鍵剣が強く押し当てられる。一番外の皮膚が薄く裂かれ、血が滲む。

 しかし、雫那の口調がおかしい。途切れ途切れに紡ぎ出された言葉には、先程までの冷然とした迫力が欠けている。押し当てられた刃も力が入らないのかそれ以上進んで来ない。

 そして決定的な出来事。雫那が「こほこほ」と苦しそうに喉を鳴らす。それが真二の耳殻じかくを突き抜けた。その咳き込みを聞き、真二の中の恐怖が一瞬にして消し飛んだ。

「楠木さん! 大丈夫!?」

 命が侵されようとしているのに、自分を狙う相手を気遣う言葉を、彼は叫んでいた。心の中の思いが口を吐いて出た。魂の叫びとも言えるものが、雫那の体に浸透する。

「……!?」

 真二の言葉が、ギリギリのバランスで保たれていた雫那の精神と体を、崩す。

「武藤くん……」

 雫那の瞳が一気に濁る。今までなんとか精神力で体の内側に押し込めていた高熱が一瞬にして彼女を侵食した。緊張の糸がブツリと切れた雫那の体はそのまま後ろにくずおれる。

「楠木さん!?」

 真二が支える間もなく、背中から倒れこむ雫那。

「楠木さん!? 楠木さん!?」

 真二が絶叫する。しかし雫那の瞳は固く閉ざされ、その意識は暗い深層へと落ちていった。

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