第1話 混凝土密林の地下迷宮

 混乱都市ケイオスシティ

 この街を一言で表すならば、このような言葉になると思う。

 多種多様な異客いきゃくと、多種多様な様異さまことが組み合わさってできた街。そんないつ暴走しかねない混沌の集合体の中に、何故だか自分はすんなりと混じることができた。

 自分が生まれ育ったのは、予定調和と表裏な笑顔しかない、感情が固定された場所。

 そんな安定しか知らなかった自分が、不安定で構成されたこの世界にいる。それもごく当たり前のように。つい最近都会に出てきたことを隠していれば、もう何年もこの街で暮らしてきた人間のふりもできると思う。

 なぜだろう。自分が生誕した場所では、こんなにも早く土地の者として馴染むことは無理なのに。一生無理なことだってあるのに。

 異の存在である自分がこの街に交じっても、誰も不快な顔をしない。

 そう、不快。自分の育った場所では、異なるものが交じるのは、誰も快く思わない。表の顔は新しい仲間に優しい笑顔を向けていても、裏の顔は新風に対する恐怖の顔。

 安定を崩すかも知れぬ者に対する、射るような危険を孕んだ瞳。その安定が村に緩やかな滅びをもたらすものであっても、その土地に息衝いてきた者は愚直なまでに安定を求む。

 新参者が旧き土地に受け入れられるのは十年後か二十年後か? はたまた百年かかるのか?

 一人の異人。先人の瞳。誰も彼もが、異の者を見ている。たった一つ異の存在が増えただけで、恐れおののき注視しあう。それが今まで僕の住んでいた場所。

 でもこの巨大な街は違う。十年もかからない。この街で暮らすだけなら一日あればこの街の住人になれる。

 何故? 人の数が多すぎるから? 自分一人が増えても誰も気にしない?

 否。

 この街以外の大都市では、外から交じってきたモノはこんなにも支障なく溶け込めない。

 この混乱都市が内包する力。拒み、でも誰でも受け入れてくれる力。

 拒む力は、そう、自分の中にしか存在しない。最初に拒もうとする障壁を自分の中で崩すことができれば、この街は受け入れてくれる。無愛想だけど優しい力。

 この混沌とした聚落しゅうらくが、この国の首都として機能しているのはある意味不自然であるけれども、ある意味必然であるのかも知れない。

 拒み、でも誰でも受け入れてくれる街。たくさんの人。たくさんの瞳。

 でも誰も、僕のことを見ていない。

 そんな異常な普通だからこそ、自分はこんなにも早く混じることができたのだろう。


 オレンジに彩られた列車が走る。首都艦の主軸を通るように引かれた路線。そこを走る二百メートルを超える長大な車体。首都を動かす人員を今日も大量に運ぶ橙の車輌。

(……ふう、今日もすごい混雑だなぁ)

 スシ詰めになった車内で少年が心の中で不平を洩らす。詰襟の学生服に包まれた体を、微かに開いた空間に押し込まれるように体を反らさせられた少年。歳相応の幼さの残る猫っぽい可愛い顔立ちをしているが、なよなよとした印象はあまり感じさせない。大自然でのびのびと育つと完成するような、おおらかさと精悍さが混ざったようなそんな雰囲気。小柄な体格と相まって「山猫」という印象を何となく感じさせる。

(なんでみんな平気な顔をしているんだろう……)

 雷おこし、都下で栽培される独活うど、そしてこの早朝の通勤ラッシュ。上京する時に兄に教えられた、首都艦に存在する主要名物が三つ。他の乗客に挟まれ、半ば浮き上がるように爪先立ちを強要されている少年は、教えられた名物の一つを今まさに体験していた。

 名は武藤真二むとうしんじ。高等学校進学と共に首都艦に上京してきた、高校首都艦デビュー組みの人間だ。彼が都会慣れしていないエキゾチックな雰囲気なのは、そんな理由。

 真二の住んでいた土地は、電車は一時間に一~二本程度、しかも最寄の停車駅にたどり着くまでバスで小一時間かかり、更に路線自体も今から十年程前にやっとできたという土地。確かに観光シーズンには乗客の数も増え、スカスカの車内もそれなりに埋まるが、こんなおしくらまんじゅうをしているような状態になるワケがない。しかも首都艦ではこんなことが毎日行われているらしい。

(まるで異世界だなぁ)

 再び心の中で少年が不満を洩らす。彼が物心ついた時から住んでいた故郷に比べれば、この首都艦という街は充分異世界と呼んでもおかしくないのかも知れない。彼が以前住んでいた土地の住人を全員合わせた数よりも、この電車に乗っている乗客の数の方が上回る。村民全員以上の人間が、たった一つの輸送機械に乗って移動している。それは充分異世界の出来事。事実、この首都艦では故郷よりも時間の流れが大きく違う感覚を何度も覚える。

「……?」

 少年が人いきれに耐えかねて少し首を廻らせると、自分と体二つ隔てた場所に、出勤途中らしいスーツ姿の女性が見えた。柱が屹立するように伸ばされたつり革を掴む腕の隙間から見えた彼女は、自分の手前に空いたちょっとした隙間に文庫本を広げている。

 少年にはその光景が余りにも非現実的に思えた。

(なんであんなことできるんだろう?)

 すし詰めの車内。身動きすら取れない車内。そんな中、彼女はまるで自分の周りに結界でも張っているかのように、顔の手前に開いた小さな空間で平然と読書を楽しんでいた。

 魔法でも使ってるんじゃないのか? 真二にはそんな風に思えてしまう。

(やっぱ、首都ってすごいなぁ)

 今日もまた新鮮な驚きが一つ。今まで何も変わらない大自然しかなかった場所からやって来た少年には、ただ学校へ移動しているというだけで、様々な発見がある。

 ここはそんな街。拒み、でも誰でも受け入れてくれる、そんな街。


「と、とうちゃく~」

 学校に着き自分のクラスにたどり着いた真二は、席に付くなり机に突っ伏した。国を動かす首都から毎日様々な驚きをもらう代わりに、ヘトヘトになりつつ学校へと辿り着く。入学以来、ずっとこんな調子。

「よ、真二、今日もお勤めご苦労さん」

「……おはよう、伍郎」

 そんな真二に前の席から声がかけられ、顔だけ何とか持ち上げて応答する。確かに彼の言うように今日一日の仕事をこなしたかのような疲労感があるのは確か。

 伍郎と呼ばれた彼――相坂伍郎あいさかごろうは、真二が東京に上京し高校に入学して、そして一番最初にできた友達であり、今のところ唯一の友人だ。顔立ちは可もなく不可もなく、二十一世紀を生きる現代っ子の標準からは逸脱していない。真二に比べて肌も白く痩身なのも相まって、典型的な都会で生まれ育った少年といった趣。付き合う分には害も無いが、同窓会などに出席すると「お前……誰だっけ?」と言われてしまいそうな何処にでも居そうな少年――といったら彼に失礼だろうか。

「疲れてるとこ悪りィけど聞いてくれよ」

 そんな彼がいつものように、いつもの話題を真二に持ちかけてきた。

「ロンドル山の洞窟あるだろ? あそこの奥に実は隠し部屋があってさ」

「え!?」

 伍郎の言葉に反応して、真二が跳ね起きた。

「僕もあの洞窟はほとんど探したよ!? 一歩歩いてはしらべるのコマンドだってやったし!」

 疲れが一気に吹き飛んだかのような顔で尋ねる真二。

「それがだなぁ、魔封じの首飾りアミュレットの場所を知らせる輝きの笛ってアイテムあるだろ?」

「うんうん、それでそれで?」

 伍郎の話を真二が興味津々で続きを促す。入学式を経て高校生としての生活もひと月半程が経ったが、こんな短い間の付き合いしかないのに、二人は長年の旧友のように言葉を交わしている。お互いの仲をこんなにも急速に深めたのは二人に共通した趣味のおかげ。

「あれをロンドル山の一番奥の部屋で吹くと隠し階段が現れるんだよ」

「えーっ!? うそぉ!? 知らなかったよぉ!?」 

 彼らの共通の趣味。それはテレビゲーム。だが、テレビゲームという存在は現代っ子にとってはトランプやオセロなどと同義のありふれた遊びの一つでもある。では何故、そんな現代に生きる子供にとっては生活の一部のような趣味で、こんなにも意気投合したのかというと――

「……でも、笛を吹くなんて簡単な方法なのに、なんで今まで見つからなかったのかな? もう二十年くらい前のゲームなのに」

「それがさ、隠し部屋に通じる階段が現れるのはその部屋そのものじゃなくて、一番手前の部屋の、ドットの影で隠れてる部分に出るんだよ」

「うわぁ……さっすが昔のゲームだねぇ、それじゃわからないよ。今のゲームじゃ考えられない隠し方だね」

「はっはっは、その誰もわからんような隠し部屋とかが平気でゴロゴロしてるのが良いんだよなぁ~、やっぱゲームは昔のものに限るぜ」

 そう、彼らはゲームもゲーム、レトロゲームが共通の趣味だったのだ。それもお気に入りは二人ともRPG《ロールプレイングゲーム》。解析機関により術式が注入された集積回路により起動する電子ゲーム機が二十年以上前に作られ、当時の主流RPGを二人ともやっている。そのプレイ報告をするのが最近の彼らの日常。

 そして二人がこんな風に短期間で仲良くなったのは、意外にも真二の方から最初の話の手がかりとして、伍郎に話しかけたのが切っ掛けだった。


 入学式から半月ほど経ったある日。都心に出て来たばかりで周りには知人もなく、とりあえず高校が始まったらまず友達の一人くらいは作らなければなるまいと、真二は当然のように考えた。常に人付き合いを気にしながら生きていかなければならない土地から出てきた彼には、この首都艦という街ではたった一人でも生きていけるという感覚が判らない。更に、中学生までは学校の生徒全員が幼少時からの付き合いの人間ばかりという状況で育った彼には、この歳になっても成り行きに任せて自然と友達ができるという感受性が発達していない。

 そんな理由なので他人ばかりの首都艦で友人を作るには、実際に「友達になってください」と言って声をかけないとできないのではないかと、真二は真剣に考えていた。都会の人間でも本当にそんな風にして交友を深めていく者もいるが、それは稀な例だろう。

 そして真二の場合は、なぜ伍郎かれが対象になったのかというと、まず、入学式の翌日に委員決めと席変えが行われたところに話が進む。委員決めは基本的には立候補を募るが、立候補の無い委員はくじ引きで決められる。特にやりたいものが無かった真二は、くじ引きに臨み保険委員を引き当てた。これは別に何も問題は無かったのだが、その後行われた席替えで、真二の席は廊下側の一番奥という場所に収まってしまったのだった。

 素行の悪い生徒にとっては授業中も寝れるしエスケープも簡単と好条件の席なのだが、人の少ない地域の学校で義務教育を終えてきた真二には、この席の効果はまったく意味を成さない。地方の学校は生徒数が極端に少ないものだから、そんなことをしたら直ぐに見つかる。だから授業中の睡眠や授業を脱出するという概念すらない。しかも背の低い彼にとっては黒板が見えにくいという、逆に条件の悪い席であったりもする。

 だからそんな席になってしまった彼には、もう前の席の者に声をかけるしか選択肢が残っていなかったのだ。ちなみに右側は壁だが左隣にはちゃんと席があって隣人がいる。しかし男子の列の隣は自動的に女子の列になってしまう。一度は彼女にも声をかけようかと挑戦しかけたが、まったく見識の無い異性に声をかけられるほど彼は人生経験を積んでいない。以上の理由により、真二は勇気と責任感と強迫観念を振り絞って、とりあえず前の席に座っていた彼に声をかけたのだった。地方から出てきてまもない少年が、知り合いでも何でもない相手に声をかける。清水の舞台から飛び降りる――とはこんな時にこそ使う比喩なのだろう。

 とりあえず挨拶から始まり、出身校やらの自己紹介の後に趣味の話になった。

 そして、地元ではゲームなんかそんなに手に入らないから、父親がまだ若い頃に冬時の暇つぶしに買っておいた大昔のゲーム機でいまだに遊んでいると真二が話すと「俺も昔のゲーム好きなんだよ!」とそこから話が弾み、今に至るのである。

 共通の趣味が、初見の者同士の疎通を早める効果があるのは実証されている。そんなわけで、つい先日まで違う土地に住んでいた二人は、一気に意気投合してしまったのだった。

「俺さぁ、RPGやってて一つ不思議に思うことがあるんだよね」

 ひとしきり、二十年前の解析機関が気まぐれで設置したとしか考えられない隠し部屋の発見の自慢話に花を咲かせていた伍郎が、急に話題を変えた。

「不思議?」

「宝箱」

「宝箱?」

 伍郎の発した素っ気ない疑問に、真二が何の疑問も無しに同じ言葉を繰り返す。

「宝箱ってさ、ダンジョンだったらどこにでもあるだろ? あれって誰が置いてるんだろうって、いつも思うんだよね。パスワード入れてログインし直したら復活してる宝箱も、昔のゲームじゃ多いし」

「う~ん、宝箱か……」

 地下迷宮に宝箱。それはコーヒーに砂糖、ショートケーキに苺みたいに「二つでワンセット」といった感覚なのだろうか? 多分、ゲームの中の地下迷宮に置いてある宝箱なんて、多くの人間がそんな風に思っているのだろう。地下迷宮に宝箱が置いてあるのは当たり前。喫茶店にシュガーポットが当然のように置かれているのと同じで。

 しかし、ふと思う。コーヒーだってケーキだって、なにも砂糖や苺が無くても、それ単体で成立するじゃないか……いや、頭に苺の乗っていないショートケーキはありえないような気がするが、少なくとも砂糖が無くてもコーヒーは成立する。そしてそれは地下迷宮だって同じじゃないのか? ゲームの中の地下迷宮は、ゲームなんだからプレイヤーキャラをパワーアップさせないといけないので、その為に置かれているのだろうけど、もし現実にダンジョンがあったとしたら、宝箱は果たして置かれているのだろうか?

 例えば宝箱の中身が回復薬だったとして、それの賞味期限とか消費期限は大丈夫なんだろうか? ゲームではたまにパンや野菜等の食べ物が体力回復アイテムだったりするので、そんなものが入っていたらどういう結果になるのだろう? トラップの代わり?

 そしてそもそも、その宝箱自体は一体誰が設置しているのだろう?

 伍郎の疑問を聞いた真二は、そんな問い掛けを自己の中で誘発してしまった。

「たとえばラスボスのいる最後のダンジョンとかにも置いてあるだろ? あれって誰が置いてるんだろうね? で、その中にはラスボス倒せるくらいの強い武器とか中に入ってるし、そんな物騒なもん自分の近くに置いておくなって思うわけさ」

 クスクスと笑う伍郎。言われてみれば確かにそうだ。しかし最後のダンジョンに置いてある最後の敵ラストボスを倒せる強力な武器というのは、ラスボス自身がいつか使おうと思っていたものを、冒険者一行がただ窃盗しているだけのような気もしないではないが。

 だがその「自分のコレクションを盗まれて倒されてしまうラスボス」という不条理さが可笑しくて、真二も笑ってしまう。

「あはは、そうだよ……ね?」

 伍郎の話に合わせて相槌を打とうとしていた真二は、その時不意に空気の流れが若干変わったのに気づいた。普通の人――都会育ちの人間には判らないような、微妙な風の流れの変化。ドアをくぐって誰かか教室に入って来ている。消失している足音と気配。でも空気を切り裂く自然の変動だけは消せない。そんな微細な変化に気づいて振り向くと、真二の隣の席に一人の女生徒が座ろうとしているところだった。

「おはよう、楠木くすのきさん」

 二つに結った長い髪を優雅に揺らしながら席に着いた彼女に対して、真二は伍郎にするのと同じように、気さくな朝の挨拶をした。

「おはよう」

 それに対して彼女からは至極簡潔な挨拶。

 声音のリズムを殺したまったく抑揚の無い声。味気なく素っ気ない。

「どうした真二……!」

 真二が不意に交わした挨拶を聞いて、楠木――楠木雫那くすのきしずなが登校してきて自分の席に着いたという事実を、伍郎はそこで初めて気付いた。伍郎は自分の椅子に横向きに座って真二の方を向いて喋っていた。だから楠木雫那の姿が見えていてもおかしくないのだが、それでも真二の彼女に対しての挨拶の声を聞くまでまったく気がつかないのは何故だろう? と、いつも思う。

 そして胡乱な者に対する気持ちは、そのまま声のトーンとなって現れる。

「おはよう楠木」

 真二が挨拶したので仕方なくといった風におはようを口にする伍郎。真二に対するおはようとは明らかに声の高低が違う。声質に若干含まれる怖気おぞけ

「おはよう」

 雫那も挨拶を返す。真二の時と同じ、一切の抑揚を殺した声。

 挨拶されたから、挨拶を受けた者の返答の義務に従って、挨拶を返す。明らかにそんな感じの朝のおはよう。形骸化され、何度も反芻された淡白な会話技法。

「……」

 教室内の空気が若干変わった。彼女が登校してきて、クラス中の動きが少しおかしくなる。雫那を注視する視線も多い。椅子を引く音も無く、体を席に滑り込ませる気配も無く、まったくの無音で着席までこなす彼女。彼女は高校一年としては背の高い部類に入るので普通にしていても目立つはずだが、それすらも彼女を発見する要素にはならない。

 雫那は、クラスに必ず一人はいる空気のように目立たない生徒――伍郎のようなどこにでもいそうな青年ではなく、存在感すら気体のように希薄な――と言ったたぐいではない。強烈な存在感をわざわざ消している。そんな昂ぶる印象を秘めている。

 強い存在感を持つ者はいくらその存在感を消そうと思っても、相手に自分の姿が見えている場合、その存在感を消す事はできない。

 彼女が気配を絶ったまま席に着く。しばらく時間が経ち、何かの弾みで彼女の方に振り向いた誰かが、気づく。いきなりそこに存在している彼女。彼女から放たれる無視を許されない感覚。それは連鎖反応として教室全体に一気に浸透する。室内が静まる。体を襲う嫌な感覚。それはいきなり自分の中に自分とは違う存在が入り込んできたような気配。

 一般的な人間はその感覚を「気持ち悪い」と感じる。だから正体不明の気持ち悪さを与える存在と親しくしたいとは、普通の人間は思わない。特に感情的に不安定な春機発動期の人間なら、まったく思わない。彼女がたとえどんなにすばらしい美貌に包まれていたとしてもそれは変わらない。ある一定以上の美しい顔立ちの女性は、男も女も引き付けるが、それでも彼女とお近づきになりたいとは思わない。事実、彼女の切れ長の瞳と細い顎を湛えた顔は、クラスの誰よりも綺麗だったが、ナンパが趣味といった類の男子でさえ、彼女にだけは声をかけない。もちろん女子の中にも友達になりたいと、目立った行動を起こす者はいない。

 彼女の周りには荘厳なる壁が立っている。そんなものがあったら成り行きに任せて友達にもなりようがない。だから結果として彼女は孤立する。そして雫那自身も孤立を望んでいるように見える。クラスの皆と彼女との間の溝は、このひと月弱で真二と伍郎が旧知の友のように親しくなるのと反比例するように広がっていった。それはもう、手を伸ばしても届かない距離。彼女も納得している。クラスの皆も納得している。他の人間が水だとすると、彼女は油。それも火の付いた高温の油。纏わりつく水を跳ね飛ばし蒸発させる、焼ケタアブラ。

 彼女とはもう混ざりようが無い。誰しもそう納得した。

「……おはよう、楠木さん」

 しかし、もう遠くへ行ってしまった筈の彼女に手を伸ばした者がいたのだ。恥ずかしそうにはにかみながら、しかしそれでいて他の人間のように恐怖に慄(おのの)く表情を見せない少年。

 それが真二。武藤真二。

 伍郎と親しくなって三日ほど経った頃、隣に座る女の子が、誰とも会話をしていないのに彼は気づいた。もうそろそろ会話を楽しむ友達が一人くらいはできてもおかしくない時期になっても、誰とも接触のない女の子。授業準備や各種委員会活動など学校生活に必要な会話ですら、話し掛けるのを躊躇わせる雰囲気を醸しだす彼女。例えるならばそれは、社(やしろ)の奥に安置された鋭利でそして美しき宝刀。誰にも触れることは許されず、姿を見るにも狭い隙間からそっと覗うことしかできない高貴な刃。雫那にはそんな一種独特の冷厳な雰囲気を感じる。

 そんな気高いまでに一人ぼっちな彼女に、真二は少し負い目を感じていた。

 前の席に座る伍郎に話しかけようと思った時、隣りの席の、髪を頭の両サイドでおさげにまとめた女の子にも話しかけようと挑戦チャレンジしかけた。しかし、まったく知らない他人の女の子との会話の経験のない真二には、どう切り出して良いのかまったく判らず、結局その時点で諦めた。

 教室の後ろのドアを潜り抜けて席に着くまでの彼女の動きが、空気の流れの変化で何となく判る真二には、他の皆が彼女に対して思っている不気味さをほとんど感じることがなかった。

 農作業が主な産業となっている土地では、天候を先読みする力が重要だ。作物の出来不出来は毎日の天気によって大きく左右されるからだ。それに山の天気は変わりやすい。突然の大雨で土砂崩れなど起きかねない土地では、生死に直結する重要なスキルでもある。そのような土地で農家の子として生まれ育った真二は、風に含まれる微妙な水分を感じて、雨や曇りなどをある程度予想できたりもする。実際は三分の一ぐらいは外れてしまうが、それでも十五年の人生をかけて風の流れの微妙な変化には敏感に反応できるようになった。

 そんな首都艦という鉄とコンクリートで造られた街では到底身に付けられないような技能を真二は持っていたため「気付いたら突然そこにいた」という、他の生徒が雫那に対して抱いている怪しさを、それほど感じることがなかったのだ。

 だから彼は、まだ彼女に手の届く距離にいた。あとは手を伸ばすか伸ばさないか彼が決めるだけだ。冷たく凍る氷河の底に沈む、キモチ。触れて良いのか躊躇わせる、鋭利なキモチ。

 全てを理解した上で彼は、手を伸ばした。あの時、ほんの少しだけ自分の中の勇気が多めにあれば、彼女をこんなにも一人ぼっちにしないで済んだかも知れないのに。

 でも彼女は一人ぼっちを望んでいる? 望んでいるからこそこんな行動をする?

 自分がやろうとしていることは、余計なお世話? だとしたら――どうする?

 ……それでも

 それでもやっぱり、手を伸ばさなくちゃ。まずは、ダメでも手を差し伸ばさなきゃ。

 その手を取るか取らないかは、彼女が決めれば良いことだ。

 だから

 友達ができる幸福を彼女にも分けてあげるため、真二はもう一度、勇気を振り絞った。

 伍郎の時には必要だった責任感と強迫観念の無い、ただ純粋な勇気。

「……おはよう、楠木さん」

 勇気は言葉という形になり、形になったチカラは、対象である雫那に届けられる。

「……」

 自分の席に着いた直後だった雫那は、久しぶりに自分に対する挨拶の言葉を聞く。

 彼女はほんの少しだけ驚きを表情に載せると、挨拶された礼儀に則り、答えた。

「おはよう」

 それからだろうかクラスの皆の雫那に対しての態度が微妙に変わったのは。なにしろ難攻不落であろうと思われた荘厳なる界壁かいへきを、クラスメイトの一人がぶち破ったのだから。

 真二という彼女の胡散さを打ち破る存在が現れたため、雫那に対する奇異の目が少しだけ和らいだ。バケモノを見るような眼が、変人を見るような眼に少しだけレベルダウンしたという感じではあるが。ほんの些細なことだったのかも知れないけれど、雫那という強い存在が対象だと考えれば、それはもの凄い前進のような気もするのだった。

 毎朝の儀式とも言える彼女との挨拶を終えると、真二と伍郎の会話はそこで終わる。

 伍郎は他のクラスメイト同様雫那のことが苦手らしく、彼女と朝の挨拶を交わすと妙にギクシャクし始めて黙り込んでしまう。そしてそのまま前を向いてしまう。

 真二は伍郎も混ぜて雫那と三人でなんとか会話を弾ませてみたいと思うのだが、相方がこんな状態になってしまうのでそれも出来ない。

 仕方ないので雫那と挨拶した後は、一時間目の授業の準備をするようにしている。

「……」

 鞄から教科書を出しながら、不自然にならないように隣を見る。左手で頬杖を突き、空いた片手で、真二と同じようなタイミングで出した教科書を捲っている雫那。

(楠木さん、今日も同じだな)

 本当はもっと雫那と会話をしてみたいと思う。せっかく挨拶まで出来たのだから、何かクラスメイトらしい会話をしてみたい。しかし、一体なにを話せば良いのか全く判らず、おはよう以上の進展がいまだに無い。伍郎との普段の会話の最中も、彼女との話のきっかけがなんとかないものか? と思うのだが、はっきり言って何も無い。彼女はどう見てもゲームなんかやるように思えないし、かと言って他の話題も思いつかない。いきなりファッションの話とかになっても真二にはそんなものの対応力なんて皆無だ。それに女の子の好きな話題第一位ともいえるオシャレ関係の話すら、彼女はまったく興味を示さないような気がする。長い髪を二つに分けた普段の髪型は非常に可愛いのだが、それでもヘアメイク自体には無頓着な感じ。

「……」

 だからこんな風に、常に机に顔を落としている彼女の姿を窺うくらいしかできない。

 しかし雫那の姿を良く見るようになった真二は、ある一つの事実に気付いた。彼女は、授業以外の殆どの時間をこのように、教科書を眺めて予習に費やしている。一見勉学に励む良く出来た子といった姿に見えるが、他にやることもないので仕方なく教科書を捲っている……真二には何故かそう見えていた。彼女の成績自体は良い。先生に指されても淀みなく何でも答えるし、先日行われた数学の小テストも一瞬だけ見えた彼女の答案には赤く九〇と書いてあった。

 学生なのだから勉強に励むのも良いことなのだが、せっかく高校生になったのだから、それだけではツマラナイと思う。彼女がたまに違うことをしていると思えば、教室の前の方で出来ている人垣をぼうっと見ているくらいだ。真二の座る場所から離れた席に、何時もの人だかりがある。新学期開始早々の自己紹介の時に見せた小動物的仕草が大変可愛いと、男子にも女子にも人気になった女の子の席。本人自体は極度の人見知りらしく、困ったような顔を見せて生徒の中に埋もれている。ちなみに雫那の自己紹介はどうだったのかというと、筆舌に尽くしがたく冷めたものであったと説明すれば容易に想像できるだろう。

 その教室前方の人の群れを気だるそうに雫那が見ている。檻の中で群れて遊んでいる動物の集団を鉄格子の外から眺めているような、違う空間の出来事を見ている、そんな瞳。

 余計なおせっかいだとは思うけど、相互の人間関係を大切にしないと生きて行けない土地で育った真二には、どうしても今の雫那の状況が、不自然に見えてしまうのだった。

 この首都艦という街では、誰にも干渉されず生きて行くことは可能ではあるけれども、学校というお互いが触れ合うほどの距離に多くの人間が押し込められた場所では、たった一人でいることは逆に目立ち過ぎる。雫那は無理をして今の状況を作っている。自分の故郷での生活を踏まえて学校という構造を考えると、真二にはどうしてもそうとしか思えないでいた。

「……」

 そうして彼女の様子を窺っていると、雫那がふいに教室内を覗うように目線を廻らせる時がある。雫那を見る真二の瞳が、その視線と交錯する。

「……!?」

 不意打ちを食らったように目線がぶつかり、真二は慌てて目を逸らす。ぱらぱらっと教科書をめくり、自分も予習をしているフリをする。

 何も見てない! たまたま目が合っただけ! と、心に念じながら、努めて平静を装う真二。しかし彼の心臓は大きく脈打っている。

 雫那はというと、真二がこんなにも同様してしまったというのに彼女は何事もなかったという態度で、再び自分の教科書に目を落としていた。

(うわ~、また目があっちゃった)

 激しく鼓動する心臓を、授業の準備に集中することによってなんとか抑える。

(また、あの色だったな)

 徐々に動悸が収まってくると、少しだけ垣間見えた雫那の瞳の色が思い出された。

 彼女が見せる瞳。

 本物を知っている者が紛い物を嬉しそうにありがたがっている愚者たちを哀れんでいる、そんな表情(め)に見える。そしてそれは決まって、真二と伍郎がRPGの話をしていた後に見せるのだった。嘆いているような悲しんでいるような、そんな表情。

 本物。彼女は本物を知っている? 一体何が本物なんだろう?

 真二には判らない。――まだ


「なぁ真二、お前、楠木に気があるのか?」

「……は?」

 放課後の喧騒に包まれた廊下。本日の掃除当番であり更にゴミ捨て係ジャンケンに負けた伍郎が、一緒に焼却炉に向かう連れに向かって、ぼそりと呟いた。隣りには同じようにジャンケンに負けてゴミの入った箱を抱える真二。そんな彼に対しての非常に簡潔な質問。

 余りにも直球勝負な質問に、真二は自分の予想を遥かに超えた剛速球を受けた打者のごとくポカンとしてしまう。だが徐々に、頭の中でその質問の意味が咀嚼され――

「……え? ……えええぇえぇ!?」

 放課後独特の廊下の騒がしい喧騒を一気に吹き飛ばす絶叫がこだました。

「なんだ、なんだ」と他の生徒は顔を向けるとその視線の中心には、ボンっという効果音が聞こえてきそうなくらい一気に顔の表面を沸騰させた真二がいた。

「な……なんで、なんで!?」

 伍郎の言葉がまったく理解できないといった風に、赤熱した顔を相手に向ける。

「く、楠木さんとは、ちょ、ちょっと、朝に挨拶してる、だ、だけだよっ」

「恋愛の基本は毎朝の挨拶からだろ?」

 必死の弁明を図ろうとする真二を、あっさりいなす伍郎。

「……そうなの?」

 冷静な伍郎の返しを食らって、つい素直に訊いてしまう真二。

「まぁ全部が全部そうだとは思わないけどさ、好きな娘がいたらとりあえず挨拶から始めてみようかって思うのは普通なんじゃないのか?」

 真二の住んでいた場所は、幼稚園くらいのちびっこから百歳に届きそうな婆さままで、だれでもかれでも顔を会わせたら挨拶を交わすような、村民全員が知り合いの地域。そんな場所で生まれ育った真二には「恋のきっかけのために朝の挨拶」なんて行動は、思考の許容範囲を大きく逸脱していた。

「……そうなんだ」

「それにお前ってばいつも、楠木となんとか会話しようと雰囲気うかがってるじゃないか」

「う!?」

 流石にそれは弁解できない。痛い所を突かれ、うろたえる真二。

「……バレ……てた?」

「あんなおおっぴらに、楠木のことをうかがうような仕草をしてれば誰だってわかるよ」

「……う~」

「楠木も楠木で鈍感なやつだからな、お前にちらちら見られても気にする様子も無いし」

「うぅ~」

「で、お前楠木のこと好きなのか?」

 第一球の後に投げられた、ど真ん中一六〇キロ級ストレート。それは願い違わず真二の胸部へずどんと突き刺さる。

「すすすすす、好きって!?」

 冷め始めていた顔の血流が、その言葉の作用で燃え上がる炭火にぶち込まれたかのように、再び温度を上げる。まるで焼き入れが行われている刀剣用のインゴットのような心境。

「なにそんなにびっくりしてんだよ? 俺たちはもう高校生なんだぜ? 好きな女の子の一人もできたって別におかしくないだろ?」

「……そ、そう……だけどさ」

 両頬を朱に染めたまま俯いて、ゴミ箱をぎゅっと抱きしめる真二。確かに自分は強制的とは言え、新しい生活を求めてこの街へやってきた。その新生活を自分が望む望まないにしろ、東京という街に現在の自分がいるのは確かだ。だからその過程で好きな女の子ができたっておかしくないと思う。

 でも

「なんだろ……楠木さんに対する気持ちは好きっていうより……憧れ、なのかなぁ」

 確かに楠木雫那に対する真二の態度は、恋愛感情の芽生えと見てとれるかも知れない。しかしそう思う気持ちよりも、もっと大きな違う何かが、雫那に対してはあるように思う。

「僕の住んでたところってさ、この首都艦に比べて時間の流れがゆっくりっていうか、のんびりしてるんだよね。だからそこに住んでる人間ものんびりっていうか、ふにゃっとやわらかい感じの人が多くって。だから楠木さんみたいな人って始めて見たんだ。なんていうか硬質な感じっていうか、鋭利っていうか。だから自分の知らない何かを持っている人ともっと話してみたい……そんな感じ、かな?」

 自分の素直な気持ちを真二は率直に吐露した。

 真二が野山で育った山猫だとするならば、雫那はコンクリートで出来た街で生まれ育った野良猫なのだろう。それも野良という言葉通りのみすぼらしく汚らしい印象ではなく、高い塀の上に鎮座ましまして、生き急ぐ現代人を睥睨している孤高の存在。決して首輪や鈴などで手元に引き止めておくことは不可能の、その頂点は最強の陸上肉食動物である猫科本来の高貴な姿。

「ふーん、で、珍しいもんでも見るように楠木を見てたってわけか?」

 しかしそんな真二の思いは露知らず、的確にツッコミを入れる伍郎。そんな言葉に申し訳なさそうに頷く真二。

「……楠木さんには、ものすっごく失礼だと思うけど……そんな感じ……かな」

 そして思いついたように、真二が付け足す。

「それと楠木さんの髪型って、こっちにきて始めて見たんだよ」

「ツインテールか?」

「そう、ツインテール……っていうんだよね、あれ?」

 素朴な人間が多い土地柄か、流行の髪型やこった髪型をする者は、真二が生まれ育った場所では殆どいない。一人だけ特異な格好をしてしまうと変に目立ってしまって、それに即して突き刺さる年配層の奇異の目線が嫌だ――という理由もある。

「ねぇ、ああいう娘を首都艦ではクールビューティっていうのかな」

 真二がぼそっと呟く。二つに分けた髪型に切れ長の瞳、そして高めの身長。その組み合わせに、なんだか怜悧な美しさというものを感じた真二がそう評した。

 その雫那を称した一言を聞いて、伍郎が思いっきり吹きだした。

「わはははは! お前ゲームのやり過ぎだぞ」

 大爆笑を続ける伍郎を見て「きみにいわれたくないよ」と思う真二であった。

「まぁ楠木みたいな変人が恋の対象になるなんて、あるわけないか」

 伍郎が一人で納得したようにひとりごちる。何かを悟っているような伍郎の台詞。

 その言葉を聞いて、真二は前から疑問に思っていたことを口にした。

「そういえば伍郎って楠木さんのこと呼び捨てにしてるけど、前から知ってたりするの?」

「……」

 真二の質問に伍郎が口ごもる。

「あ、ごめっ、なんか言いたくないんだったら、別に」

「いや、いい」

 言いたくなさそうな雰囲気を察して真二が訂正の言葉をかけるが、伍郎がそれを遮った。

「ゴミ捨て場に着いたら話す」


「楠木とは同じ中学なんだ」

 焼却炉脇の分別庫にゴミを仕分けしながら伍郎が口を開いた。

「あいつがあの髪型をして来た日のことも覚えてる。中一の一学期の中頃かなんかに急にあの髪型をしてきて、それ以来ずっとあのまんまなんだよな。高校生にもなって変えないのはガキっぽいとか思ったけど、ミテクレが良いもんだから変に似合ってて文句の言いようもねぇ」

 答えたくなさそうだった真二の質問に、しかし伍郎はあっさり解答し、彼女の髪型の経緯も教えてくれた。

「そうなんだ――じゃあ、伍郎ももっと楠木さんと喋れば良いのに……て、いうかなんでそんなに素っ気無いの? 同じ中学出身なのに?」

「だからお前が不思議なんだよ」

 真二の問いかけに、伍郎の意味の通らない解答。

「……どういう、意味?」

「楠木は中学の頃からあんな風なんだ。なにを考えてるか判らない。気付いたらいきなり隣りにいたりするし。知らないうちにいなくなってたりするし。だからみんな気味悪がって、誰もアイツとは仲良くしたがらない」

 言いづらいことを、無理矢理口から吐き出しているような伍郎の口調。

「だからアイツと同じ中学出身だったってのは、あんまり良い印象にならないような気がしたから黙ってたんだ」

 伍郎が一旦空を仰ぎ見る。朝から昼にかけて快晴だった空は、徐々に灰色で塗付されつつあった。まるで今の気分のようだなと伍郎は思う。太陽も自分と同じ気持ちなのだと自分に言い聞かせると、雫那が通っていた中学時代を語り始めた。

 姦しくお喋りしている女の子たち。その女の子たちが急に何かが変わったことに気付いて、お喋りを止める。自分たちがお喋りをしていたすぐ後ろの席。ずっと視界に入っていた筈の空席。そこで初めて、いつの間にか自席に着席している雫那の姿を見る。今現在の高校での素行が過去の世界でもそのまま行われていた。

 楠木雫那の中学時代の成績自体は、今の高校時代と余り変わらず中の上ほどだったという。学校の授業を睡眠の時間に充てず、予習をある程度こなしていれば維持できる位置。運動神経はかなり良く、学内――いや学区域内トップレベル。掃除当番や委員会活動などもサボることもなくこなし、教師受け自体は良かった。ただ、部活動は幽霊部員でも特に成績に響かない部を、進級ごとに渡っていたらしい。授業終了後は特に学業での用事がない場合、終業のチャイムがなると忽然といなくなる。

 彼女は授業が終わった後は一体何をやっているのだろうか? それはまったく誰も判らない。そんなグレーの部分が、さらに彼女を皆から遠ざける。

 そしてそれは高校進学してもまったく変化が無く継承されている。伍郎が三年間過ごした中学校時代から、彼女の行動はまったく変化が無い。やはり雫那は昔から雫那だった。

「とにかく中学時代の楠木の印象は、ひとりの時間を最優先させるって感じだったな……そのためには手段も選ばない」

 雫那が中学一年生の時、彼女の行動を気味悪がった男子生徒が、雫那を呼び出したことがあった。まだ彼女がツインテールにする前の話。多分雫那の行動そのものが、格好つけてイキがっているように見えたのだろう。そして中学生の初期の頃はまだ性の区別も曖昧で、男子が女子を同姓にするように昂然と陵辱することも多々ある。だがこの場合、それは雫那にも言えた。

 数人の男子生徒を敵に回し、彼女は全員をぶちのめしたという。しかしそれでいて、正確には本当にぶちのめしたのかは不明という結果が残っている。惨後の翌日、雫那を連れ出した男子生徒全員が大怪我を覆ったのは事実なのだが、その理由が「階段から落ちた」とか「自転車に乗っていて転んだ」など、全員がバラバラの理由を申し立てた。そして誰ひとりとして雫那にやられたとは一言も口にしなかった。そんな理由なので雫那にはなんの咎めもなく、雫那が男子生徒を全員ぶっ飛ばしたという記録も存在しない。しかし他の生徒達は誰しも理解した。男子生徒は全員が雫那に制裁され、その後口止めされたのだ「私にやられたというな」と。

 次の日から、誰も雫那に近付かなくなった。男子も女子も、そして教師も。その中にはもちろん伍郎も含まれていたのだ。

「ふーん、そうなんだ」

 けれども、これだけ雫那についての怖気おぞけふるう情報を入手したというのに、真二が最初に口にした言葉はこんなにも呑気なものだった。

「お前『ふーん、そうなんだ』って、恐くないのかよ!? 消えたり現れたりはともかく、男を何人も素手でぶちのめすようなヤツなんだぞ!」

 真二の余りにものほほんとした態度に思わず声を荒げてしまう伍郎。

「だって悪いのはその楠木さんを連れ出した生徒たちなんでしょ?」

「そりゃそうだけど、数人のそれも男子を敵に回して全員ぶちのめした女だぞ?」

「えーと、僕も小さい時に遊びに来てた従姉いとこと取っ組み合いの喧嘩しちゃって思いっきりやられちゃったことあったからなぁ……そのも楠木さんくらい強いのかも知れないし」

 なんだか噛合っているようで噛合っていない、真二の感想。

「それに男子生徒たちも本当に自転車で転んだりしたのかも知れないんでしょ?」

「……お前」

 のれんに腕押しとはまさにこのことかも知れない。真二はあくまで雫那の味方を押し通すつもりらしい。彼が先ほど言っていた「自分の周りにはふにゃっとやわらかい人しかいなかった」という言葉は、彼自身にも充分以上に当てはまると、伍郎は実感した。

 しかし伍郎も真二の呑気な雰囲気に根負けせず、自分の意見を圧し貫く。

「楠木自身は別に悪いヤツじゃないと思う。不良どもみたいに他人に迷惑をかけるわけじゃないし――でもな、何かアイツにだけは近付いちゃいけないって思うんだ」

「近付いちゃ、いけない?」

 真二の問いに伍郎が頷く。

「お前みたいな山ん中ののんびりしたところから出てきたヤツには判らないかも知れないけど、アイツには近付いちゃいけない独特の雰囲気がある。そしてアイツ自身もその雰囲気を表に出すのをためらってない」

「それが、みんなが気付かないうちに席に着いてたりすること?

「それもそうだし、多分それ以上のことがアイツにはある。絶対にある」

 中学時代から楠木雫那を見てきた者が語る台詞だ。多分それはかなり確度の高いものなのだろう。しかし真二はそれでもこう言ったのだ。

「そうだとしても――僕は楠木さんともう少し話してみたいな」

「……お前」

 断固とした態度の真二。思わず声の漏れる伍郎。地方から出てきて、たまたま自分と友達になった目の前の少年。彼は首都艦という街と、其処で生き抜く者の凄さや怖さをまだ判っていないように思う。それが雫那に対しての態度にも出ているように思う。

 しかし伍郎には、そんなことは真二にとっては至極些細な問題のような気がして来た。

 ここで育った人間が潜在的に持つ、雫那のような人間に対する壁というものが彼には存在しない。良くも悪くも彼はふにゃっとやわらかい。凝り固まった油を溶かすには、温かいお湯をかけなければならない。彼はそれを可能とする温かさを育む土地から来たのか? そして雫那自身も真二という友人を得れば、もっと付き合いやすい人間になれるのだろうか……?

「そうか、そこまでお前が言うんなら俺はもう止めないぜ。お前と楠木の恋が成就するのを陰ながら応援してるゼ」

 伍郎も雫那の気味の悪い雰囲気が緩和してくれるのならば、それに越したことはないと思っている。一応雫那とは同じ中学を過ごしてきた仲間であるのだから。雫那の中にあるかもしれない何かとんでもないものにしても、三年前から相手を見てきた自分がいつのまにか持ってしまっていた潜在的恐怖の思い込みだけだったかもしれない。だから全てが杞憂で終わってくれるのならば、それが一番なのだから。

「だから、その、恋、とか、そんなんじゃな、いってば!?」

 そして真二は、伍郎の思いを知ってか知らずか、彼の言葉に再び動揺して、再び耳まで顔を真っ赤にしてしまうのだった。


「……あれ? 坂なんてないよ?」

 JR線神陀駅。中央線、山手線、京浜東北線という首都艦を走る主要幹線が三本も停車する駅であり、首都の名を冠した「首都駅」の隣駅である。

 そんな東京の要所の一つとも言えるこの駅に降り立った真二の最初の一言がこれである。背面に据わる中央線の高架を中心に見渡す限りコンクリート製の尖塔の群れが生えた平地。

「あれー? 線路沿いに新宿方面とは逆に坂を下って行けば神陀郵便局につくって話だったんだけど……?」

 一応神陀駅の外周付近の道を歩いて確かめても見たのだが、それらしい下り坂はどこにもない。ついでに言えば上り坂もない。更に付け加えれば、雨が降り出してきていた。掃除の時間くらいから愚図つき始めていた空は、電車に乗っている時点で真っ暗になり始め、真二が神陀駅に着いた時には小雨が降り始めていた。

「……ここ、どこだろう?」

 首都艦の真ん中の更に真ん中に、つい最近地方から出てきたばかりの少年が一人で雨に打たれている。

 なんでこんな事態になったのか? その説明のためには再び放課後の学校まで遡る必要がある。


「神陀郵便局?」

「うん、神陀郵便局って名前」

「なんでまたそんなところに?」

「前に首都艦に住んでたおじさんが、もう使わなくなったタイプライターをくれることになったんだけど――」

 掃除も終り帰宅の準備をしていた真二が、一応地元の住人である伍郎に、今日これから向かう予定になっている千代陀区に存在する筈の郵便局の場所を尋ねていた。

「で、僕の首都艦の住所が判らなかったから、とりあえず前に住んでいた神陀の郵便局に局留めで送ったから取りに行けってことなんだ」

「ずいぶんとめんどくさいことするもんだな?」

「そうなんだけど、なにごとも経験だーって、おじさんは言ってた」

「じゃあ、しょうがねえな」

 というやり取りがあり、真二はその神陀郵便局というものはどこにあるのだろうと、伍郎に尋ねていたのだ。彼が言うには「神陀郵便局って言うくらいだから、神陀駅の近くにあるんじゃないか?」とのこと。神陀駅自体は、真二が普段通学に使っている中央線で首都駅行き上り電車に乗って行けば到着する。一応は乗り慣れている路線内の駅であるので、到着すればなんとかなるだろうと思い、とりあえず神陀駅まで来てみたというのが今の状況である。

「……こんなことなら一旦家に帰って地図で調べてくれば良かったかなぁ」

 アパートに帰れば兄が餞別代りにくれた首都艦ロードマップなる地図帳があるのだが、何を間違えたか車載用の大判印刷のものすら超える大きさの、会社などに常備されているような巨大サイズだったのでもちろん携帯には適さず、その結果家に置きっぱなしであり、このような肝心な時にまったく役立たない。ならば予め家で地図を見て場所を確認してくれば良かったのでは……というのは、今朝学校に到着してから気づいた事実である。

 更にこの雨。

 首都艦地図同様、折り畳み傘という物品も、彼の鞄の中には残念ながら入っていない。

 彼の住んでいた土地は「必要なものは途中のコンビニで買えば良いや」といった現代人ならば普通に考える事が通用しない場所であるので「必要なもの」の他に「必要になりそうなもの」「突然必要になるかも知れないもの」といった類のものも、全て自前で持ち歩くのが基本。しかしそれは「今回必要でないものは置いておく」といった判断もするわけで、始めての土地で長時間探して歩くということを考えて、荷物を減らすために何時もは鞄に入れっぱなしの筈の折り畳み傘を、今日は置いてきたのだった。そこまでの判断をするのだったら地図も入れてくれば良かったのではと思われるが、兄の地図はそんな真二の考えを軽く砕くほどの巨体。

 その割には何故か彼の鞄には懐中電灯が入っていたりする。

 真二が以前住んでいた場所は、日が落ちればほぼ真っ暗になってしまうような土地。そのため懐中電灯という物品は、傘や地図などとは比較にならない位の生活必需品であるのだが、深夜になっても明かりの消えないこの東京では、まったくもって不必要なアイテムである。

 しかしそれが判っていても、どうしても持ち歩いてしまうのは、やはり生活経験の心理として仕方ないのだろう。いまだ成れない街でたった一人で暮らしているのだ。以前住んでいた場所での絶対の必需品を持っているだけでも、相当な安心感を得られるものだから。

「朝は、晴れてたのになぁ」

 しかし傘が無いのは辛い。空を見上げながら肩を落とす真二。雨にうたれること自体は自業自得と我慢すれば済む。今日の朝見た天気予報では一日晴れという予想だったが、午後からはそれが大きく外れて雲が出始め、今に至っては雨である。最近は温暖化の影響からか、天気予報が思いっきり外れると言うことも珍しくもない。彼が今がっかりとしているのは、雨が降り始める兆候を一切感じられなかったからだ。

 前に住んでいた土地であれば風に混ざる湿り気を感じて、数分前、調子の良い時は一時間前には天候の変化に気づけた。そして東京に住み始めてもその力はあまり劣化することなく、雨の降り始めには気づけていた。だが、電車という人工的閉鎖空間にいた真二は、雨粒が車窓をたたくまで降雨に気づかなかった。こんなことは初めてだった。それが真二に更なる不安をもたらしてしまう。

「……とりあえず、歩いてみよう」

 しかしいつまでも突っ立ったままでは仕方ないので、まばらに傘の花が開く街並みへ恐る恐る足を踏み出した。

「……」

 しばらく人で込み合う神陀駅周辺を歩いてみる。

 それにしても、凄い人の数だ。首都艦に出てきてひと月半をようやく越えた辺りの真二にとっては、違う街に行くたびに「今日はお祭りなのか?」と、まだ思ってしまう。首都艦で生まれ育った人間でさえ渋八や池嚢の街などに行くと「今日は祭りなのだろうか?」と錯覚してしまう時があるくらいなのだから、真二のような地方出身者が違う街に辿りつく度に毎回変な高揚感に包まれてしまうのは、仕方ないことだと思う。

 自分が以前住んでいた場所ではまずありえない、体がぶつかりそうになる程にあふれかえっている通行人と開かれた傘の間をなんとかすり抜けながら、しばらくの間駅が見える範囲内でウロウロしていた。なぜそんな近い場所のみなのかというと、人混みに飲まれて道に迷うのが怖いからだ。

「あ、地下への階段発見」

 そんな少し臆高おくだかし気味に目標を探していた真二は、正面の道路を挟んだ向かい側に、地下へ下る一つの階段を見つけた。

「ん? ……そっか」

 真二はその階段入口を見て、ふと、伯父からの手紙にあった一文を思い出した。

 ――中央線の駅に着いたら、線路沿いに坂を下って行けば着く――

 坂を下ると書いてはあったが、実はそれは地下へ下るの間違いなのではなかったのだろうか? 妙な思考の帰結ではあるが、郵便局を発見できないまま歩き通しで徐々に疲れの溜まってきた彼の体は、それを変な考えだとは思えなくなってきていた。そして疲れを中和するためには、自分の欲する行為をしてしまうのが人間としての常だ。それは下層へ下る入口を見やる彼の顔が、心なしか嬉しそうになったのが物語っている。降雨量も増してきていた。もう傘がないと辛い強さになりつつある。雨宿りしたいと思う気持ちも後押しする。その結果、真二は下界へ通じる入口に近付いて行くことになる。

「~♪」

 嬉々とした彼の表情。その顔は雨に濡れなくなる安心感とは別の嬉しさを湛えていた。

 真二には、首都艦に来て意外に好きになったものの一つとして、この地下へ通じる階段というものがある。彼が住んでいた土地では、緑の多く残る山深い地方だけあって地上のスペースが使いたい放題。だから首都艦のように使える地上面積が少ないため地面を掘り返して地下に街のように大きなものを作るということは考えられない場所。そんな土地から来たものだから、地上の街から地下の街へ下る階段というシロモノは本当に首都艦に来て始めて見たのだ。

 そしてその時の感想が「ゲームのダンジョンの入口ってこういう感じなのかな」だった。

 地下街や地下鉄の駅へと通じる階段は、実際は地上と同じくらいの光量があり、その先の地下通路も同じくらい明るい。だからダンジョンっぽい雰囲気を醸しだす薄暗さなんてものは皆無であるが、初めて地下へ通じる階段を降りていった時、本当に地下迷宮に下りていくような錯覚を受けたのは事実だ。

 それ以来真二は地下街へ通じる階段を見ると、ちょっとうきうきしてしまうのであった。

「あれ? 意外に狭い階段?」

 目標の階段入口に到着した真二は、その間口の狭さに少し驚いた。大都市らしからぬ、妙に狭い階段。地下鉄への入口なのかと最初は思ったのだが、真二が今まで見てきた地下を走る電車への階段はこんなに狭くはない。

 今、彼の前にある地下へと続く階段は、人が二人横に並んだらもういっぱいになってしまいそうなほどに狭い。ビルの地階へ下る階段なのでは? と一瞬思ったが、この入口の上構には何も無い。雑居ビルに挟まれた地下への侵入口があるだけだ。それに、B1Fに降りる階段にしては凄く先が長い。

 地下へ続く狭くて長い階段。それが真二に一つの連想を生んだ。

「……え? 本当にダンジョン?」

 灯りは点いているのだがそれでも光量が足りないらしく、階段の先は薄闇に包まれている。もし地下迷宮なんてものが実在したら、本当にこんな感じなのではないだろうか?

 そう思った瞬間、真二の頭の中からは「神陀郵便局」とか「タイプライター」とか、自分が今この地にいる要素を占める重要な単語はことごとく消滅していた。

「首都艦ってなんでもあるって聞いてたけど……地下迷宮まであるってこと?」

 真二はいざなわれるように、階段の一段目に足を踏み出した。


 降り立ってみると、そこは一本の通路になっていた。

 壁も床も白いタイルで覆われた細長い空間。その白さのおかげなのか、薄暗い階段とは違い、地下そのものは意外に明るい――しかし

「……あれ? だれも歩いてない?」

 首都艦といえばどこでも人があふれかえっていて、それは地下街でも変わらない。真二はそう思っていたし、事実そうである。しかし、地上の神田の街では人がひっきりなしに歩いていたのに、地下に降り立った瞬間、人の姿が消失してしまっている。その落差の激しさがこの地下空間に不気味な雰囲気を与えていた。天井を見上げると、何本もの剥き出しのパイプが大蛇のようにのた打ち回っている。そこも白を基調とした造りとなっていて、しかもそれが意外に近い位置にある。つい先日行われた体検査で一五九センチと、惜しくも大台一六〇を逃した真二の身長でも、低いと感じてしまう高さ。

 前に路線の乗り換えの関係で一度行ったことのある新孰の地下街はもっと天井が高くて、自分が今住んでいる街の狭い路地なんかよりもよっぽど広い空間だったなと記憶している。

「……やっぱりここは……ダンジョン?」

 再び頭の中に非現実的思考が過(よ)ぎる。

「……」

 恐る恐る歩を進めていく真二。現実的に考えて、首都艦という場所以前に現代のこの国にモンスターやらドラゴンなんかが出てくるわけがない筈だが、最初に「ダンジョン」なんてヘタに決め付けてしまうと、腰が引けてしまうのも事実だ。

「……」

 そうして人の気配のしない通路を歩いて行くと

「……あ、お店」

 遠くの方に、店名と職種の記載された緑色の看板が、壁から生えているのが見えた。近づいてみると、真二の上背うわぜいでも十分届く低さの小さい看板。一八〇を超える長身の持ち主なら頭をぶつけてしまうのではないだろうか? その先に店が並んでいる。数は三軒。

「……」

 真二は、壁に埋め込まれるようにして建てられた商店を、興味津々の瞳で見ていた。地下通路という狭い空間の中に設けられた、小さな店。

 彼の双瞳そうとうに映っているのはただの履物を売る靴屋と紳士服を仕立てるテーラー、そして散髪を担う床屋でしかないのだが、しかしそれはあたかも迷宮に赴く戦士のために具足や鎧を仕立てる防具屋や、戦化粧を整える装飾店のように見える。

 大自然という巨大空間が広がる土地からやってきて、地下空間という閉所に殆ど触れたことの無い真二にとっては、まるでゲームの中の世界が突然目の前に現れたかのような錯覚に陥っていた。

 そしてその先の通路にぽつんと置かれた木箱が一つ――

「え……宝箱!?」

 その木製の物体を見て、思わず喉から声が飛び出た。突然響いた声を聞いて暇そうにしていた靴屋の主人が怪訝な顔を向けるが、それに全く気づかないほどに、食い入るように通路に置かれた木箱を凝視していた。ダンジョンだと思い込んで降りてきた地下通路の奥に置かれた箱。簡単な錠前で封がなされたその箱は、真二には宝箱以外には見えなくなっていた。

 冷静に考えればこの地下通路で使用するための器具を収めた道具箱なのだろうけど、何十年と前から其処に設置されているのであろう時を重ねてきた力強い汚れが「私は本物の宝箱である」と、自己主張しているような感覚を起こさせる。

 思わず箱の前に屈み込んで手を触れてみる。それは実家の納屋に置かれている箱の類と何ら変わらない手触りを伝えてきたが、その古びた存在感は抑圧ともいえる自己顕示を発散していた。

 ゲームの中で見た、そして何度も空想したモノが、今ここにある――

「……?」

 しかし、そう心に思い描いた瞬間、真二は不意に胸の奥に何かつっかえ棒のようなものをあてがわれたような感覚になった。どうにもしっくりこない変な気持ち。その気持ちが、左奥の方を見ろと呼びかけてくる。

「……あれ?」

 狭い地下通路の最奥――その先は広い空間になっていて、この薄暗い通路とは比べ物にならない光量で満たされていた。そして其処は、今通ってきた地下通路にはまったく消失していたもので満たされている。それは人のざわめき。

 真二はその人間の発する騒音を感じた時、胸の中に形作られた何かが壊れたのを感じた。そして気付いた時には誘出ゆうしゅつされるようにざわめきの方へ歩いて行った。

「……ここは?」

 地下通路の先にあるもの。先程までとは比べ物にならないくらいの騒音に満たされた場所。大勢の人々がひっきり無しに歩いている空間。意識が情報量の処理に慣れてくると、歩く人々の向こうに、腰の高さくらいの小さいドアのついた機械がいくつも並んでいるのを見た。どんどん人を吸い込んでいくそれは、地下を走る列車に乗るための通行門であったはず。真二が首都艦に来て始めて見た機械の一つ、自動改札機。

「駅?」

 どうやらここは地下鉄のステーションらしい。そこに溢れる人混みを見て、真二は急に高揚していた気持ちが冷めていくのを感じた。そして胸の奥にできた何かが溶け落ちる感覚。多分この感覚のことを「魔法が解けた」と表現するに違いない。

「――あれ、僕なんでここにいるんだっけ……?」

 そう感じた瞬間、真二の頭の中には神陀郵便局やタイプライター等、自分が今この地にいる要素を占める重要な単語が、次々と思い出されてきた。

「……じゃあ、あのダンジョンみたいなところって」

 どうやら今通ってきた場所は、地上と地下鉄駅をつなぐ通路の一つであったらしい。

「……」

 現実の世界に戻ってきた真二は、後ろに広がる地下通路を振り返った。大量の人が行き交う地上と、大量の人が行き交う地下をつなぐ、全く人気の無い通路。ほんの少しだけ本物のダンジョンっぽいところを探検させてくれた場所。

「……本物」

 真二はその時、その「本物」という言葉で、あの瞳を思い出していた。

 雫那が稀に見せる、あの瞳。本物を知る者が、偽物で一喜一憂する者を愁うような瞳。

「……僕もあんな瞳ができるようになったのかな?」

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