第3話 首都の地下にあるものは

 何故彼は、私に声をかけてくるのだろう。

 他人を嫌悪させる程に、強い気配を放っているというのに、彼はそれを受けても、私と会話を成立させようとしている。

 何故?

 死ぬのは少ない方が良い。だから私も「彼女」も、他人との接触を避けている。

 それが今回のミスを誘発したのだろうか。

 もう残り少ない命数だからと、自暴自棄になったのだろうか。

 だが、死ねない。まだ、死ねない。

「彼女」の願いを叶えるまでは、死ねない。私の命数も彼女と共にあるのだから。

 そして私という命断者がいなくなってしまったら「彼女」はどうすれば良いのだ。

 だが、あの状況では何れにしろ迷宮内で倒れた私は、そこで命を失っていた筈だ。

 筈だ。

 しかし、彼という不確定因子のおかげで、私の命数は元に戻った。

 彼――私の強い殺気を感じても、それでも話し掛けてくる、者。

 彼は一体……何者?


 ――◇ ◇ ◇――


「……ここ、は?」

 目覚めた意識が、声にならない声を上げさせた。誰かが聞いていれば、聞き取れない呻き声にしか聞こえなかっただろう。霞んだ視界。自分は眠りに落ちていたらしい。

「……」

 真上に白い光を輝かせる物体が浮かんでいるのが、ぼんやり見えた。ランタンや松明トーチの類ではありえない強い光。鬼火ウィルオウィスプだろうか? それにしては機械的な輝きに感じる。電気仕掛けの何かか? フォーカスのずれていた視界が徐々に回復すると、無機質な光の正体が天井から吊るされた円環体トーラス型発光体であることが判った。レトロなデザインの蛍光灯。

 ここは――どこだ?

 蛍光灯あかりの吊るされた天井は、垂木たるきと合板を組み合わせたもの。自分がいた筈のダンジョンにはこんな木製の天井はない。自分は一体どうしたのだろう? 思考が一瞬崩れたあの時。額を中心とした頭頂部が赤熱し、体が一瞬にして耐え切れない程の悪寒に包まれたのを覚えている。しかし、その後の記憶がまったく無い。だから自分は、迷宮の床に倒れた筈だ。しかし今自分が倒れているのは、見知らぬ天井が覆い被さった小部屋。

「……」

 少しずつ思考が覚醒してくる。それと共に戻った感覚が自分の背中の下が固い床ではなく、軟らかい敷布団である事実を教えてくれた。ご丁寧に体の上には組になる掛け布がかけられている。半分ほど戻った意識が倒れる直前の記憶を再生し始める。あの時ダンジョンに居てはいけない種類の人間がいた。彼自身解錠ノ剣キークリフを持っていないし「我々」の把握する冒険者リストにも彼は記載されていない。つまり典型的なダンジョンに居てはいけない種類の人間、「一般人」だ。

 自分はルールに従い彼を、殺そうとした。他に方法はあったのかも知れない。しかし、記憶操作などの高度な術は使えない自分には、取れる方法はそれ一つしかなかった。

 しかし、それは失敗した。修正をしくじった。彼を探さなければ。ダンジョンの秘密が広がる前に。雫那しずなは反射的に身を起こした。あの時処理しそこねた少年を探さなければ。

「……!?」

 しかし上半身を布団の上に起こした雫那は、声にならない叫びを上げた。急に揺り動かされた頭部が、鈍い痛みを発する。自分を昏倒させた病原体は、まだまだ元気に体の中を駆けずり回っているらしい。雫那がまったく回復していない己の体を情けなく思っていると、自分の腹の上に何かが落ちているのを見つけた。

 不思議に思い拾い上げると、それは湿ったタオルだった。先程まではこんなものは無かったと思う。天井から落ちてきた? いや、自分が身を起こしたのと同時に現れたということは、位置的な問題も考慮すると、どうやらこれは額の上に載せられていたものらしい。

 皮膚に密着していたものすら感じられないほど、感覚が鈍っているのだろうか? それを表すように、半身を起こした姿勢を続けていたら少しふら付いた。自分の体は相当な熱に侵されているらしい。

 はらりと、顔の両脇を髪が落ちる。手を当てて確認してみると、何時ものツインテールは解かれ、ストレートヘアとなっていた。更に良く見れば、衣服が着ていた筈の制服ではなくなっている。代わりに着ているのは長袖の寝巻き。布団の中に手を入れて確かめると、下もスカートでは無くロングパンツ。多分上下揃いの寝巻きなのだろう。

 全快には程遠いらしい状態で自分の衣服を確認すると、今度は自分のいる小部屋の中を見回す。宿屋の個室くらいの小さい部屋。畳を六枚も敷けば床が埋まってしまうのではないかと思う本当に小さい部屋。その容積はダンジョンの入口の小部屋と同程度。四方を覆った壁の二枚には窓が付いていた。外の夜景の灯りが見える。時間的には夜であるらしい。自分がダンジョンに入ってから数時間くらい経過したのだろうか? それとも丸一日以上経ってしまったか?

 此処はダンジョンではない。それは確実だ。こんな地上の部屋を模した空間は地下迷宮内には存在しない。誰かが外へ運び出してくれたらしい。自分以外の迷宮仕事人がやはり現存していたのか――それとも「彼女」が?

 自分が運び込まれた室内を改めて見回す。家具や電化製品の類は少ない。小さいテレビ、古めかしいゲーム機と何本かのソフト、タイプライター、机、それ位だ。それ以上に目立つのがダンボール箱の類。封を解かれたもの、開封前のもの、中身を出されて折り畳まれたものなど、この部屋に置かれた品物の半分ぐらいはダンボールが占めている。もう一つかなりの割合を占めているのが教科書やノートといった学習教材。教科書に関しては雫那も見慣れているものだった。つまり錫白高校指定の教科書と同じものだ。学習書籍に混じって就職情報誌の類が何冊か混じっているのが妙に目立つ。図書館に置いてあるような巨大な地図帳も転がっていた。

 壁の一つの向こうには襖があって、其処はどうやら押し入れになっているらしかった。その左側が出入り口になっているらしく、反対の右側はキッチンになっているらしい。

 そしてそこに……彼がいた。

「!?」

 その事実に雫那が驚愕する。白い上着に黒いズボン、腰の辺りにはリボンの結び目、そんな格好の後姿が、紙箱に覆われごちゃごちゃとした視界の向こうにあった。探すべき対象がこんなにも近くにいた。しかも自分の手が容易に届く範囲に。しかし、探索の必要がなくなったという感慨は一切なかった。これだけ狭い部屋で自分以外の人間がいる現実に何故相手の姿を確認するまで気づかなかったのか? 迷宮内でもそうだった。あれだけ接近されていたのにまったく気づかなかった。雫那自身が普段他人に与えている感覚を、逆に自分自身が受けてしまった。そんなに感覚が鈍るほど、体力を消費していたのか?

「……なぜ、今まで気づかなかった」

 その事実に雫那が思わず声を洩らす。

「ん?」

 雫那が不用意に上げた声に彼、武藤真二むとうしんじが反応した。くるっと振り向く。

「楠木さん!」

 目覚めたらしい雫那が、体を起こしてこちらを見ていた。そして、その姿を確認した真二が、彼女の方へキッチンからすっ飛んで行った。室内に散乱したダンボール箱を掻き分け、大判印刷の就職情報誌を避け損ねて踏んづけ、慌てたように雫那に近付いていく。学生服を脱いだ白ワイシャツの上にエプロンという装備で迫ってきた真二は、布団の側までやって来ると雫那の隣で膝をつき、その両肩をがしっと掴んだ。

「……」

 キッチンを飛び出した彼が自分のところまでやって来る姿を、雫那はぼうっと眺めていた。自分の両肩を掴んだ時もまるで他人事のような気がしていた。彼に殺されるのだろうか――自分は? 肩を握る彼の握力が意外に強いなと感心しながら、漠然とそんな風に思う。自分は武藤真二を殺そうとしたのだ。彼が自分の命を守るために、逆に雫那自身を殺そうとしてもおかしくはない。人間を始めとする動物には生存本能があるからだ。

「……?」

 しかし雫那は自分の背中が再び布団の上に戻ったのをあいまいな意識で感じた。彼に押し倒されたらしい。武器らしい武器を持っていない彼。このまま上にし掛かり動きを封じて首を絞めるつもりか? だとしたら意外に戦い慣れしている男だ。強い握力もその結果のものか?

 しかし、ある程度死を覚悟していた雫那の上に覆い被さってきたのは、彼の体ではなく、やわらかい掛け布団だった。それも肩までしっかりと被せられた。

「だめだよ! まだ寝てないと!」

 少し怒るような表情と心から心配する表情が混ざった顔。そんな感情が表に出た真二の顔が雫那の真上にある。真二の手が雫那の額に触れた。自分の額にも手を添え熱を比べる。

「――まだ熱いね」

 そう言いながら布団の上に投げ出されたままのタオルを取ると、脇に置いてあった洗面器で絞り、彼女の額に乗せた。

「ダメだよ楠木さん、さっき測ったら四〇度も熱があったんだよ、体を起こすのだって今はダメなんだからね!」

「……はい」

 学校で見る真二とは全然違う迫力を見せられて、思わず素直に返事をしてしまう雫那。普段の彼女からは想像もできない女の子らしい所作を見て、真二も一気に冷静になった。

「あ、ごめん! なんか、大きい声出しちゃって……」

 バツが悪そうに縮こまる真二。

「病気の時に無理しちゃうとかえって悪くなっちゃうから、つい大きな声になっちゃって……ごめん……あぁ!?」

 真二が何かに気づいたらしく声を上げる。そして一気に、熱に侵されている雫那以上に顔が赤くなった。

「……楠木さんのことを押し倒したり、おでこに触ったり……なにやってるんだろ僕!?」

 どうやら雫那が目覚めたのに気付いてから真二が今まで彼女に対して取った行動は、まったくの無意識でやっていたらしい。学校では雫那の額に触れるのは躊躇ったのに、今は何でもない事のように触ってしまう。頭より体の方が先に動いた結果だ。

「キミは私のことを心配してそんな行動をとったのだろう? なぜ謝る必要がある?」

 妙に畏まってしまっている真二に対して、逆に雫那が気遣う言葉使いになる。

「それに私を介抱してくれたのもキミなのだろう? 衣服を脱がし髪を解き、寝やすいように着替えさせてくれたのはキミなのだろう? 感謝すれど謝罪の要求はないぞ?」

 それを聞いてびくっとなる真二。

「ご、ごめんなさい!?」

 突然がばっと、雫那に向かって床に額を擦りつける勢いで頭を下げる。その奇矯に流石に当惑の顔になる雫那。

「なぜ謝る?」

「楠木さん……あんまり苦しそうだったから、服を脱がせて……体を拭いて……で、僕の寝巻きを着せて……本当は女の子の友達とかいれば良かったんだけど、こっちに引っ越してきたばかりだからそんなのいないし、母さんに電話したってここまで来るのに何時間かかるか判らないし」

 動転しているのか、後半の台詞は支離滅裂である。

「とにかく、ごめん!」

 床の畳を抉り抜くかのような勢いで、更に深々と頭を下げる真二。

「――キミの話の内容を整理すると、キミは私を介抱するために服をひん剥き結果的に私の下着姿を見てしまい、そればかりか仕方ないとはいえ体に触れてしまったことを謝っているのか? しかし君は、病魔に侵された私の体を介抱するために、考えられる上で最良の手を尽くしてくれたと思う。だから女を半裸に剥いたからといって、気にすることはない」

 真二の謝罪する理由を理解し、彼の心情の想像を淡々と語る雫那。しかし、その冷静な判断の言葉が逆効果になり、更に真二の顔を赤熱させる。

「しかし、できれば」

 雫那が少し身を動かしながら続ける。

「全部脱がせて下着の下の汗も拭ってくれたほうが、回復が早かった」

「そ、そんなことできないよ!?」

 雫那のあまりの台詞に、真二が思わず下げていた頭を上げた。見ると、雫那は布団の中で体を少し捻るような動きをしていた。パジャマの袖から腕を中に起用にひっこめ、その中でなにやらもぞもぞと動かしている。なんだか亀みたいだなぁと真二が思っていると、雫那は再び腕を袖の中に通した。そして突き出された手の中には白い布が握られていた。それが真二の膝近くに無造作に置かれた。二つの布切れをつなげて、四方に紐を付け、その先端には簡単に繋げられるように金属のホックをつけたもの……

「!?」

 それが女性の胸を覆う下着である事に真二が気づくにはそれほど時間はかからなかった。

「ちょっとなに脱いでんのぉ!?」

 思わず声を上げる真二。しかし雫那は真二の絶叫など耳に入らないかのように、今度は下着の下半分の作業に取り掛かった。ズボンの中に手を入れて、その内側の衣服を引っ張ったり押し込んだりしている。

「――上は上手くいったのだけれど、やはり下は完全に脱がなければだめか」

 彼女はズボンから手を抜くと今度は裾をつかみ一気にずり下げた。

「!?」

 雫那は布団の下で作業しているのでもちろん下着や彼女の素足そのものは見えないが、一体彼女が何をやっているのか容易に想像できてしまう。しかも仕方なかったとはいえ真二は彼女のアンダーウェア姿を見てしまっているのだ。それが想像に容易に拍車を掛ける。

「な……なななな、なにやってるのぉ!?」

「濡れたままの下着を着けたままでは体力の回復が遅れる。下着を乾燥させるのに必要な体熱もばかにならない」

「そうだけど、でも!」

「キミがちゃんと最後まで衣服を脱がしてくれていれば、こんな手間はいらなかったのだが」

「ちゃんとって……だからそんなことできるわけないでしょぉ!?」

 そして先ほど置かれたブラジャーの隣に、遂にもう一つの白い布がやって来た。

「ぱんつまで!?」

「楽になった」

 彼女はさらっと言い退けると布団の中でズボンを穿き直し、額に乗せられていたタオルをパジャマの中に突っ込み体を拭き始めた。

「……」

 脱ぎ散らされた女性物の下着という物体は子供時代に母のものを(稀に婆ちゃんのも)何度も見てきたが、同年代の、それも他人の女の子の残り香ががっちりと染み込んだ下着を見せ付けられた時、異性を強烈なまでに感じさせるその生々しさに、気が動転しそうになった。

「もぅ、楠木さん!?」


「この方舟艦隊という船上国家の中心地域が、なんでまっさらな平地なのかと不思議に思ったことはないか?」

 手に持った器から、粥を口に運びながら雫那が尋ねた。これは先程「お腹空いてなくても食べなきゃダメ」と言われて、真二に渡されたものだ。米が溶けるほどに良く煮込まれたものを、コンソメで軽く味付けされただけのシンプルな粥。体調は今だ戻らずそれに即して食欲も余り無かったが、一口食べただけでその飾らない味がたまらなく美味しく感じた。他人の手料理というものを久しぶりに食べたからかも知れないが、もう半分ほど食べてしまった。

「……それって関東平野のこと?」

 唐突に繰り出された雫那の質問に、洗濯物干しのクリップに洗い物を咥えさせながら真二が答える。首都艦とそれに隣接する方舟艦隊があるこの平地の名前は小学校の社会科で習うので、一般的な高校生であれば誰でもその名前は知っている。ちなみに洗い物の正体は雫那の下着の上下である。いきなり目の前に同級生の脱ぎたてのブラジャーとショーツを出されてどうすれば良いのか対応に困惑したが、とりあえず汗まみれのまま放ってはおけないと、洗濯板を出して流しで洗ったのだった。雫那がらみでは己の勇気を試される場面が幾度となくあったが、彼女の下着の洗濯というこの行為が、その中でも最上級なのではないかと、真二は思う。

「あんまり不思議に思ったことはないかな。それに方舟艦ができる前だって昔から街はあったでしょ?」

 今自分が掴んでいる下着の持ち主と会話をしているという気恥ずかしさを紛らわすように、真二が質問を返す。

 そんな二人の間には、不思議な平穏があった。行きがかり上、命のやり取りまで行ったお互いだが、先程の真二の前で下着を脱ぐという常軌を逸した雫那の行為が、二人の間の垣根を綺麗さっぱり取り払っていたのだ。常に浮世離れしているような彼女の行動と、なんでもふにゃっとやわらかく受け入れてしまう真二の性格は、こういう場面では役に立つようである。

「その関東平野の上に始めて方舟艦が竣工したのは四百年ほど昔に過ぎない。歴史の流れから考えればつい最近だ。この平たき土地は、本来は人の住んではいけない禁忌の場所だった――そう考えるのが妥当だと思わないか?」

「禁忌の……場所?」

「平民が国を統一し頂点に立った戦国の時代、それは歴史の深層に無知な人間が全てのまつりごとを操れる立場になってしまった事を意味する。だから何も知らない将軍閣下は本来不可侵である筈であった場所に、一人の人材を派遣してしまった。そしてめいを受けた内府がこの地にやってきた。しかしダンジョンは内府がやって来る遥か昔から、この地にあった」

「……楠木さん、もしかして」

 雫那が何を言おうとしているのか判って、真二が思わず口を挟む。

「あの地下のこと……話してくれるの?」

 今雫那が語った話は、真二が立ち入った場所から判る範囲での説明だけなのだろう。実際に見知った事実を、雫那が方舟艦の市民なら普通に知っているこの国の歴史に準えて説明してくれたに過ぎないはず。だからそれ以上はとんでもない秘密に違いない。自分はそのおかげで命を狙われてしまったのだが、それだけに、そんなことを喋って良いのかと、逆に心配になってしまう。

「私はキミのことを殺そうとした」

 雫那がその事実を口にする。真二が思わず自分の首筋に手を当てる。先程貼り付けた大きな絆創膏の下には、雫那に裂かれた傷痕が薄く残っている。

「なのにキミは、何故私を、助けた?」

 然(しか)して雫那が逆に質問をする。真二は少し考えると、それに答えた。

「……僕があそこに降りていった理由が、楠木さんが心配だったからって理由なんだ。だから僕はその目的を果たしただけ」

 真二はありのまま答えた。自分の素直な気持に従い、純粋な行動を起こした結果。それが今こうして、真二の布団で真二のパジャマを着て体を休めている雫那という形に結実している。

「楠木さんはまだ僕のことを……殺そうとするの?」

「ルール状は、そうしなければいけない。キミは見てはいけないものを余りにも見すぎてしまったから」

 雫那が空になった粥の器にスプーンを置きながら言う。アパートの庭にあったマンホールの下に伸びる階段を降り、隠し扉の向こうの昇降機エレベーターを使い更に下へと降りて行き、雫那の下まで地下施設を真二はさ迷った。真二が行ったのはこれだけであるが、雫那の口調からするとマンホールを開いて中に入ろうとしている処を見られただけでも目撃した当事者に対し何らかの処理をしなければならないような勢いであるし、実際そうなのだろう。

「しかし私は、キミに命を助けられた。その恩もある」

 雫那は先程、自分がここまで運ばれてきた顛末を真二から聞いた。

 真二の首を掻き切ろうとした雫那は、自分の高熱に耐え切れなくなり、その場に倒れた。その後、真二は気を失った雫那を抱えて地下から出てきたのだ。最後の地上まで出る長い階段は流石に堪えたが、小さい頃から山で木に登って遊んだり農作業の手伝いで鍛えられていた体は、何とか彼女を自分の部屋まで運ぶことを可能にした。

「命?」

 空になった器を取ろうと身を屈めた真二が、驚いたように雫那を見る。

「楠木さんの風邪は確かに凄い高熱になったけど、別に直ぐ死んでしまうような酷い病気じゃないよ? ……あ、おかわり食べる?」

 雫那は「頼む」と呟いた後、ゆっくりと首を横に振りながら「違う」と答えた。

「風邪に侵された体のことを言ってるんじゃない。確かにこの病自体では死なないだろう。しかしそれが死に直結する要因であったのは確かだ。あの時キミがいてもいなくても、私の体は何れにしろ限界を超え倒れていただろう。そしてキミが運んでくれてなければ、今頃怪物モンスターの餌になっている頃だ」

「怪物!?」

 再びキッチンに立った真二が驚いて振り向く。

「あそこ……そんなのもいるんだ」

「私が作業していた場所は地下四階のフロア。何の訓練もしていない一般人が遭遇したら一瞬で食われてしまうような怪物も現れ始める場所だ。下手をしたらキミも食われていた」

 余りのことに言葉を失う真二。鍋から暖めた粥を器に掬った姿勢で固まっている。

「ダンジョン最初の小部屋と私たちが利用する昇降機周りだけは知性の低い怪物を避ける避退の魔法マジックがかかっている。だからキミは始めてダンジョンを冒険する者であるのに、四階という中級者レベルの階層まで来ることができた」

「……魔法」

 再び雫那の下へやって来た真二が、新しい粥の入った器を雫那に渡しながら、ぽつりと呟く。彼女の口から再び出てきた現実離れした言葉。

「もっとも、昇降機の隠し扉から私の下へ来る途中で襲われていた可能性もある。そしてキミはそうとは知らなかったとはいえ、命懸けで私のことを助け出してくれた。入口の扉や隠し扉を施錠せずにそのままにしていたのも私のミスだ。直ぐ終わるだろうと思い、軽率な判断を下してしまった。普段はそんなことは絶対にしないのだが、朦朧とした意識が普段とは違うことをさせてしまったらしい。それが一般人であるキミに侵入する隙を与えてしまった。入口を閉ざしていればキミを危険に晒す必要はなかった。このミスは大きい」

「楠木さん……」

「私はキミの命を取る事はもうしない。自分のミスでキミを不用意に誘い込み、その事実の隠滅をキミの命を持って行うという行為は、さすがに道徳に反する。もうできないし、したくない。キミは命の恩人だ。恩を仇で返したくはない。それがルールに反すると他の迷宮仕事人ダンジョンワーカーズが命を狙いに来たのなら、私はキミを守る。キミに拾われた命だ。キミのために使うのも悪くない。私に残された命数だけキミを守ろう」

「ちょ、ちょっと、楠木さん!?」

 急に何を言い出すのだろうこの人は? まるで告白のようなとんでもない台詞を聞いたような気がして、真二は素っ頓狂な声を上げてしまう。「私に残された命数だけキミを守ろう」なんて、まるで映画かなにかで主役の俳優がヒロインに告げる台詞だなと思う。

 ――それって一生キミを大事にする……とかそんな意味の台詞じゃないんですか?――

 しかしそんな恥ずかしい台詞をさらっと言ってのけた当の本人はといえば、自分がどれだけとんでもない事を言ったのかなどまったく意に介した様子もなく、少し休憩とばかりに、黙々と粥を口に運んでいた。照れ隠しにものを食べている……といった風情ではないだろう。雫那は普段は無口な女の子であるので、一気に話して喋り疲れてしまったようだ。それに風邪はまだ治っていない。額から全身に回る高熱が、体力を奪い続けている。

「……」

 雫那に器を渡すのに床に座った姿勢のまま、真二はぼうっと彼女が食べる様を見ていた。

 怪物モンスター魔法マジック、そしてそれを内包する地下迷宮ダンジョン。怪物も魔法もまだ本当に見たわけではなく、雫那が真二を恐怖させる為に語った虚偽であるという説も否定できない。

 だが、地下迷宮という存在は間違いなく存在する。自分がダンジョンと思い込んだ古い地下街ではなく、本当に本物のダンジョンが。あれが地下迷宮ではないのだとしたら、一体何が地下迷宮だというのか? しかもそれが一国の首都の地下にあり、しかもそれは一千万人規模が住まう巨帯都市メガロポリス。あの場所は、この国の歴史を容易にひっくり返すだけの情報を内包した施設。

 真二の視界の向こうに、雫那の顔が見える。普段の二股のお下げではなく、寝やすいようにと真二がリボンを解き、長い髪を下ろした姿。ずっと見つめられた格好になっていても、雫那は突き刺さる視線を気にする様子も無く、スプーンを口に運び続けている。それはまるで学校での雫那を見ているようだ。教室の中の視線。異物を見るような彼女に対する奇異の視線。

 しかし雫那の中には、そんな視線など子供のひやかし程度にしか感じられないほどの「何か」が蓄積されているに違いない。

 あの瞳。あれは自分と伍郎だけに向けられたものでは無かったのだ。

 教室の中、普通の高校生としてはしゃぎ遊ぶクラスメイト達。お気に入りの女子を囃し立てたり煽てたりして遊んでいる男子生徒。衣服や化粧などオシャレの話題で盛り上がっている女子生徒。その中にぽつんと雫那の姿がある。「あの瞳」で他の子たちを眺めている。

 雫那の中には、普通の人間であれば生涯知りえないであろう様異さまことが、大量に蓄積されているのだろう。そしてそんな異の知識で満たされた彼女は、普通の高校生でしかない他のクラスメイトと混ざり合うことが、もう出来ないのかも知れない。

 不意に雫那が振り向く。

「……」

「……」

 二人の視線が交錯する。真二は切れ長の大きなあの色の瞳で見つめられた。雫那が言う。

「世界には知らない方が、楽に生きていけることが多々ある。そしてそれを知ってしまったら今までの生活が壊れてしまう、そんな事もある」

「……うん」

「キミが見てしまったものは他言しないと誓ってくれるなら、それで構わない。多分あの程度の情報ならば、これからの人生にはそれ程影響しない筈だ。私がこれから喋ろうとするのはキミに対する礼だ。命を狙った相手をキミは命懸けで助け出した。なぜ自分がそんな目に会わなければならなかったのか、キミには知る権利がある」

 二つ並んだ「あの瞳」。

 ――そしてそれ以上を知る知らないは、キミの自由だ――

 愁いを帯びた冷たい瞳が、そう無言で語っていた。

 真二はその時、理解した。その瞳の色。それは秘密を知りたがる者に対する、拒絶の光を含んでいた。

「怪物とか魔法とか、そんなゲームの中にしか無いはずのものが、あそこにはあるの?」

 しかし「本物」を見てきてしまった真二には、もう拒絶の力は通じない。彼の口から、確信を知ろうとする言葉が紡ぎ出される。

「……」

 真二の問いに、雫那の答えは、再び無言。

 それは否定を誘導する為の沈黙なのか? それとも肯定の為の呼び水なのか?

 雫那の瞳の色。それは、紛い物で喜ぶ者を愁いているのではなく、紛い物で全ての情報を満たされている他の者を羨んでいるのではないか?

 自分しか知りえない情報を、自分の中だけでしか完結できない葛藤。もし他人が知ってしまったなら、相手に対し死を持って処理しなければならない、歪んだルール。雫那本人だって、そんなことはしたく無い筈。真二の頚動脈を裂こうとした直前の言葉がそれを証明している。

 彼女自身は誰よりも強い人間だと思う。精神的にも肉体的にも。しかしその強さですら許容しきれない何かが、あの地下にはあるのではないか?

 真二は考える。自分は楠木雫那を助けようと思って、色々なことをした。風邪をひいて体の調子が崩れているに違いないと思って、訳の判らない地下施設まで入っていった。雫那の言葉を信じるならそれは命懸けの行為だった。だが、彼女の体の失調自体は大したことは無かったのかもしれない。

 あの瞳。その色の本当の意味は、救援信号シグナル。彼女が無意識の内に発していた光。拒絶の裏に隠されていたのは、助けを求める声。彼女が侵されていたのは体ではなく、心。雫那自身も気づかない心の叫びが、あの色の瞳となって表に出ていたのではないだろうか?

 自分と情報を共有してくれる誰かを――本当の意味で友となってくれる者を

 ――求めていた――

「……楠木さん」

 そして真二は、雫那の手の届く場所にいた。雫那の秘密を知り、雫那自身が殺さないと誓い、雫那自身が他の処分を企てる者から守ると誓った自分。

 確かに自分は雫那に殺されかけた。怪物に食われる危険もあった。しかしそれは、全て終わった事だ。今はこうして、自分は無事に生きている。様々な要因が重なり合い、真二は今、本当の意味で雫那の側にいられる存在となっていた。後は、真二自身が一歩踏み出すのみ。

 変わらない平穏な日常を望むか、彼女と共に歩む非日常を選ぶか。彼に試される何度目かの勇気。そして、もっとも強い力を必要とする、勇気。

「楠木さん」

 そして彼は選んだ。

「あの地下のこと、もっと教えて欲しい、迷宮仕事人ダンジョンワーカーズのことも……そして、楠木さんのことも」


 授業を終えた真二がアパートに帰ってみると、鍵は掛かったままだった。

「楠木さん、トイレとか大丈夫だったかな?」

 このアパートは造りが古いだけあって、各部屋の中にトイレは存在せず、廊下の端にある共同便所を使用しなければならないようになっている。部屋の中だけでは生活が完結できないこのスタイルが寮として選ばれた要因の一つだと聞くが、今のこの状況では迷惑な話でしかない。部屋の中にいる筈の雫那がトイレを利用したければ、鍵を開けて部屋の外に出なければならないが、鍵を開くという行為は意外に大きな音がする。だから彼女がいることがバレてしまうことも考えられて、施錠をどうしようかと今朝は迷っていたのだ。

 ここは、作り自体は普通のアパートだが「錫白高校が丸ごと借り受けている寮」であるという要素の方が大きい。管理人はいないが、管理役の教師が検閲の為に何日に一回かやってくるその日が、本日であるという可能性も否定できない。

 しかし『鍵くらい無音で開けられる』という雫那の言葉を信じ、鍵をかけた状態、つまり「この部屋の中には誰も居ない状態」で、アパートを出てきた。そして帰ってきても、何も変わった雰囲気は無い。管理人室の方からも特に物音は聞こえてこないので、今日は検閲日ではなかったようだ。とりあえず何事も無く雫那が一日過ごしてくれていたのだろうと思い、彼女の持つ鍵剣並にクラシカルな形状の鍵をポケットから出し扉を開けた。

「……ただいまぁ」

 殆ど聞こえないような囁き声で、帰宅の挨拶をする真二。本当はノックをして更に一言断ってから中に入りたかったが、前述の理由により廊下で声を上げるのも憚れるので、それも出来ない。仕方ないので「ちょうど着替えていたらどうしよう?」とか、色々考えつつ中に入る。

「……あれ?」

 しかしその雫那自身が姿を消しているとは、誰が想像しただろう?

「楠木さん!?」

 自らの部屋に躍りこみ、周囲を見回す。引っ越して来てひと月半を越えて、いまだ開封し切れてないダンボール箱の群の中に、畳まれた布団が一組。今朝とほぼ変わらない部屋の中の風景。部屋の片隅に吊るされた洗濯物干し。昨夜雫那の下着を干すのに使った其処には、変わりにパジャマとジャージの上下が窮屈そうに干されていた。流しを見ると洗濯板が出ている。それだけが唯一部屋の中で変わっていた――いや、良く見れば壁際に置いてあった雫那の私物が丸ごと消えている。

「楠木さん!」

 彼女はどこに!? ……もしかして、僕のことを他の人間と間違えて、自分の荷物を持ってどこかに隠れている? そう思い、押し入れの前に立つと、襖を開いた。

「……いない」

 押し入れそこにも雫那の姿は無い。

「……」

 もうこれでこの狭い部屋の中にいる可能性は消えた。彼女は一体どこに? いくら今朝になって顔色が良くなっていたとしても、たった半日寝たくらいでは全快までは程遠い。多分まともに歩ける状態でもない筈。

「楠木さん!」

「呼んだか?」

 思わず叫んだ真二の背中に、ガラッと窓が開けられる音と共に、あの静かな声が浴びせられた。驚いて振り向くと、錫白高校女子制服に着替えた雫那が、窓枠を乗り越えて中に入ろうとしている処だった。右手で窓を開け、左手には靴と鍵剣とランタンの三つを同時に持つという器用なことをしている。

「楠木さんどこ行ってたんだよ……って、ここ二階だよ!?」

「二階の窓から出入りするぐらい造作もないことだが?」

「そうじゃなくてさ!?」

「キミが迷惑すると思って、廊下からの出入りは控えただけだが?」

「ていうか、窓から入ったらその方がよっぽど目立つでしょ!?」

 その言葉を聞いて、何時ものツインテールに戻っている雫那の顔が急に真剣な眼差しになる。

「大丈夫、その点は確認してある。今現在、このアパートの窓を注視する人間は皆無だ」

「そ、そう……」

 その妙に冷静な彼女の判断の言葉に虚を突かれ、真二の沸騰しかけた気持ちも一気に冷めた。ひらりと進入してくる雫那の姿を身ながら、真二は持ったままだった鞄を下ろした。

「楠木さん、まだ起きて動いちゃダメだよ! 倒れてから一日経ってないんだから!」

「私は体が動くようになるまでここで休ませてもらうとはお願いした。だから体が動くようになったので、ダンジョンまで出向いてきただけなのだが?」

「体が動くようになったからって、まだまだ安静にしてなきゃいけないの……って、行ってきたの!? あそこダンジョンへ!?」

「ああ、後始末にな」

 窓を閉めながら雫那が答える。

「キミは私のことを助け出してくれた話はしてくれたが、それ以外のことは聞いていなかったからな。現状はどうなっているのか確認してきた」

「え?」

「やはり思ったとおり、エレベーターへの隠し扉が開けっ放しになっていた。それに入口のマンホールの施錠もな。だから全部閉めてきた」

「……あ」

 そこで真二は昨日のダンジョンでの出来事を思い出した。倒れた雫那を担いで二人分の鞄を抱え、隠し通路を抜け、エレベーターで昇り、階段を駆け上がってきた。最後にダンジョンを出た時だけ無意識の内に扉を閉めていたが、その間、一切周りは気にすること無く突っ切ってきた。それに閉めた扉にしても鍵まではかけてない。鍵剣の使い方も判らなかったという理由もあるが、鍵の類であるならば刺して回せば多分閉まっただろう。それに雫那が扉であるマンホールを開ける処は見ているのだ。その逆をすれば錠前は閉じた筈。

「ごめん楠木さん! 僕、楠木さんのことを連れて帰ることしか考えなくて、その他のことなんて全然思いつかなかった」

 自分の部屋の施錠は一生懸命考えたくせに、ダンジョン内の開け放たれたままの各扉の後始末などまったく思いつかなかった真二は、己を恥じて雫那に向かって頭を下げた。

「これはキミのミスじゃない。今回のことは全部私が悪いんだ。謝ることは何もない」

「で、でも!」

「大丈夫、もう済んだ」

 プリーツスカートの裾を捌きながら、壁にもたれかかるように雫那が座り込む。そして疲れたように靴を裏返しにして畳の上に置き、脇に鍵剣とランタンも置いた。

「でもやっぱり、まだ無理は出来ないようだ。少し休ませてくれ」

「ほらやっぱり無理が出てる! 座るのも良いけど、ちゃんと布団で寝たほうが良いよ!」

 そう言って無理にでも寝かせようと伸ばした真二の腕を、雫那が掴んだ。そして相手の手を取ると、自分の額に押し当てた。

「病魔自体は消えている。もう熱はひいているだろ?」

 雫那の額とひんやりとしたしなやかな指に挟まれた真二の手。そんな状態にされて冷静に相手の熱を測れるわけもなく、逆に真二の体が病魔とは違う理由で熱を帯びる。

「なんだ、キミの手の方が私の額より熱いぞ?」

「そ、それわっ!?」

 真二が慌てたように雫那のサンドイッチ攻撃から手を抜き取った。

「判っただろ? 熱自体はひいている。あとは単純に失った体力の回復を待つだけだ」

「もう、楠木さんってば……」

 真二も疲れたように座り込んだ。昨日から雫那と過ごしている時間の殆どが、突拍子も無いことの連続のような気がする。いや「気がする」のではなく、全て事実なのだが。

「……」

 雫那の前に座り込んだ真二はそのまま下を向いて俯いた。しかしそれは彼女の行動を嘆いているといった様子ではないようだ。何か考え事をしているように黙りこくってしまう。

「どうした沈んだ顔をして? 私以上に元気がないようだが?」

 流石に心配になって雫那が聞いた。

「……僕、楠木さんの力になろうって決めたのに、こんなことにも気づかないなんて」

「力に、なる?」

 真二が唐突に呟いた言葉に、雫那が尋ねた。

「僕の所為で楠木さんに無理させちゃった。僕がちゃんと全ての扉を閉めてそれを楠木さんに伝えていたら、楠木さんが再びダンジョンあそこへ行く必要も無かった……僕の失敗だよ」

 真二が嘆いていたのは、彼女のことではなく、自分自身のこと。

「僕は楠木さんに頼んで宝箱設置委員会に入れてもらおうと、今日一日学校に行っている間ずっと考えてたんだ」

 真二の告白。そして真二の決断。

 楠木雫那の近くに唯一いられる存在となった自分は、彼女の側で彼女と共にいることを決意したのだ。つい二日前まで、雫那とは挨拶以上の会話をすることができなかったのに、人というものはこんな短期間で、ここまで大きく変われるものなのだろうか。

「でもこんなにも楠木さんに迷惑かけてしまうんだから、もう頼めなくなっちゃったよ」

 しかし真二は自分がそうなることを望む前に、大きな失計をおかしていたことを力になると決めた相手から知らされた。いきなりの挫折である。彼が落ち込むのも無理は無い。

「この部屋に半日寝ていて気づいたのだが、ここには就職情報誌が多いな。キミは何か仕事を探しているのか?」

 そんな真二のとんでもない決意を聞いたというのに、雫那はまったく同様を見せず、この話にはあまり関係ないような事を冷静な口調で訊いた。

「……え? あ、うん」

 真二もあまりにも自然に話題が出てきたので、無意識の内に返事をする。

「高校卒業までは親に支援してもらって通うことになってるんだけど、それ以降は完全に独立したいと思って。大学に行くか就職するかはまだ判らないけど、ここを卒業するまでにある程度まとまったお金を貯めておこうと思ったんだ」

 雫那の質問に真二が答える。彼も様々な思いを抱えて、この東京に出て来たのだ。

「でもキミは迷宮仕事人ダンジョンワーカーズになりたいと願った。もしこの仕事は給与の出ない慈善事業のようなものだとしたら、どうするつもりだった? アルバイトと迷宮仕事人の掛け持ちをするつもりだったか?」

「あ……」

 雫那に突きつけられる重大な事実。

「そこまで考えてなかったよ」

 その事実に自分自身で呆れてしまう。確かに雫那の言うとおりだ。誰も迷宮仕事人という職業は報酬の発生するものとは説明していない。それに流石にアルバイトと迷宮仕事人の掛け持ちなんて行為は、雫那に対して失礼だと思うので、真二の性格ではできない。

 これは大学進学の方は諦めて高校卒業と共に就職だな……でも僕なんかやっぱり宝箱設置委員会には入れないよね……だから心配する必要はないのか……などと、真二が自分の人生設計を考察していると、目の前に座る雫那がスカートのポケットに手を突っ込み、何か光るものを取り出していた。

「とりあえず今月分の給料はこれだ。持ち合わせは今のところこれしかないから、初任給はこれで我慢してくれ」

 と言いながら雫那がその光る物体を真二に渡す。窓から差し込む外光に照らされてキラキラと輝くそれは

「き、金貨!?」

「古来から流通の基本は金属を溶かして鋳造した硬貨だ。迷宮仕事人は紙で作られた現用紙幣を信用しない」

 きんを丸く鋳造して作られた物体が自分の手の平に乗っていた。真二は金貨というものを生まれて始めて見た。RPGなどでは流通貨幣として馴染みの存在だが、こうして現実の世界で目撃する機会があるとは夢にも思わなかった。

「ちなみにそれは迷宮仕事人たちのレートでは一〇万円だ」

「じゅ、じゅうまんえん!?」

 きんというものは高価なものだと体は認識しているが、そう改めて価格を提示されると、声も大きくなってしまうのは仕方ない。

「この国で記念金貨が一〇万円で発行されて以来、迷宮仕事人の間では金貨一枚のレートはその金額で統一されている。昔から仕事人ワーカーズの間で使われている標準サイズの金貨と記念貨幣の金貨がほぼ同じ大きさだったからな。金のレートは日々変動しているが、一々それに文句を付けるほど迷宮仕事人の数も減ってしまったというわけだ」

「で、でも一〇万って……」

「なんだ少ないか? 明日まで待ってもらえれば、家からもっと持ってく……」

「いやっ良いよぉっ、じゅうぶん! じゅうぶん!」

 高校生にとっては凄まじい大金をいきなり渡されて、足らないならばもっと提供すると言われても、拒否してしまうのは当然の行為だろう。一般的義務教育を終えたばかりの少年に六桁の値段では足らないという感覚は、流石に生まれない。

「と、というか……これって、もしかして」

 金貨をぎゅっと握り締めながら真二が訊く。

「僕のこと……宝箱設置委員会に入れてくれるの?」

 その確認の問いに、雫那はゆっくりと頷いた。

「キミが望むなら、私には拒否する理由が無い」

 疲れたように壁に背を預けながら、雫那が続ける。

「キミが迷宮仕事人こちら側の人間になるのなら、他の仕事人もキミを処分する必要が無くなる。そしてキミには迷宮仕事人としての守秘義務が発生し、誰にもダンジョンの秘密を明かせなくなる――もっとも迷宮仕事人などにならなくともキミはダンジョンの秘密を自慢気に語るような無作法者では無いと思うが」

「……そ、そうぉ?」

 真二と雫那は席が隣同士なのだ。真二がひと月半に渡り雫那を観察していたのと同じように、クラスメイトの一人としてある程度雫那も真二の人となりを見ていたのだろう。そして昨夜の彼の行動を見て確信したに違いない。だからこそ昨日あれだけの秘密を、命を助けてくれた礼として、彼に語ったのだ。

「だからキミにとっても私にとっても都合が良くなる。同じ側の人間から命を狙われることも無くなるのだから……しかし」

 雫那が確認するように一旦言葉を切る。

「その代わり、これからはダンジョン内の怪物モンスターに餌として命を狙われる危険性は出てくる。その覚悟はあるか?」

 真二はゴクリと唾を飲み込むと、はっきりと宣言した。

「うん」

 その辺りのことも学校にいる時に充分考えたことだ。しかしその危険に関しては始めてダンジョンに入った時点でもう覚悟は決まっていたと思う。それに現状でも他の迷宮仕事人に処分対象として命を狙われかねないのだ。雫那以外の仕事人が現存するかは不明だが、まったくいないという確証も無い。だからその命の危険を脅かす対象が怪物にスライドするだけだと考えれば気が楽になる。多少は。

「その覚悟だけ聞ければ充分。私はキミを守ると約束したからな。キミの命は私が守る。対象が同業者から怪物へと代わってもキミのために命を賭すのは変わらない。キミを一人前の迷宮仕事人に育てるまで私の命数も変動してしまうがそれぐらいは許してくれるだろう、あいつも」

 話の流れで「あいつ」という少し気になる言葉を聞いたが、再び雫那が口にした恥ずかしい台詞を聞いて頬が赤くなった真二は、それどころではなくなってしまった。

「で、でも、い、いきなりお給料をもらっちゃうなんて……良いの?」

「キミが迷宮に侵入した時点で迷宮仕事人となったと仮定するならば、一般人がダンジョンに侵入してしまったという事実は残らない。だからそのように処理させてもらう。そしてそこから考えれば、キミはダンジョン内から同じ委員会の者を救出し、その後体力回復まで看病を行った。これは迷宮仕事人としては充分な仕事だ」

「でも僕は、出てくるだけで精一杯で、扉の鍵とか全部閉め忘れてたんだよ?」

 この程度の時系列の前後は許容範囲にしておこうとする雫那に対して、それでもまだ真二は自分の失敗を許せない様子。彼も意外に頑固だ。しかし雫那は真二以上に頑固だった。

「二人いればミスは補える」

「……え?」

 二人。そう雫那は語った。中学でもそして今の高校でも、常に孤高の存在としてあり続けている彼女にとっては、意外な言葉だ。真二が驚くのも無理は無い。

「私が体を失調したミスはキミが補ってくれた。そしてキミが鍵をかけ忘れたミスは私が補った。だからもう差し引きゼロだ。キミが心配する必要はない。それにキミと会話を続けて、かなり元気になれた。通常の病身時よりも回復が早い。やはり病気を治すには会話という要素は本当に重要なのだな。一人では流石に会話は成立しない」

 それはやっぱり今まで自分の中だけに溜め込むしかなかったものを、真二に対して吐き出せた事も大きいのだろう。

「でも流石に今日は疲れた。病気は治せても、失った体力の全快にはやはり充分な休息が必要のようだ」

 雫那は壁際に置かれたままだった自分の鞄を引き寄せるとランタンや鍵剣を詰め始める。

「これからのことに関しては、明日学校で詳しく話そう。翌日は私も通常通り登校する予定だ」

 そして立ち上がると、再び窓を開いた。

「これにて失礼する。今日はもう家に戻り体力の回復に努めることにする。自宅でやらなければならないこともあるし、それにもうこれ以上キミの寝床を占拠するわけにもいかない。本当は布団も干して返したかったが、そんなことをしたら日中に他の者がいるのがバレるからな」

「良いよっそんなの気にしないで……あ、でも帰るんなら送っていこうか?」

 時刻はまだ夕方。彼女の家がどんなに遠くても終電までには往復して帰ってこられるだろう。

「いや、大丈夫。その気遣いが聞けただけでも、私にとっては充分な回復薬だ」

 そう言いながら雫那は感謝の意味の笑顔を見せた。

「窓を閉めるのは申しわけないがたのむ。じゃあまた明日、学校で」

 雫那はそう言い残すと、ヒラリと窓外へ飛び出し、そのまま路地へ消えていった。

 後に残されたのは、先程から固まったままの少年が一人。開かれたままの窓から入り込むそよ風が、真二の髪をなびかせる。

「……」

 雫那の笑顔を始めて見た真二は、その美しく柔らかい微笑みに思わず見惚れてしまっていた。夕陽に溶け込むように照らされてキラキラと光る輪郭を持ったその姿は、玲瓏ブリリアントの言葉そのままに思えた。夕陽で真赤に燃えあがる黄昏時に、本当に天使が舞い降りて笑顔だけ残して去っていったような。部屋の中に差し込むオレンジの日を浴び続け、随分と影が長くなった頃、ようやく真二が一言呟いた。

「あんなに綺麗な笑顔……生まれて始めて見た」

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