第2話 桃を継ぐもの
緊張が支配する居間で桃の動向を伺う妻は、夫の帰りを強く待ちわびている自分の心情を自嘲する。近年の夫との関係は決して良好とは言えなかった。だが、夫はいつでも必ず、柴刈りを終えれば帰宅する。その一つの事実だけがこの状況に終止符を打ってくれるという希望であり、拠り所だった。
問題なのは、夫が帰宅するのは、大抵は陽が落ちる前、夕刻だ。まだ時刻は昼にも至っておらず、あと3、4時間はこの状況に耐えなければならない。妻は居間の奥に立っていて、中央の桃は対面の入り口を塞いでいる。桃の視線を避けて部屋を横切り、外へ逃れることは不可能だった。
そんな妻の思索は、ふと、引き戸の向こう……外から聞こえてきた声によって掻き消された。待ち望んだ夫の声だけではない、若い女性と交わす会話に。
「えー、またここぉ?やだぁ、もっとちゃんとした所がイイなぁ」
「まあまあ、妻は洗濯中なんだ。2時間は戻らないしゆっくりできる」
妻は背中に冷たい何かが走り、それが全身に巡るのを感じる。
妻の頬を、一筋の汗が伝い、
古い木引き戸がゆっくりと軋みながら開かれる。
引き戸が開かれると、そこには若い村娘の腰に手を回し、しまりのない笑顔を向けている夫の姿があった。
「なっ、お前……っ!洗濯は…!?」
居間の奥に妻の姿を見た夫の表情がみるみる青褪めた。居間の中央に巨大な桃があるという特異な状況よりも、本来この時間に居るはずのない妻がそこに居るという事に戦慄する。夫にしなだれかかっていた村娘はきょとんとした顔でしばらく妻を見つめていたが、やがて
「やだー、奥さん帰ってきてんじゃん!」
そう言うなり、面倒ごとは御免だとあっさりと夫から手を離し、外へと駆け出して行き、「あっおい!せめて金を返してから…っ」夫は思わず口走った。
妻は桃の脅威など吹き飛び、村娘の背中に手を伸ばしたままの夫の後頭部を凝視した。今の会話が意味する所を一瞬で理解したのだ。
妻は一歩ずつ、夫の元へと近づいていく。
「すまないっ、すまん!決して本気ではないんだ!許してくれ……!」
夫の月並みな弁解など、妻の耳には何一つ入らない。
ただ、その表情には怒りを感じさせる兆しは何もなかった。ただ呆けた様に笑みを浮かべるだけ。そして妻は夫に歩み寄る途中で桃を抱え上げる。
まるで身重の腹を支えるかの様な体勢で、桃を大事そうに抱えた妻は無言のまま、夫の目の前に辿り着き、そして
妻は桃を高く掲げ。
夫の頭頂部に振り下ろした。
倒れた夫の頭に、妻は更に桃を叩きつける。
何度も。何度も。何度も。
どんぶらこ。どんぶらこ。
妻が桃を打ち付ける度に、音が鳴り響いた。
夫の頭蓋骨がひしゃげ、潰れても、妻は止めなかった。
やがて妻は桃を脇へ放り捨て、夫の亡骸の傍にへたりこんで笑った。
妻の世界は一瞬にして壊れた。それに呼応するかの様に鮮血に染まった桃が脈打ち、やがて割れる。
「おぎゃあ。おぎゃあ」
なんと、中から玉のような元気な赤子が飛び出してきた。
「あはははは、あははははは……ああァ……」
「おぎゃあ、おぎゃああぁ…」
赤子の鳴き声と、妻の慟哭が、暗い居間の中にいつまでも響いていた。
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