桃太郎トライアル

Shiromfly

第1話 桃よ!桃よ!ぬばたまの夜に燦爛と

 昔々の事である。


 時代は定かではないが、日本某所に、ある老齢の夫婦が暮らしていた。老夫婦の主な収入源は夫の柴刈りに大きく依存しており、収入は決して多くはない、と言えるものだったが、妻は文句を言う事もなく、柴を刈るばかりで他の仕事を見つける気のない――もしくは柴を刈ってればそれだけで良かったのかもしれない――夫を助ける為に、日々の家事をこなす毎日を送っていた。妻なりに夫の事はそこそこ愛していたからだ。


 ある日、夫がまた何かに取り憑かれた様に、柴を刈りに行く、と意気込んで山に向

かう後ろ姿を、呆れながら妻は見送ると、衣類の山を抱えて川に向かう事にした。


 妻はこの洗濯が大嫌いだった。殆どが夫が山で無茶をして汚したもので、何度口を尖らせて窘めても、夫は聞く耳を持ってくれなかった。新婚当初はそんな事はどうでも良く、盲目的に洗濯に勤しめたが、時を経るにつれその甘い思い出は薄れていき、今では事務的にこなす作業と化していた。


 それでもまだ続けていられるのは、自分の生活のルーチンワークを守りたい、という妻の自身に対するプライドがあったからだった。


 妻が洗濯物の山を少しずつ、しかし確実に片づけていき、ようやくあとは夫のふんどしを残すのみ、となったところで、唐突に川の上流と思しき方向から、どんぶらこ、どんぶらこという音が鳴り響いてきて、妻は思わず夫のふんどしを取り落とし、ふんどしは川の流れに呑み込まれていってしまった。


 しかし、妻はそれを気にしているどころではない。

鳴り響く音は次第に大きくなり、妻はその正体が川を流れてくる、巨大なピンク色の

球体である事に気付き、そして刹那を経て、それが桃、である事を知る。それは通常、自然界で成るものとは比べ物にならない程に膨れ上がっており、如何に優秀な農家でもここまでのものは栽培できないだろう。


 その大きさは、危険と狂気、そして予兆、を内包しているかのようだった。


 そして、この桃が抱えるもう一つの謎に、妻は怖気立つ。鳴り響き続けるどんぶらこ音は桃からなのか、それとも桃が流れる川が発しているものなのか…不気味な謎を孕んだままこちらに迫ってくる桃の姿に、妻は腰が抜けそうな程に魂消たまげてしまっていた。


「そんな……馬鹿な。桃にしては大きすぎる、在り得ない……」

「それに、この音は一体何だ?川…?桃…?こんな音がするなんて!!」


 妻は目の前で今まさに起きている事実を信じられず、それを否定することによって

この光景を無かった事にしようと叫び声を上げた。


 ――そして、迫りくるピンクの圧倒的な圧力を前にして、妻の意識は途切れた。



 …妻の意識が戻る。自宅で倒れていたようだ。


 ゆっくりと顔を上げて辺りを見回すと、居宅の居間の真ん中に、意識が途絶する前に目の当たりにしていたもの…桃、が鎮座していた。


「ひッ…!」


 恐怖に駆られ、短い悲鳴を上げる妻。この状況が全く理解できなかった。何故ここにあるのか、という疑問よりも先ず先に、自分がどうやってこれを運んで来たのか、という懸念が湧く。抱えたり背負ったりするには大きすぎるし、縄を利用した牽引技術も妻は持ち得ていない。それに例え縄を扱えたとしても、これ程のサイズのものであればかなりの重量を持つはず。妻の筋力では力任せに引きずってこれるとは到底思えなかった。


「…………」


 妻は、桃をしっかりと見据え、警戒態勢を取る。状況はまだ五分だと思えた。下手に探りを入れたり、動くよりは夫の帰りを待つ方が賢明だろう。


 夫が帰りさえすれば、1対2の状況に持ち込める。

そうなれば確実にこちらが有利だ。前後を封じ、隙を付き、そして仕留める。

その瞬間の機を逃すまいと、妻はじりじりと後ずさりし、夫が帰る瞬間を

待ち続けた。

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