三章 終わりの始まり 1

「ねぇジュン、受付までまだ1時間もあるんだよ? 本当に一人で行っちゃうの?」

来年度から入学する中高一貫制学校の入学説明会兼懇親会に参加すべく外出しようとしていた最中、玄関で俺を呼び止めたのは同居人にしてルームメイトの紫咲陽だった。

裸Yシャツという公序良俗にあるまじき姿で階段を下りてきやがった。

集団生活における、女子の比率が高いが故に起きてしまう羞恥心の欠如。もはや恒常化して久しい日常の一コマではあるが、思春期の少年達にとっては天国とも呼べる光景であろう。

黒髪ロングストレートと紫陽花色の吸い込まれるような瞳……疑いようのない美少女だ。

中学新一年生にあるまじきスタイルの良さは、子供特有のあどけなさと相まって、より一層淫靡な雰囲気を醸し出している。女性は男なんかよりずっと精神的成長速度が早いと言われているけれど、それが肉体的成長にまで現れて、完全に追い越してしまっている。

いちいち毒に感じてしまえるくらいの理性を保てているこの俺を、誰でもいいから誉めて欲しい。

いや、マジで。

「う、うん。折角だから〈普通〉に行ってみたいんだよね」

疚しい気持ちを悟られる訳にはいかない。

その一心で、制服姿の俺は、自然な流れで彼女の胸から目線を外し、ほぼ新品の黒いローファーの紐を結び、出立を急ぐ。

玄関にて義姉と交わされる、ぎこちない会話。

例えるなら、体育 (サッカー)の時間、どこの誰とも知らない別のクラスの全く知らない奴とペアを組まされてパス練習をするという、あの苦い感覚に近い。

しかも自分は経験者なのに相手が未経験の超初心者ときた。

自身のペースが狂わされるとわかっていても、雑に扱うと内申点に響くから厄介だ。

必然的に相手に合わさずにはいられなくなる。

「どのみち車が出るんだから急がなくてもいいじゃん。もっとゆっくりして行こうよぉ。もっとイチャイチャしようよぉ♡」

「なっ…… か、帰ってきてからでもいいんじゃない?」

……勘弁してほしい。

その言葉からは一片の迷いも、疑いもなく、俺のことを好いてくれていることがわかる。

が、その彼女の愛を受け止め、許容できる程、中学新1年生のメンタルは厚く広くはない。

「ま~だ緊張してるのぉ? もしかしなくても私の事、避けてるぅ? 私の事……嫌いになっちゃったぁ……?」

足元に正確に帰ってこないミドルパスに苛立ち始めた彼女は、大胆にも距離を詰めてきた。

その猫なで声は不安気な様子を醸(かも)し出してはいるものの、あくまで挑発的な姿勢を崩さず、俺を確信犯的に玩具にして楽しんでいるかのように思えた。

パーカー越しに伝わる生暖かい感触。

……このままだとまた理性を溶かされかねない。殺されかねない。

起死回生の一手とするべく、あえて心にも無いことを言って迎え撃つことにした。

「避けてないし、嫌いでもない。むしろ、好きだよ」

「――……っ!?」

どうやら効果抜群だったようだ。

彼女はわかりやすく頬と瞳を赤らめ、自分が男の前でどんな姿を晒しているのかを理解してYシャツの裾を両手で引っ張った。ようやく人間らしい羞恥心が戻ってきたと見える。

「べ、別に、直視に堪えない体ではないでしょ?」

彼女は狼狽えながらもその場を乗り越えまいと、Yシャツを引っ張っていた右手をその豊満な胸に当て、さらに誘惑する。

この場で押し倒してしまうのも選択肢の一つだが、その現場を他の奴等に見られてしまうと具合が悪い。

だがこのまま黙って引き下がるのは俺の2つのモラルの内の1つに牴触する。

〈やられたらやり返す〉

君が俺を誘うなら、俺も君を口説き堕とそう。

俺は履いたローファーを脱いで膝立ちで腰に手を回し、額をコツンとくっつけて赤く染まった瞳を覗き込むようにして彼女を捕縛する。

突然の抱擁に全身をビクンと震えさせ、呼吸が荒くなるのを直に感じた。

「大学生になるまで……お互い生きていられたら、結婚しようか」

勢い任せの不格好なプロポーズ。

誤解されそうなので繰り返すが、今の俺は、彼女に対して心にも無いことを言っている。

今の俺は……ね。

「ふぁっ!? 結婚って……えぇ!?」

「今から6年と8日後、ヒナタが18歳になった4日後だね」

「6年は……長いね。また小学校の時みたいにならないといいんだけど……」

「大丈夫だよ。今度はヒナタが一緒だもん。それと一応他の強い奴らもいるし。俺は君以外には二度と殺されないよ」

その言葉に反応したのか、彼女は俺の上に跨る形で足を腰の裏でロックした。そして苦しいまでの抱擁と殺意を返してきた。

「その〈君〉呼びは止めなさいって言ってるでしょ。私の事は陽(ひなた)か、お姉(ねえ)ちゃん、姉(ねえ)ちゃん、姉(ねえ)さん、姉(ねえ)様(さま)、姉(ねえ)ねのどれか……或いはそれに準ずる姉(あね)呼びで統一しなさい」

あれ……良い雰囲気だと思ったのに。

赤い眼光が両目で交差する。分かりやすいご機嫌斜めのサインだ。

精神的にも肉体的にも死が近づいている。

俺は急な体重の負荷で膝立ちから胡坐に組み直した。

ご機嫌斜めの義姉はそんな事はお構いなしに話を続ける。

「でなければ、これから毎晩夜伽の際、主導権は私にあると思いなさい」

11歳の少女の台詞とは思えないR18なセンシティブ発言での追撃。

その発言はあと7年早いんじゃないの?

マズイ、このままだと入学する前に……この寮を出る以前にPTAに消されてしまう。

俺は元俺の映像から、PTAという組織が如何に恐ろしいものかを知っている。

「ちなみにその時抵抗したらどうなりますの、お姉様?」

「死姦プレイの刑に処するだけよ。フルハイスペック黒髪ロング巨乳美少女にして、あなたにとって最高の母体であるこの私との生殖行為による極上の快感を味わえることなく、死ぬのよ」

殺意と淫猥さをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせてできたかのような返答からは、彼女が抱える闇のほんの一端を垣間見た気がした。

……っていうのは建前で、本音はめっちゃエロい事考えてました。

だって彼女、わざとらしく腰を上下させて俺の欲情を誘ってるんだもん!!

なんという小悪魔テクニック。

それに自ら美少女を自称できる程の、自他共に認めるスタイルの良さは伊達じゃない。

Eカップ相当の膨らんだ胸。肉付き良く引き締まったボディ。白くきめ細かい肌――。

やはりと言うべきか胸には自信があるようで、頻りに押し付けてくる。

そのせいもあってか、彼女の闇は1対9ぐらいの割合で淫猥さが勝ってしまっている。

その赤い瞳は距離を詰め、お互いのまつ毛が擦れ合うほどの距離に近づいたが、それが自身の死に近づいている事を意識する理性的余裕はほとんど失われている。

流石我が姉というべきかなんというか、これほどセンシティブな脅迫を堂々と真剣に実行に移せてしまうあたり、一周回って尊敬してしまう。

「俺は君に殺されることまでは承諾してないぞ。完全な契約違反だ」

「ついでに言うとあなたの血液も余す所なく持っていかれるでしょうね」

「えぇ……」

「私は将来的にあなたの世継ぎを孕めればそれでいいわ。勿論、責任を取れとも言わない。結婚して欲しいとも言わない。私にはそんな権利も資格も無いもの」

「…………」

どこにでもいる普通の中学新一年生とは程遠い会話。

不意に非情な現実が2人を包んだ。

いや、今までそれに気づかないフリをして、ごまかして生活してただけなのかもしれない。

悲しそうな目をする彼女に対して俺が掛けてやれる言葉も、無かった。

「それで、1つあなたに聞いておきたいのだけれど」

不意に瞳からは殺気が消え、紫陽花色の透き通った光が戻ってきた。

「私達の他にはぁ……誰に手を出したのぉ?」

俺の脳を溶かす、あの猫撫で声が帰ってきやがった。

マズい。本気でマズい。

ここは日本語の妙を利用して逃れさせてもらうとしよう。

「誰にも手は出してないよ?」

「手は出してないんだぁ!! 良かったぁ、本当に嫌われちゃったかと思ったぁ♪」

よしっ! 作戦は見事に成功し――

「でもぉ……手を出されたりは……したんだよねぇ……?」

姉さん、俺の負けです。あなたには敵いません。

もういっそ開き直ってしまった方が楽だなこれは。

「嫌だなぁ……何でこんな体に生まれちゃったのかなぁ……」

「それは私の事かしら?」

「いいや。俺の事だよ」

ほぼゼロ距離で、義理とはいえ姉弟が抱き合ったまま行われる会話。

この異様な光景は俺や彼女、この寮に住む人間の事情を知らない奴等が見たら、きっとテレビやらネットやら、あらゆるメディアを使って袋叩きの村八分にするのだろう。

どうすることもできない。考えるだけ無駄だな。

「さて、そろそろ出発したいんだけど、どうしたら許してくれるかな。姉さん」

この体制結構辛いんだよな。彼女はとても軽くて柔らかくて良い匂いで、何時間でもこうしてイチャイチャしていたいけど、床に胡坐とはいえ直座りだし、ガッチリと足でロックされてるから腰にもダメージ来てるんだよな。

なんとか折衷案を模索して解放してもらいたい。

「だったら、またサッカーがしたいわ! ジュンと……初めて会ったあの公園で!!」

「俺にまた蹴り合いという名の殺し合いをしろと……?」

「だって楽しいもの!! サッカー」

サッカー少年としてこれ程嬉しいことは無い。

いや、別のスポーツでも同じことが言えるのだろうが、自分の好きが誰かに影響して同様に好きになってくれたことに喜びを覚えない人間はそうそういないだろう。

よっぽどの自分大好き人間でもない限りな。

「ならせめて、その〈目〉を制御出来るようになってからだな。球技をするには、俺達の力は強力過ぎる」

「それは難しいなぁ。前にも言ったでしょ。私達の第六感能力は全自動(フルオート)の常時発動(パッシブ)スキル。

制御しろ、なんて簡単に言わないでよね」

そう言って、また赤い瞳を輝かせた。

こいつ、13日の金曜日に世界を滅ぼす大魔王とかに覚醒したりしないだろうな?

次のXデーは11月だから、その点はあと8ヵ月は安心だな。

「そっちじゃない。〈あの技〉の事を言ってるんだ」

「あぁ、あれねぇ。でもジュンなら〈あの技〉も受け流したり蹴り返したりして対応してくれたでしょ? 問題ないじゃん!」

そんな嬉しそうに言われても……

「いや、俺が死んじゃうからさ」

「人間死ぬときはコロっと逝くもんだよ?」

そういう問題じゃねーんだって。

「ならさぁ、俺がコロっと逝っちゃったらどうするわけ?」

彼女は間髪入れずにこう答えた。

「過去か来世か天国か、はたまた地獄か異世界か」

「……はい?」

「……迎えに行くなら何処がいい?」

そう言い残して、彼女は俺を解放し、元の紫陽花色の瞳で熱烈なウィンクを飛ばしながら、リビングへの階段に向かって歩いてく。

その後ろ姿を眺めながら、俺は生体継続時間と精神感覚時間の同期を遮断し、自身の内なる世界で彼女の言葉の考察を始めた――。

 

話が急に哲学的な内容に変わったが、何故こんな話をするのだろう?

この質問に対して左程重要性は感じられないのだが、俺の返答が如何様なものであったとしても、彼女にはそれを現実のものとして書き換えるまでの力は無いはずだ。

聞かせるだけ聞かせて答えを聞かないなんて愉快犯みたいな真似をするのだから、後先考えた物言いではなかったのだろう。

だから、俺から返答を返す必要性も無さそうだな。

そもそも死後の世界なんてあるわけないし、加えて時渡りやら転生やら異世界だなんて、ファンタジーゲームの中の設定でしか聞いたことがない。

……そんな非現実的な世界が実在するとは思いたくない。

俺は現実に生きる現実主義者(リアリスト)だ。

魔法や異能、超能力なんて信じたくない。

才能とか第六感なんて口当たりの良い言葉を鵜呑みにしたくない。

全ての人間に平等なものがあるとすれば、それは時間と死の事象だけだ――。


内なる世界から感覚を同期させ、階段を上り始める彼女の姿が消えない内に返事を返した。

「愛してるよ、ヒナタ」

ズルっと階段を踏み外した彼女。

そしてそれまでの行動をキャンセルし、階段を降り、俺に向かって一言。

「真顔で言うなし!! ジュンの馬鹿ぁぁぁ!!!!」

陽は自室(俺の部屋)へ逃げ出した。

仕留めれば、きっと大量の経験値が得られたことだろう。

目の前の脅威を退けたことで、脳内RPGを展開できるほどの心の余裕が出てきた。

制服よし、髪型よし、携帯&電子生徒手帳よし、筆記用具よし、上履きよし、ハンカチ&ティッシュよし、リップクリームよし、サングラス良し、魔剣……黒傘よし。

旅の準備は万全だ。

さて、地道に人生のレベル上げに出掛けるとしようか。

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