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 東京のど真ん中に聳える停車場は、深夜に近づいてもざわめきに包まれていた。恭一は硬い木の座面に腰かけて、買ったばかりの弁当の包みを開いた。駅弁といっても塩むすびが三つ入っただけの粗末な木箱で、列車が走り出す頃にはすっかり食い尽くしてしまった。恭一は走り出した夜行急行列車の窓から木箱を投げ捨てて、外を見つめた。木箱が線路の小石に落ち、跳ねる音が遠ざかっていくのを聞きながら、恭一は夜空の星に混じってぽつりぽつりと輝く街明かりを目で追った。急にため息が漏れ出てきて、これじゃ隠居老人みたいだな、と笑った。

《きっと、あまりにも多くのことがこの数年の間に起こりすぎたから、その反動が来たのだ》

そう考えた途端、記憶と腹の奥に眠っていた苦味が喉の奥からせり上がってきた。その全てを消化することができなくても、それを再び奥底に封じ込めるためには、一つ一つ思い返すしかないことを恭一は知っていた。


 恭一は東京の軍人の家に生まれて、すぐに田舎の父親の実家に引き取られた。エリート軍人として多忙を極めていた父親には、家族を東京へ呼ぶ余裕はなかった。東京で軍人として仕事に勤しむ父親を英雄として語る祖父母に育てられた恭一は、自然に兵士としての道を歩むつもりでいた。それは汽車が軌道の上を走るくらい普通のことだったから、彼自身が一大決心をしたことはまったくなかった。恭一は無意識に父親の影を追って歩いていたから、自分の周りにいた祖父母も母も、全ては父へと続く一本道の横に転がった石と同じで、恭一はほとんど彼らに注意を払ったことがなかった。だからこそ、士官学校から帰省する恭一が軽い気持ちで頼んだ、甘いきな粉を振った餅を母が買いに出かけ、その帰りに父に恨みのある軍人崩れに殺されたと知った時、彼は脳天を金槌で殴られたような衝撃を受けた。自分のせいで母が死んだのではないかという思いがしばらくくすぶり続けて、彼は一時的に自分の進むべき道への確信を失ってしまったように見えたが、結果的に恭一は父の影を追うことを止めなかった。周囲はそれを、立派な軍人の家庭で涵養された精神力のなせる業である、と称賛したが、それは彼について必ずしも正しい分析ではなかった。結局のところ、恭一が二十年ちょっとの人生で知った生き方は、それ以外になかった。


 皮肉なことに、父親の背中を必死で追った恭一が士官学校を出たころには、もう戦争に負けかかっていて、どこの外地に兵隊を送ろうとしても船が沈められることが分かっていた。大隊はずっと内地にいて、空襲で焼かれた町の瓦礫をどける仕事に明け暮れていた。恭一たちはどこへ行っても歓迎されたが、同時に嫌われていることも知っていた。土建屋まがいのお飾り兵隊さんと陰口を叩かれながら拾う瓦礫は、いつも重かった。本土で米軍を迎え撃つという方針がどんどん口先だけのものになっていくのを目の当たりにしながら、恭一たちの「土建屋大隊」は、黙って作業を続けていた。恭一たちは非常に難しい立ち位置にいた。彼らは公的には死をも恐れぬ帝国軍人であったが、同時に心の中では生への諦観と死への恐怖がせめぎあっていた。それでいて、焼夷弾に焼かれるくらいなら戦場で鉄砲玉を食らった方がましだ、とも考えていた。



 八月の十五日、その正午を境として大隊は二つに割れてしまった。迫る死から逃げ切ったのだからと郷里に帰る者と、戦場に「土建屋大隊」の死に場所を見つけるべしと主張する者で激論が繰り広げられたが、星の数ほどある前例と同様に、激論の果てに妥協点が見つかることはなかった。三分の一に減った大隊の中で再びの論議の末、彼らは徹底抗戦派が占拠した基地の鎮圧部隊に志願したのである。体制の犬に堕するとも、不敬の罪を免れながら戦場に死に場所を見つける道は、他になかった。



 鎮圧作戦は、徹底抗戦派の兵士と同じ軍服を着た突入班が威嚇射撃で混乱させた基地に侵入し、首謀者を抑えて一気呵成に蹴りをつけてしまう算段であった。恭一は初めて自らの決心で突入班に志願した。自分のこの先の人生がどうなるのか、占ってみようと思ったからであった。


 恭一はわき目も振らずに駆け抜けた。彼は誰よりも早く基地の真ん中にたどり着かなければならなかった。相手が全てを知る前に基地の頭を抑えてしまわなければならないから、恭一は脇に押しのけた兵士の顔すら見ないで走った。支援の機関銃が一寸止まって、また火を噴き始めた。周りの銃声が止まってしまうまでに基地に忍び込んで、全てを終わらせる手はずだった。世界の全ての音が銃声に呑み込まれていく。次々に扉を蹴り開けては走り、走っては蹴り開けて、また一枚、力の限り蹴り飛ばした。直感的にその扉が最後だと気づいて、小銃の引き金に触れる手に力がこもった。扉を開けた途端に撃たれて襤褸雑巾のようになるかもしれないなんて、一瞬たりとも考えなかった。


 最初に部屋の中を見渡した時には一人しかいないように見えたが、よく見るともう一人、勢いよく開いた扉に弾き飛ばされた将校がいた。将校は一時的に人事不省に陥っているようだったので、恭一はすぐに注意を目の前に立っている将官に向けた。彼は拳銃を掴み上げて振り向こうとした。


 恭一の中で何かが弾け飛んだ。恭一にとって、男は初めて目の前に現れた敵だった。一瞬で口の中が全て焼きついたように乾いた。恭一は何かにつまずいた拍子に引き金を一気に絞った。反動が今までの教練の何十倍も強く感じて、必死に銃口が跳ねあがるのを抑え込んだ。


 弾倉一つ分の銃弾を吐き出した小銃の銃口が、重力に引かれて垂れ下がった。目の前の将軍は振り向きながらその身に銃弾を浴び続けて、足から脇腹まで蜂の巣にされて、もう絶命していた。自身を支える力を失った将軍の体は、銃弾の勢いもそのまま机にぶつかり、一回転して床に転がった。恭一は死体の顔を見詰めた。弾倉が空になった小銃が床に落ちて硬い音を立てた。全身の力が抜けて膝から崩れ落ちた恭一の後ろに兵士が次々と駆け込んできて、片膝立ちで小銃を構えた。


 

 

 

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